(第113回)


説教日:2003年2月2日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章13節〜25節


 いま私たちは、聖なるものであることが神の子どもたちに与えられている望みと深くかかわっているということをみことばから学んでいます。これまで、まず、ペテロの手紙第一・1章14節〜16節に記されている、

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

という戒めについてお話ししました。
 この戒めは、これに先立つ13節に記されている、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

という戒めを踏まえて記されています。この13節に記されている戒めは、文法の上では一つの戒めで、その中心は「ひたすら待ち望みなさい」ということにあります。このことは、私たちが聖なるものであることは、神の子どもたちに与えられている望みと深くかかわっているということを意味しています。
 13節に記されている、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

という戒めは「ですから」ということばから始まっていて、この戒めが、さらに、これに先立って記されていることを踏まえているということを示しています。それで、少し遠回りをして、まず、3節〜12節に記されていることについてお話ししています。
 3節〜12節に記されていることは、全体が長い一つの文です。そして、その中心は、3節の初めに記されている、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

ということばにあって、この3節〜12節に記されていることの全体が一つの賛美となっています。
 また、3節〜12節に記されていることの中にも発展があります。その出発点であり、全体の基礎となっているのは、3節後半〜5節に記されている、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

ということです。
 ここには、父なる神さまが、この手紙の読者たちに与えてくださっている祝福が示されています。ここに記されている祝福が3節〜12節に記されていることの基礎となっていることと、内容の上でも神の子どもたちに与えられている望みにかかわっていますので、実質的には、これが13節に記されている、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

という戒めの背景にあると考えられます。
 それでこれまで、この3節後半〜5節に記されています父なる神さまの祝福についてお話ししてきました。


 これまで、3節後半〜4節前半に記されている、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

ということについてお話ししてきました。
 ここでは、まず、ここに記されているすべての祝福が父なる神さまの「大きなあわれみ」から出ていることが記されています。ここで言われている神さまの「あわれみ」は、神である主の契約のうちに約束され保証されている愛とあわれみのことです。先週は、神さまの愛とあわれみが契約のうちに約束され保証されているということに、ある種の「違和感」があるかもしれないということで、その点についていくつかのことをお話ししました。ここでもう一つのことを補足しておきたいと思います。
 私たちは結婚に際して、神さまと人の前に自分たちの愛を誓います。それは、気持ちの上だけの問題でなく、生活のあらゆることをともにして、ともに歩むことの誓いです。この結婚における誓いにおいては夫と妻がお互いの愛を誓いますが、私たちはそのことに違和感を覚えません。むしろ、夫と妻はその自分たちの誓いに支えられて、その土台の上にお互いの愛を具体化し、愛を育みます。神である主の契約において、主が私たちに対する愛とあわれみを約束し保証してくださっていることも、これと同じような意味をもっています。
 そこに違いがあるとすれば、それは、結婚の誓約の場合には夫と妻がともに誓いをもって愛を約束しますが、神さまの契約の場合は、神である主が一方的にその愛とあわれみを約束し保証してくださっているということです。
 神さまの契約の中心主題は、預言者イザヤを通して預言され、イエス・キリストの降誕に際して告げられた「インマヌエル(神さまは私たちとともにおられる。)」という御名によってまとめられます。神さまの契約はご自身が私たちの間にご臨在してくださって、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださるということを約束し保証してくださるものです。この、神さまがが私たちの間にご臨在してくださって、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださるということを言い換えますと、神さまがご自身の契約によって愛とあわれみを約束し保証してくださったということになります。
 さらに、神さまが一方的に、ご自身の契約によってその愛とあわれみを約束し保証してくださっているということは、神さまが私たちの間にご臨在してくださって、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださるために必要なすべてのことをなしてくださっているということを意味しています。
 それは、神さまの側でなすべきことは神さまがなしてくださり、後は私たち次第であるというのとは少し違います。
 先週もお話ししましたが、エペソ人への手紙2章1節に記されていますように、私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」です。その頃の私たちは、神さまを神として認めることはありませんでした。まして、神さまを愛することもあがめることもなく、むしろ、神さまに敵対して歩んでいて、3節に記されていますように「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」でした。このような状態にあった私たちに対して、神さまの側ではなすべきことはすべてなしてくださっているから、後は私たち次第であると告げられても、私たちにはそれが何のことだか分かりませんし、進んで神さまの御許に行くということもできなかったのです。
 それを、神学的には「霊的無能力」と言います。死んでしまった人は、私たちがどんなに呼びかけても反応しません。「自分の罪過と罪との中に死んでいた」私たちも、神さまが福音のみことばをとおして呼びかけてくださっても、それに応えて神さまの御許に行くことはありません。
 それで、エペソ人への手紙2章4節〜6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されていますように、神さまは「自分の罪過と罪との中に死んでいた」私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。言うまでもなく、そのために、まず私たちの罪と咎をイエス・キリストの十字架の死をとおしてすべて贖ってくださいました。私たちは、そのようにして、神さまの一方的な愛とあわれみによって新しく生まれているので、福音のみことばをとおして呼びかけてくださる神さまの呼びかけに応えることができるようになったのです。この福音のみことばをとおして呼びかけてくださる神さまの呼びかけに応えることが信仰ですが、その信仰は新しく生まれた私たちのうちから生まれてくるものです。その意味では、私たちの信仰は私たちのものですが、それも突き詰めていくと神さまからの賜物であるのです。
 ですから、神さまは神さまのなさることをしてくださり、私たちは私たちのできることをしたというより、神さまがすべてのことをなしてくださったのです。神さまが「自分の罪過と罪との中に死んでいた」ために何もできなかった私たちを、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からの復活による贖いの御業によって新しく生かしてくださったので、私たちは神さまに対して信仰の応答ができるようになりました。それによって、私たちを神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださるという、神さまのみこころが実現しているのです。
 このことはペテロの手紙第一・1章3節後半と4節前半において、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

