![]() |
説教日:2003年4月6日 |
それなら、この資産がどうして「相続」財産と言われているのでしょうか。これには少なくとも三つの意味合いが込められていると考えられます。 第一に、ガラテヤ人への手紙4章4節〜7節には、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。 と記されています。 また、ローマ人への手紙8章14節〜17には、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と記されています。 ガラテヤ人への手紙4章7節では、 子ならば、神による相続人です。 と言われており、ローマ人への手紙8章17節でも、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。 と言われています。これらのみことばが示していますように、私たちが神の子どもであるということは、そのほかの条件なしに、そのまま私たちが「相続人」であるということを意味しています。神の子どもであるのに「相続人」ではないということはあり得ません。私たちは「相続人」としての神の子どもとされているのです。 その意味で、この相続財産は、父なる神さまが御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、御霊によって私たちを新しく生まれさせてくださって、ご自身の子としての身分と特権を与えてくださった結果、私たちに与えられているものです。私たちが相続財産を与えられているということはそれとして独立したことではなく、私たちが神の子どもとしての身分を与えられていることにともなう祝福であるのです。ですから、私たちに与えられている相続財産は神の子どもとしての身分を与えられていることの中に位置づけられるものです。 このことは神の子どもとしての私たちに与えられている相続財産の理解にとって大切なことです。 先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章6節では、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と言われていました。また、ローマ人への手紙8章14節、15節では、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と言われていました。 これらのみことばが示していますように、私たちは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって神の子どもとされているので御霊を与えられています。そして、御霊のお導きによって父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びます。父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼ぶということは、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるということを意味しています。そしてこのことが、私たちが神の子どもとされていることにともなう祝福の中心です。このことはまた、すでにお話ししてきましたように、神の子どもに与えられている相続財産の中心です。 ガラテヤ人への手紙4章6節では御霊は「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」であると言われています。いつもお話ししていますが、聖書の中で父なる神さまに向かって個人的にまた親しく「アバ、父。」と呼びかけたのはイエス・キリストが初めてです。確かにイエス・キリストだけが、ご自身の本来の立場と権利において、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることがおできになります。私たちはその御子の御霊をいただいているので、御子の御霊に導かれて父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることができるのです。 私たちは父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げられた贖いの御業にあずかって、罪と死の力から贖い出され、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたことによって、神の子どもとしての身分を与えられ、父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりにあずかるものとされています。ヨハネの手紙第一・1章3節に、 私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 と記されているとおりです。またローマ人への手紙8章29節には、 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 と記されています。まず、父なる神さまと御子イエス・キリストの間に無限に豊かな愛の交わりがあります。私たちは神の子どもとされて、その交わりにあずかる者とされているのです。 このように、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりのうちに生きることができるのは、私たちが御子イエス・キリストと結び合わされて新しく生まれ、父なる神さまの家族に子として迎え入れられているからです。そして、私たちを御子イエス・キリストと結び合わせてくださって、新しく生まれさせてくださったのは御霊です。その意味で、「御子の御霊」は私たちを子としてくださり、子としての特権にあずからせてくださる御霊です。 そのことが、先ほど引用しましたローマ人への手紙8章15節で、御霊のことが「子としてくださる御霊」であると言われていることに反映しています。すでにお話ししたことですが、この「子としてくださる御霊」の「子としてくださる」ということば(フイオセシア)は「養子とする」ということを表わしています。そして、その当時の文化においても、養子として迎え入れられた者は実子と同じ特権を与えられていました。御子イエス・キリストだけが、ご自身の本来の立場と権利において、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることがおできになります。私たちは「子としてくださる御霊」、私たちを養子としてくださりその実質を与えてくださる「御子の御霊」のお働きによって、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることができます。 このように、私たちが父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることができるのは「御子の御霊」、「子としてくださる御霊」のお働きによるものです。