(第121回)


説教日:2003年4月13日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 きょうもペテロの手紙第一・1章に記されていることに基づいて、聖なるものであることが神の子どもである私たちに与えられている望みと深く関わっているということについてお話しいたします。
 3節〜5節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

と記されています。
 これまでお話ししてきたのは4節に、

また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

と記されている、神の子どもが受け継いでいる「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」のことです。きょうもこのことにかかわるお話を続けます。
 まず、いくつかのことを復習しておきましょう。
 ここで「資産」と訳されていることば(クレーロノミア)は相続財産を表わす言葉です。私たちが「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」である相続財産を持つようになったことは、3節において、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて

と言われていることを受けています。
 ここでは、神さまはご自身の契約によって約束し保証してくださっている愛とあわれみ(ヘセド)によって、私たちをイエス・キリストのよみがえりにあずからせてくださって新しく生まれさせてくださったと言われています。言うまでもなく、その私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって、罪を贖っていただいています。そして、これに続いて、

生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

と言われていて、新しく生まれた私たちが「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を持つようになっていることが示されています。
 私たちはイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたことによって、神の子どもとしての身分とそれに伴う特権にあずかっています。「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」である相続財産を持つようになったことは、その神の子どもとしての特権によることです。


 先週はこの相続財産にかかわる一つの問題をお話ししました。普通ですと相続財産は親が亡くなった時に子に受け継がれるものですが、この場合は相続財産を与えてくださる方が父なる神さまですので、神の子どもである私たちが相続財産を受け取ることは、それを与えてくださる方の死を前提としてはいません。それなのに、これが相続財産と呼ばれることの意味についてお話ししました。
 簡単にまとめておきますと、第一に、それはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業によって神の子どもとされている者に、父なる神さまが与えてくださったものであるということ、すなわち、父から子に与えられたものであるということを意味しています。そして、ローマ人への手紙8章17節に、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。

と記されているように、子であることは相続人であることを意味しており、相続人であることは子であることを前提としています。ですから、この相続財産は、私たちが神の子どもであることの祝福として受け取っているものです。
 第二に、それは、私たちが自分で獲得したものではなく、ただ神さまの一方的な愛と恵みによって私たちに与えられたものであるということを意味しています。
 そして、第三に、ペテロの手紙第一・1章4節後半に、

これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

と言われていますように、この相続財産は終わりの日に完全な形で私たちに与えられるものとして、天においてしっかりと見張られており、守られているものです。
 これを受け取ることは死を前提としてはいませんが、大きな歴史の区切りの時に与えられるものです。人の死はその人の人生の終末という意味をもっています。そして、その終末の時に、相続財産は次の世代へと受け継がれていきます。神の子どもである私たちに与えられている相続財産は、世の終わりにイエス・キリストが再臨されてこの世の歴史の全体を神さまの義の尺度にしたがっておさばきになり、いっさいのものを清算し、新しい時代の歴史をお造りになる時に、完全な形で神の子どもたちに与えられるものです。その意味で、相続財産が次の世代の者に引き継がれていくということとの類似性が考えられます。これは、難しいことばで言いますと、神の子どもである私たちが受け取っている相続財産には「終末論的」な意味があるということです。
 きょうお話しすることとの関連で、これらの点を心に留めておいていただきたいと思います。
 すでに繰り返しお話ししたことですが、この相続財産の中心は、神さまご自身との愛にあるいのちの交わりです。それは、すでに旧約聖書の中に記されている、主ご自身が主の契約の民の相続財産であるという告白によって繰り返し示されていたことでした。
 またそれは、私たちが受け取っている相続財産が、私たちが御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして成し遂げてくださった贖いの御業によって神の子どもとされていることにともなう祝福であるということと深く関わっています。子どもにとっての最大の特権は両親とともに生活し、両親との心の通わしによる交わりに生きることです。それと同じように、神の子どもに与えられている最大の祝福は、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりにあります。繰り返しの引用ですが、ローマ人への手紙8章14節、15節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されており、ガラテヤ人への手紙4章6節に、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されているとおりです。この「アバ、父。」と呼ぶような親しさにおける父なる神さまとの交わりが、神の子どもである私たちに与えられている最大の特権であり祝福であると同時に、神さまから与えられている相続財産の中心となっているのです。「アバ、父。」の「アバ」というのは、子どもが父親に向かって言う呼びかけのことばで、日本語では「お父さん」ということに当たります。
 私たちがイエス・キリストの贖いの御業によって罪を贖われ、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたことによって、私たちは神の子どもとしての身分と、それに伴う特権と祝福を与えられています。私たちがイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれていることには実質が伴っていて、私たちのうちにイエス・キリストの復活のいのちが脈打つようになっています。このイエス・キリストの復活のいのちによって生かされているいのちが永遠のいのちです。そして、みことばの教えによりますと、この永遠のいのちの本質は、神さまとの愛にある交わりです。その意味で、神の子どもである私たちが受けついている相続財産の中心は永遠のいのちであると言ってもいいのです。
 このように、私たちはイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれています。ちょうどぶどうの枝がぶどうの木に結びついていてそのいのちによって生きているように、私たちは栄光のうちによみがえられたイエス・キリストに結び合わされて、イエス・キリストの復活のいのちによって生きています。このイエス・キリストの復活のいのちによって生かされているいのちが永遠のいのちです。
 そのように私たちをイエス・キリストに結び合わせて、イエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださっているのは御霊です。その意味で御霊は「いのちの御霊」と呼ばれます。この御霊は「御子の御霊」として私たちのうちに宿っていてくださいます。そして、私たちのうちにイエス・キリストの復活のいのちを溢れさせてくださっています。ヨハネの福音書7章37節〜39節に、

