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説教日:2003年1月5日 |
このように、14節〜16節に記されている戒め全体を貫いているのは、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりをもって成し遂げてくださった贖いの御業に基づく恵みです。私たちは贖いの恵みによって神さまとの愛にあるいのちの交わりに生かしていただいているので、聖なるものとなるべきであると戒められています。もちろん、私たちが聖なるものとなることも私たち自身の力によることではなく、贖いの恵みによることであり、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによることです。 御霊はイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになりますが、私たちに対しては福音のみことばとともにお働きになります。御霊は私たちに御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を当てはめてくださり、私たちを新しく生まれさせてくださいました。そして、私たちに福音のみことばを悟らせてくださって、私たちのうちに福音のみことばによってあかしされているイエス・キリストと、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に対する信仰を起こしてくださいました。その御霊のお働きは今でも変わることはありません。 このように、御霊は、私たちに対して福音のみことばとともにお働きになります。それで私たちは、御霊が用いてくださる恵みの手段は福音のみことばであると告白しています。御霊が福音のみことばとともに働いてくださるということは、前回お話ししました22節、23節で、 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 と言われていることに反映しています。 また、これは、2章1節〜3節に記されている、 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。 という戒めにも反映しています。 この2章1節〜3節に記されていることの全体が一つの戒めです。その中心は、 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。 という戒めにあります。 この「慕い求めなさい」と訳されていることば[エピポセオー(の命令法)]は意味の強いことばです。ここで言われていることに合わせて言いますと、いわば、それがなければ生きてはいけないというほどに欲しがるということでしょう。「生まれたばかりの乳飲み子」は「乳」がなければ生きてはいけません。 また「みことばの乳」の「みことばの」と訳されていることば[ロギコス(形容詞)]は、「理性的な」とか「合理的な」という意味合いのことばです。新約聖書では、このほかローマ人への手紙12章1節に出てくるだけです。そこには、 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 と記されています。この「霊的な礼拝」の「霊的な」と訳されていることば(ロギコス)がそれです。それで、新改訳の欄外には「みことばの乳」の「みことばの」の別訳として「霊的な」という訳が上げられています。このペテロの手紙第一の文脈では、これに先立つ部分で神さまのみことばのことが語られていますので、「みことばの乳」の方が本来の意味であろうと考えられます。 さらに復習ですが、1章16節に引用されている わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。 という戒めはレビ記からの引用です。レビ記においては、同じ言葉遣いではありませんが、同じ主旨の戒めが三回出てきます。そして、それぞれが、違ったことがらを取り上げる中で語られています。それによって、お互いが補い合って、主の民が聖なるものでなければならないということの意味の広がりが示されています。 それをまとめますと、積極的な面と消極的な面に分かれます。積極的には、主の民は、食べることという、生活のごく日常的なことから始まって、礼拝を中心とする主との関係や、家族関係を始めとする社会生活のあり方において、聖なるものであるべきことが示されています。生活のあらゆることがらを契約の神である主との関係においてなすことにおいて、聖別していくということです。 また、消極的な面として、イスラエルの民は周囲の国々の民の風習に従わないようにと戒められていました。その風習には、自分たちの子どもたちをいけにえとしてモレクにささげるというような、まことに忌むべきものがありました。 この消極的な面は、ペテロの手紙第一では1章14節の、 以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず という戒めに反映しています。他の人と区別するというよりは、自分自身が「無知であったときの」状態と区別するということが示されています。 ここで注意すべきことは、「さまざまな欲望」(エピスミアの複数形)は、必ずしも情欲や肉欲というような悪い意味の欲望のことではないということです。それは強い願いのことですが、この場合には、「無知であったときの」ということばが示していますように、霊的な無知から生まれてくる強い願いのことです。 聖書で言う「霊的」ということは、世間一般で言われる「霊的」ということとは意味が違います。聖書においては「霊的」ということは感情的ということではありませんし、気持ちが高揚して恍惚状態になるということでもありません。それは、「御霊による」ということを意味しています。