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説教日:2003年1月19日 |
3節後半と4節には、 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と記されています。 先週お話ししましたように、 生ける望みを持つようにしてくださいました。 と訳されている部分は「生ける望みへと」ということで、 私たちを生ける望みへと新しく生まれさせてくださいました。 ということになります。これは、神さまが「私たちを新しく生まれさせて」くださった結果、私たちが「生ける望み」を持つようになったということですので、新改訳の訳に問題はありません。ここで「生ける望みへと」という文字通りの訳にこだわるのは、後ほどお話ししますが、これと同じ「 ・・・・ へと」という言い方が、これに続く4節でもなされていて、それにも意味があると考えられるからです。 また、ここでは、私たちを新しく生まれさせてくださったことが「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づいているだけでなく、「生ける望み」も「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づいているということが示されています。この「生ける望み」は「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づいているので、真に「生ける望み」であるのです。 「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」は、すでに歴史の中で起こったことです。イエス・キリストは今から二千年前に死者の中からよみがえられました。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」は、ただ単に、一度死んだ人が生き返ったということではありません。一度死んだ人が何らかのことで生き返ったという場合には、その人は、やがて何年かして再び死ぬことになります。しかし、ローマ人への手紙6章9節に、 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 と記されていますように、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」は、イエス・キリストによって死の力が打ち砕かれたということを意味しています。 それがどのようなことかは、皆さんがすでにご存知のとおりですが、簡単にまとめておきましょう。 死は神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、神さまの御前に堕落してしまったことに対するさばきとしてもたらされたものです。子のことを背景として、イエス・キリストは私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、私たちの罪に対する刑罰をその身に負って十字架にかかって死んでくださいました。それによって、私たちの罪に対する刑罰はすべて終わっています。ローマ人への手紙8章3節には、 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 と記されています。御子イエス・キリストは私たちの罪をすべて清算してくださっています。それで、私たちは、罪に対するさばきとしての死を経験することはなくなりました。私たちも、終わりの日の御子イエス・キリストの再臨の日まで生きていれば別ですが、肉体的に死を迎えます。しかし、その死は私たちの罪に対するさばきとしての意味をもっていませんので、私たちは滅びることはありません。 さて、ピリピ人への手紙2章6節〜9節には、 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 と記されています。イエス・キリストは十字架の死に至るまでも父なる神さまのみこころに従い通されたので、その完全な従順に対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。そして、その父なる神さまのみこころは、ヨハネの福音書6章38節〜40節に記されているとおり、イエス・キリストご自身が、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 とあかししておられます。イエス・キリストはこのような父なる神さまのみこころにそって、十字架の死に至るまで父なる神さまに従順であられました。そして、その結果、死者の中からよみがえられたのです。 ですから、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」は、終わりの日に私たちがよみがえることの土台であり先駆けです。ただし、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」と、終わりの日に私たちがよみがえることの間には、根本的な違いがあります。イエス・キリストは十字架の死に至るまでの完全な従順に対する報いとして栄光あるいのちを獲得され、死者の中からよみがえられました。それによって、イエス・キリストは私たちの贖いの土台となられ、私たちのよみがえりのいのちの源となられました。私たちは、ただ、恵みにより、信仰によって、このすべてにあずかるのです。イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださったことにあずかっているのです。 ペテロの手紙第一・1章4節には、 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 と記されています。 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。 という訳は意訳で、文字通りには、 朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産へと ということです。これは、3節で、 私たちを生ける望みへと新しく生まれさせてくださいました。 と言われていることの「生ける望みへと」ということばと同じ言い方です。それで、この二つをそろえて訳せば、 私たちを生ける望みへと新しく生まれさせてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産へと(新しく生まれさせてくださいました)。 となります。 