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

と記されているとおりです。イエス・キリストがこのことを述べておられる時にはまだ実現していませんでしたが、このことは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして私たちの間に実現しています。
 このように、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖われ、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれている私たちは、神の子どもとしての身分を与えられていますが、その私たちのうちには、イエス・キリストの御霊が宿っていてくださり、イエス・キリストの復活のいのちが脈打っています。
 けれども、もしかすると皆さんの中に、自分のうちにいのちの御霊が宿ってくださっていることが実感できないと思っている方がいるかもしれません。実際、ある人々は御霊が自分のうちに宿っていてくださることが実感できるようにというような思いから、自分の中に特別なことが起こることを追い求めることもあります。そして、奇跡的なことが起こったり、悪霊を追い出したり、幻を見たり、「異言」を語るようになったり、何かそのような経験をしたときに、御霊のご臨在を実感することができたと感じることがあります。(ここで「異言」にカギカッコをつけているのは、今日のいわゆる「異言」として語られていることは、新約聖書の中で語られている異言と意味が違うと考えられるからです。新約聖書の中で語られている異言は、それが解き明かされると預言と同じように神の子どもたちの徳を高めると言われています。それで異言は啓示としての意味をもっています。)
 けれども、このような何か特別なことが起こることをとおして御霊が私たちのうちに宿っていてくださることを実感しようとすることは、みことばが指し示している方向ではありません。すでに繰り返しお話ししてきたことですので、詳しい説明はいたしませんが、イエス・キリストの「山上の説教」の締めくくりの部分を記しているマタイの福音書7章21章〜23節に、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

