(第118回)


説教日:2003年3月16日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 これまでペテロの手紙第一・1章に記されていることにしたがって、聖なるものであることが神の子どもたちに与えられている望みと深く関わっているということをお話ししてきました。きょうもそのお話を続けます。先主日は姉妹教会の一つからお招きを受けて、そちらでご奉仕いたしましたので、お話としては一週空いてしまいました。それで、これまでの要点を復習しながらお話を続けていきます。
 神の子どもたちに与えられている望みがどのようなものであるかは、3節〜5節に記されています。そこでは、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

と言われています。これは3節冒頭の、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

という賛美のことばから始まって12節まで続く長い一つの賛美としての意味をもつ文の最初の部分です。
 その中で、3節後半〜5節においては、父なる神さまが神の子どもたちに与えてくださっている祝福のことが、

私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

と言われています。ここでは、私たちが新しく生まれた結果、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を持つようになったと言われています。
 この「生ける望み」は必ず実現する望みであって、単なる希望的観測とはちがいます。この「生ける望み」は確かな根拠がある望みであって、ただそうなればいいという願いではありません。さらに、この「生ける望み」は、それが必ず実現するというだけでなく、新しく生まれた神の子どもたちを生かす望みでもあるということを意味しています。また、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」の「資産」は、神である主の契約の中に約束され保証されているもので、神の子どもたちが受け継ぐ「相続財産」のことです。
 私たちに与えられているこのような祝福について、

ご自分の大きなあわれみのゆえに

と言われていて、私たちが新しく生まれて「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を持つようになったことが、父なる神さまのあわれみによってなされたことが示されています。
 この「あわれみ」は、神である主がご自身の契約のうちに約束してくださり、保証してくださっている愛とあわれみのことです。その意味で、この「あわれみ」は契約の神である主の真実によって支えられていて、永遠に変わることなくご自身の契約の民を覆ってくださっているものです。
 さらに、ここでは、

イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって

と言われていることによって、私たちが新しく生まれて、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を持つようになったことが、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいていることが示されています。
 私たちが新しく生まれたことがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいているということは、よく知られています。ローマ人への手紙6章3節〜5節に、

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と記されているとおりです。
 しかし、それだけではありません。私たちが新しく生まれたことによって「生ける望み」を持つようになったことと「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を持つようになったことも、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいています。さらに、私たちが持つようになった「望み」が「生ける望み」であるのも、それがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいているからです。また、私たちが持つようになった相続財産が「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」相続財産であるのも、それがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいているからです。


 この点に関して、一つの疑問が生まれてきます。父なる神さまが「大きなあわれみ」を示してくださることを初めとするこれらすべての祝福は、神さまの契約によって約束され保証されています。その意味で、これは神さまの真実に基づく確かな祝福です。それと同時に、私たちが新しく生まれたことも、その結果「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を持つようになったことも、さらには、「生ける望み」も「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」も、みなイエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいています。その意味でも、これらの祝福は確かな祝福です。そうしますと、私たちに与えられている神さまの祝福は、神さまの契約基づいているとともに、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいているということになります。その場合、神さまの契約とイエス・キリストの死者の中からのよみがえりの関係はどうなっているのかという疑問です。
 「みこころを知るために」というお話を初め、これまでいろいろな機会にお話ししたことでもありますが、きょうはこのことを整理しておきたいと思います。それは、いわゆる神学的な興味からのことではなく、私たちの信仰の基盤を確かめることになるからです。また、いまお話ししていることとのかかわりで言いますと、ペテロの手紙第一・1章3節〜5節に記されている父なる神さまの祝福には、私たちの思いをはるかに越えた確かな土台があるということを、私たちが理解するためのことです。さらに、きょうは具体的にそこまで触れることができませんが、これは私たちが受け継いでいる相続財産がどのようなものであるかを理解することにもつながっていきます。
 神さまの契約は、神さまの永遠からのご計画すなわち永遠の聖定とかかわっています。初めに結論的なことを言いますと、神さまの契約は神さまがご自身の永遠の聖定を歴史の中で実現してくださるために用いられています。
 永遠の聖定にかかわることを記しているエペソ人への手紙1章3節〜5節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。またローマ人への手紙8章29節には、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

