(第112回)


説教日:2003年1月26日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章13節〜25節


 聖なるものであることについてのお話の最後に、聖なるものであることが、神の子どもたちに与えられている望みと関わっているということをお話ししています。
そのためにまず、ペテロの手紙第一・1章14節〜16節に記されている、

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

という戒めについてお話ししました。
 ここには、旧約聖書のレビ記に記されている、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という戒めが引用されています。この戒めは聖なるものであることについての基本的な戒めですが、ペテロの手紙第一・1章14節〜16節に記されている戒めについてお話しすることの中で、この基本的な戒めのこともお話しすることができました。
 これに続いて、この14節〜16節に記されている戒めに先立つ13節に記されている、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

という戒めを取り上げています。
 すでにお話ししました14節〜16節に記されている戒めは、この13節に記されている戒めを踏まえて記されています。この13節に記されている戒めは、文法の上では一つの戒めで、その中心は「ひたすら待ち望みなさい」ということにあります。このことは、私たちが聖なるものであることは神の子どもたちに与えられている望みと深くかかわっているということを意味しています。


 この13節に記されている、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

という戒めは「ですから」ということばから始まっていて、この戒めが、さらに、これに先立って記されていることを踏まえているということを示しています。それで、少し遠回りをすることになりますが、まず、3節〜12節に記されていることについてお話ししています。
 3節〜12節に記されていることは、かなり長いのですが、全体が一つの文です。そして、その中心は、3節の初めに記されている、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

ということばにあります。ですから、3節〜12節に記されていること全体が一つの賛美となっています。
 この3節〜12節にわたって記されている長い文の中にも発展があります。その出発点であり、全体の基礎となっているのは、3節後半〜5節に記されている、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

ということです。
 ここには、父なる神さまが、この手紙の読者たちに与えてくださっている祝福が示されています。それは同じく御子イエス・キリストの血による新しい契約の民とされている私たちにも与えられている祝福です。
 ここに記されている祝福が3節〜12節に記されていることの基礎となっていることと、内容の上でも神の子どもたちに与えられている望みにかかわっていますので、実質的には、これが13節に記されている、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

という戒めの背景にあると考えられます。
 それでこれまで、この3節後半〜5節に記されています父なる神さまの祝福についてお話ししてきました。先週と先々週は、3節後半〜4節前半に記されている、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

ということについてお話ししました。
 この祝福の起源は「ご自分の大きなあわれみのゆえに」と言われていますように、父なる神さまの「あわれみ」にあります。そして、この「あわれみ」と訳されていることば(エレオス)は、神さまの契約によって保証されている真実な愛とあわれみを表わすヘブル語のヘセドに当たることばです。ですから、3節後半〜5節に記されている父なる神さまの祝福は、神さまの契約によって保証されている真実な愛とあわれみから出ています。
 このことについてはすでに簡単にお話ししましたが、その時は、このことにあまり時間を割いてお話ししませんでした。それで、きょうはこの点を補足しておきたいと思います。とはいえ、これからお話しすることは、すでにいろいろな機会にお話ししてきたことでもあります。その意味では、復習と再確認という面もあります。
 私たちが契約ということで考えるのは取引上の契約です。それで、神さまの愛とあわれみが神さまの契約によって保証されているということを聞くと、私たちは強い違和感を覚えます。愛やあわれみは心の中から自然と出てくるものであって、契約によって保証されるようなものではないというのが、私たちの感じ方でしょう。「契約に基づく愛やあわれみなんて血が通っているのか」と言われそうです。
 しかし、それは私たちの発想をもって聖書を読んでしまうために生じる感じ方です。聖書に記されている神さまの契約は近代の市民社会の取引上の契約と違って、お互いのことを「わたし」と「あなた」と呼び合うことを中心とする、人格的な特性を備えています。それは、その当時の契約の一般的な精神でしたが、神さまが私たちに与えてくださっている契約は、特にそのような人格的な特性が前面に出ています。というのは、神さまの契約は、神さまがご自身の民の間にご臨在してくださり、ご自身の民をご自身との愛にあるいのちの交わりの中に生きるようにしてくださることを約束し保証してくださるものだからです。
 また、先ほどお話ししましたような「違和感」には、愛についての誤解があると思われます。先ほど、私たちの感じ方では、愛やあわれみは自然と私たちの心の中からわき出てくるものであるということを言いました。つまり、愛やあわれみは私たちのうちから自然とわき出てくる内発的なものであるということです。その点は確かにそうです。けれども、振り返ってみますと、必ずしも私たちが自覚しているわけではありませんが、「愛やあわれみは自然と私たちの心の中からわき出てくるものである」と言っているときに私たちが考えている愛とあわれみには、外から触発されているという面があります。
 私たちは赤ちゃんを見ますと、自然と顔がほころんできます。それが自分の子どもであったり、孫であったりするとなおのことです。そのような反応は、私たちのうちから自然とわき出てくるものです。その点では、それは私たちのうちからわき出てくる内発的な感情です。しかし、それは赤ちゃんが愛らしいから、私たちの中からそのような反応が生まれてくるのです。その意味では、私たちの反応は自然な反応なのですが、赤ちゃんの愛らしさという外側からの刺激があって、それに反応しているわけです。やがてその赤ちゃんだった子どもが反抗期を迎えて憎まれ口ばかりをたたくようになるとどうでしょうか。意地悪なところやずる賢いところがひんぱんに目につくようになるとどうでしょうか。特にそれが他人の子どもで、自分の子どもが迷惑を受けているという場合にはどうでしょうか。それでも、私たちのうちから自然と愛の思いがわき出てくるということになるでしょうか。私たちは、私たちのうちから自然とわき出てくる愛とあわれみこそが血の通った暖かい愛でありあわれみであると思っているのですが、そのような愛とあわれみには、実際には、かなり自己中心的な歪みがあるのではないでしょうか。
 これに対して神さまの愛とあわれみはどうでしょうか。ローマ人への手紙5章6節〜10節には、