というイエス・キリストの教えが記されています。自分のうちに特別なことが起こったり、自分を通して特別なことがなされたということは、私たちがイエス・キリストのものであることの結果とは限りません。
 前にもお話ししたことの一つを改めて注釈をしておきますと、ここに出てくる人々は主の御名によって悪霊を追いだしたり預言をしてきて、その成果があった人々です。そうでなければこのような訴えはいたしません。そうしますと、その人々が主の御名によって語ったみことばによって人々が救いを経験したということも起こっているわけです。そのことをどう考えたらいいのでしょうか。
 この点については以前お話ししたことがありますが、それとともに、少し前にお話ししたドナトゥス派論争のことも思い出していただきたいと思います。私たちが心に留めておかなければならないのは、イエス・キリストの贖いの御業をあかしする福音のみことばはそれとしての力を持っており、その力はそのみことばを伝えた人に依存してはいないということです。たとえば私は本を読んでいて福音に接し、その福音のみことばをとおしてイエス・キリストを贖い主として信じました。その間に福音のことについてクリスチャンとお話ししたことはありません。それが誰から聞いたのであっても、また、何によって伝えられたものであっても、さらには、たとえ主のものではない人から伝えられたものであっても、もしそれが真の福音のみことばであれば、その福音のみことばにしたがって罪を悔い改めて、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりを自分の救いのためであったとを信じ、イエス・キリストを主として受け入れた人は、その福音のみことばの約束のとおりに、イエス・キリストによって救われるのです。
 福音のみことばをあかしする者は、自分が福音のみことばを伝えた人々を救ったと誇ることはできません。救ってくださるのはイエス・キリストです。イエス・キリストが御霊によって福音のみことばを悟らせてくださり、その人々のうちに罪の自覚とご自身に対する信仰を生み出してくださるのです。私たちも、そのような御子イエス・キリストの御霊のお働きによって福音のみことばを悟り、イエス・キリストを信じるようになりました。そのすべては主の恵みの中で起こっています。私たちは福音のみことばを伝えるときに、人々を救ってくださるイエス・キリストのお働きに参与させていただくという祝福にあずかっているのです。
 ですから、ある人が福音のみことばを伝えたところ人々が救いにあずかったからといって、必ずしも、その人が主のものであるということになるのではありません。その人が主のものであるかどうかは、その人自身が自分のこととして、福音のみことばのみことばの光の下で自らの罪を自覚すると同時に、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業を自分のためのこととして信じ、イエス・キリストを主として受け入れているかどうかによっています。
 いずれにしましても、私たちのうちに特別なことが起こったとか、私たちをとおして不思議なことがなされたということ自体は、私たち自身が主のものであるということのしるしではありません。ですから、そのようなことをとおして、御霊が私たちのうちに宿っていてくださって、イエス・キリストの復活のいのちを溢れさせていてくださるということを実感しようとすることは、みことばが指し示す方向ではありません。
 この「山上の説教」の最後の部分においてイエス・キリストが教えておられることは他人事ではありません。私たちも自分がイエス・キリストのものであるということと、自分のうちに御霊が宿っていてくださり、イエス・キリストの復活のいのちが脈打っているということを実感しようとして、自分の考えていることや願っていることが起こるように求めがちです。しかし、そのような場合には、その私たちの考え方に問題があることをわきまえなければなりません。そして、それがどのようなことであるかということは、みことばの光のもとで理解しなければなりません。
 先ほどはローマ人への手紙8章14節、15節を引用しましたが、そこには、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されていました。
 これに先立つ9節には、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

と記されていまして、私たちがイエス・キリストのものであるなら、必ず御霊が私たちのうちに住んでいてくださることが示されています。ですから、御霊が私たちのうちに住んでいてくださることは、特別な人にだけ起こることではなく、すべての神の子どもの現実です。それで、この御霊が私たちのうちに住んでいてくださることの確かなしるしは、何か特別なことが起こるということにはありません。
 同じように14節では、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

と言われています。ここでも、御霊が私たちのうちに住んでいてくださっているということは、すべての神の子どもに起こっていることであることが示されています。そして、そのことは御霊が私たちを導いてくださっていることに典型的に現われてくると言われています。
 さらに、これに続いて、御霊のお導きのことが

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。

と言われています。
 この「奴隷の霊」と「子としてくださる御霊」の関係については意見が分かれるところです。
 「奴隷の霊」の「」も「子としてくださる御霊」の「御霊」も同じことば(プニューマ)です。さらに、「奴隷の霊」と訳されたことば(プニューマ・デューレイア)と「子としてくださる御霊」(プニューマ・フイオセシア)は、形としては同じ形で表わされていて、意味の上で対比されています。それで、「奴隷の霊」と訳されたことばは「子としてくださる御霊」に合わせて、「奴隷とする霊」あるいは「奴隷とする御霊」と訳すべきです。これらのことから、「奴隷とする霊」も御霊を指している可能性があります。
 「奴隷の霊」と「子としてくださる御霊」の関係についてどのような立場をとっても、ここで言われていることの中心的な意味には変わりありません。ここで言われているのは、私たちが受けていて私たちを導いてくださっている御霊は、私を奴隷化する御霊ではないということです。この場合、この奴隷化は「恐怖に陥れる」奴隷化であると言われています。それは罪がもたらすさばきによる死と滅びに対する恐怖の中へと閉じこめる形で私たちを奴隷化するものです。御子イエス・キリストの贖いの御業に基づいてお働きになる御霊は、そのような私たちを奴隷化して恐怖で縛りつける御霊ではなく、むしろ私たちを「子としてくださる御霊」であると言われています。
 ついでに申しますと、キリストのからだである教会において「脅迫」や「脅し」に類することを避なければならないのは、御霊が人を恐怖の中へと奴隷化して動かす方ではないからです。御霊は私たちに福音のみことばを理解させてくださり、その理解したみことばにしたがって生きるように私たちを導いてくださいます。それで、キリストのからだである教会においてもそれに沿った道が取られるのです。
 この御霊の導きについては、ガラテヤ人への手紙5章18節では、

しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

と言われています。また、律法については、ローマ人への手紙3章20節に、

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

と記されています。
 律法は神のかたちに造られている人間の本来のあり方を示しています。律法の本質は造り主である神さまとの関係のあり方を示すものです。それで、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまっている人間が律法に接すると、自分が本来のあり方から堕落してしまっていることを映し出されてしまうのです。そればかりでなく、律法はそのように造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているものを罪に定め、永遠の刑罰に値するということを明らかにします。
 しかし、実際には、その当時の律法学者パリサイ人たちのように、神さまの律法に接していながら罪の自覚を深めるどころか、自分たちこそは律法を守り行なっているという秘かな誇りを抱いてしまうということが起こっています。それは、律法の理解が自分たちの現状に合わせて歪められてしまっていることによっています。ですから、真に神さまの律法を理解して自らの罪を深く自覚することは、御霊のお働きによって初めて可能なことです。
 そのようにして御霊のお働きによって律法を真に理解して、自分の罪を自覚しますと、それが聖なる神さまの御怒りに相当することも自覚するようになります。それは、底知れない恐怖をもたらします。それが御霊によって神さまの律法を真に理解した人に起こることです。これだけですと、私たちは自分の罪の現実と、それに対する神さまのさばきへの恐怖に縛られてしまうだけです。先ほどの「恐怖の中へ奴隷とする御霊」という可能性は、このこととの関連で理解されます。まだ御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いが完成していなかったときには、この恐怖は取り去られてはいなかったのです。
 けれども、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊は、そのように人を恐怖の縄目で縛りつけてしまう律法から私たちを解放してくださいます。ガラテヤ人への手紙5章18節では、

しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

と言われていました。また、ローマ人への手紙8章1節、2節には、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

と記されています。
 ですから、私たちのうちに御霊が宿っていてくださり、私たちを導いてくださっていることは、私たちがこの御霊にある自由の中を歩んでいることに現われてきます。それは、罪の自覚がないための見せかけの安心ではありません。ヨハネの福音書16章8節に記されているように、イエス・キリストは御霊のお働きについて、

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

と教えておられます。御霊は私たちに罪の自覚を与えてくださいます。それと同時に、私たちが福音のみことばにあかしされているイエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いを信じるように導いてくださいます。それによって、私たちに罪がもたらすさばきとしての死と滅びから救い出されていることを確信させてくださいます。その結果私たちは、自分の罪がもたらす死と滅びに対する恐れから解放していただいているのです。
 このように、私たちは御霊のお働きによって、自分が自らの罪に対するさばきによる死と滅びから解放されていることを確信しています。それで、死と滅びに対する恐怖から解放されています。しかし、これは御霊のお導きの下にある神の子どもに与えられている自由の消極的な面です。御霊が私たちのうちに宿っていてくださって私たちを導いていてくださることには、さらに積極的な面があります。それは、改めて言うまでもないことですが、先ほど引用しましたローマ人への手紙8章14節の最後に、

私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されていることに他なりません。
 すでにお話ししましたように、ご自身の立場と権利において父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼ぶことがおできるのは御子イエス・キリストだけです。私たちは御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになり、私たちを御子イエス・キリストに結び合わせて、その復活のいのちによって新しく生まれさせてくださった御霊のお働きによって、御子イエス・キリストにある神の子どもとされています。それで、御子の御霊のお働きによって、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼ぶことができるのです。
 ここで大切なことは、もし私たちが御霊によって導かれているなら、父なる神さまに向かって親しく「アバ、父。」と呼びかけるときにも、神さまが無限、永遠、不変の栄光の神であられることや、私たち自身は自らのうちに罪を宿す罪人であるということに対するわきまえを失うことがないということです。そして、私たちが父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることができるは、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いが完全なものであることによっているということを自覚しているということです。言い換えますと、私たちが御霊に導かれているときには、神さまの聖さに対するわきまえを失うことがないということです。
 これに対しまして、御霊に導かれていない人々も自分たちが自由に「神」の前に近づくことができると考えています。しかし、それは、その人々が考えている「神」がこの世界に住んでいる「神」であるからです。人間よりは大きな存在ではあるけれども、その違いは程度の違いであると考えているからです。造り主である神さまに大して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間は、神さまと神さまがお造りになったものの間にある「絶対的な区別」をわきまえることができません。そして、そのように神さまの真の聖さをわきまえることができないために、自分たちが自由に「神」に近づけると感じてしまうのです。
 私たちが御霊に導かれて父なる神さまに向かって親しく「アバ、父。」と呼びかけることができるのは、これとはまったく違います。それは、神さまと神さまがお造りになったものとの間にある「絶対的な区別」を見失っているためのことではありません。私たちが父なる神さまに向かって親しく「アバ、父。」と呼びかけることができるのは、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして私たちの罪をまったく贖ってくださったことを、福音のみことばに基づいて信じているからです。その一方で、私たちは神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることをわきまえています。そして、神さまにふさわしい栄光を帰するために礼拝をいたします。それも御霊のお導きによることです。
 これらのみことばのあかしから、私たちは御霊が自分たちのうちに宿っていてくださり、自分たちを導いてくださっていることをどのようにして「実感」することができるかお分かりのことと思います。それは、感覚的な「実感」ではありません。むしろ、みことばをとおして神さまがあかししてくださっていることをしっかりと受け止めた上での確信を持つようになることです。そのみことばに基づく確信も御霊が私たちのうちに生み出してくださるものです。ローマ人への手紙8章16節に、

