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説教日:2003年4月27日 |
さらに、このこととの関連で大切なことは、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」が「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」に基づいているだけではないということです。ここで言われていることの中心は、それらを与えられている私たち自身が、「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」に基づいて新しく生まれているということです。 私たちが新しく生まれているというときの「新しさ」は、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって歴史の現実となっている新しさです。それは、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの「新しさ」につながる新しさで、コリント人への手紙第二・5章17節で、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と言われていることに当たります。 イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖われている者は、「新しく造られた者」、新しい被造物です。それは、世間一般で言われる「生まれ変わった」ということとは違います。何らかの劇的な経験によって、人が変わったようになってしまうということがあります。それは、人の心の中で起こった劇的な変化です。しかし、ここで言われているのはそのような心の変化ということではなく、神さまのお働きによって造り変えられることです。この世界とその中のすべてのものをお造りになった神さまが、それと同じ御力を私たちに対して働かせて、私たちを新しくお造りになったということです。 さらに、それは、私たちがもう一度造り直されて、天地創造の御業の初めに人が神のかたちに造られたときの罪のない状態に戻ったということでもありません。また、そうではないというのは、私たちのうちにはいまだなお罪の性質が残っており、日々神さまの御前に罪を犯すものであるので、完全には天地創造の御業の初めに人が神のかたちに造られたときの状態に戻ってはいないからではありません。イエス・キリストにある新しい創造は、私たちを最初の状態に戻すように造り変えることではないのです。それは、むしろ、世の終わりにイエス・キリストが再臨されて、最終的なさばきを執行され人間のすべての罪を完全に清算された後に、いっさいのものを新しく造り変えられるときになされる新しい創造の御業です。 私たちが新しく生まれたことは、御子イエス・キリストが御霊によってなされた新しい創造の御業によることです。そして、それは「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」に基づいています。イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは、死んだ人が生き返ったということではありません。死んだ人が生き返ったということなら、単に寿命が延びたというだけのことです。その人はいずれまた死にます。その意味で、その人は死の力の支配のもとにあります。そして、徐々に死に向かって進んでいくほかはありません。イエス・キリストが死者の中からよみがえられたということはそうことではなく、ローマ人への手紙6章9節に、 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 と記されていますように、死の力そのものが打ち砕かれてしまっているのです。 そればかりでなく、イエス・キリストは、最初の創造の御業によって造り出された人の状態によみがえられたのではありません。イエス・キリストが人の性質を取って来られたときの状態が、最初に造られた時の人の状態と同じ状態でした。それも神のかたちとしての栄光を持っている状態です。そのイエス・キリストが十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従いとおされました。それによって、その生涯をとおしての従順に対する報いとして充満な栄光をお受けになって、よみがえられたのです。 ですから、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって現実になった栄光は、天地創造の初めに人が神のかたちに造られたときの栄光ではなく、その神のかたちに造られた人が最後まで神さまのみこころに従いとおしていたとしたら受けていたであろう充満な栄光です。その意味で、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって現実のものとなった栄光は、最初の創造の御業によって神のかたちに造られた人間に与えられていた神のかたちとしての栄光が完成したものです。言い換えますと、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって現実のものとなった栄光は、天地創造の御業によって始まった人間の歴史が目的としていた充満な栄光です。 この充満な栄光は、いろいろな機会にお話ししてきましたが、いま私たちが生きているこの時代のものではありません。これは、世の終わりにイエス・キリストが再臨されて最終的な救いとさばきを完成させてこの時代のすべてのものを清算された後に、新しい創造の御業を遂行されることによって実現する新しい時代の栄光です。イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは、新しい時代の栄光を備えたものがこの時代の中で現実のものとなったということです。けれども、この新しい時代の充満な栄光に満ちておられるイエス・キリストは、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間が造り出しているこの世の歴史としてのこの時代の中に存在することができません。使徒の働き3章18節〜21節には、 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。 というペテロのあかしが記されています。 このペテロのあかしに示されていますように、ご自身の十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従順であられて、その報いとして充満な栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストは、「万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません」。 これには、二つの理由があると考えられます。一つは、いまお話ししましたように、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの充満な栄光が、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人類の造り出しているこの世の歴史であるこの時代に属していないからです。しかし、これは決定的な理由ではありません。実際、充満な栄光をお受けになってよみがえられたイエス・キリストは、40日の間地上におられて、弟子たちにご自身を現わしてくださいました。また、ある意味において、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、死者の中からのよみがえりにあずかって新しく造られている私たちも、この世から贖い出されて、新しい時代に属するものとなっています。