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

と記されています。
 ここでパウロは父なる神さまの愛のことを述べているのですが、神さまの愛は、私たちの側にある何らかの「愛らしさ」に触発されたものではないと言っています。そのことを述べるために、人間の場合を取り上げて、

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

と言っています。
 ある人が「正しい人」すなわち神さまの律法をきちんと守って自分を律している人であったとします。その人のことを感心する人はあったとしても、その人に心を動かされて、何かあったときに、その人のために自分のいのちを捨てるという人はまずありません。しかし、ある人が自分に情けをかけてくれたということを身にしみて感じている人がいた場合には、その人は、自分に情けをかけてくれた人のためにいのちを捨てることはあるかもしれません。このように述べるパウロは、私たち人間の愛が、外側からの何らかの触発を受けて働くものであるということを踏まえています。
 このことを明らかにしたうえでパウロは、神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださって私たちを死と滅びの中から贖い出してくださったことに触れます。キリストが私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださったのは「私たちがまだ罪人であったとき」のことであり、「敵であった」ときのことでした。そのような私たちは、ただ神さまの義と聖さに基づく御怒りを引き出すだけの者でした。エペソ人への手紙2章1節〜3節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 ですから、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と言われている神さまの愛は、私たちのうちにある「愛らしさ」に触発されて神さまのうちから自然と生まれてきたものではありません。それは神さまご自身の意志が、あえて生み出してくださった愛です。
 そうしますと、私たちは、やはり、そのように無理して生み出された愛は本当の愛ではないのではないかと思ってしまいます。そこには、本当の愛はその人のうちから、何のためらいもなく、自然と生まれてくるものであるという思いがあるのです。
 しかし、本当にそうなのでしょうか。
 先ほど引用しましたローマ人への手紙5章7節には、

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

と記されていました。後半では、

情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

と言われています。この「進んで死ぬ」ということばには注意しなければなりません。これですと、その人のためにためらうことなく死ぬというような感じがします。しかし、この「進んで」と訳されていることば(トルマオー)は、「あえて ・・・・ する」とか「思い切って ・・・・ する」ということを表わしています。ですから、パウロはこの7節で、人が誰かのために自分のいのちを捨てるようになるためには、よほどの理由があり、それだけの決断をしてのことであるということを述べているのです。このような、自分のいのちを捨てるという最大の犠牲を伴う愛は、自然と私たちの中からあふれ出てくるものではなく、心の中でのかなりの葛藤を経て生み出されるものであるということです。
 これは、先ほどのことばで言いますと「無理して生み出された愛」です。そうではあっても、それはその人自身の決断によるものですので、その人の内側から生み出された「内発的な」愛です。『塩狩峠』という、実話に基づく小説の主人公が、暴走する列車を止めるために自分の身を列車の前に投げ出したということは広く知られています。また、母親が子どものために自分を犠牲にしたという話を聞くことがあります。それが短い間の決断であったとしても、そこには大きな葛藤があって、それを乗り越えて重い決断をしているはずです。そうであるからこそ、私たちはその犠牲的な愛に込められているその人の思いの深さに打たれて心を揺さぶられるのです。
 このことは御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったことにも当てはまります。イエス・キリストは、ご自身の意志で十字架にかかり、十字架の上に留まられました。その能力という点では、イエス・キリストはいつでも十字架から降りることはできましたが、ご自身の意志でそこに留まられたのです。そのように十字架におつきになったイエス・キリストのうちには大変な葛藤がありました。それは、外からの強制に苦しめられたということではありませんし、私たちに対する愛に揺れがあったということでもありません。その私たちに対する愛を貫いてくださるためには、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りをすべてご自身がお受けにならなければならないという厳しい現実があったからです。その葛藤は、ご存知のように、ゲツセマネの祈りに如実に現われています。ルカの福音書22章39節〜44節には、

それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

と記されています。
 造り主である神さまに対して罪を犯し、その御前に堕落してしまっていた私たちは、神さまの聖なる御怒りの下にありました。もし神さまが私たちの罪に対して聖なる御怒りをお示しにならないとしたら、神さまは無限、永遠、不変の聖さに満ちた方ではなくなってしまいます。それは、もはや神さまが神ではないというのと同じです。それで、私たちの罪は、神さまの聖なる御怒りを引き起こします。神さまはその御怒りをうやむやにされたのではなく、それを私たちの贖い主となって十字架にかかってくださった御子イエス・キリストの上に注がれました。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と言われているときの父なる神さまの私たちに対する愛は、外からの「刺激」に触発されて生まれたものではありません。私たちのうちにどこかよいところがあるからということで生まれてきたものではありません。それは、ただ神さまご自身の意志から出ています。そして、その父なる神さまの愛を私たちの間で実現してくださった御子イエス・キリストの愛も、ご自身の意志から出ていて、ご自身の意志によって全うされました。
 先ほどエペソ人への手紙2章1節〜3節を引用しましたが、その最後には、

私たちもみな ・・・・ ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されていました。それに続く4節〜6節を見てみましょう。そこには、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。
 神さまの御怒りを引き出す罪に満ちている私たちを愛してくださった神さまの愛は、私たちのあり方によって左右されるものではありません。この神さまの愛は、私たちのあり方次第で変わるものではないのです。今引用しましたエペソ人への手紙2章5節では、

あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

と言われていますが、この神さまの恵みを支えているのは、このような神さまの愛です。
 このように、神さまは、本来、神さまの聖なる御怒りを受けて滅びるほかはない私たちを、「あえて」ご自身の意志で愛してくださいました。その神さまの愛は、私たち次第で変わるものではありません。その決して変わることがない神さまの愛が、先ほどのヘセドということばによって表わされている、神さまの契約のうちに示され保証されている愛とあわれみなのです。
 このヘセドということばによって表わされている、神さまの契約のうちに示され保証されている愛とあわれみは、私たちのうちにある何らかの「よさ」に触発されて生み出されたものではなく、神さまのご意志によって生み出されたものですので、決して変わることはありません。
 このこととの関わりで、二つのことをお話ししておきたいと思います。
 第一に、神さまはその存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の方です。それで、神さまの愛も無限、永遠、不変です。このことは、何よりも、三位一体の神さまの御父、御子、御霊の間に、永遠に変わることなく無限の愛が通わされているということに現われています。以前お話ししましたが、私たちにはこの神さまの無限、永遠、不変の愛をそのまま受け止めることはできません。なぜなら、三位一体の御父、御子、御霊の間に通わされている無限、永遠、不変の愛は、無限、永遠、不変の栄光に満ちた愛であって、その無限、永遠、不変の栄光には、いかなる被造物も直接的に触れることができないからです。
 神さまはその存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の方ですので、あらゆる点において有限である被造物と絶対的に区別される方です。それが神さまの聖さの意味するところです。神さまはその本質的な特性である愛においても無限、永遠、不変であって、神さまの愛は聖いのです。
 このように、神さまの愛は無限、永遠、不変の栄光に満ちた愛です。一介の被造物である私たちはこの愛を直接的に受け止めることはできません。神さまは被造物としての私たちの限界に合わせて、ご自身の愛を示してくださっています。そして、そのように神さまの無限、永遠、不変の愛を被造物としての私たちの限界に合わせてお示しになっておられる方が、三位一体の第二位格であられる御子です。神さまは御子を通してご自身をこの世界に啓示してくださっています。ご自身の愛も、御子を通して私たちに示してくださっています。神さまが天地創造の御業の初めに人を神のかたちにお造りになって、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださるためにエデンの園にご臨在してくださったのも、御子を通してのことです。これによって人は、御子を通して、また御子にあってご臨在される神さまとの愛の交わりのうちに生きることができました。
 人が罪を犯したのは、このように、この世界に親しくご臨在してくださって人をご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださっている神さまに対して罪を犯したということです。そして、人はそのご臨在の御前に堕落してしまったのです。それは、御子を通して示されている神さまの愛といつくしみを踏みつけることであったのです。
 それを別の面から見ますと、人が誘惑者のことばに同意して、自分が神のようになろうとしたということでもあります。それは、人が造り主である神さまと被造物である自分との間にある絶対的な区別を否定してしまって、それを踏み越えようとしたということを意味しています。私たちの罪にはこのような神さまの聖さを否定するという一面がありますので、罪を宿している私たちのうちには腐敗と汚れがあります。そして、私たちの罪は無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまの聖さを冒すものですので、永遠の刑罰に値するのです。
 先ほどのヘセドということばによって表わされる神さまの契約のうちに示され保証されている愛とあわれみは、このような状態にある私たちに対して示されたものです。すでに神さまの愛を踏みつけ、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまの聖さを冒しているものとして、聖なる御怒りの下にある私たちを、ご自身の意志によってあえて愛してくださった愛でありあわれみです。そのような私たちを贖うためには御子が人の性質を取って来てくださって、私たちの上に下されるべき御怒りをすべてその身に負ってくださらなければならないということを分かっておられてもなお、そのご意志を貫き通してくださった愛とあわれみです。それで、私たちは、この愛とあわれみによって備えられ、成し遂げられた贖いの御業によって、御子イエス・キリストにある父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに回復されています。
 このことは、先週お話ししたことに深く関わっています。ペテロの手紙第一・1章4節で、

