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説教日:2003年2月16日 |
3節後半〜5節では、まず、 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに と言われていて、すべてが父なる神さまの「大きなあわれみ」から出ているということが示されています。父なる神さまの「あわれみ」は、神さまの契約によって約束され保証されている愛とあわれみを意味しています。けれどもそれは、もともと父なる神さまの永遠の聖定の中で私たちに示してくださっているものです。それが、私たちにとっての現実である歴史の中では、神さまの契約によって約束され保証されているのです。この父なる神さまの「あわれみ」は、エペソ人への手紙1章3節〜6節において、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 と記されていますように、父なる神さまが永遠の前から私たちを祝福してくださったときに働いていました。 私たちは今、父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みにあずかって、御霊のお導きの下に神の子どもとして歩んでいますが、それは、たまたまこのようになったというようなことではありません。私たちの目には、自分が福音のみことばを聞いてイエス・キリストを信じるようになったのは、ある人と出会ったこと、読んだ本に心を動かされたこと、問題にぶつかって悩んだこと、生きる意味を考えるようになったことなど、それだけを見るとたまたまと思えることが重なったように見えることでしょう。しかし、 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と言われていますように、それは、父なる神さまの永遠の前からのご計画から出たことです。私たちの地上の歩みのすべては、そして、主イエス・キリストの再臨によってもたらされる新しい天と新しい地における私たちの歩みのすべては、父なる神さまの「大きなあわれみ」から出ており、その「大きなあわれみ」に包まれています。このことを常にまたしっかりと心に留めておきたいと思います。 私たちの歩みは、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの土台の上に立っての歩みです。これは神の子どもの歩みが神さまがすでに成し遂げてくださった贖いの御業に基づいているということで、過去に関わっています。また、私たちの歩みは、御霊によって私たちの間にご臨在してくださっている父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みに包まれている歩みです。その意味でこれは現在に関わっています。そして、私たちの歩みは、今お話ししていますように、神の子どもに与えられている望みによって生かされている者としての歩みでもあります。これは将来にかかわっています。さらに、これらすべてのことは永遠の前からの父なる神さまの愛とあわれみから出ているのです。その意味で、私たちの歩みには永遠と関わっているという面、「超越論的な面」と言ったらいいでしょうか、そのような一面があります。 次に、 イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって(直訳・イエス・キリストの死者の中からのよみがえりをとおして) と言われていることによって、父なる神さまの「大きなあわれみ」によって備えられたことが、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、歴史の中での現実となっていることが示されています。 ここではイエス・キリストの死者の中からのよみがえりが前面に出ていて、イエス・キリストの十字架の死は背後に退いています。このことには意味があります。それは先週お話ししたことからお分かりになると思いますが、大切なことですので、改めてお話しするとともに、いくつかのことを補足しておきたいと思います。 イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、今から二千年前に起こった歴史的な出来事です。歴史的な出来事というのは、それが昔話やおとぎ話の中の一つのお話ではなく、また、神話の形で人生の「真実」を述べたものというのでもなく、私たちが生きているこの世界の現実として起こったことであるということです。それは、今から二千年前のエルサレムの郊外において起こった出来事であるというように具体的な時と場所において起こった出来事です。 しかし、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、単なる過去の出来事ではありません。それは、さらに世の終わりの歴史の総決算の時に起こるべきことという意味での終末的な出来事です。いわば、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、世の終わりの日に起こることの「先取り」なのです。 イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪と咎をその身に負って十字架にかかられたイエス・キリストに対して、父なる神さまの無限、永遠、不変の義に基づく聖なる御怒りによるさばきが下されたという出来事です。それは、本来、世の終わりになされるべき最終的なさばき、最後の審判による地獄の刑罰の執行です。そうであるので、私たちの罪に対する最終的なさばきは終わっており、私たちの罪はすべてまた完全に贖われています。そのようにして、終末の日になされるべき最終的なさばきが、イエス・キリストにおいて、今から二千年前の歴史の現実となっているのです。 ここで大切なことは、それはただ「イエス・キリストにおいて」また「イエス・キリストにあって」だけ、歴史の現実になっているということです。イエス・キリストを離れては、終末的なことはいまだ現実になってはいません。私たちは御霊によってイエス・キリストに結び合わされて、イエス・キリストのうちにある者となりました。それによって、ガラテヤ人への手紙2章20節に、 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 と記されていますように、私たちも、終末的な出来事を経験しています。