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説教日:2003年3月23日 |
このように、神さまの契約 アブラハムに与えられた契約は、アブラハムの子とその相続財産に関する契約です。「アブラハムの子」の外側の意味はアブラハムとその血肉の子孫であるイスラエルの民であり、「相続財産」の外側の意味は地上のカナンの地です。これらは古い契約のひな型です。 これに対して、アブラハムとその子孫にはその内側の真の意味があります。創世記15章1節〜5節には、 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されています。 先ほど引用しました17章7節、8節に記されている契約はアブラハムが99歳の時に与えられたものです。ここに記されているのは、その少し前のことであると考えられます。ここに記されていることが17章に記されている契約締結より前のことであるということが大切な意味をもっています。ここに記されているのはアブラハムの相続人としての子孫に関する約束です。「ダマスコのエリエゼル」はアブラハムの家で仕えていたしもべのことです。そして、その当時においても実子がない場合には養子を迎えて相続人にするという習慣がありました。そして時には、しもべの中から相続人を迎えることもあったと言われています。このときアブラハムは子どもがありませんでしたから、自分のしもべを養子として相続人とするようになるのではないかと考えました。それに対して主は、 その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。 と言われました。そして、アブラハムに天の星を見せて、 あなたの子孫はこのようになる。 と約束してくださいました。これに続いて、 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されています。 このことを受けてガラテヤ人への手紙3章6節〜9節には、 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 と記されています。この、 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。 というみことばに示されていますように、アブラハムとの血肉のつながりによる「アブラハムの子」とは区別される、信仰によって義と認められることにおいてアブラハムとつながっている「アブラハムの子」があるのです。これが「アブラハムの子」の内側の意味です。 同様なことはローマ人への手紙4章にも記されています。まず、1節〜5節には、 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 と記されています。さらに9節〜12節には、 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。 と記されています。 1節で、 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。 と言われているときの「肉による私たちの先祖」と訳されている部分には解釈の上で難しい点がありますが、この場合は「肉による私たちの先祖アブラハム」という新改訳の訳が示しているように、血肉のつながりによる父祖としてのアブラハムを指していると考えられます。そして、これが、11節後半〜12節で、 それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。 と言われている、信仰によって義と認められる者の父であるという、もう一つの意味での「父であること」と対比されていると考えられます。 ここには割礼が出てきます。割礼は創世記17章に記されているアブラハムに与えられた契約のしるしとして与えられました。先ほど引用しました17章7節、8節には主の契約がアブラハムに与えられたことが記されていましたが、続く9節〜14節には、 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」 と記されています。 割礼は古い契約の地上的なひな型としての共同体に加えられるに当たって男子が受けたものです。おもにアブラハムとその血肉の子孫が受けたのですが、その家のしもべたちにも施されました。これには、アダムにあって人類が堕落しているために、その罪の腐敗が誕生によって受け継がれているということと、主の契約の民に加えられるためにはそれがきよめられなければならないということを、視聴覚教材的に教えるという意味があります。 このように、割礼は古い契約の共同体に加えられることにかかわる契約のしるしでした。これは、新しい契約の下では、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、ご自身の十字架の死による罪の贖いを私たちに当てはめてくださる御霊を私たちに注いでくださったことと、それを見える形で表示している水による洗礼によって成就しています。 これらのことを反映して、ローマ人への手紙2章28節、29節には、 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。 と記されています。ついでに申しますと、先ほどから、「アブラハムの子」と「相続財産」にかかわる二重の意味のことを外側の意味と内側の意味というような呼び方をしたのは、この「外見上のユダヤ人」とか「人目に隠れたユダヤ人」というような言い方を意識したためです。 また、このこととの関連で、すでに何回か引用しましたガラテヤ人への手紙3章29節で、 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と言われており、さらに、それを受けて4章6節、7節で、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。 