それで、ちょうど父なる神さまが、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づいて、私たちを新しく生まれさせてくださった結果、私たちが「生ける望み」を持つようになったのと同じように、父なる神さまが私たちを新しく生まれさせてくださった結果、私たちは「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を持つようになったのです。さらに、ちょうど「生ける望み」が「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づいているように、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」も、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づいています。 この「資産」と訳されたことば(クレーロノミア)は「相続財産」を表わしています。ですから、これは、私たちが自分で築き上げた財産ではなく、父なる神さまの「大きなあわれみ」によって私たちに与えられているものです。 古い契約の下では、この「相続財産」はおもに約束の地を意味していました。それは、まず、アブラハムに約束されました。創世記17章7節、8節には、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 と記されています。 ここには、アブラハムに与えられた神である主の契約のことが記されています。この契約については、すでにいろいろな機会にお話ししましたので、結論的なことだけをお話しします。この契約の中では、相続財産のことは、8節で、 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 と言われています。これについて二つのことをお話ししておきたいと思います。 第一に、この相続財産としての約束の地に関する約束は、これだけで独立しているのではありませんし、主のアブラハムに対する契約の中心であるのではありません。主のアブラハムに対する契約の中心は、主のその他の契約と同じく、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 という主の契約の祝福にあります。これは、主がアブラハムとその子孫の間にご臨在してくださること、そして、アブラハムとその子孫が主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるということを約束してくださったものです。カナンの地は、主がご自身の民の間にご臨在してくださるために聖別された地なのです。 カナンの地について、申命記12章2節〜5節には、 あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。 と記されています。 あなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所 というのは、言うまでもなく、エルサレムにあるシオンの丘のことで、アブラハムがそのひとり子であるイサクをささげた所であり、後にそこに神殿が建てられるようになります。この戒めでは、それ以外の偶像の神々とその祭壇を約束の地から一掃しなければならないと戒められています。それは、イスラエルの民が相続した約束の地が、天と地を造られた神である主がご臨在される場所として聖別されているので、そこに偶像が存在する余地がないからです。 このこととの関連で言いますと、ペテロの手紙第一・1章6節では、 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。 と言われていて、 わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。 というレビ記の戒めが引用されていました。このレビ記の戒めは、主の契約の民がこのように聖別された約束の地で主のご臨在の御前に生きることにとって、最も基本的な戒めであるわけです。 このように、アブラハムに約束された相続財産は、単なる土地ではありません。そこに契約の神である主がご自身の契約に基づいてご臨在してくださり、ご自身の民をご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるために聖別された地のことです。ですから、その相続財産の中心は、 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 という約束の最後に語られている、 わたしは、彼らの神となる。 ということばに示されていますように主ご自身です。そのことは、たとえば、詩篇16篇5節において、 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。 あなたは、私の受ける分を、 堅く保っていてくださいます。 と告白されています。さらに、73篇25節、26節には、 天では、あなたのほかに、 だれを持つことができましょう。 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。 この身とこの心とは尽き果てましょう。 しかし神はとこしえに私の心の岩、 私の分の土地です。 と告白されています。これらの詩篇で「ゆずりの地所」とか「分の土地」と訳されていることば(ヘーレク)は「相続財産」を意味しています。そして、それは神である主ご自身のことであると言われています。 アブラハムに与えられた契約に約束されている相続財産について第二に注意したいことは、 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 という主のことばに見られますように、相続財産を相続することは将来において実現するという視点があるということです。実際、これまで繰り返しお話ししてきましたが、古い契約の下における約束の地であるカナンは、地上的なひな型です。それで、古い契約の下にあった人々にとっては、その相続財産を所有することは後の時代になって実現することでした。ヘブル人への手紙11章8節〜10節に、 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。 と記されており、13節に、 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 と記されているとおりです。 このことは、ある意味では、新しい契約の下にある私たちにも当てはまります。ヘブル人への手紙11章13節では、古い契約の下にあった主の民は「地上では旅人であり寄留者」であったと言われています。ペテロの手紙第一・1章1節に記されているように、ペテロはその手紙の読者である小アジアのクリスチャンたちのことを、「散って寄留している ・・・・ 人々」と呼んでいます。