私たちはすでに、イエス・キリストにあって、罪を最終的にさばかれて清算してしまっています。それで、もはや罪をさばかれることはありません。ローマ人への手紙8章1節に、 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 と記されているとおりです。 イエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、神さまの御前に義をお立てになりました。その義はイエス・キリストの義ですが、私たちとの関係において二つの面を持っています。 一つは、それは私たちの契約のかしらとして、私たちのために立ててくださった義です。私たちはイエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われて、神さまの御前、天の法廷において「無罪」とされているだけではありません。イエス・キリストがご自身の生涯をとおしての完全な従順によって立ててくださった義にあずかって、義と認められているのです。「無罪」とされるということは、さばきに値するものはないとされることです。これに対して義であると認められることは、神さまのみこころに完全に従いとおしたと認められることです。私たちは、あたかも神さまのみこころに完全に従いとおした者であるかのように、義であると認められているのです。それは、私たちの契約のかしらであるイエス・キリストと一つとされて、イエス・キリストが獲得された義にあずかっていることによっています。最初の契約のかしらであるアダムとイエス・キリストが対比されて語られているローマ人への手紙5章18節、19節に、 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。 と記されているとおりです。 第二の面は、イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによってご自身の義をお立てになり、その報いとして栄光をお受けになられたということです。 もちろん、これも私たちの契約のかしらとして私たちのために成し遂げてくださったことです。もしイエス・キリストがご自身のためだけを考えておられたのであれば、このような形で栄光を獲得される必要はまったくありませんでした。というのは、ご自身は無限、永遠、不変の栄光の主であられるからです。ご自身のためだけというのであれば、人の性質を取って来られなければよかったわけです。そうすれば、この罪の世においての貧しさや、人々から誤解されて、あざけりとののしりをお受けになった末に捨てられて、十字架の上で最も恐るべき地獄の刑罰の苦しみを味わわないですみました。そして、ご自身は、無限、永遠、不変の栄光の主であり続けられます。 ですから、栄光の主が人の性質を取って来てくださったのは、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださるためでした。ヘブル人への手紙2章14節、15節に、 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 と記されているとおりです。 そればかりでなく、十字架の死に至るまでの従順をとおして栄光を獲得してくださったのも、私たちのためでした。私たちをご自身が獲得してくださった栄光にあずからせてくださって、ご自身の栄光のかたちに造り変えてくださるためでした。ローマ人への手紙8章28節〜30節に 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 と記されているとおりです。 このイエス・キリストが獲得してくださった栄光を、いのちという観点から見ますと、その栄光は、永遠のいのちとして現われている栄光です。その栄光あるいのちは「復活のいのち」、「よみがえりのいのち」と呼ぶことができます。イエス・キリストはよみがえりのいのちの源となられ、私たちをそのいのちによって生かしてくださっています。これによって私たちは永遠のいのちを持つ者となっているのです。 これらのことを踏まえて言うのですが、ペテロの手紙第一・1章3節で 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 と言われていて、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりの方が前面に出ているのは、それが私たちの新しい歩みと深く関わっているからです。 イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いは、私たちの罪を神さまの御前に完全に清算してくださるためのものです。これは、古いものを清算してしまうという意味をもっています。そして、実際に、イエス・キリストにあっては、古いものはその十字架の死をとおして清算されてしまっています。しかし、このこと自体は新しいものの始まりではありません。それは、いわば、新しいものが始まるために必要な下準備です。新しいものはイエス・キリストの死者の中からのよみがえりから始まっています。 先週、「この世」、「この時代」に対して、「来たるべき世」、「来たるべき時代」が対比されるということをお話ししました。それを当てはめて言いますと、イエス・キリストにあっては、その十字架の死によって「この世」、「この時代」は清算されています。そして、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって「来たるべき世」、「来たるべき時代」が始まっているのです。これが、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって始まっている新しいものに当たります。 「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史はイエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって始まっていますが、先週お話ししましたように、それは、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、新しい契約の仲保者、私たちの王、祭司、預言者として私たちのために働いてくださっていることによって、私たちの間にまた私たちをとおして造り出されている歴史です。 