その私たちは、この世に身を置いています。しかし、私たちはこの世のものが造り出すこの時代の歴史を造っているのではありません。この世にありながら、新しい時代の歴史を造るように召されており、新しい時代の歴史を造っています。この点については、さらに後ほどお話しします。いずれにしましても、新しい時代に属するものであるから、この世に存在することができないということはありません。 ペテロが、充満な栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストは「万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません」と言っていることには、もう一つの決定的な理由があります。それは、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストには、栄光の主としてのお働きが委ねられているからです。死者の中からよみがえられたイエス・キリストは、ただ来たるべき世の新しい時代に属しておられるだけではありません。イエス・キリストはこの世とこの時代をおさばきになり、贖いの恵みによって来たるべき世を造り出し、新しい時代の歴史を支えてくださり、導いてくださる栄光の主なのです。父なる神さまからこのようなお働きを委ねられている栄光のキリストは、「万物の改まる時まで、天にとどまっていなければ」ならないのです。 この点についてもう少しお話ししますと、ヨハネの福音書5章21節〜29節には、 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。 というイエス・キリストご自身が語られたみことばが記されています。 ここに記されているイエス・キリストのみことばから、栄光の主として立てられているイエス・キリストのお働きは救いとさばきの二つの面があることが分かります。22節で、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。 と言われており、27節で、 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。 と言われているように、栄光のキリストは世の終わりにこの世とその歴史のすべてをおさばきになります。このようなお働きを委ねられている栄光のキリストがこの世に来られるということは、この世に対する最終的なさばきが始まるということを意味しています。 けれども、コリント人への手紙第二・6章2節に、 神は言われます。 「わたしは、恵みの時にあなたに答え、 救いの日にあなたを助けた。」 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。 と記されているように、いまはまだそのような時ではありませんので、栄光のキリストは父なる神さまがお定めになっておられる「万物の改まる時まで」は「天にとどまっていなければなりません」。ペテロの手紙第二・3章9節にも、 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 と記されています。 また、先ほど引用しましたペテロのあかしを記している使徒の働き3章18節〜21節には、 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。 と記されていました。栄光のキリストが、父なる神さまがお定めになっておられる「万物の改まる時まで」は「天にとどまっていなければなりません」ということは、 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。 ということと関わっています。 栄光のキリストが天にとどまっておられるということは、父なる神さまの右の座に着座されておられて、御霊によってご自身の民のために大祭司としてお働きになり、人々の心を開いて福音のみことばを悟らせ、悔い改めと信仰に導いてくださっているのです。それで、ペテロは、このことを踏まえて、 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。 と言って、人々がイエス・キリストに立ち返るべきことを勧めているのです。 さらに、これも先ほど引用しましたが、ヨハネの福音書5章24節、25節に記されている、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。 というイエス・キリストのみことばに示されていることも、 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。 ということと関わっています。 このような救いとさばきに関わるお働きを委ねられている栄光のキリストは、栄光において父なる神さまと一つとなっておられます。ヨハネの福音書17章1節〜5節には、 父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。 というイエス・キリストの地上生涯の最後の日の夜に祈られた祈りが記されています。 ここでイエス・キリストが祈っておられる、御子の栄光が現わされることは、まず、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことと死者の中からよみがえられたことにおいて実現していますが、最終的には、よみがえられたイエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことによって実現しています。これによって、御子イエス・キリストは父なる神さまと栄光において一つとならました。それで、イエス・キリストは世の終わりには、栄光において父なる神さまと一つであられる方として来られます。 マタイの福音書16章27節には、 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。 というイエス・キリストのみことばが記されています。 このように、世の終わりに栄光のキリストは父なる神さまの栄光を帯びて来られます。それは、先ほどお話ししましたように、この世とその歴史のすべてをご自身の義と栄光の尺度にしたがっておさばきになり、人間の罪を最終的に清算されるためです。 しかし、それがすべてなのではありません。栄光のキリストが父なる神さまの栄光を帯びて来られるということは、栄光のキリストにあって父なる神さまがご臨在されるということでもあるのです。ヨハネの福音書14章9節、10節には、イエス・キリストがピリポに向かって語られた、 ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください。」と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。 というみことばが記されています。人の性質を取って来られたイエス・キリストが地上でなさった贖いの御業も父なる神さまとの一体においてなされたものです。そして、イエス・キリストは、ご自身の十字架の死によって主の民の贖いを成し遂げられた後、栄光をお受けになって死者の中からのよみがえられたことによって、さらに充満な栄光において父なる神さまと一体になられました。イエス・キリストが「わたしが父におり、父がわたしにおられる」と言われたことが、充満な栄光において実現しているのです。 このような父なる神さまの栄光を帯びておられるイエス・キリストがこの世界に来られるということは、父なる神さまがイエス・キリストにあってこの世界にご臨在されるということを意味しています。 しかし、このような意味をもっている栄光のキリストの充満な栄光に、いまのこの世界は耐えることができません。