御霊は、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして成し遂げられた贖いに基づいてお働きになり、その贖いを私たちに当てはめてくださっています。その贖いは私たちを死と滅びの道から贖い出してくれたものですが、それで終わらないで、さらに私たちを新しく生まれさせて神の子どもとしてくださり、神の子どもとしての特権と祝福にあずからせてくださるものです。その特権と祝福の中に相続人として相続財産を与えられているということがあります。 このこととの関連で、すでに繰り返しお話ししてきましたことを思い出していただきたいのですが、神の子どもとしての私たちが受けている相続財産の中心は地上の富や宝のような「もの」ではなく、契約の主ご自身です。主ご自身が神の民の相続財産であるということは、すでに旧約聖書において示されています。それは、主の民が主の栄光のご臨在の御前に立って、主との愛にあるいのちの交わりに生きることにおいて現実のものとなります。 その主の民の相続財産は、御子イエス・キリストの血による新しい契約のもとではさらに豊かなものとなり、高められ深められています。それは、私たちが御霊のお働きによって御子イエス・キリストと一つに結ばれて父なる神さまの子として迎え入れられているということに現われています。契約の神である主との交わりは、神さまを主と呼ぶ交わりです。その交わりが、神さまを「アバ、父。」と呼ぶ交わりへと高められ深められているのです。このようにして、神の子どもとしての私たちの交わりは御父と御子イエス・キリストとの交わりという、より深く親密な交わりとしての実質を持つようになりました。そして、新しい契約のもとにある私たちにとっては、御父と御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりが相続財産の中心です。 第二に、このことと関連していることですが、神の子どもとしての私たちが受け取っている資産が相続財産と呼ばれているのは、この資産が私たちの「受け継いだもの」であることによっていると考えられます。 この資産は確かに私たちのものなのですが、私たちが自分の働きによって生み出したものではありません。それは御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころにしたがって、私たちのために獲得してくださったものです。私たちはそれを父なる神さまから与えていただいます。ですから、私たちが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪と死の力から贖い出されたことが、御子イエス・キリストにある父なる神さまの一方的な愛と恵みによっていることと一致して、この相続財産も御子イエス・キリストにある父なる神さまの一方的な愛と恵みによって私たちに与えられています。 * この資産が「相続」財産と呼ばれるときの第三の意味合いは、ペテロの手紙第一・1章4節に、 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と言われていることによっていると考えられます。 ここでは、私たちに与えられている相続財産が「天にたくわえられている」と言われています。この「たくわえられている」と訳されていることば(テーレオー)は、マタイの福音書6章20節に記されている、 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 というイエス・キリストの教えの中で用いられている「たくわえなさい」ということば(セーサウリゾー)とは違います。マタイの福音書6章20節ではまさに「たくわえる」ことを表わすことばが用いられていますが、ペテロの手紙第一・1章4節では「見張って守る」ことを表わすことばが用いられています。ここでは私たちに与えられている相続財産がしっかりと見張られており、守られていることが示されています。それを見張っていてくださる方は、私たちに相続財産を与えてくださった父なる神さまに他なりません。父なる神さまが御子イエス・キリストによってしっかりと見張っていてくださり、守っていてくださるということです。 さらに、この相続財産について、 あなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と言われているときの「あなたがたのために」ということば(エイス・フマース)は、ヘブル語の影響を反映していることば遣いです。これはただ単に私たちのためにということを越えて、神さまがこの相続財産を見張って守ってくださっているときに、これは私たちに与えてくださっているものであるということを念頭において守っていてくださるというような意味合いを伝えています。 また、この相続財産は、 あなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と言われていて、それが「天に」あるということが示されています。この「天に」ということばには、やはりいくつかの意味合いがあると考えられます。 まず考えられるのは、先ほど引用しましたマタイの福音書6章20節とその前の19節には、 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 と記されています。ここでは、「天に」ということが「地上に」ということと対比されています。そして、虫やさびで損なわれたり盗人に盗まれてしまうことがないということから分かりますように、そこが安全で確かなところであるということが示されています。この点は、 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と言われていますように、私たちが受け継いでいる相続財産が「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」ものであるということにつながっています。 すでにお話ししましたが、この場合に相続財産が「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」というのは、私たちが新しく生まれているのが御子イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことにあずかってのことであるからです。イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」ものがこの世界の歴史の現実となりました。イエス・キリストの復活のからだが最初の「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」ものですし、やがて来たるべきすべての「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」ものの土台であり源です。