この御霊によるということについては、コリント人への手紙第一・2章11節〜14節に、 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 と記されています。 天地創造の御業の初めに神のかたちに造られた人には、造り主である神さまに対するわきまえ、すなわち本来の「神の観念」が与えられていました。それは、神さまが御霊によって人に働きかけてくださって、ご自身を示してくださるためでした。それによって人は神さまを、絶えることがない生き生きとした交わりの中で知ることができました。動物には造り主である神さまに対するわきまえ(神観念)がありませんので、動物たちは神さまの御手に支えられていますが、神さまとの愛にあるいのちの交わりはできません。 このように、神さまが御霊によって神のかたちに造られている人間に働きかけてくださって、ご自身を生ける方として示してくださることが「霊的」ということの基本的な意味です。今日では、主の民を造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生かしてくださる御霊のお働きは、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、福音のみことばとともにお働きになるという形においてなされます。 もちろん、御霊はより一般的に、造られたすべてのものを支えるお働きをなさっておられます。その中には、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間が、その罪をむき出しにして悪にだけ傾くことがないように、一般恩恵によって啓発し支えてくださっているお働きがあります。しかし、今ここでお話ししている「霊的」ということは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、主の民を神さまとの愛にあるいのちの交わりを回復してくださる御霊のお働きのことです。 いずれにしましても、ペテロが、 以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず というときの「無知」は霊的な「無知」のことで、人が罪を犯して堕落してしまっているために、造り主である神さまに対するわきまえがなくなってしまっている状態を指しています。そこでは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊がみことばとともに働いてくださって示してくださることは、愚かなことととして退けられてしまいます。それによって、その人の中では霊的な「無知」が、さらに深くなっていきます。 そのような霊的な「無知」の状態にある人間のうちに、いろいろな強い願い(エピスミア)が生まれてきます。しかしそれは、神さまへの愛から生まれてきたものではありません。その意味で、神さまの御前に根本的な欠けがあります。 ある人の回想ですが、その人は小学生のころにお父さんを亡くしましたので、お母さんが働きに出ていました。その人が学校から帰ってくると、おやつが置いてある戸棚がありまして、いつもそこを開けて置いてあるおやつを食べました。その人にとっては、そのおやつは、毎日、お母さんがその人のことを考えて置いておいてくれたものでした。しかし、その人は、初めからそのことに気がついていたわけではありません。ある日、戸棚を開けてもおやつがなかったのです。そのようなことは一度しかなかったのですが、その時には、ただおやつがないというだけのこととは違う、何とも言えない寂しさを感じました。その経験と記憶が、その人に、物を介しての関係の奥には、人としてのつながりがあるということを思い起こさせてくれるようになりました。その人はおやつを食べる時には、同時にお母さんの配慮も受け取っていたということ、そして、それこそが自分にとっていちばん大切なものであることに気づいたのです。 神さまは人を神のかたちにお造りになって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。そして、そのために必要なすべてのものを備えてくださいました。神のかたちに造られている人の中には、ご自身に対するわきまえ(本来の「神の観念」)を与えてくださっていますし、御霊によってご自身を示してくださっています。さらには、人が神さまがお造りになった世界に生きていくために必要なものも備えてくださっています。そのようにして、人は、すべてのことが造り主である神さまをあかししている世界に置かれています。それで、食べたり飲んだりするというごく日常的なことにおいて、神さまのご配慮に触れ、神さまの愛の御手を身近に覚えることができるのです。 人は神のかたちに造られているものとして、自由な意志を与えられており、自分のあり方と生き方を自分で選ぶことができます。また、そのために必要なさまざまな能力や賜物も与えられています。それで、人の中からさまざまな願いが生まれてきます。それはすべて造り主である神さまの御前におけることです。造り主である神さまのご配慮を身近に覚えて神さまとの交わりを深く豊かなものにすることができるようにと、神さまが与えてくださっているものです。それなのに、肝心の神さまを追いやってしまうことは、このすべてにおいて最も大切なことを欠いてしまいます。これが、霊的な「無知」の根本にあることです。 ですから、たとえ、世のため人のためにという志をもっているとしても、そこには神のかたちに造られている人間にとって最も大切な、造り主である神さまに対する愛が欠けています。もちろん、世のため人のためという志はよいものです。しかし、そのような志が生まれてくるのも、人が神のかたちに造られているからです。そして、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも、一般恩恵による御霊のお働きによって、その人の中によいものが保たれるとともに、それが啓発されているからです。それなのに、その人は神さまを神として愛することも、あがめることもありません。