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説教日:2003年5月11日 |
私たちは神の御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことによって成し遂げられた罪の贖いによって罪を贖っていただいて、神さまの御前において 天地創造の初めに人は神のかたちに造られました。それは人がただ罪がない状態にあったというのではなく、神のかたちとしての栄光に満ちたものとして造られたということを意味しています。このように、天地創造の初めに神のかたちに造られたときの人の本来の性質は神のかたちとしての栄光に満ちていますが、その栄光は自分が人の上にあることを誇る自己中心的な栄光ではありません。自分が人の上にあることを誇る自己中心的な栄光は、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落した後の人間が追い求めてきた腐敗した栄光です。 神のかたちに造られている人間に与えられている栄光は、基本的に、造り主である神さまとの関係で考えられるものであって、人間同士の間で考えられるものではありません。どうしてそうなのでしょうか。それは、神さまがお造りになったこの世界における栄光はすべて、神さまの栄光を反映するものだからです。この世界にあるものの栄光の源は造り主である神さまご自身です。ですから、造り主である神さまの栄光を反映しない栄光は本来の栄光ではありません。それは、腐敗した栄光です。 人間は造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後も、神のかたちとしての栄光を与えられているものであることには変わりがありません。ただその栄光が腐敗してしまっているのです。その栄光が腐敗しているというときの腐敗は、神のかたちに造られていて人格的な存在である人間の意志の腐敗によってもたらされたものです。 どういうことかと言いますと、たとえば、詩篇19篇1節には、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されています。ここに記されているように、「天」は、それをお造りになった神さまの栄光を現わしています。この場合には、「天」は人格的な存在ではなく自由な意志がありませんので、罪を犯すことも堕落することもありません。それで、その栄光が腐敗するということはありえません。けれども「天」そのものは人格的な存在ではありませんので、人格的なものとして神さまの栄光を現わすことはできません。それに対して、神のかたちに造られている人間は人格的な存在ですので、与えられている自由な意志から生まれてくる愛を表現しながら、神さまの人格的な栄光を映し出すものであるのです。そのように、与えられている自由な意志から生まれてくる愛を表現しながら、神さまの人格的な栄光を映し出すものであるということに、神のかたちの栄光の本質があります。それで、その自由な意志を与えられている人間自身が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったときに、人間の本性は腐敗し、神のかたちとしての栄光も腐敗してしまったのです。 ヨハネの手紙第一・4章7節、8節には、 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 と記されています。これは御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれている神の子どもたちに語られたみことばですが、私たちはお互いに愛し合うことにおいて愛を本質的な特性とする神さまの人格的な栄光を現わすものです。その愛は、何よりもまず、造り主である神さまに対する愛として現われてきます。そして、同じく神のかたちに造られている者同士の間においてかよわされる愛として現われてきます。それは、マタイの福音書22章37節〜40節に記されています、 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。 というイエス・キリストの教えに示されていますように、神さまの律法が指し示すところでもあります。 このように見ますと、神のかたちに造られている人間の栄光は、何よりも神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために与えられた栄光であることが分かります。それは、具体的には、神さまの栄光のご臨在の御前に近づくための栄光です。そして、神さまを造り主として礼拝することを中心として、神さまを愛し、あがめ、信頼して生きるようになるための栄光です。そして、私たちが神さまを愛していることは、さらに、私たちがお互いを愛することに現われてきます。ヨハネの手紙第一・4章12節に、 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 と記されており、5章1節、2節に、 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。 と記されているとおりです。 以前お話ししましたが、神さまの聖さは、神さまがどのような被造物とも絶対的に区別される方であることを意味しています。それは神さまがあらゆる点において無限に豊かな方であることに基づくことです。この神さまの無限の豊かさは、ただわけの分からないものが無限にあるというようなものではありません。その豊かさには栄光があるのです。それで、この神さまの無限の豊かさの輝きが神さまの栄光であると考えられます。その意味で、神さまの聖さと栄光は裏表の関係にあります。神さまの無限の豊かさを、それによって神さまがどのような被造物とも区別される方であられるということから考えますと、神さまの聖さとなります。また、その神さまの無限の豊かさを、その素晴しさ、卓越性、輝きということから考えますと神さまの栄光になります。 それと同じように、神のかたちに造られている人間の栄光と聖さも、一つのことの裏表の関係にあります。神のかたちに造られている人間の栄光は造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために与えられた栄光です。