また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

と言われているときの「資産」は神の子どもたちに与えられている「相続財産」のことです。そして、先週お話ししましたように、この「相続財産」の中心は、神さまご自身であり、神さまとの愛にあるいのちの交わりという祝福にあります。神さまは、ご自身の契約によって保証してくださった愛とあわれみによって、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださっておられます。
 第二のことですが、ヘセドということばによって表わされる神さまの契約のうちに示され保証されている愛とあわれみは、三位一体の御父、御子、御霊の間に通わされている無限、永遠、不変の愛をそのままこの世界に現わすものではありませんが、その無限、永遠、不変の愛のこの上ない現われです。この愛とあわれみは三位一体の神さまの無限、永遠、不変の愛に根差しており、その無限、永遠、不変の豊かさからあふれ出た愛とあわれみです。
 ローマ人への手紙5章5節には、

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と記されています。私たちがこの愛とあわれみの現実に触れることができるのは、血肉の力によることではなく、御霊のお働きによることです。そして、御霊のお働きによって、御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛に触れた私たちは、確かに、神さまは無限、永遠、不変の栄光に満ちた方であると告白いたします。この愛とあわれみにおいて、神さまの無限、永遠、不変の栄光に満ちた聖さと、罪人である私たちに対する無限、永遠、不変の愛がまったき調和のうちに、私たちに啓示されているからです。
 私たちは、御霊のお働きによって、御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛に触れることによって、神さまの聖さをわきまえることができるようになりました。それで私たちは神さまを無限、永遠、不変の栄光の主として礼拝しています。ですから、私たちの礼拝の根底には、ヘセドということばによって表わされる神さまの契約のうちに示され保証されている愛とあわれみが働いています。この愛とあわれみによって父なる神さまは御子を遣わしてくださり、この愛とあわれみによって御子イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださって私たちの贖いを成し遂げてくださいました。そして、この愛とあわれみによって御霊は私たちを御子イエス・キリストに結び合わせてくださって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生かしてくださっています。
 この愛とあわれみは、神さまのご意志から出たものであるので、私たちのあり方に左右されることはありません。ですから、私たちは、自分が深い罪を犯したことに気がついたときには、この神さまの愛とあわれみを思い出さなければなりません。私たちは、どのようなときにも、神さまの愛とあわれみに対して決して失望してはならないのです。神さまがこの愛とあわれみをご自身の契約において保証してくださっているのは、そのことのためでもあります。
 それで、私たちは、パウロと心を合わせて、ローマ人への手紙8章31節〜39節に記されている、

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

ということを告白することができます。
 ここでパウロが確信をもって告白している「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛」が、ヘセドということばによって表わされる神さまの契約のうちに示され保証されている愛とあわれみです。そして、この「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛」こそが、私たちが受けついている「相続財産」の中心です。

 


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