これが霊的な「無知」の状態です。 詩篇14篇1節には、このような霊的な「無知」の状態にある人のことが、 愚か者は心の中で、 「神はいない。」と言っている。 と記されています。以前お話ししましたように、これはただ単に心の中で「神はいない。」ということをつぶやいているということではありません。箴言4章23節に、 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。 いのちの泉はこれからわく。 と記されていますように、聖書では「心」は、人のあり方と生き方を決定しているものです。 愚か者は心の中で、 「神はいない。」と言っている。 ということは、その人の「心」が「神はいない。」という原理・原則にしたがって働く状態にあるということです。それは、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまっている人間が「神はいない。」という原理・原則にしたがって自分と世界を考え、「神はいない。」という原理・原則にしたがって生きているということを示しています。 その霊的な「無知」とは、あくまでも、造り主である神さまに対するわきまえがない状態を意味しています。しかし、神のかたちに造られている人間の中には、「神」に対するわきまえ、すなわち「神の観念」があります。本来の「神の観念」は造り主である神さまに対するわきまえです。ちょうど磁石が北を指すように、本来の「神の観念」は造り主である神さまを指し示します。しかし、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、「神の観念」は狂ってしまいました。それはもはや造り主である神さまに向くことはなくなってしまいました。 人間の堕落によって「神の観念」がなくなってしまったのではありません。それが罪によって腐敗してしまっているので造り主である神さまに向かなくなってしまったのです。造り主である神さまの御前に堕落してしまっている人の中には、腐敗している「神の観念」があります。それで、人はどうしても「神」を求めます。そして、さまざまな「神」を考え出します。それが、偶像と呼ばれるものです。そのような偶像の「神」を考え出すことも、それらを「神」として拝むことも、もともと神のかたちに造られ「神の観念」を与えられているものとしての根本的な欲求を満足させるためのことです。ですから、人間が偶像の「神」を考え出して、それを「神」として拝むことは、聖書の基準から言いますと、罪がもたらしている霊的な「無知」が生み出すことです。 このお話の前々回においては、この霊的な「無知」から、自分たちの子どもをモレクにいけにえとして献げるというような、まことに忌むべきことが生まれてきているということをお話ししました。その根底には、「神は人間がする奉仕に報いて人間の願うものを与えてくれる」という発想があります。これは、洋の東西を問わず、また時代の違いを越えて、すべての人間のうちにある発想です。 「神」は自分たちに奉仕させるために人間を造ったので、あるいは、神は人間の奉仕(お世話)を必要としているので、人間が自分たちに奉仕する度合いに応じて報いを与えてくれる。もし、人間が奉仕をしなければ、呪いや祟りを引き起こすというようなことです。これが原理化されて、因果応報の原理が生まれてきました。神は善いことをする人には報いを与えてくれるが、悪いことをする人にはさばきとしての災いや不幸を下すということです。 「神」についてのこのような発想から、「神」から多くのもの、あるいは是非とも必要なものを受け取るために、自分たちにとって大切な子どもまでもいけにえとして献げるというような習慣が生み出されてしまったわけです。 このような、モレク礼拝は極端な形で現われたものですが、その根底にある発想は因果応報の原理です。それは、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間の霊的な「無知」が生み出したもので、福音のみことばはそれとはまったく違うことを教えています。 神さまは聖なる方であり、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられます。ですから、ご自身において完全に充足しておらます。神さまが、神のかたちに造られている人間をお造りになったのは、人間の奉仕をお受けになるためではなく、人間をご自身の愛をもって満たしてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるためでした。 また、人間がご自身に対して罪を犯して御前に堕落してしまった後にも、このみこころを変えたもうことはありませんでした。御子イエス・キリストによって贖いの御業を成し遂げてくださって、再び、私たちがご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる道を開いてくださいました。このすべてを、ただご自身の愛に基づく恵みによって成し遂げてくださり、私たちをそれにあずからせてくださいました。私たちは、ただ、それを信じて受け取っているだけです。それに報いるとか、お返しをするというようなことは決してできません。まして、神さまの御前に自分の義を立てて、その自分の義に報いていただいて救いを獲得しようというような考え方は、福音のみことばがあかしすることを否定することです。 ローマ人への手紙3章23節、24節には、 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 と記されています。 確かに聖書の中にも、そこだけを見ると神さまが因果応報の原理で働かれると教えられているように見える個所があります。たとえば、ガラテヤ人への手紙6章7節、8節には、 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 と記されています。