(第110回)


説教日:2003年1月12日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章13節〜25節


 これまで、ペテロの手紙第一・1章14節〜16節の、

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

という戒めを中心として、私たちが聖なるものであるべきことについてお話ししました。
 これに先立つ13節には、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

と記されています。この戒めの中心は「待ち望みなさい」ということばにあります。ですから、これは、神の子どもたちに与えられている望みにかかわる戒めです。
 そして、ここに記されている戒めを受けて、14節〜16節に記されている聖なるものであるべきことを求める戒めが記されています。このことから、「聖なるものであること」が、私たちに与えられている望みとのかかわりで教えられているということが分かります。
 前に、「聖なるものであること」についてのお話の最後に二つのことをお話しして、このシリーズのお話を終わりたいということをお話しました。その一つはすでにお話ししました古代教会のドナトゥス派論争において示された、神の子どもたちの聖さは神である主が備えてくださった贖いの恵みの客観的な面を土台としているということです。実は、もう一つのことが、この「聖なるものであること」は神の子どもたちに与えられている望みに基づいているということです。これから、何回かかかると思いますが、このことについてお話ししたいと思います。
 13節に記されている、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

という戒めは「ですから」という導入のことばから始まっています。このことは、この戒めがそれに先立つ3節〜12節に記されていることを踏まえて記されていることを意味しています。それで、まず、3節〜12節に記されていることで、神の子どもたちの持つべき望みにかかわることをいくつか見ておきたいと思います。


 3節〜12節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。

と記されています。
 実は、3節〜12節に記されていることは、全体が長い一つの文です。そして、その中心は、3節の冒頭の、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

ということばです。ですから、3節〜12節に記されていることば全体が、「私たちの主イエス・キリストの父なる神」さまに対する一つの壮大な賛美なのです。この、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

ということばに続く3節後半〜12節に記されていることばは、神の子どもたちが父なる神さまを賛美するときの具体的な賛美の理由と内容を示しています。たとえば、3節に記されていることについて言いますと、

ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました

父なる神さまが、ほめたたえられますように、ということになります。
 このように、3節〜12節には父なる神さまに対する賛美が記されていますが、その賛美の具体的な内容の出発点が、3節〜5節に記されています、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

ということです。ここでは、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおしてすでに成し遂げてくださっている救いの恵みに私たちをあずからせてくださっていることと、さらにその救いの完成に対する望みのうちに私たちを生かしてくださっていることが述べられています。
 私たちが取り上げている13節では、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

と記されていて、やはり、神の子どもたちに与えられている望みのことが述べられています。それで、この13節に記されていることばは、基本的に、3節〜5節に記されていることを受けていると考えられます。
 まず、3節に記されている、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

ということばにしたがって、神の子どもたちに与えられている望みに注目してみましょう。
 ここでは、最初に、すべてが父なる神さまの「大きなあわれみ」によっていることが示されています。この「あわれみ」ということば(エレオス)は、旧約聖書において、神さまの契約によって保証されている真実で変わることがない愛とあわれみを示すことば(ヘセド)に対応しています。神さまが一方的な恵みによってご自身の民に示してくださっている愛とあわれみが、私たちに対しても変わることなく示されているということです。そればかりか、ここで「大きなあわれみ」というように「大きな」ということば(ポルース)がつけられていますように、神さまの愛とあわれみは、御子イエス・キリストの血による新しい契約の民としていただいている私たちには、さらに豊かなものとなっているのです。
 神さまは、この「大きなあわれみ」によって「私たちを新しく生まれさせて」くださったと言われています。これは(不定過去時制で表わされていて)すでに私たちに対して一度限り決定的になされた神さまの御業であることを示しています。「私たちを新しく生まれさせて」くださったのは神さまです。そして、それはただ神さまの「大きなあわれみ」によることであって、私たちの力によることではありません。私たちはそれにあずかって新しく生まれているのです。
 ここでは、神さまが、

私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

と言われています。これは、

私たちを生ける望みへと、新しく生まれさせてくださった

というような言い方ですが、神さまが「私たちを新しく生まれさせて」くださったことによって、私たちは「生ける望みを持つように」なったということです。そして、このすべてが、ただ神さまの「大きなあわれみ」によることです。
 さらには、このことが「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことに」基づいてなされたと言われています。一般には、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」は「私たちを新しく生まれさせて」くださったことと結びつけて考えられます。ここでは、それだけではありません。神さまが「私たちを新しく生まれさせて」くださったことよって私たちが持つようになった「生ける望み」も、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことに」基づいているのです。
 この「生ける望み」は、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことに」基づいているので「生ける望み」であるのです。このことにはいくつかのことがかかわっています。それを、過去のこと、現在のこと、そして将来のことという三つの面から見てみましょう。
 まず第一に過去のこととのかかわりですが、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」は、今から二千年前に起こった歴史的な事実であって、人間が想像したお話ではありません。「生ける望み」は「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」という歴史的な事実に根差しています。
 さらに「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」には意味があります。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」は、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことが、確かに、私たちの罪を贖う死であり、その贖いが完成しているということを、父なる神さまが認証されたことのあかしです。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」において私たちの救いのために必要なことはすべて成し遂げられています。
 コリント人への手紙第一・15章17節〜19節には、

もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

と記されています。イエス・キリストは、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの義に基づくさばきをすべてその身にお受けになりました。その意味で、イエス・キリストは私たちに代わって地獄の刑罰を経験されました。そのイエス・キリストがそのままよみがえらなかったとしたら、それは、私たちの罪に対する償いが終わっていないということを意味しています。イエス・キリストも、私たちの罪のせいでですが、滅びに服し、私たちの罪は贖われていないということになってしまいます。
 しかし、実際には、そうではありません。使徒の働き2章23節、24節には、ペンテコステの日になされたペテロのあかしが記されています。そこでは、

あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

と言われています。
 また、ヘブル人への手紙2章14節、15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。
 このようにして、私たちの罪はイエス・キリストの死によってまったく贖われています。それで、イエス・キリストにおいては、罪がもたらすさばきとしての意味をもっている死は、その力を失っています。ですから、私たちは「この世にあってキリストに単なる希望を置いているだけ」の者ではありません。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づく「生ける望み」を持っているのです。
 次に現在のこととのかかわりを見てみましょう。
 いまお話ししましたように、イエス・キリストは二千年前に十字架にかかって死んでくださいました。それによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。さらに、私たちをご自身の復活のいのちで生かしてくださるために、死者の中からよみがえってくださいました。これによって、私たちが救われるために必要なすべてのことが成し遂げられました。そればかりではありません。このすべてを成し遂げてくださったイエス・キリストは、復活の主として、今も生きておられます。イエス・キリストは栄光を受けてよみがえられた後、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されました。そして、今も父なる神さまの右の座に着座しておられます。
 よみがえられたイエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたのは、私たちの仲保者として、王、祭司、預言者のお働きを続けてくださるためです。その中心は、御霊を遣わしてくださって、御霊によって、私たちにご自身が成し遂げられた贖いを当てはめてくださるお働きです。
 ローマ人への手紙8章28節〜30節には、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されています。これは、御子イエス・キリストが父なる神さまの御許から遣わしてくださった御霊が私たちのうちに実現してくださることです。
 さらに、同じ8章33節、34節には、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されています。これも、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、私たちの大祭司としてなしていてくださるお働きです。言うまでもなく、このお働きは、ご自身が私たちのために成し遂げてくださっている贖いの御業に基づいてなされます。
 この大祭司としてのお働きについてさらに見てみますと、黙示録12章10節には、

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」

と記されています。
 私たちは新しく生まれていますが、私たちの中にはなお罪の性質が残っており、実際に私たちは罪を犯します。それで、私たちを神さまの御前で告発する告発者は、その告発を続けています。しかし、この告発者とその告発は神さまの御前では力を失いました。なぜなら、イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪がまったく贖われているからです。そして、その告発に対して、

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださる

からです。
 もちろん、それで告発者がその告発を止めるわけではありません。先ほど引用しました黙示録12章10節に記されている、地上に「投げ落とされた」告発者は、その活動を続けています。告発者は、自分の告発がもはや神さまの御前、すなわち天の法廷では通用しないことを知っています。しかし、地上ではまだ活動の余地があることを知っているのです。それは、地上では、今なお罪の性質を宿している神の子どもたちを欺く余地があるからです。
 もし私たちが、ただ神さまの一方的な恵みによる愛とあわれみによって救われて、新しく生まれているということを忘れて、自分が神さまの御前で聖い生き方をしてきたという思いを頼みとしたり、自分がなしてきた奉仕などを頼みとして、神さまの御前に立とうとしているとしたら、この告発者の思うつぼです。そのようにするとき、私たちは福音のみことばから外れてしまっています。また、そのような考え方をしているときに罪を犯しますと、私たちはもはや自分は神さまの御前に立つことができないという思いに捕らえられて絶望してしまいます。この絶望を生み出すことこそが、地上で働く告発者が画策していることです。私たちの思いが福音のみことばから外れて、自分の行ないを頼みとし始めた途端に、私たちは告発者のわなにはまってしまいます。そして、「生ける望み」を失ってしまいます。
 そのような私たちに対して福音のみことばは、徹底して福音をあかししています。ヨハネの手紙第一・2章1節、2節には、

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、―― 私たちの罪だけでなく全世界のための、―― なだめの供え物なのです。

と記されています。また、ローマ人への手紙8章26節、27節には、

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

と記されています。
 新しく生まれているとはいえ、自らのうちに罪を宿しているために、神さまの御前に罪を犯してさまよいやすい私たちのために、父なる神さまの御前では、ご自身が私たちの罪のための「なだめの供え物」となってくださったイエス・キリストが執り成しの祈りをしてくださっています。また、地上にある私たちの間では、告発者が画策しているだけではありません。私たち一人一人のうちに、また私たちの間に宿ってくださっている御子イエス・キリストの御霊が、私たちのために執り成していてくださるのです。
 ローマ人への手紙8章16節には、