と記されています。
 これらのことは、神さまがご自身の永遠の聖定において定めておられることです。しかし、神さまの永遠の聖定はこれらのことにかかわるご計画であるだけではありません。神さまは永遠の聖定に基づいてこの世界をお造りになり、永遠の聖定に基づいてお造りになったすべてのものを支えつつ導いておられます。言い換えますと、神さまの創造の御業と摂理の御業は永遠の聖定に基づいて遂行されているのです。それで、この世界に存在しているものや、起こりくる事象のすべては、神さまの永遠の聖定において定められたものです。言うまでもなく、契約の民の贖いの御業も、神さまの永遠の聖定にしたがって遂行されています。
 神さまの永遠の聖定は、存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の神さまのうちにおけるご決定です。それで、それは無限に複雑でありつつ完全に調和しており、永遠に定まっています。神さまはその存在において無限の方ですので、ご自身がお造りになったこの世界のどこにでもおられて、すべてのことを治めておられますが、ご自身が治めておられるこの世界を無限に越えた方です。それで、神さまは初めであり終わりであられるとか、神さまにとってはこの世界の初めも終わりも同時にあるというような言い方がなされます。たとえば、イザヤ書41章4節には、

  だれが、これを成し遂げたのか。
  初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。
  わたし、主こそ初めであり、
  また終わりとともにある。わたしがそれだ。

