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説教日:2003年2月23日 |
このように、私たちは御霊のお働きによって、栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストと一つに結び合わされています。それによって私たちは、イエス・キリストのよみがえりのいのちに生かされて新しく生まれています。先ほど引用しましたペテロの手紙第一・1章3節、4節では、 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。 と言われていました。ここでは、私たちがイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれたこと、そしてその結果、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を持つようになったことが示されています。この場合の「資産」は神の子どもが受け継ぐ「相続財産」のことです。 この相続財産は、主の契約において約束されているものです。主がアブラハムに与えてくださった契約を記している創世記17章7節、8節には、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 と記されています。8節に記されている、 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。 ということばによって、アブラハムの子孫が「カナンの全土」を相続財産として受け継ぐことが約束されています。 これとともに、相続財産について、もう一つの教えが旧約聖書をとおして示されています。それは、主ご自身が、主の契約の民の相続財産であるということです。そのことを記すみことばをいくつか見てみましょう。詩篇16篇5節には、 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。 あなたは、私の受ける分を、 堅く保っていてくださいます。 と記されています。また、73篇25節、26節には、 天では、あなたのほかに、 だれを持つことができましょう。 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。 この身とこの心とは尽き果てましょう。 しかし神はとこしえに私の心の岩、 私の分の土地です。 と記されています。さらに、142篇5節には、 主よ。私はあなたに叫んで、言いました。 「あなたは私の避け所、 生ける者の地で、私の分の土地です。」 と記されています。 詩篇に記されているこれらの告白は、主の契約の民すべてに当てはまることです。このことの中心には、主の御前での特別な奉仕のために聖別されていた祭司とレビ人には「相続地」が割り当てられなかったということがあります。民数記18章20節には、 主はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える。これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。それは、イスラエル人が、奉納物として主に供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」 と記されています。 ここには、主が大祭司アロンに語られたことばが記されています。イスラエルの12部族の中のレビの子孫がレビ人です。そのレビの子孫の中のモーセの兄であるアロンが大祭司となり、アロンの子孫が祭司となりました。ここで、 あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。 と言われているのは、アロンだけでなく、アロンを大祭司としている祭司全体に当てはまることです。 祭司とレビ人は約束の地であるカナンに「割り当て地」あるいは「相続地」を持ちませんでした。それは、彼らが主の御前での特別の奉仕のために聖別されていたために、その地を耕して作物を育てる務めをしなかったためです。ここに記されているように、イスラエルの民はその地の収穫の十分の一を主にささげましたが、それがレビ人に割り当てられました。さらに、これに続く25節〜29節に記されているように、レビ人は自分たちが受けたもののさらに十分の一を主にささげました。それが祭司たちに与えられました。 ここでは、主ご自身が祭司の「割り当て地」また「相続地」であると言われています。レビ人についてはそのように言われていませんが、申命記10章8節、9節には、 そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。 と記されています。 これらのことから、主ご自身が「割り当て地」また「相続地」であるということの意味の広がりがあることが分かります。まず、祭司の国として召されたイスラエルの中心にある主のご臨在の御前に仕えている祭司たちの「割り当て地」また「相続地」は主ご自身です。それが、さらに、神殿のさまざまな務めとイスラエルの民の間にあってみことばに仕えていたレビ人に当てはめられ、主ご自身が彼らの「割り当て地」また「相続地」であると言われています。そして、それがさらに一般化されて、主ご自身が主の契約の民イスラエルの「割り当て地」また「相続地」であると言われているのです。 このことは、この前に引用しました、アブラハムへの契約において示された、 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。 という約束と矛盾するものではありません。この約束では、「カナンの全土」がイスラエルの民の「割り当て地」また「相続地」であると言われています。しかし、改めてこの約束を全体として見ますと、これは、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 となっています。 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。 という「相続地」に関する約束は、これに先立つ、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 という主が契約を与えてくださった目的を表わすことばと、最後に記されている、、 わたしは、彼らの神となる。 ということばに挟まれています。 このことから、約束の地であるカナンを相続地として持つのは、その地において主がイスラエルの民の神となってくださっていることが現実のこととなるためであったことが分かります。主がイスラエルの民の神となってくださるということの本質は、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださり、イスラエルの民が主のご臨在の御前に歩むこと、主との交わりのうちに生きることにあります。それで、出エジプト記24章には主がイスラエルと契約を結んでくださったことが記されていますが、続く25章においては、主がご臨在してくださる聖所が建設されるべきことがモーセに示されたことが記されています。 これらすべてのことは、古い契約の下での地上的なひな型として示されています。祭司の国として召されたイスラエルの民は地上的なひな型で、その本体は、御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれている神の子どもです。ペテロの手紙第一・2章9節、10節に、 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。 と記されているとおりです。私たちはアロンではなく、御子イエス・キリストを大祭司としていただき、イエス・キリストにつながる新しい契約の祭司なのです。 古い契約の下で、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださったのは、地上的なひな型として建設された幕屋と神殿の聖所においてでした。この地上的な建物としての聖所の本体は、復活のキリストのからだである教会です。先ほど引用しました、エペソ人への手紙1章22節、23節には、 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されていました。