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

と記されています。
 地上にあって私たちのために執り成していてくださる御子イエス・キリストの御霊は、「私たちの霊とともに」「私たちが神の子どもであること」をあかししてくださいます。それは、私たちに福音のみことばを悟らせてくださって、私たちをイエス・キリストの十字架の死と支社の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いを信じるように導いてくださることによっています。しかし、もし私たちがこの福音から逸れてしまいますと、私たちは御霊のあかしを退け、自らの罪のために絶望して、告発者の告発を受け入れてしまうことになります。
 このように、「生ける望み」が「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づいているということは、それが、今も生きておられて、私たちのために仲保者としてのお働きを続けておられるイエス・キリストにあっての望みであるということでもあります。
 さらに、将来のこととのかかわりで見てみましょう。
 言うまでもなく、「生ける望み」は望みですから、それは将来に向けてのものです。ローマ人への手紙8章24節に、

私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

と記されているとおりです。そうであれば、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づく「生ける望み」も、将来私たちに与えられる救いの完成に対する望みです。先ほど引用しました.24節の前の23節には、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されています。この「私たちのからだの贖われること」というのは、私たちが『使徒信条』で「からだのよみがえりを信ず」と告白していることで、終わりの日に、私たちが「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」にあずかって、よみがえることを意味しています。
 ピリピ人への手紙3章20節、21節には、

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

と記されています。
 これは、神さまがご自身の契約のみことばにおいて約束してくださったことです。それで、終わりの日のよみがえりにおいて、私たちの救いが完成することを待ち望む私たちの望みは、神さまの約束の確かさに根差した望みとして「生ける望み」なのです。この意味で、「生ける望み」は、死んでいて失望に終わるこの世の望みと対比されます。
 さらにこれには、もう一つの面があります。先ほど一部を引用しましたが、ローマ人への手紙8章18節〜25節には、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

と記されています。
 ここに記されていることについては、すでに、いろいろな機会にお話ししましたが、ここでは、神の子どもたちの望みが、全被造物の栄光化という壮大な神さまのご計画の中に位置づけられています。そして、19節〜21節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されているとおり、私たちが神の子どもとしての栄光の完成にあずかるときに、全被造物もそれにふさわしい栄光にあずかることになると言われています。
 神さまは天地創造の御業によって、この世界をご自身の栄光を現わす、よい世界としてお造りになりました。しかし、神のかたちに造られて、この世界を治める使命を委ねられた人間が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、人間が罪のさばきとしての意味をもっている死の力に捕えられてしまっただけではありません。「被造物が虚無に服し」、「滅びの束縛」に捕らえられてしまったのです。それで、神さまは、神のかたちに造られている人間のために救いの御業を成し遂げてくださいました。それは、人間の罪による堕落によって「虚無に服した」被造物にとっては、

滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる

という福音の望みにあずかることを意味しています。
 ローマ人への手紙では、このような視野の広がりの中で、私たちの救いが明らかにされています。それで、8章29節、30節に、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されていることは、私たちの救いの完成と栄光化を示していますが、それは、また、全被造物が

滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる

ということの完成を意味しています。
 さらに、コリント人への手紙第一・15章20節には、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と記されています。ここでは、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」は「眠った者の初穂」としての意味をもっていることが示されています。「初穂」はその後に続く「実」を代表しています。23節に、

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

と記されているとおり、「初穂」としてのイエス・キリストのよみがえりは、「キリストの再臨のときキリストに属している者」のよみがえりの保証であり先駆けです。私たちは「初穂」としてすでによみがえられたイエス・キリストに結び合わされて、「キリストの再臨のときキリストに属している者」としてよみがえるのです。
 さらに、これに続いて、24節〜28節には、

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

と記されています。ここでも、私たちが「キリストの再臨のときキリストに属している者」としてよみがえることが、「万物」の回復につながっていることが示されています。
 このように、父なる神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業は、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために損なわれてしまっている創造の御業を回復し、さらに完成させるものです。
 このように見ますと、私たちが「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づいて新しく生まれた結果、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」に基づく「生ける望み」を持っているということは、三位一体の神さまが遂行された創造の御業と贖いの御業の完成に深くかかわっています。その全被造物の完成と栄光化という神さまのご計画が実現し完成するということの中に、私たちの「生ける望み」は「生ける望み」として働いているのです。ですから、私たちは、神さまの約束は必ず実現するという確信に基づいて、私たちの望みが「生ける望み」であることを確信していますが、それだけでなく、創造の御業と贖いの御業にかかわる神さまのご計画は必ず実現するという、私たちの確信の中で、「生ける望み」の確かさを確信しているのです。
 ペテロの手紙第一・1章13節に記されている、

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

という戒めは、私たちにこのような「生ける望み」が与えられていることを踏まえています。この戒めは、さらに4節、5節に記されている救いの恵みが与えられていることも踏まえていますが、それについては改めてお話しします。

 


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