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説教日:2003年2月9日 |
これまでは、3節後半〜4節前半に記されている、 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。 ということについてお話ししてきました。 いつものように、すでにお話ししたことを復習しながら、お話を進めていきたいと思います。まず、 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに ということばによって、ここに記されている祝福がすべて父なる神さまの「大きなあわれみ」、すなわち、神さまの契約によって約束され保証されている愛とあわれみから出ていることが示されています。 次に、その祝福は、 イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって(直訳・イエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって) 私たちの間に実現していることが示されています。 そして、この「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」に基づいて、私たちは新しく生まれたと言われています。もちろん、私たちを新しく生まれさせてくださったのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いに基づいてお働きになる御霊によることです。 このことは、三位一体の神さまの御父と御子と御霊の贖いの御業におけるお働き(「役割分担」)に対応しています。一般的に言いますと、御父は「計画者」、御子は「遂行者」、御霊は「適用者」というように理解されます。これは創造の御業と贖いの御業のどちらにも当てはまることですが、ここでは贖いの御業のことが記されていますので、贖いの御業についてお話しします。 父なる神さまは、贖いの御業のご計画を立てられました。それで、すべてのことは父なる神さまから出ています。父なる神さまのご計画は永遠のご計画ですが、この永遠のご計画においてすでに私たちに対する「大きなあわれみ」が働いていたということになります。 御子は父なる神さまのご計画を実行に移されて、歴史の中で贖いの御業を遂行されました。御子はご自身が人の性質を取って来てくださり、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおして、私たちのために義を確立してくださいました。その十字架の死において私たちの罪を贖ってくださり、死者の中からのよみがえりによって私たちのいのちの源となってくださいました。この贖いの御業は、いまから二千年前に成し遂げられて終わっています。 御霊は、御子が遂行された御業を私たちに当てはめてくださっています。御霊は私たちを、死者の中からよみがえられたイエス・キリストに結び合わせてくださいました。この私たちとイエス・キリストの結びつきは一時的なことではなく、永遠に続きます。御霊は私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。それによって、新しく生まれた私たちは福音のみことばにあかしされている神さまの贖いの恵みを信じることができるようになりました。私たちはイエス・キリストを贖い主として信じる信仰によって義と認められ、子としての身分と特権を与えていただいています。それで、私たちは、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりを中心として、神の子どもであることにともなうあらゆる祝福を享受するようにしていただいています。 このように、私たちは、父なる神さまの「大きなあわれみのゆえに」、「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」にあずかって、御霊によって新しく生まれました。そして、新しく生まれたことによって、私たちは「生ける望みを持つように」なり、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐように」なりました。 先週お話ししましたように、この「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」は別々のものではなく、同じものを別の面から見たものであると考えられます。いわば、「生ける望み」とは「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」を受け継ぐという望みであるということです。また、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」には、私たちが待ち望むべきものとして、将来、完全な形で与えられるものであるということです。 この「生ける望み」が「生ける望み」であるのも、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」が「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」であるのも、それらが「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」に基づいているからです。きょうは、このことにつて、これまでお話ししたことの上にさらにお話ししたいと思いますが、その前に、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」について、もう少しまとめておきます。 この「生ける望み」には二つの面があると考えられます。 一つは、それが、神さまのご計画に基づいて歴史の中で実現している「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」に基づいている望みであって、単なる「希望的観測」ではないということです。