(第123回)


説教日:2003年5月4日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 きょうもペテロの手紙第一・1章に記されていることに基づいて、私たちが聖なるものであることが、御子イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって神の子どもとされている私たちに与えられている望みと深く関わっていることについてお話しいたします。3節〜5節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

と記されています。
 神さまは「ご自分の大きなあわれみのゆえに」、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって、私たちを新しく生まれさせてくださいました。その結果、私たちは「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」を持つものとなりました。
 ここでは、私たちは、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりをとおして、「生ける望みへと」新しく生まれており、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産へと」新しく生まれているというような言い方がされています。これによって、新しく生まれている私たちに与えられている「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」が深く結び合っていることが示されています。いわば、「生ける望み」の中心にあるのが「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」であると言うことができます。
 これまで、このように考えられる「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」のことをお話ししてきました。きょうもそのお話を続けます。
 神さまは、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりをとおして、私たちを新しく生まれさせてくださいました。それだけではなく、新しく生まれている私たちに与えられている「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」も、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいています。この望みが単なる望みではなく「生ける望み」であるのは、それがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいているからですし、この相続財産が「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」であるのも、それがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいているからです。
 お話を続けるに当たって、まず確認しておきたいことがあります。それは、神さまのみことばである聖書が旧約聖書と新約聖書をとおして一貫して示していることは、主の契約の民の相続財産の中心は神である主ご自身であるということです。御子イエス・キリストにあって私たちの間にご臨在される父なる神さまの御前において、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることが、神の子どもである私たちに与えられている相続財産の中心です。
 このように、御子イエス・キリストにある父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれている私たちに与えられている相続財産の中心です。それはすでに私たちの現実になっていますが、終わりの日の御子イエス・キリストの再臨の時にまったきものとなります。それで、このような相続財産が、私たちに与えられている「生ける望み」の中心であると考えられるのです。


 繰り返しのお話になりますが、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、単に一度死んだ人が生き返ったということではありません。
 イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神の御子であられます。その神の御子が、父なる神さまのみこころにしたがって、私たちと同じ人の性質を取って来られました。それは、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださるためでした。御子イエス・キリストがお取りになった人の性質には、罪の性質はありませんでした。その意味で、それは天地創造の初めに神のかたちに造られたときの人の本来の性質でした。
 無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられる方が、お取りになった人の性質において、私たちの罪をその身に負われて十字架にかかって死んでくださったのです。それで、その死によって成し遂げられた贖いは、私たちのどのような罪をも贖うことができる贖いです。
 ヨハネの手紙第一・1章9節に記されている、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