そのことは、神のかたちの栄光を与えられている人間は、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるように聖別されているということを意味しています。これが神のかたちに造られている人間の聖さの本質です。その意味で、神のかたちの聖さと栄光も、造り主である神さまとの関係にあるものとして、一つのことの裏表の関係にあります。 神のかたちとしての栄光が、このように、人格的な存在である私たちの自由な意志に基づく愛において現わされるものであるということをわきまえることはとても大切なことです。それによって、この世において人々が追い求めている、そして、かつて私たちが何らかの形で追い求めていた、自分が人の上にあることを誇る自己中心的な栄光が、神のかたちに造られている人間の本来の栄光ではなく、罪による堕落によって腐敗しているものであることがはっきりしてきます。 これまで何度か引用しましたが、十字架にかかって死なれる日を前にしてのイエス・キリストのことを記しているヨハネの福音書12章27節〜33節には、 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。 と記されています。 聖書においては、この世界で、父なる神さまの栄光を最もはっきりとまたこの上なく現わしたのは人の性質を取って来てくださった御子イエス・キリストであると言われています。そして、ここに記されているみことばに典型的に表わされていますように、そのイエス・キリストの栄光の頂点は、イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださったことにあると言われています。 このことは、基本的には、御子イエス・キリストをとおしてなされた神さまの自己啓示 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 と記されているとおりです。 イエス・キリストがお取りになった人の性質において現わされた神さまの栄光の中心あるいは頂点は、イエス・キリストがご自身の十字架の死をとおして現わされた神さまの栄光です。ですから、イエス・キリストの十字架の死をとおしてこの上なく豊かに現わされた神さまの栄光は、この世において人々が追求しており、かつては私たちも追い求めていた自分が人の上にあることを誇る自己中心的な栄光とは、本質的に違ったものであることが、この上なくはっきりと示されています。それはまた、神のかたちに造られている人間の本来の栄光が、自分が人の上にあることを誇る自己中心的な栄光とは、本質的に違ったものであることをも示しています。 このような意味で、イエス・キリストの十字架の死をとおしてこの上なく豊かに現わされた神さまの栄光は、イザヤ書14章12節〜15節に、 暁の子、明けの明星よ。 どうしてあなたは天から落ちたのか。 国々を打ち破った者よ。 どうしてあなたは地に切り倒されたのか。 あなたは心の中で言った。 「私は天に上ろう。 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、 北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、 いと高き方のようになろう。」 しかし、あなたはよみに落とされ、 穴の底に落とされる。 と記されている、バビロンの王が追い求めた栄光と対比されます。このバビロンの王のが追い求めた栄光は、自分を神の位置に据えようとする高ぶりに支えられたものです。その意味で、この高ぶりはサタンの高ぶりを映し出すものであり、それによって支えられている栄光は、腐敗しきったサタン的な栄光です。 ご存知のように、このことは、マルコの福音書10章42節〜45節に記されています、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 というイエス・キリストの教えを思い起こさせます。 このイエス・キリストの教えは、35節〜37節に、 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」 と記されていますように、ヤコブとヨハネがイエス・キリストに、終わりの日にイエス・キリストがメシヤとしての充満な栄光に満ちた方として来られて、御座に着座されて万物を治められるときに、二人をその栄光の御座の右と左に着座させていただきたいと願ったことと、41節に、 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。 と記されていますように、他の弟子たちも同じ思いをもっていて、お互いに対して対抗心を燃やしていたということを受けて語られたものです。 このことから、このイエス・キリストの教えが世の終わりに再臨される栄光のキリストをとおして現わされる父なる神さまの栄光に関わる教えであることが分かります。 また、弟子たちがお互いに対して対抗心を燃やしているということとともに、イエス・キリストが、まず、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。 と言って教え始められたことから分かりますように、弟子たちが追い求めていた栄光は、本質的には、あのイザヤが述べているバビロンの王が追い求めていた腐敗した栄光と同じ栄光でした。それで、 あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。 と述べているヤコブとヨハネは、メシヤとしてのお働きをなさっておられるイエス・キリストの栄光も、そのような栄光であると考えていたわけです。 そのことを考えますと、後に、その一人であるヨハネが、イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死なれたことにおいてこそ、神さまの栄光が最も豊かに現わされているということをあかしするようになることに、そのイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪をきよめられ、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれる者のうちで、神さまの栄光についての理解は根本的に変わっていることを見て取ることができます。 このことからいろいろなことが考えられますが、今お話ししていることとの関連で、二つのことに注目しておきたいと思います。 