という主のみことばが記されており、44章6節には、

  イスラエルの王である主、これを贖う方、
  万軍の主はこう仰せられる。
  「わたしは初めであり、
  わたしは終わりである。
  わたしのほかに神はない。」

と記されています。
 私たちは、みことばの光のもとで、神さまが生きておられる方であることを理解していますので、このような永遠の聖定があるということは分かりますが、それをありのままに知ることはできません。それができるのは、ご自身が無限、永遠、不変の存在であられる神さまだけです。その意味で、このことは、神さまの聖さと栄光にかかわることですので、慎重に考えなければなりません。
 先日ある本を読んでいましたら、神さまがすべてのことをご計画されたというのであれば、人間が戦争を起こすのも、戦争の中で子どもたちが傷ついていのちを落とすのも神さまのご計画によることであるということになってしまう。だから、神さまがすべてのことをご計画されたということはありえないというようなことが言われていました。これは、神さまの永遠の聖定を人間の計画と同じようなものと理解していることから生まれる考え方です。私たちは被造物としての限界のために、神さまのご計画を私たち人間の計画になぞらえて理解するほかはありません。そのために、気をつけていないと、神さまの永遠の聖定と人間の計画の区別が曖昧になってしまいます。そして、神さまの永遠の聖定は、人間の計画と比べて、その計画の範囲がすべてのものにおよんでいる点で違っていると感じて終わってしまいます。これは神さまと人間の違いを程度の違いと考えるもので、神さまと神さまがお造りになったものの間にある「絶対的な区別」を曖昧にして、神さまの聖さを冒すものです。
 神さまの永遠の聖定と人間の計画の間には、神さまと神さまがお造りになったものとの間にある「絶対的な区別」と同じ区別があります。それで、私たちは神さまの永遠の聖定をありのままに知ることはできません。そればかりでなく、神さまの永遠の聖定が造られたこの世界とどのようにかかわっているかも、ありのままに知ることはできません。それは、私たちには永遠と時間がどのようにかかわっているかを知ることができず、それができるのは、ご自身が無限、永遠、不変の存在であられる神さまおひとりであるのと同じです。
 確かに、神さまが永遠の聖定においてすべてのことを定めておられるなら、人間が罪を犯すことも神さまが定められたことであるという議論がなされます。そこに自由な意志を与えられた人間が真に自由であることと、神さまの永遠の聖定の関係という問題が生じてきます。しかし、いま言いましたように、被造物としての限界にある私たちにはその関係をありのままに知ることはできません。私たちとしては、自分たちの限界のためにそれをありのままに知ることができないということをわきまえるほかはありません。
 そのようなわきまえを持った上で、神さまの永遠の聖定は人間の自由を妨げるものではないことを認めます。さらに、もし神さまの永遠の聖定がなかったとしたら、この世界は成り行きのままに動いていくということになり、神さまもその流れを少し調整するだけだというようなことになってしまいます。そうしますと、最終的にこの世界を支配しているのは「成り行き」すなわち「偶然」という原理であるということになってしまいます。そうしますと、世界はどのように転んで行くかは、実のところ神さまにも分からないということになります。神さまは実際にある事態になったときに、それに後から対処していくということになってしまいます。そのような「神」は人間が考える「神」の姿ですが、聖書のみことばをとおしてご自身を示しておられる聖なる神さまではありません。さらに、私たちは、罪は自由な意志を持つ者として造られている人間が、その自由において造り主である神さまに背いたことによって生み出された「状態」であって、神さまがお造りになった「もの」ではないということを理解します。罪は「もの」として存在している実体ではなく、自由な意志を持った人間が霊的・倫理的に腐敗した状態のこと、人間が造り主である神さまに背いている状態のことです。ですから、罪は神さまがお造りになったものではありません。
 このようなことから、私たちは被造物としての自分たちの限界の中で、人間が罪を犯すことは人間に与えられている意志の自由によることであること、人間が自分の意志で選び取っていることであることを認めます。そして、罪を犯すことは神さまのみこころに反することであるけれど、神さまの永遠の聖定においてはそれは許容されていることである―― 永遠の聖定は人間が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまうことの「許容因」であるというように説明しています。しかし、それでも、すべてがありのままに説明できているわけではありません。
 いずれにしましても、私たちは永遠の聖定において具体的にどのようなことが定められているかということは、先ほど引用しました、エペソ人への手紙1章3節〜5節やローマ人への手紙8章29節のみことばなどにおいて啓示されていることを、啓示されているかぎりにおいて知ることができるだけです。
 神さまはご自身の永遠の聖定にしたがって創造の御業と摂理の御業を遂行なさりつつ、贖いの御業を遂行しておられます。それは、存在と属性の輝きである栄光において無限、永遠、不変の神さまが、御子によってこの世界にかかわってくださるということでもあります。神さまがこの世界にかかわってくださるので、神さまとこの世界の間に関係が生まれています。その際に、神さまは無限、永遠、不変の真実をもってこの世界にかかわってくださいます。そのことを、みことばは、神さまはご自身がお造りになったすべてのものとの間に契約を結ばれたというように示しています。神さまの真実は無限、永遠、不変ですので、決して揺らぐことはありません。神さまはそのことを私たちに示してくださるために、契約を結んでくださっているのです。
 聖書が記された時代の契約は、契約の当事者同士が合意して結ぶものではありませんでした。主権者が自分の主権の下にある者を自分の契約の中に入れてしまうのです。大王が自分の権威によって属国の王たちを自分との契約の中に入れてしまうのです。そのような考え方からしますと、、造り主である神さまはご自身の御手の中にあるすべてのものを、ご自身の契約の中に入れることがおできになるだけでなく、実際に、そのようにされました。エレミヤ書33章19節〜22節には、

エレミヤに次のような主のことばがあった。「主はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。」

と記されており、25節、26節には、

主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの捕われ人を帰らせ、彼らをあわれむ。」

と記されています。
 ここには、神さまが昼と夜という、ご自身がお造りになったものの中の人格的な存在ではないものとも契約を結んでくださったことが記されています。また「天と地との諸法則」と言われていることから、それはそのほかのさまざまな被造物におよんでいることが分かります。私たちの感覚では昼や夜と契約を結ぶということはおかしなことですが、これは神さまが昼と夜が来ることを真実な御手ををもって支えてくださるということを、一方的に契約によって約束し保証してくださっていることを意味しています。そのような契約がいつ結ばれたのかと言いますと、創世記1章3節〜5節に、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。