という約束は、そこに何の但し書きのないものです。ここでは、私たちがどのような罪を犯したとしても、イエス・キリストの完全な贖いを信じて、その罪を告白するなら、赦していただけるということが示されています。
 このようにイエス・キリストが私たちのどのような罪も贖うことがおできになるのは、イエス・キリストが無限、永遠、不変の栄光に満ちた神の御子であられるということと、いまから二千年前に、新たに、罪の性質はないけれども、私たちと同じ人の性質を取って来てくださったからです。
 私たちの罪にはいろいろな面がありますが、その本質は無限、永遠、不変の栄光の神さまに背くことにあります。どのような罪も、それが無限、永遠、不変の栄光の神さまに対する罪であるという点で、無限、永遠、不変の重さを持っています。それで、すべての罪は、神さまの完全な義の尺度に照らして見ますと、永遠の刑罰としての死に値します。それを完全に贖うことができるのは、私たちの贖い主となられて、十字架にかかって父なる神さまのさばきによる永遠の刑罰としての死の苦しみを味わわれたイエス・キリストが、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神の御子であられるからです。
 イエス・キリストは3日目に死者の中からよみがえられたのに、十字架にかかって死なれたイエス・キリストが永遠の刑罰としての死の苦しみを味わわれたと言うのはおかしいと感じられるかもしれません。しかし、これを「永遠の刑罰」と呼ぶのは、それが無限の重さをもった罪に対する無限に重い刑罰であって、有限な被造物である人間がそれを負うとしたら、永遠にそれを償いきることができないからです。イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられるので、無限の重さをもった私たちの罪に対する無限に重い刑罰をすべて味わい尽されたのです。それで、私たちの罪を完全に贖ってくださったのです。
 その一方で、無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられる方が人の性質を取って来られなかったとしたら、どうなるでしょうか。確かに、それは栄光の主のご臨在ではありますが、それでは私たちの罪の贖いは成し遂げられません。なぜなら、無限、永遠、不変の栄光の神には、死ぬということがあり得ないからです。そして、罪の贖いが成し遂げられることがないままで栄光の主がご臨在されるというのであれば、全人類がその罪のためにさばかれて、永遠に滅びてしまうほかはなくなります。しかし、実際には、無限、永遠、不変の栄光の神の御子イエス・キリストは、まことの人の性質をお取りになって来てくださいました。そして、ご自身がお取りになった人の性質において、罪の刑罰としての死の苦しみを経験されました。無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられる方が、お取りになった人の性質において、永遠の刑罰としての死の苦しみを味わわれたのです。
 さらに、いくらイエス・キリストが人の性質をお取りになって来られたといっても、その人の性質に罪が宿っていたとしたら、イエス・キリストご自身が罪の贖いを必要としているという立場に立ってしまわれます。とても、私たちの身代わりとなって、私たちの罪を負って死んでくださるということはできません。それで、イエス・キリストは処女であったマリヤの胎に宿られましたが、それは通常の受胎によるのではなく、聖霊の創造的な働きかけによるものでした。
 そのようにして無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられるイエス・キリストがお取りになった人の性質は、天地創造の初めに人が神のかたちに造られたときの人としての性質と同じ、本来の人の性質でした。これが本来の人の性質であるということは、私たちの生まれながらの人としての性質が本来のものではないということを意味しています。私たちの生まれながらの人としての性質は、最初の人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによってもたらされたもので、自らのうちに罪を宿し、神のかたちの本性を腐敗させてしまっている状態にあります。これは、人の性質の現実ですが、本来の人の性質ではありません。
 いずれにしましても、イエス・キリストは天地創造の初めに人が神のかたちに造られたときの本来の人の性質をお取りになって来てくださいました。そして、十字架の死にいたるまでも、父なる神さまのみこころにしたがって、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださいました。この十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、充満な栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。
 イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられます。その意味では、改めて栄光をお受けになるというようなことはありません。神の御子としての無限、永遠、不変の栄光は、永遠に無限であり、増えたり減ったりするということはありません。イエス・キリストが十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従われたのは、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださるために、人の性質をお取りになって来てくださったからです。その人としての性質において、十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従いとおされたのです。それで、その報いとして充満な栄光をお受けになったということも、人の性質においてのことです。御子イエス・キリストがお取りになった人の性質が充満な栄光に満ちた人の性質になったということです。
 それで、父なる神さまのみこころにしたがって人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって死んでくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じている私たちは、その信仰をとおして、イエス・キリストがご自身の十字架の死をとおして成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、すべての罪を完全に贖っていただいています。そればかりでなく、イエス・キリストが獲得してくださった充満な栄光に満ちた人の性質にあずかって、新しく造られ、新しく生まれているのです。それが、ペテロの手紙第一・1章3節で、

イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、

と言われていることの意味です。
 すでに、いろいろな機会にお話ししましたように、イエス・キリストが私たちの罪を負って父なる神さまのさばきをお受けになったことと、充満な栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことは、世の終わりになされる最終的な救いとさばきの先取りです。言い換えますと、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、世の終わりに起こるべきことがすでに歴史の中に実現しているということです。
 イエス・キリストは私たちの罪を負って十字架にかかり、父なる神さまのさばきをお受けになりました。そのさばきは人が世の終わりに受けるべき最終的なさばきです。それで、私たちに対するさばきは、イエス・キリストにあってすでに終わっています。無限、永遠、不変の栄光の神の御子イエス・キリストが、お取りになった人の性質において、私たちの罪を負ってくださり十字架にかかって死んでくださいましたので、私たちの罪は完全に贖われています。そして、その十字架の死は世の終わりになされるべき最終的なさばきの執行に当たりますので、私たちの罪に対するさばきはすでに終わっているのです。このように、私たちの罪はイエス・キリストにあって完全に清算されていますので、私たちに対するさばきは、この後、二度と執行されることはありません。ヨハネの福音書5章24節に、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