[ヘブル人への手紙で「寄留者」と訳されていることば(パレピデーモス)は、ペテロの手紙第一では「散っている人々」と訳されています。]古い契約の下にあった人々が「地上では旅人であり寄留者」であっただけでなく、新しい契約の下にある私たちも、この世では「散って寄留している」者であるのです。 ヨハネの福音書18章36節に記されているように、イエス・キリストはローマ帝国を代表しているピラトに対して、 わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。 とあかしされました。私たちが相続する御国は、この世のものではありません。 すでにいろいろな機会にお話ししましたように、聖書においては御国というのは領土のことではなく、王の支配権にあります。王がいて支配権を行使していれば、そこに国が成り立っています。イエス・キリストが捕らえられてピラトの前であかしを立てておられるとき、そこにイエス・キリストの御国が現われています。そして、その御国との関係でピラトも決断を迫られていました。このことは、主の契約の民の相続財産の中心が地上的な土地そのものにあるのではなく、そこに神である主がご臨在してくださって、ご自身の民をご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださることにあるということに対応しています。 実際、聖書の中では、主の契約の民が相続財産を受け継ぐことが、しばしば、御国を受け継ぐこととして表わされています。たとえば、マタイの福音書25章34節には、 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」 と記されています。また、ヤコブの手紙2章5節には、 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。 と記されています。 ペテロの手紙第一・1章4節では、 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。 と言われていて、私たちが受け継ぐべき相続財産のことが、三つの否定的なことば(形容詞)で説明されています。 最初のことばは、「朽ちることがない」ということば(アフサルトス)です。これは壊れてしまったり腐ってしまったりすることがないことを表わします。他の二つのことばとの比較で言いますと、これは存在そのものが、時間の経過によっても、外部からの力によっても、決して崩れ去ってしまうことがないという面を表わしています。神の子どもたちが受け継ぐべき相続財産の存在そのものの確かさです。 18節では、 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 と言われていますが、この「朽ちる物」の「朽ちる」ということば(フサルトス)が、4節の「朽ちることがない」(アフサルトス)の反対のことばです。(「ア」は「not」を意味しています。)ですから、私たちが受け継ぐべき相続財産は、「銀や金のような朽ちる物」ではないのです。 次に用いられているのは、「汚れることがない」ということば(アミアントス)です。(このことばの初めにも「ア」がついています。)これは、最初の「朽ちることがない」ということばが存在そのものが決して崩れ去ることがないことを表わすのに対して、倫理的な特性としての聖さや善さを表わします。私たちが受け継ぐべき相続財産は、道徳的にも霊的にも決して汚れることがないということを表わしています。コリント人への手紙第一・6章9節、10節で、 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。 と言われているのは、この面との関わりでのことです。これに続く11節では、 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。 と言われています。イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、罪と汚れをきよめていただいた者が相続するいのちは「汚れることがない」いのちです。ただし、それは終わりの日のイエス・キリストの再臨の日に、私たちのからだがよみがえるときに、そのように完全にきよめられた者、まったき者となります。 最後に用いられているのは、「消えていくことがない」ということば(アマラントス)です。(このことばの初めにも「ア」がついています。)これは新約聖書ではここだけに用いられていることばで、花が色あせて枯れていくこととの対比で、色あせて枯れていくことがないことを表わします。これは、私たちが受け継ぐべき相続財産である御国のうるわしさに触れるものです。 ある人々は、天国があったとしても、そのようなところでずっと生きるのであれば、すぐに飽きてしまって、退屈なはずだと言います。この「消えていくことがない」ということは、それとは正反対のことを意味しています。イエス・キリストの御国は私たちにとって常に新鮮な美しさに満ちたところであって、決して色あせて見えることはないのです。それは、存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる神さま、それゆえに聖なる神さまは、その美しさにおいても無限、永遠、不変です。神の子どもたちが受け継ぐべき相続財産としての御国は、神さまの美しさを豊かに反映するところです。その美しさは、神の子どもたちにとっては常に新鮮なもののであるのです。 これら三つの特性のうちのどれか一つでも持つものは、この世には存在していません。しかし、これら三つの特性をすべて兼ね備えて持っている存在がすでに歴史の中に実現しています。それが、十字架にかかって私たちの罪のための贖いを成し遂げてくださった後に、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストご自身です。そして、この栄光のキリストのよみがえりのいのちは、私たちを新しく生まれさせてくださったいのちとして、すでに、御霊によって私たちのうちで働いています。 ペテロの手紙第一・1章4節で、 朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産へと(私たちを新しく生まれさせてくださった)。 と言われているときの「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」は、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づいているものですので、真に「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」なのです。 |
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