そして、この栄光のキリストが私たちをとおして造り出してくださっている「来たるべき世」、「来たるべき時代」が、ペテロの手紙第一・1章4節で、 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。 と言われている「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」、新しく生まれて神の子どもとされている私たちが受け継ぐ「相続財産」を歴史的な面から見たものに他なりません。 その「相続財産」のことをお話しする前に、もう少し、「この世」、「この時代」と、「来たるべき世」、「来たるべき時代」のことついてお話ししておきたいと思います。 先ほど、イエス・キリストにあっては、その十字架の死によって「この世」、「この時代」は清算されていると言いました。それは、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に起こるべきことが、イエス・キリストの十字架の死において起こっているということを意味しています。それは、「この世」、「この時代」は、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日には、神さまの無限、永遠、不変の聖さと義に基づくさばきによって清算されるということの「先取り」であるのです。「この世」、「この時代」は、初めから神さまのさばきによって清算されなければならないものであったわけではありません。それは、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったためにそのようなものになってしまったのです。そのために、「この世」の歴史の流れ全体が罪の性質を表わし罪の汚れによって汚染されてしまっています。そして、その流れの中に生まれてくるそれぞれの人のうちにも罪の性質が宿っているために、それぞれの人が罪の力に縛られており、死と滅びに至る道を歩んでいます。そのようにして造り出されているのが「この世」、「この時代」の歴史です。 私たちそれぞれは、この世界の歴史の流れの中に生まれてきて、その流れの一部となって生きています。ここには歴史の全体の流れというべき大きな流れがあって、その流れの中に私たちの人生の流れがあります。そのように私たち個人個人を越えた大きな流れがありますが、「この世」、「この時代」の歴史はそのような個人個人の歩みを越えた大きな流れとして形成されています。人類の罪による堕落の後には、その全体が罪によって汚染されてしまっています。エペソ人への手紙2章1節、2節に、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 と記されているときの「この世の流れ」はそのような歴史の大きな流れを意味しています。 聖書は「この世」を特徴づけ「この時代」を生み出している原動力を「肉」と呼んでいます。この意味での「肉」は「この世」を特徴づけ「この時代」を生み出している「原理」と言ってもいいのですが、もう少し能動的に人を突き動かしているものですので、「原動力」と言うことにします。 この「肉」は人間の肉体のことではありません。この「肉」は、歴史の流れとも言うべき個人個人を越えた大きな流れとしての「この世」を特徴づけ、「この時代」を動かしている原動力ですが、それと同時に、「この世」を構成し、「この時代」の歴史を造っている一人一人を特徴づけて内側から動かしています。それで、この「肉」のことが、しばしば、罪の力に縛られている古い人の性質であると言われます。けれども、この「肉」はそのような個人的なことだけでなく、それを越えた、罪の下にある人間の歴史全体を動かして、「この世」、「この時代」の歴史を生み出す原動力です。 ガラテヤ人への手紙5章16節、17節には、 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。 と記されています。 こに記されている、御霊に対立して働く「肉」が「この世」、「この時代」を特徴づけ、動かしている原動力としての「肉」です。ただし、ここでは、「この世」を特徴づけ、「この時代」を動かしている原動力としての「肉」という意味合いはくみ取りにくいかもしれません。むしろ、「この時代」の流れの中に生まれてきて、「この世」を構成している人の罪深い本性として、その人を動かしている原動力としての「肉」という意味合いが強いかもしれません。 これと同じことは、ローマ人への手紙8章3節〜8節に、 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。 と記されています。 このローマ人への手紙8章3節には、 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 と記されています。 ここでは、神さまが御子イエス・キリストを「罪深い肉と同じような形でお遣わしに」なったと言われていて、イエス・キリストがお取りになったのは「罪深い肉」ではないことが示されています。そして、「肉において罪を処罰された」と言われているのは、イエス・キリストがお取りになった「肉において罪を処罰された」ということです。それは、イエス・キリストの十字架において起こったことを指しています。 御子イエス・キリストは人の性質を取って来てくださいました。それは肉体と霊魂からなる正真正銘の人の性質でしたが、そこに罪の性質は宿っていませんでした。それは、罪がないばかりか神のかたちとして造られたときの義と聖さを備えた人の性質でした。そのような、罪がなく聖さと義を備えている人の性質は、最初に造られたときのアダムとエバと、イエス・キリストだけが持っていました。その最初に造られたときのアダムとエバも、イエス・キリストも、何の願いも欲求もない機械のような存在ではありません。それぞれを根底から動かしている思いや願いがあります。そのようにして、最初の創造の御業によって神のかたちに造られた人の本性として、人を根底から動かしている原動力がありました。 それをどのように呼んだらいいのかは分かりませんが、おそらく、「本来の状態の肉」と言ったらいいのではないかと思います。これは「肉」も初めから罪深いものではなくて、人類の罪による堕落によって、罪深いものになったというように考えられるということです。 そして、最初に造られた状態にあった人のうちには神さまの御霊が宿っておられましたから、最初に造られた状態の人の本性として、人を動かしていた原動力を導いてくださっていたのは御霊であったと考えられます。