と記されているとおりです。
 それだけではなく、イエス・キリストが充満な栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことも、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に、私たちが栄光を受けて死者の中からよみがえることのさきがけです。コリント人への手紙第一・15章20節に、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と記されているとおりです。
 また、私たちはすでに栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストの復活のいのちによって生かされています。ヨハネの福音書14章18節〜20節には、

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

と記されています。
 この「その日には」の「その日」がいつを指しているのか議論が分かれるところです。それがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりの日から始まったという見方にも、ペンテコステの日に栄光のキリストがご自身の御霊を注いでくださったことによって始まったという見方にも、それなりの根拠があります。基本的には、これは、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことによって、世の終わりの日に起こるべきことが私たちの住んでいる歴史の現実となったことを指しています。実際には、それがイエス・キリストが死者の中からよみがえられた日に始まったとしても、ペンテコステの日に始まったとしても、私たちにとっては同じです。私たちは、今すでに、イエス・キリストが、

しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

と言われる現実の中に生きています。
 私たちの感覚では何となく分かりにくいのですが、

しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

ということは、私たちがイエス・キリストの復活のいのちによって生きるということを示していますが、それはまた、私たちがイエス・キリストにあって父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるということを意味しています。
 そして、このイエス・キリストにあって父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることが、きょうも初めに確認しましたが、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずかって神の子どもとしていただいている私たちが受け継いでいる相続財産の中心です。このことから、私たちが受け継いでいる相続財産は御子イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことに基づいているということがよく分かります。
 イエス・キリストが私たちと同じ人の性質を取って来てくださったのは、私たちの罪の贖いのためです。それは最終的には、私たちの罪を負って十字架にかかって死んでくださるためです。これまで、それが父なる神さまのみこころにしたがってのことであるということを繰り返しお話ししてきました。なぜなら、イエス・キリストはそのように父なる神さまのみこころに最後まで従いとおされたことによって、充満な栄光をお受けになってよみがえられたからです。私たちは、そのように、イエス・キリストと父なる神さまとの関係ということに焦点を当ててきましたが、少し人間的な言い方ですが、その父なる神さまと御子イエス・キリストを内側から動かしていたのは、父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちに対する愛です。
 イエス・キリストが私たちを罪と死の力から贖い出して、栄光あるいのちに導き入れてくださったことには、そのためにどのようなことがなされなければならないかということを十分に踏まえたご計画があります。そして、そのご計画に沿って、イエス・キリストは人の性質を取って来てくださり、私たちの罪を負って十字架にかかって死んでくださいました。そのように、いわば計算し尽くされたご計画を立てられたことも含めて、父なる神さまと御子イエス・キリストのうちに働いているのは、私たちに対する愛です。改めて引用するまでもないでしょうが、ヨハネの福音書3章16節には、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と記されていますし、ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と記されています。