と記されていますが、神さまが創造の御業において光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられて、それぞれに意味と役割をお与えになるとともに、それをご自身の主権の下に置いてくださったときからであると考えられます。ちなみに名前をつけるということは、その名前をつけた側が名前をつけられたものの上に主権があることを示すことです。
 このように、神さまはご自身がお造りになったものと契約を結んでくださって、真実にその一つ一つのものを支えてくださっています。その意味において、神さまが創造の御業においてお造りになったすべてのものをみこころにしたがって支えてくださり、導いてくださる摂理の御業は、神さまの契約に基づいて遂行されていると考えられます。
 神さまはご自身がお造りになったすべてのものをご自身の契約のうちに置いてくださって真実に支えてくださっているのですが、この契約は神さまの創造の御業において、造られたすべてのものと結ばれた契約です。その意味でこの契約を「創造の契約」と呼びます。「創造の契約」は伝統的に「わざの契約」と呼ばれてきた契約に当たりますが、それをいくつかの点で修正して理解しています。
 その一つは、それが神さまの創造の御業において発揮された主権に基づいて一方的に結ばれているということです。伝統的な「わざの契約」の理解では、神である主が神のかたちに造られている人間に善悪の知識の木に関する命令を与えられたときにその契約が結ばれたと考えられています。
 また、この契約は神のかたちに造られている人間だけと結ばれたのではないというようにも修正されています。もちろん、神のかたちに造られている人間はこの契約の中心です。というのは、造り主である神さまの創造の御業における主権的なみこころを記している創世記1章26節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されており、その実現を記す27節、28節に

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているように、神のかたちに造られている人間が造られたすべてのものを代表して造り主である神さまの御前に立つ地位と役割を与えられているからです。その意味では、神のかたちに造られている人間は「創造の契約」のかしらとしての立場にあります。
 このように、神さまの創造の御業とともに「創造の契約」という全被造物を包み込む契約が結ばれているのですが、いわば、その同心円的な中心に神のかたちに造られている人間との契約があるということになります。これに対して、伝統的な「わざの契約」の理解では、神さまの契約は神のかたちに造られている人間とだけ結ばれていて、その他の被造物は神さまと契約関係にある人間との関係にあるという図式になっています。実際には、すべての被造物が造り主である神さまとの契約関係の中に置かれていて、神さまの御手によって保たれ、導かれています。
 このように、神さまの創造の御業とともに全被造物を包み込む「創造の契約」が結ばれ、その中心に神のかたちに造られている人間との契約がある―― その意味で人間は「創造の契約」のかしらであるというように理解することによって、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、契約ののろいが全被造物にまでおよんでいるという聖書のみことばの証言がより良く理解できるようになります。罪を犯したアダムに対するさばきを記している創世記3章17節には、

  また、アダムに仰せられた。
  「あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。」

と記されています。またローマ人への手紙8章19節〜22節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されています。
 さらにこのように考えるときに、このローマ人への手紙8章21節に、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されているように、被造物全体が、神の子どもたちの贖いとともにのろいから解放されるばかりか、その「栄光の自由の中に入れられる」ということも、より良く理解することができます。
 もちろん、それは神さまが御子イエス・キリストによって贖いの御業を遂行してくださったことによっていますが、その贖いの御業は、やはり神さまの契約に基づくものです。それが「救済の契約」です。この「救済の契約」は、伝統的に「恵みの契約」と呼ばれてきた契約に当たります。しかし、これまでお話ししたことから分かりますように、「創造の契約」も神さまが造られたものを真実に支え導いてくださることを一方的に約束し保証してくださっているものです。そこにも神さまの一方的な恵みが働いています。ただ、それは私たちがなじんでいる贖いの恵みではないというだけです。ですから、御子イエス・キリストによって贖いの御業を遂行してくださることを約束してくださっている契約だけを「恵みの契約」と呼ぶことには問題があります。それで、神さまが御子イエス・キリストによって贖いの御業を遂行してくださったことの基礎となっている契約は「救済の契約」あるいは「贖いの契約」と呼んだほうがいいと考えられます。ただ「贖いの契約」という用語は、ある人々が永遠の次元において御父と御子の間に交わされたと考えている契約を指すために用いられることがあります。それで、私はそのような呼び方を避けて「救済の契約」と呼んでいます。けれども、「創造の契約」とか「救済の契約」という呼び方は一般には知られていません。
 これまでお話ししたことからお分かりのように、この「救済の契約」も、神のかたちに造られている人間を中心としていますが、造られたすべてのものを包み込む契約です。これを言い換えますと、この契約に基づいて遂行された、御子イエス・キリストによる贖いの御業も全被造物に対して意味をもっているということになります。それが先ほどの、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