しかし、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人の本性として人を根底から動かしている原動力が罪によって支配され、罪深いものになってしまったのです。それを聖書では「肉」と呼んでいます。このような人間の堕落の結果、 肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう とか、 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。 と言われていますように、人の本性として人を根底から動かしている原動力は神さまを否定し御霊に逆らうように働くようになってしまいました。 同じローマ人への手紙7章18節〜20節には、 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 と記されています。ここに記されていることも、「肉」は罪によって腐敗させられ、支配されてしまっているということを示しています。 先ほど引用しましたローマ人への手紙8章3節には、 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 と記されていました。ここでは、神さまが御子をお遣わしになったのは「罪のため」であったと言われています。それは、私たちの罪の問題を解決してくださるためであったということです。そして、その解決として「肉において罪を処罰された」と言われています。 「罪を処罰された」というのは、直訳では「罪を有罪とした」ということです。そして、この場合には、それに相当する処罰を執行されたということも意味していると考えられますので、「罪を処罰された」と訳されているのです。その結果、罪の力は打ち砕かれて、罪はもはや贖われた者たちを支配しないようになったのです。先ほど言いましたように、それは御子イエス・キリストの十字架において起こったことです。 さらに、これに「肉において」ということを加えて、「肉において罪を処罰された」というのも少し変わった言い方です。これには「肉にある罪を処罰された」という訳の可能性もありますが、これですと「肉にない罪」もあるということと、「肉にない罪」は、イエス・キリストの十字架の死によっても処罰されなかったというようなことになってしまいます。それで、この場合は「肉において罪を処罰された」という訳が採用されています。 罪は「肉において」人を支配し、人を神さまと神さまの御霊に逆らうものとしていました。それによって、人は罪のさばきを自分の身に積み上げながら、滅びへの道を歩んでいます。神さまは、まさにその「肉において」、「罪を処罰された」のです。これによって、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じている私たちを罪の力から解放してくださいました。その結果、私たちは、御霊に導いていただいて歩むものとなりました。 しかし、それとともに、先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙5章16節、17節には、 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。 という戒めが記されていました。これは、すでに御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって神の子どもとされている者たちに対する戒めです。このことから、二つのことが考えられます。 一つは、これは、御子イエス・キリストの血による新しい契約の中で与えられているすべての戒めに当てはまることですが、神の子どもたちに踏むべき道を指し示し、励ましと支えを与えるものであるということです。この戒めにおいては、「あなたがたは、すでにイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪の力から解放されているのです。ですから、『肉』によってではなく、御霊に導かれて歩みなさい。」というように恵みの事実の中で踏むべき道を示し、励ましを与えているのです。 その一方で、この戒めは、私たちも御霊に逆らって、「この世」、「この時代」を特徴づけ、動かしている原動力である「肉」によって動かされてしまう可能性があるということを示しています。すでに神の子どもとしていただいている私たちであっても、「肉」によって動かされてしまうなら、終わりの日に神さまの御前に清算されるに至る「この世」、「この時代」の歴史を造ってしまいます。 私たちはこれらのことを心に留めて、父なる神さまの御前に身を低くしたいと思います。そして、改めて、永遠の前から私たちに向けられている父なる神さまの「大きなあわれみ」に信頼したいと思います。 また、私たちは父なる神さまの「大きなあわれみ」に支えられて、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死によって罪を処罰されて、私たちを罪の力から解き放ってくださったことを信じたいと思います。 御子イエス・キリストは、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。そして、父なる神さまの右の座に着座されて、私たちの王、祭司、預言者としてのお働きを進めておられます。それによって「来たるべき世」「来たるべき時代」の歴史を造っておられます。そのことの中心にあるのは、私たちをご自身の復活のいのちによって新しく生かしてくださって、義と認めてくださり、神の子どもとしての身分を授けてくださったことから始まり、みことばを悟らせてくださって、私たちをご自身の栄光のかたちに造り変えてくださることです。そして、それによって栄光のキリストのからだである教会が建て上げられていくことです。 この御子イエス・キリストのお働きは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いに基づいてお働きになる御霊のお働きによることです。それで、私たちは、 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 と戒められているのです。私たちはこの戒めに励まされて、また後押しされて、みことばとともにお働きになる御霊に手を取っていただいて歩みたいと思います。 |
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