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説教日:2003年3月2 |
すでにお話ししたことですが、ここでは、 イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって と言われていて、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことが前面に出てきていますが、当然、それは、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことを踏まえています。 イエス・キリストは私たちの契約のかしらとして、私たちと一体になってくださり、私たちと同じ人の性質を取ってこの世に来てくださいました。後ほども触れますが、ガラテヤ人への手紙4章4節に、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 と記されているとおりです。イエス・キリストは地上の生涯の全体をとおして「律法の下にある者」として父なる神さまのみこころに従いとおされました。そして、その生涯の最後には、ご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死なれました。その苦難と死は、イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従いとおされたことの最終的な現われでした。ピリピ人への手紙2章6節〜8節に、 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 と記されているとおりです。 イエス・キリストはこのような生涯をとおしての完全な従順に対する報いとして、栄光をお受けになり死者の中からよみがえられました。続く9節〜11節に、 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 と記されているとおりです。 イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは、その十字架の死に至るまでの生涯が完全に父なる神さまのみこころにそったものであったということを、父なる神さまが確証されたということを意味しています。イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、ただイエス・キリストが地上の生涯をとおして父なる神さまに従順であられたという、いわば個人的なことで終わるものではなく、その十字架の死によって、父なる神さまの救いのご計画であるご自身の民のための罪の贖いが完成しているということを、父なる神さまが公に表わしてくださったことでもあります。 私たちは、私たちの契約のかしらとなって来てくださり、十字架の死によって私たちの贖いを成し遂げてくださり、私たちのいのちの源となってくださるためによみがえってくださり、父なる神さまの右の座に着座されて、私たちの王、大祭司、預言者として働き続けてくださっているイエス・キリストを、みことばのあかしにしたがって信じています。そのようにイエス・キリストを信じている私たちの罪は、過去に犯した罪ばかりでなく、これから犯すであろう罪もすべて、完全に贖われています。そればかりでなく、私たちは、私たちの契約のかしらであられるイエス・キリストがその生涯にわたる完全な従順をとおして確立してくださった義にあずかって、義と認められています。最初の契約のかしらであるアダムとの対比でイエス・キリストのことを語っているローマ人への手紙5章18節に、 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。 と記されているとおりです。 きょうお話しすることとのかかわりで大切なことですが、義と認められているということは、ただ罪が赦されて無罪とされているということとは違います。義と認められるということはただ罪がないというだけでなく、積極的に義であると認められるということです。私たちは、あたかも自分が地上の生涯をとおして父なる神さまのみこころに完全に従いとおしたかのように義と認められています。それも、私たちの地上の生涯はまだ残っていて、私たちはこの後も罪を犯し続けるにもかかわらずです。これは、私たちの主イエス・キリストが私たちの契約のかしらとして、私たちのために獲得してくださった義を信じて受け取ることによって私たちのものとされている義、すなわち信仰による義です。 子どもが親からお小遣いに5千円をもらったとします。その5千円は子どもが自分で働いて得たものではなく、親がくれたものを受け取ったものです。それは親が働いて得たもので、親の働きに対する報いとしての意味をもっています。ですから、その5千円には親がなしたそれ相応の働きの裏付けがあります。子どもはそのような意味をもっている5千円を受け取っています。それと同じように、私たちが信仰によって受け取っている義は、私たちの契約のかしらであられるイエス・キリストが、その十字架の死に至るまでの生涯をとおして父なる神さまのみこころに従いとおされたという裏付けがあります。それで、私たちが義と認められていることの最終的な根拠は、私たちの契約のかしらであられるイエス・キリストが、その十字架の死に至るまでの生涯をとおして父なる神さまのみこころに従いとおされたことにあります。 このように私たちは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦していただいているだけではありません。無罪であるとされているだけでもありがたいことですが、私たちはそれ以上の恵みを受けています。私たちはイエス・キリストの生涯にわたる従順、十字架の死に至るまでの従順によって確立された義にもあずかって義と認められています。ローマ人への手紙4章25節に、 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 と記されているとおりです。 さらに私たちは、イエス・キリストにあって義と認められた者として、子としての身分を与えられています。このことは、「法的なこと」で私たちのためにすでになされたことです。父なる神さまは私たちを天の法廷で義と認めてくださり、ご自身の子であると宣言してくださっています。このことは、すでになされたことであるばかりでなく、永遠に取り消されることはありません。またこれは、先ほど引用しましたエペソ人への手紙1章5節に、 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 とあかしされている永遠の聖定によるみこころを父なる神さまが実現してくださったということでもあります。 