第一に、このイエス・キリストの教えは、人の性質を取って来てくださった神の御子イエス・キリストをとおして現わされた神さまの栄光は、 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 というイエス・キリストのみことばに示されているように、ご自身が十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったことをとおして最もはっきりと現わされている愛を本質とする栄光です。そして、このことは、十字架の死にいたるイエス・キリストの地上の生涯において現わされた神さまの栄光に当てはまるのはもちろんのことですが、このとき弟子たちの間で問題になっているように、終わりの日に栄光のうちに来臨されるメシヤをとおして現わされる神さまの栄光についても当てはまるということです。 これは大切なことですので改めてお話ししたいと思いますが、二千年前に人の性質を取って来られたイエス・キリストが現わされた栄光と、世の終わりに再臨されるイエス・キリストをとおして現わされる栄光は、本質的に同じ栄光です。どちらも神さまの栄光で、愛を本質とする、恵みとまことに満ちた栄光です。イエス・キリストがその充満な栄光を帯びて再臨されるときに、先ほど引用しましたイザヤが述べているバビロンの王に典型的に見られるこの世の栄光は退けられます。それは、イエス・キリストがそれらの王たちやサタンと覇権争いをして勝つからではありません。そのような覇権争いをするということは同じ土俵に立って戦うことです。イエス・キリストは初めから、この世の王たちやサタンと同じ土俵には立っておられません。 先ほどお話ししましたように、神さまがお造りになったこの世界においては、栄光とは造り主である神さまの栄光を映し出すものです。そして、イエス・キリストによって示されたように、神さまの栄光は愛を本質とする、恵みとまことに満ちた栄光です。サタンを初めとするこの世の王たちは、その栄光を腐敗させてしまいました。それで、イエス・キリストの再臨とともに、愛を本質とする神さまの栄光が満ちるようになるときには、そのように自己中心的に腐敗してしまっている栄光が存在する余地がなくなってしまいます。それで、それらは、火で精錬される金属から金かすが取り除かれるように、取り除かれてしまうのです。 すでにお話ししましたように、私たちがイエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく造られ、新しく生まれたということは、天地創造の初めに人が神のかたちに造られたときの状態に戻ったということではありません。そうではなく、地上の生涯において十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、その報いとして充満な栄光を受けて死者の中からよみがえられた栄光のキリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれているということです。その意味で、私たちは天地創造の初めに人が神のかたちに造られたときの神のかたちとしての栄光にあずかっているだけではありません。いわばその完成としての意味をもつ、栄光のキリストの充満な栄光に満ちた人の性質にあずかる栄光を受けているのです。天地創造の初めに人が造られたときに与えられた栄光が神のかたちとしての栄光であるとしますと、その完成としての栄光のキリストの充満な栄光に満ちた人の性質にあずかる栄光は、ローマ人への手紙8章29節、30節に記されている、 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 ということばにしたがって言いますと、「御子のかたち」の栄光です。その意味で、この「御子のかたち」は神のかたちの完成ですが、「御子のかたち」の栄光も、 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 というイエス・キリストのみことばに示されている栄光と同じ愛を本質とする栄光です。 第二に、ヤコブとヨハネが言った、 あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。 ということばに示されていることは、ヤコブとヨハネにとって、また二人のことで腹を立てた弟子たちにとっても、終わりの日に自分たちが受ける栄光のキリストの弟子としての栄光を意味していました。その意味で、それは弟子たちが最終的に受け継ぐ相続財産に関わっています。 その相続財産は、十字架の死をもってご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられた栄光のキリストの栄光にあずかるものであるという点において、ペテロの手紙第一・1章4節に、 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と記されている「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」と同じもので、いわばそれを別の面から述べたものです。 すでにお話ししましたように、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれている私たちが受け継いでいる相続財産の中心は神さまご自身です。神さまを相続財産として持つということは、具体的には、御子イエス・キリストにあって父なる神さまとのいのちの交わりに生きることにあります。その父なる神さまとのいのちの交わりが永遠のいのちです。その意味では、私たちが受け継いでいる相続財産の中心は永遠のいのちであるということもできます。 このことを踏まえて言いますと、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を贖われ、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれている私たちに相続財産として与えられているいのちは、 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 というイエス・キリストのみことばに示されている愛を本質とする栄光に満ちたいのちであるということになります。 |
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