この「生ける望み」は、父なる神さまが御子イエス・キリストによってすでに成し遂げてくださっている贖いの御業が私たちに当てはめられて、私たちの間に完全に実現することを待ち望むものです。 大切なことは、贖いの御業そのものは、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったことによって、すでに完成しているということです。これに付け加えるべきものは何もありませんし、何も付け加えてはなりません。ですから、私たちが待ち望んでいるのは、イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業の完成ではありません。そうではなく、イエス・キリストによってすでに成し遂げられている贖いが私たちに適用されることの完成です。イエス・キリストが成し遂げられた贖いに基づいてお働きになる御霊が、私たちをまったくきよめてくださり、御子イエス・キリストの栄光の御姿に似た者として造り変えてくださることの完成です。そのことは、世の終わりの栄光のキリストの再臨の日に完成することですので、私たちはその再臨の日を待ち望むということになります。また、それは私たちが栄光のキリストの再臨の日に復活の栄光にあずかってよみがえるということですので、よみがえりの日を待ち望むということでもあります。 そして、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって贖いの御業は完成していますし、すでに、その贖いを私たちに当てはめてくださる御霊のお働きも始まっています。それによって、私たちは新しく生まれて、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、子としての身分も与えられています。これらのことは、すべて私たちのものとなっています。まだ完成していないのは、御霊による聖化のお働きです。そのお働きもすでに始まっていて、私たちは少しずつではありますが、御子の栄光のかたちに似た者へと造り変えられています。私たちはこのことの完成を待ち望んでいます。その完成を待ち望むということは、すでに始められている御霊のお働きの完成を待ち望むということで、決して失望に終わることはありません。それは、御霊をとおしての栄光のキリストのお働きですから、失敗するということはあり得ません。その意味で、この望みは「生ける望み」であるのです。 もう一つの面は、先週お話しましたように、この「生ける望み」ということばは「生かす望み」というように理解することもできるということです。神さまは、私たちを「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」に基づいている「生ける望み」によって生かしてくださいますので、私たちはその望みのうちに生きているのです。 また、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」の中心は、すでに旧約聖書に啓示されていますように、契約の神である主ご自身です。私たちが神さまご自身を「相続財産」として持つということは、私たちが神さまのご臨在の御前に立って、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるということです。そのように、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることが永遠のいのちの本質ですので、神の子どもである私たちの「相続財産」の中心は永遠のいのちであると言うこともできます。また、永遠のいのちを持つようになったことは救われたということでもありますので、私たちの「相続財産」は救いにあると言うこともできます。 ここで私たちが受け継いでいる「相続財産」の「中心」と言っていることには意味があります。私たちが受け継いでいる「相続財産」は、以前お話ししたことがありますし、改めてお話ししますが、神さまがお造りになった被造物世界全体です。それには中心があって、それが神さまとの愛にあるいのちの交わりなのです。 これらのことを踏まえて、「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」が、私たちに与えられている「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」の土台となっているということの意味を、すでにお話ししたこととは別の面から考えてみましょう。 先ほどお話ししましたように、三位一体の神さまの御父、御子、御霊の間の「役割分担」の中で、御子イエス・キリストは、父なる神さまのみこころにしたがって贖いの御業を成し遂げてくださいました。贖いの御業の中心は、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことと、死者の中からよみがえってくださったことです。コリント人への手紙第一・15章3節〜5節には、 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。 と記されています。 イエス・キリストが十字架の上で死んでくださったのは、私たちの罪をその身に負ってくださってのことでした。そこで味わわれた死の苦しみは、世の終わりに神さまがすべての人の罪をご自身の義の尺度にしたがって公正におさばきになり、そのさばきにしたがって下される刑罰による苦しみでした。いわばそれは「地獄の刑罰」の苦しみです。そうであるので、私たちの罪はすべて、イエス・キリストの十字架の死をとおして、最終的に、また完全に贖われています。その意味で、イエス・キリストの十字架の死は、終末の日に起こる出来事がすでに歴史の現実となったということです。 