そのようなことが、コリント人への手紙第一・3章11節〜15節には、 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。 と記されています。 ここで「火」にたとえられているのが、再臨されるイエス・キリストの栄光です。造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間が造り出しているこの世とその歴史は、この再臨されるイエス・キリストの栄光に耐えることができないで、焼き尽くされてしまいます。このコリント人への手紙第一・3章11節〜15節で言われているのは、たとえ救われて主の契約の民となった私たちの造り出した歴史であっても、もしそれがこの世に属するものであれば焼けて失われてしまうということです。ただし、私たち自身が救われるのは私たちの行ないによらず、ただ信仰によってイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかることによっていますので、たとえ私たちの築き上げたものがすべてこの世のものとして焼き尽くされたとしても、私たち自身は救われます。15節に、 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。 と記されているとおりです。 言い換えますと、私たち自身と私たちがこの世の生涯をとおして築き上げるものとが区別されているのです。人が築くこの世に属するものは「もの」ですので、倫理的な責任はありません。それはこの世に属するものであっても栄光のキリストの充満な栄光の御前に焼き尽くされてしまうだけのものです。しかし、その人自身は神のかたちに造られたものとしてのさばきを受けることになります。私たちも同じようにさばきを受けるべきものですが、御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちに代わって、そのさばきを受けてくださったのです。それで、十字架にかかって死なれた御子イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主であると信じている、私たち自身は、必ず救われて新しい時代を受け継ぐようになります。 さらに、ペテロの手紙第二・3章10節〜13節には、 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。 と記されています。 ここに記されていることは、先ほど引用しましたコリント人への手紙第一・3章11節〜15節に記されていることと同じことです。コリント人への手紙第一・3章11節〜15節では、イエス・キリストの贖いにあずかって主の民とされている私たちのことが語られていましたが、このペテロの手紙第二・3章10節〜13節は、私たちも含めて、この世界の歴史全体に関わることが述べられています。 ですから、このペテロの手紙第二・3章10節〜13節に記されていることは、コリント人への手紙第一・3章11節〜15節に記されていることと関わらせて理解しなければならないわけです。ペテロの手紙第二・3章10節〜13節に記されていることから、何となく、私たちがいまこの世にある間に何をしようとも、そのすべてはイエス・キリストの再臨の栄光の御前にみな焼け溶けてしまって、ご破算になってしまうというように考えることはできません。ここで語られていることは、旧約聖書の預言者たちによって預言的に語られていたことでもあります。ここで用いられているのは、金属を火で精錬して純粋なものを取りだすという表象です。ですから、栄光のキリストのご臨在の御前に焼け溶けてしまうのは、この世のものだけです。そして、いまこの時代にあってこの世のものの見かけの栄華の陰に隠れている来たるべき時代の性質を持ったものが立ち現われてくるのです。 ですから、いま私たちがこの世にある間に、主イエス・キリストの贖いの恵みに包まれて、主のみこころにしたがってなす労苦は、決してむだになることはないのです。コリント人への手紙第一・15章58節に、 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。 と記されているとおりです。 先ほどお話ししましたように、父なる神さまの栄光を帯びておられるイエス・キリストがこの世界に来られるということは、父なる神さまがイエス・キリストにあってこの世界にご臨在されるということを意味しています。そして、父なる神さまがイエス・キリストにあってこの世界にご臨在されるということは、神さまがご臨在される神殿が意味していることの最終的な成就であり完成です。 終わりの日の栄光のキリストの再臨とともに、父なる神さまがイエス・キリストにあってこの世界にご臨在されるということは、最初の天地創造の御業によって造り出されたこの世界に神さまがご臨在されたことの完成としての意味をもっています。 すでに繰り返しお話ししてきましたように、最初の天地創造の御業においては、神さまは、ご自身がこの世界にご臨在してくださるための「神殿」としての意味をもっている世界をお造りになりました。そして、そのようにご自身がご臨在してくださるこの世界に、神のかたちに造られた人間を住まわせてくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。 そのように、神さまは人を神のかたちにお造りになって、神のかたちとしての栄光をお与えになりました。そして、その栄光にふさわしい形で、この世界にご臨在されました。その最初のご臨在があったのが創世記2章に記されているエデンの園であり、神さまは土から造った人をそこに住まわせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださいました。しかし、この交わりは、神のかたちに造られている人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって失われてしまいました。人は罪に対するさばきによって、聖なる神さまのご臨在の御前から退けられ、死の力に捕えられてしまいました。 御子イエス・キリストの十字架の死はこのような私たちの罪を贖うものです。そして、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは天地創造の初めに人に与えられた神のかたちとしての栄光を回復してくださるだけでなく、神のかたちとしての栄光の完成である充満な栄光を私たちのうちにもたらしてくださるものです。このことが、父なる神さまの栄光を帯びておられるイエス・キリストがこの世界に来られるということは、父なる神さまがイエス・キリストにあってこの世界にご臨在されるということを意味しているということと符合しています。 私たちがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれているということは、神のかたちとしての栄光の完成としての充満な栄光にあずかるものとして、新しく造られているということです。それは、父なる神さまが栄光のキリストにあって私たちの間にご臨在してくださるために必要なことなのです。そして、このように父なる神さまが栄光のキリストにあって私たちの間にご臨在してくださることによって、私たちは父なる神さまとのより栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりにあずかるようになります。 すでにお話ししてきましたように、この父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって神の子どもとされている私たちが受け継いでいる相続財産の中心です。 |
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