 私たちは、御子イエス・キリストがどのようなお方であり、私たちを罪と死の力から贖い出して、栄光あるいのちに導き入れてくださるために、どのようなことなしてくださったかを理解しなければなりません。それは、父なる神さまが私たちに与えてくださった救いの確かさを理解し、それに信頼することができるようになるために、父なる神さまがみことばをとおして私たちに示してくださっていることです。私たちの罪が無限、永遠、不変の栄光の神さまに対する罪であるので、それが贖われるためには、無限、永遠、不変の栄光の神であられる御子が、罪の性質はないけれど、私たちと同じ人の性質をお取りになって来られなければならなかったということなど、すでにお話ししたことは、いわば「福音の論理」、「救済の論理」です。それは先ほど言いました、神さまの「計算し尽くされた」ご計画において踏まえられている「論理」に当たるものです。それを父なる神さまが私たちのために示してくださったので、私たちは力を尽して理解します。その際に注意しなければならないのは、父なる神さまがそのことを示してくださったのは、私たちにご自身と御子イエス・キリストの愛を知らせてくださるためであり、私たちが、父なる神さまが与えてくださった救いの確かさを理解し、それに信頼することができるようになるためであるということをしっかりと心に留めることです。そして、実際に、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることです。
 このように、御子イエス・キリストは無限の愛をもって私たちを愛してくださっておられます。しかし、その御子イエス・キリストにどのようなことが起こったのでしょうか。
 いわゆるこの世の価値基準から言いますと、人の性質を取って来てくださった御子イエス・キリストは、この世でおよそ考えうる最も理不尽で過酷なことを味わわれました。人気の絶頂にあると見えるときにも、イエス・キリストは、それが人々のご自身に対する誤解に基づくものであることを知っておられました。弟子たちでさえも、ご自身のことを誤解していました。イエス・キリストは、人間の罪がもたらした律法の呪いのもとにあるこの世にあって、人々が味わっている苦しみと痛みをみなご自身のことのように感じ取られる繊細で敏感な感受性を持っておられました。そして、最後には人々からも、弟子たちからも見捨てられてしまいます。
 さらに、私たちはイエス・キリストの公生涯の初めの「荒野の試み」などから垣間見ることができるだけですが、イエス・キリストに対しては、見えない暗やみの世界の総攻撃とでも言うべき、サタンとその軍勢の総力を結集した攻撃もありました。
 これだけでも、人がこの世で経験することができる最悪のことのすべてが凝縮して、人の性質を取って来られた神の御子イエス・キリストの上に下っていったと言わなければなりません。しかしそれだけでは終わらないで、その生涯の最後には、私たちの罪をすべて負われて父なる神さまのさばきをお受けになったために、イエス・キリストは永遠の刑罰の苦しみをすべて味わい尽されました。それまでの地上の生涯において味わわれたさまざまな苦しみの時には、父なる神さまとの交わりがありましたので、それによって支えられておられたことが分かります。しかし、この十字架の上ではその父なる神さまとの交わりは絶たれたばかりか、父なる神さまの聖なる御怒りが注がれたのです。
 これらすべてのことが、イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従いとおされたということの実体であったということに、私たちは恐れにも似た驚きに満たされます。
 しかし、福音のみことばは、御子イエス・キリストはこれらすべてのことをご自身が味わわれて、いわば黄泉の底に押しつぶされてしまったのは、私たちの贖いのために必要なことであったということを示しています。人の罪が生み出す巧妙な罠も、罪に対するさばきとしてもたらされた死の過酷な現実も、サタンが総力を結集して襲い来るときにもたらされる絶望的な暗やみも、みな御子イエス・キリストがご自身のこととして経験されたことです。そして、最も恐るべき私たちの罪がもたらす神さまの聖なる御怒り、イエス・キリストはそれらを残りなく味わい尽されました。イエス・キリストは、一旦はそれらすべてに押しつぶされてしまった方となられてから、栄光のうちによみがえられました。栄光のキリストは、暗やみの力と恐ろしさを知らない方ではありませんし、神さまの聖なる御怒りをもたらす私たちの罪の恐ろしさを知らない方ではありません。それらをすべて知っておられる方として、本当の意味で、それらの力を打ち砕いてくださったのです。それで、たとえ私たちが黄泉の深みの絶望的なところに下るべきものであったとしても、そこにまで主権を持っておられ、御手を延ばして私たちをお救いくださることがおできになるのです。
 ヘブル人への手紙1章3節には、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されており、2章17節、18節には、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

と記されています。
 それだけではありません。御子イエス・キリストはただ御手をどこにでも延ばしてくださるだけでなく、たとえ私たちが黄泉の深みのような絶望的なところに下ることがあっても、そこにご臨在して私たちとともにいてくださることがおできになります。それが、その昔、まさに黄泉の深みに沈んだようになったヨブが、その絶望的な苦しみの中で仰ぎ見た贖い主に他なりません。ヨブ記19章25節〜27節には、