ここで、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと ・・・・ あらかじめ定めておられた と言われているときの「子にしようと」と訳されていることば(名詞・フイオセシア)は「養子とすること」を表わしています。このことばが用いられているそのほかの例を見てみましょう。ローマ人への手紙8章14節〜17節には、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と記されています。15節に記されている「子としてくださる御霊」の「子としてくださる」が「養子とすること」を表わすことばです。また、8章23節には、 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と記されています。言うまでもなく、この「子にしていただくこと」がこの「養子とすること」を表わすことばです。さらに、パウロの同胞のことを述べている9章4には、 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。 と記されています。この「子とされること」が、そのことばです。また、ガラテヤ人への手紙4章4節〜7節には、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。 と記されています。この「子としての身分を受けるようになる」が「養子とすること」を表わすことばです。 このことば(フイオセシア)が表わしている「養子とすること」は、その当時の文化において養子として迎え入れられた子どもは、生まれた子どもと同じ権利を与えられていたことを背景にして理解することもできますが、聖書の中では、それ以上に、神さまがアブラハムに与えてくださった契約を背景として理解すべきものです。 そのことは、一つには、先ほど引用しましたローマ人への手紙9章4節に、「子とされること」が古い契約のもとにあったイスラエルの民のものであったと言われていることに表わされています。それは、ローマの社会の文化より遥かに古いイスラエルの民の遺産でした。そのことはさらにに、先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章4節〜7節に先立つ3章26節〜4章3節に、 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。 と記されていることに、より明確に示されています。 3章26節で、 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。 と述べられていますが、それを受けて29節では、 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と言われています。このことばは、イエス・キリストに対する信仰によって神の子どもであることがアブラハムへの契約の成就であるということを示しています。そして、相続人であることも、そのアブラハムへの契約の約束によっているということが示されています。 先週は、創世記17章7節、8節に記されている、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 という主のことばを中心として、主がアブラハムに与えてくださった契約のうちに約束されている「相続財産」の意味をお話ししました。 先週お話ししましたように、主がこの契約をとおしてアブラハムに約束してくださった「相続財産」の本質は、 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。 という主のことばに示されている地上的なカナンの地にあったのではありません。むしろ、それは、そのカナンの地に関することばの前に語られている、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 という、主が契約を与えてくださったことの目的を示すことばと、そのカナンの地に関する約束の後に語られている、 わたしは、彼らの神となる。 ということばによって示されていることにあります。 それは、契約の神である主ヤハウェがアブラハムの子孫の神となってくださり、彼らが主の民となるということです。それは、主がアブラハムの子孫の間にご臨在してくださり、彼らが主の恵みに包まれて、主とのいのちの交わりに生きるようになるということを意味しています。 繰り返しお話ししてきたことですが、神である主のご臨在の御前において、主との愛にあるいのちの交わりに生きることは、神のかたちに造られている人間に、神さまが初めから与えてくださっているいのちの本質です。実際には、それは人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために失われてしまっています。 ですから、契約の神である主ヤハウェがアブラハムに与えてくださった契約は、天地創造の御業の初めに人を神のかたちにお造りになった神さまが、人にお与えになった永遠のいのちの祝福、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることを本質とするいのちの祝福を回復してくださるという意味をもっていたのです。その意味で、アブラハムに与えられた契約は人類全体の贖いによる回復にかかわる意味をもっています。 このことを踏まえて、これに先立つ創世記17章1節〜7節を見てみますと、そこには、 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。 「わたしは全能の神である。 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。 わたしは、わたしの契約を、 わたしとあなたとの間に立てる。 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。 「わたしは、この、わたしの契約を あなたと結ぶ。 あなたは多くの国民の父となる。 あなたの名は、 もう、アブラムと呼んではならない。 あなたの名はアブラハムとなる。 わたしが、あなたを多くの国民の 父とするからである。 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。 と記されています。 このように、7節、8節に記されている、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 という「相続財産」に関わる契約は、それに先だってアブラハムに与えられたアブラハムの子孫に関する約束の上に立って与えられています。