と言われているように、アブラハムの子であることが御霊を受けることにつながっていることが理解できます。 いずれにしましても、アブラハムの子孫には二重の意味があります。そしてその二つの意味は区別されますが矛盾しません。区別されるという点から言いますと、アブラハムの血肉の子孫として生まれたからと言って、信仰によって義とされる者の父としてのアブラハムの子であるわけではないということです。矛盾しないという点から言いますと、アブラハムの血肉の子孫として生まれた者も、当然のことですが、約束の贖い主であられるイエス・キリストに対する信仰によって義と認められることによって、信仰によって義とされる者の父としてのアブラハムの子となるということです。 このようにアブラハムの子であることには二重の意味がありますが、同じように、アブラハムの子に約束されている相続財産にも二重の意味があります。 これまでお話ししたことからお分かりのように、その外側の意味は、地上のひな型としてのカナンの地です。やがてモーセの時代になって、主はアブラハムへの契約に基づいてエジプトの奴隷であったイスラエルの民にご自身を現わしてくださり、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださいました。そして、ご自身がご臨在されるシナイ山の麓にまで導いてくださり、ご自身のご臨在の御前において仕える祭司の国として召してくださり、契約を与えてくださいました。そして、約束の地であるカナンに導き入れてくださいました。これらすべてが、アブラハムに与えられた、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 という契約の土台の上に立ってなされています。 すでにお話ししましたように、 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える というカナンの地に関する約束は、その前に記されている、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 という、主が契約を与えてくださった目的を示すことばと、最後に記されている、 わたしは、彼らの神となる。 ということばに挟まれています。このことは、カナンの地が与えられた目的は、そのカナンの地で、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 という、主が契約を与えてくださった目的が実現するためであるのです。 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 ということは、ただ単に名目の上で主がアブラハムとその子孫の神となってくださるということではありません。そこではその実質が保証されているのです。主が私たちの神となってくださるということは、主が私たちの間にご臨在してくださり、私たちは主のご臨在の御前に立つことができるようになるということを意味しています。それは、私たちが主の栄光のご臨在の御前において、主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるということであり、そこからあふれ出るあらゆる祝福にあずかるようになるということです。 それで、前にお話ししましたように、古い契約の下で記されている詩篇の中で、主ご自身が主の契約の民の受けるべき相続財産であるということがくりかえし告白されています。たとえば、16篇5節には、 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。 あなたは、私の受ける分を、 堅く保っていてくださいます。 と記されています。 このように、カナンの地を相続財産として相続するということは、イスラエルの民がその地において主のご臨在の御前に立って主との交わりに生きるようになるということを中心としています。そして、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださることは、ひな型としての主の神殿によって示されていました。実際、ダビデの時代になって、主がカナンの地にあるイスラエルの民に安息を与えてくださったとき、ダビデは契約の神である主がご臨在されるための神殿建設を志しました。サムエル記第二・1節〜3節には、 王が自分の家に住み、主が周囲の敵から守って、彼に安息を与えられたとき、王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」すると、ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行ないなさい。主があなたとともにおられるのですから。」 と記されています。 しかし、主は主のための神殿の建設はダビデによってではなく、ダビデの子によってなされることをお示しになりました。12節、13節に、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 と記されています。 ダビデには主のご臨在される神殿を建てることが許されませんでしたが、それには理由があります。歴代誌第一・22章7節〜11節には、 ダビデはソロモンに言った。「わが子よ。私は、わが神、主の御名のために宮を建てようとする志を持ち続けてきた。ある時、私に次のような主のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。見よ。あなたにひとりの子が生まれる。彼は穏やかな人になり、わたしは、彼に安息を与えて、回りのすべての敵に煩わされないようにする。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与えよう。彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしにとって子となり、わたしは彼にとって父となる。わたしはイスラエルの上に彼の王座をとこしえまでも堅く立てる。』