というみことばの意味するところです。また、コロサイ人への手紙1章19節、20節では、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と言われています。
 このようなことをお話ししたことのポイントに戻りますと、このように見ることによって、ペテロの手紙第一・1章3節〜5節に記されている、私たちが神の子どもとして受けている祝福は、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいているのですが、そのイエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、主の「救済の契約」に基づいて遂行されているということが分かります。
 このように、私たちに与えられている神さまの祝福は、神さまの永遠の聖定から出ています。そして、神さまの契約によって私たちに約束され保証されています。それがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって歴史の現実となっています。そして、御霊のお働きによって私たちの間に実現しています。ですから、私たちに与えられている神さまの祝福には、神さまの永遠の聖定、神さまの契約、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりという、何重もの基盤があるのです。
 神さまの永遠の聖定は、神さまがお造りになったすべてのものの存在ばかりでなく、その一つ一つのゆく道と、複雑な絡み合いのすべてに関する永遠の定めです。それは、無限の知恵と御力に満ちておられる神さまの永遠の定めとして、まったき調和の中にあります。しかし、それは永遠の次元におけるものであって、私たちにはそのありのままを知ることはできないばかりか、それが造られた世界の時間とともに変化する一つ一つのものとどのようにかかわっているかも、そのありのままを知ることはできません。私たちに分かるのは、神さまの永遠の聖定は、神さまの契約をとおして実行に移されているということです。そのことから、創造の御業とともに神さまの契約が結ばれており、それはすべての造られたものを包む契約であるということの意味が理解できます。神さまの永遠の聖定がこの世界のすべてのものに関する神さまの永遠のご計画ですので、神さまの契約もこの世界のすべてのものを包む契約なのです。
 このことと関連して、一つのことをお話ししておきたいと思います。かつてピューリタンの人々は、自分たちが神さまの永遠の聖定の特別な面としての神さまの予定において選ばれているかどうかを確かめようとしたと言われています。そして、選びの結果はきよめられた生き方に現われてくるという理解の下に、自分たちの生き方を整えていったと言われています。それが、一般に「世俗内禁欲」というあり方を生み出しました。修道院のような所に行くのではなく、この世にあってさまざまな欲望に捕らわれることなく生きるという姿勢です。これによって倫理的な主体性が確立されて近代社会が生まれてくる原動力になったと言われています。
 このことには大きな意味がありますが、ここでお話ししたいことはこれとは別のことです。それは、私たちは神さまの永遠の聖定の特別な面としての予定における選びを直接的に確かめようとしてはならない、ということです。神さまはご自身の永遠の聖定をご自身の契約に基づいて歴史の中で実現されます。それで私たちは、神さまがご自身の契約において約束し保証してくださったことを信じて、それを受け入れるときに、そこに神さまの永遠の聖定の実現があることを信じるように導かれています。実は、聖書は神である主の契約の書としての意味をもっています。それで、私たちは聖書に記されている神さまのみことばを信じているのです。
 神さまがご自身の契約によって約束してくださっていることの核心は、御子イエス・キリストをとおして私たちのための完全な贖いを成し遂げてくださって、私たちをご自身の子としてくださって、ご自身のご臨在の御前に立たせてくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださるということです。お気づきのことと思いますが、このことは先ほど引用しました、神さまの永遠の聖定のことを記しているエペソ人への手紙1章3節〜5節に、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されていることでもあります。このように、父なる神さまの永遠の聖定による祝福と神さまの契約によって約束され保証されている祝福は一致しています。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「聖なるものであること」
(第117回)へ戻る

「聖なるものであること」
(第119回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church