そして、アブラハムに与えられた契約に先だって語られている主ヤハウェの約束においては、アブラハムの子孫について、 あなたは多くの国民の父となる。 あなたの名は、 もう、アブラムと呼んではならない。 あなたの名はアブラハムとなる。 わたしが、あなたを多くの国民の 父とするからである。 と約束されています。 このように、アブラハムに与えられている契約は「多くの国民」を視野に入れています。事実、アブラハムに与えられた召命を記している創世記12章1節〜3節には、 その後、主はアブラムに仰せられた。 「あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。」 と記されています。アブラハムは、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束のもとに召されているのです。アブラハムに与えられた契約はすべて、この約束に示された大きな視野において理解されなければなりません。 このことから、ガラテヤ人への手紙3章8節〜14節には、 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されています。 ここでは、アブラハムに与えられた契約が「異邦人」を視野に入れていたことが示されています。そして、それは、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、 と言われていますように、まことのアブラハムの子孫として来てくださったイエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業によって、確かに私たち「異邦人」の間に実現していると言われています。このことと関連して、先ほど引用しました4章4節、5節には、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。 と記されています。 さらに3章14節では、 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と言われていて、その「アブラハムへの祝福」は、「私たちが信仰によって約束の御霊を受ける」ことにあると言われています。このことの意味は、先ほど引用しました4章4節、5節に続く6節、7節に、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。 と記されていることに示されています。 このように、「アブラハムへの祝福」は、「私たちが信仰によって約束の御霊を受ける」ことにあります。そのとおりに、私たちは「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」を受けています。これは、御子イエス・キリストの贖いにあずかって子とされている私たちが、御霊によって、父なる神さまに親しく「アバ、父。」と呼びかけることができるということを意味しています。それは、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりの中に生きていることの明確な現われです。この父なる神さまとのいのちの交わりこそが、神の子どもが受けている「相続財産」の中心です。 先週もお話ししましたが、ご自身の生来の立場と権利によって父なる神さまに向かって個人的にまた親しく「アバ、父。」と呼びかけることがおできになるのは、御子イエス・キリストだけです。私たちは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦していただいているだけではなく、さらに、死者の中からのよみがえりにあずかって父なる神さまの御前に、新しく生まれ、義と認められ、子としての身分と栄光を与えられています。それで、 あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と言われています。 このように、私たちが父なる神さまに向かって「アバ、父。」と親しく呼びかけることができるのは、私たちの生来の権利によることではなく、イエス・キリストが成し遂げられた贖いに基づいてお働きになる「御子の御霊」によることです。このこととの関連で改めて確認しておきたいのは、たとえガブリエルやミカエルのように最も聖い御使いであっても、ケルビムやセラフィムのように主のご臨在を表示している御使いであっても、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と親しく呼びかけることはできないということです。なぜなら、御使いたちはもともと自分たちに与えられている栄光の尺度において、神さまの御前に近づくことが許されているだけだからです。御使いたちはヘブル人への手紙1章14節に、 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。 と記されている立場に立ち続けます。それに対して、私たちは、私たちの契約のかしらとなってくださった御子イエス・キリストが、その十字架に至るまでの生涯をとおして獲得してくださった義と栄光にあずかっている者、栄光のキリストに似た者とされている者として、父なる神さまのご臨在の御許に近づくことが許されています。それで、御子イエス・キリストの御霊によって、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と親しく呼びかけることができるのです。 イエス・キリストが地上の最後の日の夜に祈られた「大祭司の祈り」を記しているヨハネの福音書17章21節、22節には、 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。 というイエス・キリストの祈りが記されています。そして、24節には、 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。 と記されています。 この「大祭司の祈り」は、世の終わりまで地上に存在するキリストのからだである教会に属する主の民を包む祈りです。その意味で、これは「すべての民」の中から召された新しい契約の民全体に関わる祈りです。この祈りから、イエス・キリストがどんなにか、私たちをご自身の栄光にあずからせてくださって、父なる神さまの御許に近づけてくださろうとしておられたかを知ることができます。イエス・キリストはこの祈りとともに十字架におつきになったのです。そして、この「大祭司の祈り」は、確かに父なる神さまに聞き届けられ、私たちはイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業のゆえに、その祝福と恵みにあずかっています。 |
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