コリント人への手紙第一・15章45節〜49節には、 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。 と記されています。復活のキリストは「天から出た」と言われています。イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかってよみがえる者は「天からの者」(複数)と言われています。そして、これが続く50節以下では「朽ちないもの」と呼ばれています。 また、ペテロの手紙第一・1章4節では、相続財産が、 あなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と言われていて、神さまが相続財産を見張って守っていてくださるということが示されています。その意味では、「天に」ということばから「神さまのご臨在の御許において」という意味合いをくみ取ることができます。 さらに、4節で、 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と言われていることに続いて、5節では、 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。 と言われています。 ここでは私たちに与えられている相続財産ばかりでなく、私たち自身が「信仰により、神の御力によって守られて」いると言われています。この「守られており」と訳されていることばは受動態分詞ですが、そのもとになっている「守る」ということば(フルーレオー)は軍隊用語で、敵の攻撃から守ることを示しています。そのように私たちを守ってくださっているのは「神の御力」であると言われています。4節でも私たちが受け継いでいる相続財産が天において見張って守られていると言われていますが、この5節で私たち自身が守られていることが示されているときには、より厳重に守られているということが伝わってきます。 この「神の御力によって」は、「神の御力のうちに」とも訳すことができます。その場合には、神さまの御力が私たちを取り囲んで守っていてくださることが示されています。この場合、私たちが「神の御力によって」守られているのか「神の御力のうちに」守られているのか決定することは難しい気がします。しかし、そのどちらを取っても実質的には同じことになります。というのは、私たちが神さまの御力によって守られているというときの神さまの御力は無限、永遠、不変の御力ですから、当然その御力は私たちを取り囲んでいて、私たちはその御力のうちに守られているということになります。また、私たちが神さまの御力のうちに守られているというときには、当然、私たちは神さまの御力によって守られているということになります。 ここでは、私たちは「信仰により、神の御力によって守られて」いると言われていて、「信仰により」ということが加えられています。これは、私たちが神さまの御力を信じてそれに自分を委ねること、あるいは私たちが神さまの御力のうちに身を置くことによって、神さまの御力によって、また神さまの御力のうちに守られていることを意味しています。ですから、神さまの御力が私たちを守ってくださっているのであって、私たちの「信仰の力」が私たちを守るのではありません。信仰は私たちが神さまの御力を信じ、その御力に自分をお委ねするものです。 このようにして、神さまの御力のうちに、また神さまの御力によって守られている私たちは、 終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。 と言われています。 この部分は、私たちが神さまの御力によって、また神さまの御力のうちに守られていることの時間的な面を示しています。この5節は関係代名詞から始まる文ですので独立した文ではありませんが、これを直訳調に訳しますと、 終わりのときに現わされるように用意されている救いへと、信仰により、神の御力によって守られているあなたがた となります。つまり、私たちが神さまの御力によって、また神さまの御力のうちに守られていることの目的は、私たちが「終わりのときに現わされるように用意されている救い」を受け取るようになることにあるというのです。 ここには「終わりのとき」に対する視野が開けています。難しいことばで言いますと「終末論的な」視野です。この「終わりのとき」の「とき」ということばは、今日の私たちが時間ということで考えている「流れていく時」(クロノス)ではなく、特別な意味をもった時(カイロス)です。この「終わりのとき」は、御子イエス・キリストが栄光のうちに再臨される時であり、神さまがこの時代のすべてを御子イエス・キリストによるさばきをとおして清算し、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いに基づいて新しい天と新しい地を再創造される時です。ですから、それは私たち神の子どもにとっては救いの完成の時です。 その救いは「終わりのときに現わされるように用意されている救い」であると言われています。「用意されている」ということば(ヘトイモス)は、準備ができている状態、用意ができている状態を表わしています。それは、私たちの救いのために必要な罪の贖いは、すでにイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによってすべて成し遂げられているということを受けてのことです。 以前お話ししましたように、イエス・キリストの十字架の死も死者の中からのよみがえりも、本来は「終わりのとき」に起こるべきことです。その十字架の死は「終わりのとき」に起こるべき最終的な罪のさばきであり、死者の中からのよみがえりは「終わりのとき」に起こるべき栄光へのよみがえりです。イエス・キリストにあっては、その「終わりのとき」に起こるべきことが歴史の中にすでに実現しています。 ですから、私たちが受け取っている救いは、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって贖いの御業を成し遂げてくださったことによって、すでに完成しています。それは今から2千年前に完成しています。そして、御霊がそれを私たちに当てはめるお働きをしてくださっていますので、私たちは信仰によってそれにあずかっています。 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。 と言われているとおりです。 しかし、私たちがそれにまったくあずかるようになるのは、「終わりのとき」に栄光のキリストが再臨されて私たちを栄光のからだによみがえらせてくださることをとおしてです。ですから、救いの完成は「終わりのとき」まで待たなければなりません。私たちが受け継ぐ資産が「相続財産」と呼ばれているのは、それがこのように、すでに天に用意されていて、私たちが「終わりのとき」にまったく受け取るようになるものであることによっていると考えられます。 |
![]() |
||