この「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは栄光のキリストのことです。そのように、キリストのからだである教会には、栄光のキリストが御霊によってご臨在してくださっています。そして、私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖われ、死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれた者として、キリストのからだである教会に加えられています。 キリストのからだである教会が、 いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ であるということは、そこに栄光のキリストのご臨在があるということと、それにともなう充満なる祝福があふれ出ているということを意味しています。 そして、このキリストのからだである教会に私たちがつながれているということは、栄光のキリストが私たちの間にご臨在してくださっていることによって、私たちが栄光のキリストのご臨在されるまことの神殿、まことの聖所であるということを意味しています。そのことはエペソ人への手紙では2章20節〜22節において、 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 と言われています。また、コリント人への手紙第一・3章16節、17節には、 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。 と記されています。さらに、ペテロの手紙第一・2章4節、5節には、 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 と記されています。 このように、主の契約の民が受け継ぐべき相続財産の中心は、栄光の主ご自身であり、主がご自身の民の間にご臨在してくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださることにあります。そして、私たちはイエス・キリストの血による新しい契約の民として、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪をきよめていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれて、神の子どもの身分を受けています。それで、私たちは相続財産を受け継ぐ者とされています。 このことは、歴史的には、栄光を受けて死者の中からよみがえり、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、父なる神さまの御許から御霊を注いでくださったことから歴史の現実となっています。ペテロのペンテコステの日の説教を記している使徒の働き2章33節には、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と記されています。 栄光のキリストが父なる神さまの御許から注いでくださった御霊は、どこかをさまよっているのではありません。御霊は栄光のキリストのからだである教会に宿っておられるのです。それがエペソ人への手紙1章23節で、 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と言われていることです。 ここで、キリストのからだである教会には栄光のキリストが父なる神さまの御許から遣わしてくださった御霊が宿っておられるのに、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」すなわち栄光のキリストが「満ちておられる」と言われていることには意味があります。それは、栄光のキリストが父なる神さまの御許から注いでくださった御霊は、栄光のキリストの御霊としてキリストのからだである教会に宿っておられ、栄光のキリストの御霊としてお働きになるということを意味しています。栄光のキリストは今、父なる神さまの右の座に着座しておられます。世の終わりの再臨の日までは、そこに留まっておられます。それなのに、 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と言われています。それは、栄光のキリストが父なる神さまの御許からお遣わしになった御霊が栄光のキリストの御霊として、キリストのからだである教会に宿っていてくださり、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業からあふれ出る祝福をもって満たしていてくださるからです。 私たちは、御霊のお働きによって栄光のキリストのからだである教会につながれています。そして、栄光のキリストの御霊によって満たしていただいています。この栄光のキリストの御霊はイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業がもたらす祝福を私たちのうちにあふれさせてくださっています。ヨハネの福音書7章37節〜39節に、 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。 と記されていることが、私たちの現実になっているのです。 この栄光のキリストの御霊がキリストのからだである教会にご臨在してくださり、キリストのからだである教会に結び合わされている私たちのうちに宿ってくださっていることによって、私たちは、神の子どもの相続財産の中心である父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることができるのです。ガラテヤ人への手紙3章26節、27節には、 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。 と記されており、さらに4章6節には、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されています。 ご自身の権利として父なる神さまのことを「アバ、父。」と呼ぶことがおできになるのは御子イエス・キリストだけです。しかし、父なる神さまとの充満な愛にあるいのちの交わりのうちにおられる栄光のキリストが遣わしてくださった御霊は、私たちを父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりにあずからせてくださっています。ヨハネの手紙第一・1章3節に、 私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 と記されているとおりです。 このように、私たちは栄光のキリストの御霊によって父なる神さまに「アバ、父。」と呼びかけることができるはどの近さと親しさにおいて、父なる神さまとのいのちの交わりにあずかっています。その意味で、私たちはすでに、主の契約によって約束されている相続財産を手に入れています。 しかしそうではあっても、ペテロの手紙第一・1章4節では、私たちの相続財産について、 これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と言われています。私たちはすでに主の契約のうちに約束されている相続財産を手に入れています。しかし、ここでは、それはなお「天にたくわえられている」と言われています。言うまでもなく、それは、パウロがコリント人への手紙第二・5章6節において、 ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。 とあかしし、ピリピ人への手紙1章21節〜24節で、 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。 とあかししている現実があるからです。私たちが受け継いでいる相続財産の中心にある、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりの完成は、なお、栄光のキリストの再臨の日を待たなければなりません。しかし、私たちは、そのいのちの交わりの完成に対する「生ける望み」のうちに生きています。 |
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