と言われていることに反映しています。
 ここでは、私たちに与えられている祝福が父なる神さまの「大きなあわれみ」から出ていることが示された後、その祝福を私たちの間に実現してくださったことがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりであることが示されています。新改訳では「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」と訳されていますが、これはむしろ直訳の「イエス・キリストの死者の中からのよみがえりをとおして」という言い方の方が分かりやすいかもしれません。いずれにしましても、ここに記されている私たちに与えられている祝福の起源は父なる神さまの「大きなあわれみ」であり、その実現のための手段は「イエス・キリストの死者の中からのよみがえりをとおして」ということです。
 すでにお話ししましたように、

私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

と訳されている部分は直訳では、

私たちを生ける望みへと新しく生まれさせてくださいました。

となります。そして、

また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

と訳されている部分は、

朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産へと

となります。つまり、「生ける望みへと」ということと「相続財産へと」ということが同じ形で述べられて、そろえられています。しかも、「相続財産へと」と言われている4節には接続詞がありませんので、前の部分と密接につながっています。これらを日本語のつながりを無視してギリシャ語の原文の順序のままに直訳しますと、

私たちを生ける望みへと新しく生まれさせてくださり、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりをとおして、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産へと

となります。
 このことから四つのことが分かります。そのうちの三つのことはすでにお話ししたことです。
 第一に、父なる神さまは「イエス・キリストの死者の中からのよみがえりをとおして」私たちを新しく生まれさせてくださったということです。
 第二に、父なる神さまが私たちを新しく生まれさせてくださった結果、私たちは「生ける望み」を持つようになり「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」を持つようになったということです。
  第三に、「生ける望み」が「生ける望み」であるのも、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」が「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」であるのも、それが「イエス・キリストの死者の中からのよみがえりをとおして」私たちにもたらされたものであるからです。
 「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」は、いまから二千年前に起こった出来事ですが、それは世の終わりの日に起こるべき出来事でした。イエス・キリストの復活の栄光は、やがて来たるべき時代、新天新地に属する栄光です。いわば、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、やがて来たるべき時代のものがこの時代の歴史の現実となったのです。「生ける望み」も「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」も「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」に根差しているので、「生ける望み」であり「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」であるのです。
 これらのことに加えて、第四に、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」は別のものではなく、一つのものを別の面から見たものであると考えられます。
 その理由の一つは、ここでの言葉遣いです。もしこの二つのものが別のものであったとしたら、

また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産へと

というように接続詞でつなげられていたことでしょう。しかし、先ほどの直訳でも分かりますように、ここには「また」という接続詞はありません。
 もう一つの理由は、聖書の中では一貫して「相続財産」は「子であること」に結びつけられているということです。言うまでもなく、「子であること」は、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれることによることです。
 たとえば、ローマ人への手紙8章14節〜17節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と記されています。
 また、ガラテヤ人への手紙3章26節〜29節には、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されており、4章6節、7節には、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されています。
 ペテロの手紙第一・1章3節では、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて

くださったと言われています。これは、父なる神さまがなしてくださったことを記しています。このことを、私たちの側から見ますと、私たちは、イエス・キリストの死とよみがえりにあずかって新しく生まれているということになります。そのことは、いま引用しましたガラテヤ人への手紙3章26節〜29節で、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。 ・・・・ もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と言われていることに当たります。
 このような聖書に一貫している「相続財産」や「相続人」についての教えから言いますと、父なる神さまが「イエス・キリストの死者の中からのよみがえりをとおして」「私たちを新しく生まれさせて」くださったことは、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」を持つようになったことにつながっています。
 さらにこの「相続財産」は「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」ものであると言われていますように、地上の財産のことではありません。その中心は、すでにお話ししましたように、契約の神である主ご自身です。私たちが神である主を「相続財産」として持つということは、主を私たちの神として持つということです。それは、神さまがご自身の契約によって保証してくださっているように、私たちの間にご臨在してくださり、私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるということです。
 それはまた、父なる神さまを私たちの父として持つということでもあります。それで、先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章6節、7節には、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されています。神さまが「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」を与えてくださったので、私たちは祈りにおいてまた礼拝において父なる神さまに向かって親しくまた大胆に「アバ、父。」と呼んで、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることができるのです。
 これが、「イエス・キリストの死者の中からのよみがえりをとおして」新しく生まれている私たちに与えられている「相続財産」の中心です。この「相続財産」はいますでに与えられています。私たちはいま「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」によって、父なる神さまに向かって親しくまた大胆に「アバ、父。」と呼んでいます。しかし、いま私たちが享受している、御子イエス・キリストにあって神の子どもたちであることの祝福である父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりは、いわば、「手付け」のような形で与えられているもので、その完成は終わりの日のイエス・キリストの再臨によってもたらされるというのが、福音のみことばの一貫した教えでもあります。
 もちろん、手付金も完全な支払いではありませんが、それはお金として使うことができるものです。それと同じように、いま私たちに「手付け」のような形与えられている父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりは、御子イエス・キリストにある現実です。その意味では、古い契約の下において「ひな型」として与えられていたものとは違います。古い契約の下での「ひな型」の形で与えられていたものは、やがて与えられるものの模型であり、いわば「約束」です。私たちに与えられている父なる神さまとの交わりは現実であって、単なる約束とは違います。そうではあっても、この父なる神さまとの交わりの完成は、終わりの日のイエス・キリストの再臨によってもたらされます。
 このことがペテロの手紙第一の教えにも反映しています。特に、ペテロの手紙第一の読者たちは、ローマ皇帝ネロの下での迫害の厳しさにさらされて苦しんでいる人々でした。それで、1章5節に、

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

と記されており、13節でも、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

と記されているように、神の子どもたちに与えられている祝福としての父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりを中心とする「相続財産」の完成の時を指し示しています。
 このように、ペテロの手紙第一では、神の子どもたちに与えられている「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」は地上的なものではなく、また、この時代のものでもなく、イエス・キリストの再臨の日において完成するものであることが強調されています。それによって、苦難の中にある読者たちが空しく苦しんでいるのではなく、むしろ、神さまがご自身の契約をとおして約束し保証してくださっている「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」の「相続人」であるがための苦難であるという意味があることを教えているのです。この点は、先ほど引用しましたローマ人への手紙8章17節にも、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と記されています。
 ペテロは、このような苦難の中にある神の子どもたちのためにこのペテロの手紙第一を記しています。それで、その目は、神さまがご自身の契約をとおして約束してくださり保証してくださっている「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」、いますでに「手付け」のような形で与えられている「相続財産」の完全な実現の日に向けられています。このことを考えますと、1章3節で、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

と、まず「生ける望み」のことを述べていることも理解できます。ペテロは、この手紙の読者たちの目を「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」の完全な実現の日に向けているのです。
 しかし、このことは、決して、私たちの間にいわゆる「信仰による逃避」を生み出しません。この世での生活があまりにも辛いので、あるいは、あまりにも汚れたものに見えるので、それから逃れるために、物理的にあるいは心理的に「別の世界」に「逃避」してしまうということは珍しいことではありません。そのようなときには、自分の描く「別の世界」を理想化してあこがれるという形で、現実から逃避してしまうことがあります。ペテロが強調している「生ける望み」は、このようなものを生み出すものではありません。
 すでにお話ししましたように、「生ける望み」というのは、それが父なる神さまの契約によって約束され保証されている真実な愛とあわれみから生み出された望みであり、「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」に根差している望みであるので、必ず実現する望みであるということを意味しています。同時にこの「生ける望み」にはもう一つの面があると考えられます。この「生ける望み」ということば(エルピス・ゾーサ)は、「生かす望み」とも訳すことができます。ヨハネの福音書7章37節〜39節には、

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

と記されています。ここには「生ける水」(フドール・ゾーン)が出てきます。この場合の「生ける」はペテロの手紙第一・1章3節の「生ける望み」の「生ける」と同じことば(ザオーという動詞の現在分詞・形の違いはジェンダーの違い)です。この「生ける水」は、こんこんとわき出て涸れることがないということと、それによって人を生かすという二つの意味をもっています。ヨハネは、

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

と説明していますので、ここでは、それが私たちを生かす水であるという意味の方が強いと考えられます。
 ペテロの手紙第一・1章3節の「生ける望み」も同じです。この望みは、神さまの契約によって保証されている愛とあわれみから出たもので、「イエス・キリストの死者の中からのよみがえり」に根差しているので決して失望に終わることがないという意味で「生ける望み」です。同時に、この望みは「生かす望み」です。この望みを与えられている神の子どもたちは、この「生ける望み」によって生かされて生きるのです。事実、6節〜9節を見てみますと、そこには、

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

というように、その様子が記されています。
 このように、「生ける望み」は、この世にある私たちを生かす望みです。いま私たちが考えている聖なるものであることが神の子どもたちに与えられている望みと深くかかわっているということも、この望みが「生ける望み」として、私たちを生かしている望みであることによっています。

 


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