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

と記されているとおりです。
 大切なことは、この、

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

ということはこれに先立つ15節に、

私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されていることを踏まえて語られているということです。御霊が「神の子どもであること」に対する確信を私たちのうちに生み出してくださることは、私たちが実際に父なる神さまに向かって親しく「アバ、父。」と呼びかけることによる交わりの中に生きることをとおしてのことであるのです。生まれた子どもが自分が両親の子どもであることを自覚するのは、両親の元で生活することをとおしてのことです。それと同じように、私たちも実際に父なる神さまに向かって親しく「アバ、父。」と呼びかけることによる交わりの中で、自分が神の子どもであることを自覚するようになります。そしてそのすべてが御霊のお導きによってなされることです。
 すでにお話ししましたように、神の子どもである私たちに与えられている特権と祝福の中心は、御霊のお働きによって父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることができることにあります。その父なる神さまとの親しい交わりの中に生きることによって、私たちのうちに「神の子どもであること」に対する確信が生み出されてくるのです。
 最後に、これらのことを神の子どもである私たちに与えられている相続財産との関わりで考えてみましょう。
 私たちが御霊のお導きによって父なる神さまに向かって親しく「アバ、父。」と呼びかけることによって成り立っている交わりは、神の子どもである私たちに与えられている相続財産の中心です。そして、この相続財産は、ペテロの手紙第一・1章4節に、

これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

と言われていますように、それが完全に私たちに与えられるのは、世の終わりに御子イエス・キリストが栄光のうちに再臨されて、この世、この時代の歴史を清算され、新しい天と新しい地を再創造される時のことです。
 その時、私たちはイエス・キリストの復活のいのちにあずかっている者として栄光のうちによみがえります。そして、栄光の主イエス・キリストにあってご臨在される父なる神さまとのいのちの交わりのうちに生きるようになります。その時も、私たちをイエス・キリストにあって父なる神さまとのいのちの交わりのうちに生かしてくださるのは御霊のお働きによることです。ですから、御霊によって父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけるいのちの交わりは、すでに神の子どもである私たちの現実になっていますが、栄光のキリストの再臨によってもたらされる新しい時代においては、さらに豊かないのちに溢れたものとして完成します。その意味で、いま私たちのうちに宿っていてくださって、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけるように導いてくださっている御霊のお働きは、栄光のキリストの再臨によってもたらされる新しい天と新しい地における新しい時代においても変わることなく続いていきます。
 これに対して、先ほどお話ししました、何か特別なことが私たちのうちに起こるとか、私たちをとおしてなされるというようなことは、それが起こったとしても、その人が神の子どもであることの保証とはならないばかりか、それはこの世限りのことです。コリント人への手紙第一・13章6節には、

預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。

と記されています。これらがなくなることがいつのことであるかについては議論のあるところですが、少なくとも、それがこの世限りのものであることははっきりしています。また、悪霊を追い出すことや病をいやすことも、もはや病もなく悪霊もいない新しい天と新しい地においてはなくなってしまいます。ですから、これらのものは「天にたくわえられている」と言われている相続財産をなすものではありません。
 イエス・キリストの再臨によってもたらされる新しい天と新しい地における新しい時代になって、これらのことがなくなっても、変わることなく私たちに与えられている御霊のご臨在の現われがあります。それは父なる神さまに向かって親しく「アバ、父。」と呼びかけることによって成り立つ、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりです。新しい時代においては、この父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりは、さらに栄光に満ちたいのちの交わりとなります。そして、これこそが「天にたくわえられている」と言われている相続財産の中心です。

 


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