  私は知っている。
  私を贖う方は生きておられ、
  後の日に、ちりの上に立たれることを。
  私の皮が、このようにはぎとられて後、
  私は、私の肉から神を見る。
  この方を私は自分自身で見る。
  私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。

というヨブの告白が記されています。
 本来の人の性質を取って来られた御子イエス・キリストは、十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従いとおされました。それによって充満な栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。先週お話ししましたように、それは、その充満な栄光において、父なる神さまと一つとなられたということを意味しています。それで、この栄光のキリストがご臨在されることは父なる神さまが栄光のキリストにあってご臨在されるということです。
 先ほど、無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられる方が人の性質を取って来られなかったとしたら、それは栄光の主のご臨在ではあったけれども、それでは造り主である神さまに対して罪を犯している全人類のさばきはあっても、罪の贖いはありえないということをお話ししました。しかし、実際には、神の御子イエス・キリストは人の性質をお取りになって来られて、十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。それによって、その充満な栄光において父なる神さまと一つとなられました。この栄光のキリストは、たとえ私たちが黄泉の深みに下るような経験をすることがあっても、私たちのいるところに贖いの恵みを携えてご臨在することがおできになります。それは充満な栄光において父なる神さまと一つとなられたいのちの主として、私たちの間にご臨在してくださるということを意味しています。それで、その黄泉の深みと思われるところも、もはや、罪と死の力が支配するところではなく、栄光のキリストのご臨在の御許から溢れ出るいのちの泉の溢れるところとなっていくのです。詩篇23篇4節に記されている、

  たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
  私はわざわいを恐れません。
  あなたが私とともにおられますから。

というダビデの告白は、私たちの告白でもあります。
 私たちは栄光のキリストの再臨の日まで生きていれば別ですが、やがて肉体的な死を経験します。それは私たちが黄泉の力に捕らえられてしまうように見える経験です。しかし、その私たちがどのようなところを通るとしても、そこには栄光のキリストが贖いの恵みをもってご臨在され、栄光のキリストにあって父なる神さまがご臨在してくださいます。
 私たちは毎週の祈祷会において「信仰のために迫害を受けている人々のために」という祈祷課題の一つを祈っています。それは世界福音同盟の宗教的自由に関する委員会からの情報と祈りの要請にしたがってのことです。その祈りにおいてこれまでお話ししてきたことと関わる一つの経験をしましたので、それをお話ししたいと思います。
 2001年6月には、フィリピンにおいてバーンハム宣教師ご夫妻がゲリラに人質として捕えられたニュースに接しました。そして、それ以後もニュースを受けながら、お二人のために祈ってきました。私は祈祷会で皆さんとお祈りをしながらも、お二人の絶望的な状況を想像しまして、いたたまれない思いがしました。そして、一年後の2002年の6月に、お二人の救出活動の中で、ご主人のマーティンさんが銃弾に当たって召されたことを知りました。ずっと拘束されてきて、最後の最後になってそのようなことになってしまったということの無念さを感じました。それで、奥さまのグレイシャさんの悲しみと苦しみを想像いたしました。
 その後、ある方からの情報により、お二人の写真とグレイシャさんのあかしに接することができました。それによりますと、お二人が人質になられてからの一年間は、一日一日が主との深い交わりの時となり、お互いに対する深い愛を通わす時となったというのです。お二人は絶望するどころか、主の御手のお支えのもとに、お二人を人質としてとらえている人々に尊敬され、イエス・キリストの救いをあかしされるまでになっていたようです。
 それは、お二人のために祈り続けてきた私たちにとっても深い慰めでした。それは、栄光のキリストは黄泉の深みに落とされたと思われるようなところにも恵みに満ちた栄光の主としてご臨在してくださる、ということのあかしです。そしてそのような、恵みに満ちた栄光のキリストにある、父なる神さまとの交わりこそ、私たちの受け継いでいる相続財産の中心です。

 


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