「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」も同じように、世の終わりの日に起こることが、いまから二千年前に歴史の中で現実となったということです。 ヨハネの福音書6章38節〜40節には、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの言葉が記されています。 イエス・キリストが十字架にかかって死の苦しみを味わってくださって私たちの罪をまったく贖ってくださったのは、ここでイエス・キリストが述べておられる、父なる神さまのみこころを実現してくださるためでした。それで、福音のみことばのあかしにしたがって、御子イエス・キリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださったことを信じて、イエス・キリストを主として迎え入れている人の罪は、まったく贖われています。そればかりでなく、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しいいのちに生きるものとされています。 このように、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことも、死者の中からよみがえってくださったことも、いまから二千年前のイエス・キリストにおいて起こったことですが、世の終わりのイエス・キリストの再臨の時に起こることの「先取り」です。その結果、私たちにもたらされている祝福はこの世のものではなく、したがってこの世限りのことではなく、ペテロが ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。 と戒めていますように、イエス・キリストの再臨の日に私たちにもたらされる恵みなのです。「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」にあずかって新しく生まれて、神の子どもとしていただいている私たちは、そのような「イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵み」を待ち望むという意味での「生ける望み」に生かされて生きています。もし私たちが本当にこの「生ける望み」によって生かされて生きているなら、私たちは、この世の目から見て祝福と見えること、この世限りの祝福に心を奪われ、それを目的として追い求めて生きることはありません。ヨハネの手紙第一・2章15節〜17節には、 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。 と記されています。 このことを考えますと、聖なるものであることが、神の子どもに与えられている望みと深くかかわっていることが理解できます。ペテロは聖なるものであるべきことを述べる戒めの中で、レビ記の中に繰り返し出てくる、 わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。 という戒めを引用しています。すでにお話ししましたが、この戒めにはいくつかの面がありました。その中に周囲の国々の考え方と生き方から区別されていなければならないという面がありました。それは、私たちに当てはめますと、私たちが待ち望んでいる、イエス・キリストの再臨の日に私たちにもたらされる恵み、すなわち神の子どもが受け継ぐべき「相続財産」がこの世のものではなく、この世とともに過ぎ去ってしまうものではないので、私たちの目をこの世にではなく、天にあるものに向けるということです。 ペテロは、私たちが受け継ぐべき「相続財産」について、 これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と教えています。そして、私たちは、私たちのために「天にたくわえられている」「相続財産」が、イエス・キリストの再臨の日に私たちにもたらされるようになることを待ち望むように戒められているのです。 このことは、もう一つの面から考えることができます。 マタイの福音書6章19節〜21節に記されているように、イエス・キリストは、 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 と教えておられます。 この戒めをどのように受け止めたらいいのでしょうか。いま地上に住んでいる私たちが、どのようにして天に宝をたくわえることができるのでしょうか。それに、ペテロが教えているように、私たちの宝は、私たちが待ち望んでいる「相続財産」のことなのではないでしょうか。そうであれば、すでに、それは私たちのために天にたくわえられているのではないでしょうか。それなのに、天に宝をたくわえなさいと戒められているのは、どういうことなでしょうか。 これについては、すでにお話ししたことがありますので、結論的なことと、いまお話ししていることにかかわることだけをお話しします。結論的に言いますと、このイエス・キリストの教えは、「たくわえる」ということばから考えられますように、そこに私たちの人生の歩みとともになされる積み上げがあります。そのように積み上げられていくものは、歴史的なものです。 ここで、何度かお話ししたことがありますが、ある用語の理解について改めてお話ししますと、先ほどの「この世」を歴史的な観点から見ますと、「この時代」ということになります。そして、神さまのご臨在の中心である「天」を歴史的な観点から見ますと、「来たるべき時代」になります。その「天」の中心は御座に座しておられる父なる神さまと栄光のキリストです。その栄光のキリストは、終わりの日に栄光のうちに再臨されます。それとともに天的なものが歴史の現実となり「来たるべき時代」が始まります。 この「来たるべき時代」はイエス・キリストが十字架にかかって死なれたことと、死者の中からよみがえられたことによってすでに始まっています。というのは、イエス・キリストの死と死者の中からのよみがえりは世の終わりに起こる「終末的な」ことの「先取り」だからです。