そこで今、わが子よ、主があなたとともにおられ、主があなたについて語られたとおり、あなたが、あなたの神、主の宮をりっぱに建て上げることができるように。」 と記されています。 あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。 という主のみことばに示されているように、主がご臨在されるところである主の神殿は、主のご臨在がもたらす安息といのちの豊かさを表示し約束するものですので、戦いの人であったダビデによって建てられることはありませんでした。 このようにして、カナンの地に主がご臨在されるための神殿を建てたのはダビデの子であるソロモンでした。このソロモンという名は平和、平安を表わすシャロームの同族語で平和であることを表わしていると考えられます。しかし、これらはすべて地上的なひな型としての意味をもっていて、やがて来るべき「本体」を指し示していました。ダビデの血肉の子であるソロモンは、真の「ダビデの子」ではありませんでした。ソロモンは後に偶像崇拝に走ってしまいました。それは、主とともに他の神々をも取り入れて礼拝するということで、たとえ主が神々の中心に据えられたとしても、主が他の神々と並べられるかのように考えることです。これでは、天地の造り主であられる主が造られたすべてのものと絶対的に区別されるという意味での主の聖さを冒すことです。そのようにして、ソロモンはイスラエルの民の歴史に罪とそれに対する主のさばきをもたらすことになりました。ソロモンも地上的なひな型としての限界の中にありました。 使徒の働き7章にはエルサレムの議会の前におけるステパノのあかしが記されています。その中の46節〜50節には、 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。 「主は言われる。 天はわたしの王座、 地はわたしの足の足台である。 あなたがたは、どのような家を わたしのために建てようとするのか。 わたしの休む所とは、どこか。 わたしの手が、これらのものを みな、造ったのではないか。」 と記されています。 ここでステパノが引用しているのは、イザヤ書の最後の66章1節、2節に記されているみことばです。このステパノのあかしが示しているとおり、まことの主の神殿は「手で造った家」ではありません。主が預言者イザヤをとおして示しておられるように、主ご自身がお造りになった天と地が主がご臨在されるまことの神殿です。 そうしますと、このことと関連して一つの問題が浮かんできます。これまでお話ししてきましたように、主がアブラハムに与えてくださった主の契約の民に約束されている相続財産は主ご自身です。主のご臨在の御前において、主との愛にあるいのちの交わりに生きること、そして、その交わりからあふれ出てくる祝福にあずかることが神の子どもの受け継ぐ相続財産の中心にあることです。このことは、主のご臨在される「まことの神殿」が主ご自身がお造りになった天と地であるということとどのようにつながるのでしょうか。 この問題については、改めてお話しするまでもないかもしれません。主が預言者イザヤを通して示しておられるように、神さまの天地創造の御業は神さまご自身がご臨在してくださる世界を造り出す「まことの神殿」の建設としての意味をもっていました。さらにイザヤ書45章18節には、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てられた方、 これを形のないものに創造せず、 人の住みかに、これを形造られた方、 まことに、この主がこう仰せられる。 「わたしが主である。ほかにはいない。」 と記されています。 このように、神さまは創造の御業によってご自身がご臨在される世界をお造りになり、そこに神のかたちにお造りになった人間を住まわせてくださいました。その意味では、神さまは天地創造の御業の初めから、この世界を神のかたちに造られている人間が相続する「相続財産」としてお造りになったのです。神さまは初めから、神のかたちに造られている人間が、この「まことの神殿」としての意味をもっている世界にご臨在されるご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださいました。そのことは先週お話ししました「創造の契約」によって示されています。 しかし、人間が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったときに、人間は神さまの栄光のご臨在の御前に立つことはできなくなりましたし、神さまとの愛にあるいのちの交わりを失ってしまいました。その結果、罪のもたらす死と滅びの力に捕らえられてしまいました。 それに対して、神さまは人類の堕落の直後から贖い主の約束を与えてくださいました。アブラハムに与えられた契約は、その約束を受け継ぐものです。それは、神さまのご臨在の御前から退けられて、神さまとの愛にあるいのちの交わりを失い、罪と死の力に捕えられている状態にある人類に対する主の一方的な恵みの備えを約束してくださるものでした。主は、アブラハムの子であるメシヤによってご自身の契約の民を地上のすべての民族の中から贖い出して、再びご自身のご臨在の御前に立たせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださることを約束してくださったのです。 このように見ますと、主がアブラハムに与えてくださった契約において約束されている「相続財産」の中心が、主のご臨在の御前に立って、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにあるということは、神さまが天地創造の御業によってこの世界をお造りになったことの意味を回復するものであるということが分かります。言うまでもなく、このアブラハムに与えられた主の契約をとおして約束されていた神さまとの愛にあるいのちの交わりは、約束のメシヤであるイエス・キリストをとおして私たちの間で実現しています。 |
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