イエス・キリストの死と死者の中からのよみがえりは過去に起こったことですが、よみがえられたイエス・キリストは生きておられます。それで、イエス・キリストにあっては「来たるべき時代」の歴史が造られています。私たちは御霊によってこのイエス・キリストに結び合わされて、イエス・キリストにあって生きています。その意味で、私たちは「来たるべき時代」の歴史の中に生きています。 コリント人への手紙第一・3章10節〜15節には、 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。 と記されています。 ここで、 その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 と言われている日は、世の終わりの栄光のキリストの再臨の日のことです。 その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためす と言われています。この「火」は、物理的な火のことではなく、栄光のキリストの栄光の現われのことで、特に、その「さばき」という面を示していると考えられます。 そうしますと、 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 と言われているのは、再臨されるキリストの栄光によって試されてなお残るものがあるということを意味しています。しかも、それは私たちの地上の歩みにおいて築かれているということになります。それは、続く、16節、17節に、 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。 と記されていますように、栄光のキリストが御霊によってご臨在される、キリストのからだである教会のことです。それは、この教えが建物を建てるということで教えられていることと、10節、11節に記されている、 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。 ということばから始まっていることからも分かります。 このことを、これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、栄光のキリストの再臨の栄光のご臨在の御前においては、この世とこの世のものは焼き尽くされて過ぎ去ってしまうのです。それによってその時まで積み上げられてきたこの世の歴史、すなわち「この時代」は終わることになります。地上に宝をたくわえるということは、このようにして過ぎ去ってしまうものを積み上げてこの世、この時代の歴史を造っていくということです。 これに対して、すでにお話ししましたように、栄光のキリストの再臨の栄光のご臨在の御前においてなお残るものが、すでに、私たちが地上にいる間に築かれています。それは、形としては、この世の歴史の一部をなしているように見えますが、それが栄光のキリストのご臨在の栄光によって試されたときに、この世のものではなく、天に属するものであることが明らかになるのです。言い換えますと、その人は、この世、この時代の歴史ではなく、来たるべき時代の歴史をすでに築き始めているということを意味しています。 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に起こるべきことの「先取り」です。そして、死者の中からよみがえられたイエス・キリストは、いまも生きて働いておられます。そのお働きは、新しい契約の仲保者として、私たちの王・祭司・預言者としてのお働きです。そのお働きによって築かれているのはこの世、この時代の歴史ではなく、来たるべき時代の歴史です。イエス・キリストが天に宝をたくわえなさいと戒めておられるのは、このイエス・キリストのお働きにあずかって、私たちも来たるべき時代の歴史を造るようにというお招きなのです。それは、栄光のキリストのからだとして、栄光のキリストご自身が御霊によってご臨在しておられる教会の歩みとしての歴史です。とはいえ、それは教会がこの世の権力の序列の上に立つということではありません。それでは教会がこの世、この時代の歴史を造ることになってしまいます。 このように見ますと、私たちが受け継いでいる「相続財産」には歴史的な面があることが分かります。 繰り返しになりますが、この「相続財産」の中心は私たちの契約の主であられる栄光のキリストご自身であり、イエス・キリストの御名による父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりです。この交わりがすでに私たちの間の現実であるという点からは、私たちはイエス・キリストの御名による父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりを中心とした地上の歩みにおいて、天に宝をたくわえるように招かれています。私たちは、地上の歩みの中で、「イエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって」すでに来たるべき時代の歴史が始まっていることをあかししているのです。 その一方で、私たちの「相続財産」の中心である栄光のキリストご自身は、いまなお父なる神さまの右の座に着座されて、私たちの王、祭司、預言者としてのお働きを続けておられます。世の終わりには、再び来てくださって、その御業をすべて完成させてくださいます。それは、コリント人への手紙第一・15章24節、25節に、 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。 と記されているとおり、終わりの日に「すべての敵をその足の下に置く」ことによって完成します。その意味では、私たちの「相続財産」については、 あなたがたのために、天にたくわえられている と言われているのです。 |
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