けれども、この教えは、福音のみことばがあかししている主の贖いの恵みを踏まえて語られています。そして、その前提となっている神さまについての考え方は、今お話ししましたように、この世の「神」の理解とまったく違っています。 御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 ということは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によることで、神さまの一方的な恵みによって私たちの現実となることです。また、 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り ということは、人間の奉仕を必要としている「神」が、怒り狂って人間に災いを下すということではありません。このすべてにおいて、人は自分が求めているもの、自分が蒔いたものを刈り取ることになるのです。ただ、霊的な無知の状態にあるときには、「御霊のために蒔く」ことは愚かで無意味なことに思え、「自分の肉のために蒔く」ことが意味あることであると思えてしまうのです。 このように、私たちは父なる神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、その恵みを受け取っているだけです。私たちがそれに報いるとか、神さまに何かをお返しするというようなことはできません。そうであるとしますと、たとえばペテロの手紙第一・14節〜16節で、 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。 と戒められていることを、どのように考えたらいいのでしょうか。また、そのほかの戒めを守るということをどのように考えたらいいのでしょうか。 結論的には、私たちが神さまの戒めを守ることは救いの根拠ではなく、救いの結果であると言うことができます。それがどのようなことであるかは、いろいろな機会にお話ししてきましたが、大切なことですので、ここでも確認しておきたいと思います。 私たちが救われていることの根拠は、御子イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって、私たちの罪を贖ってくださったことです。ですから、私たちの救いのの根拠は私たちのうちにはありません。私たちは、福音のみことばによってあかしされている、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりの意味を信じて、それを受け入れることによって罪を贖っていただいたのです。その贖いは、御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を清算するものですので、完全な贖いです。これによって私たちの罪は完全に贖われています。それで、私たちは確かに御子イエス・キリストの復活のいのちに生かされています。 このことを私たちの現実としてくださっているのは、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。繰り返しになりますが、御霊は私たちにイエス・キリストの贖いを当てはめてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださいました。それによって、私たちに福音のみことばを悟らせてくださり、そこにあかしされているイエス・キリストと、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いを信じるように導いてくださいました。そして、そのようにして、イエス・キリストを信じた私たちの罪をきよめてくださいました。これによって、私たちは父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしていただいています。 このことに基づいて、ペテロの手紙第一・1章14節では、「従順の子どもとして」ということばから戒めが始まっています。あなた方は父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みによって、すでに「従順の子ども」として生まれているのですから、「従順の子ども」として歩みなさいということです。「以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望」に従うのではなく、「あなたがたを召してくださった聖なる方」に従いなさいと戒められているのです。 普通の誕生でも、赤ちゃんが産まれたということは、その子の中で新しいいのちが活動を始めているということを意味しています。御霊によって新しく生まれるということも同じです。新しく生まれた人のうちには、栄光のキリストの復活のいのちが活動しています。ちょうど、ぶどうの枝がぶどうの木のいのちによって生かされているように、私たちもイエス・キリストの復活のいのちによって生かされています。そのいのちはどのように現われてくるのでしょうか。それがこの問題を理解する鍵です。 前にお話ししたことですが、ヨハネの福音書15章5に記されていますように、イエス・キリストは、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 と言われました。また、このことに基づいて9節、10節に記されていますように、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。 と教えてくださいました。そして、そのイエス・キリストの戒めは、12節に、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 と記されています。このことから分かりますように、イエス・キリストの復活のいのちは、私たちが互いに愛し合うことに現われてきます。 同じことがペテロの手紙第一・1章22節、23節には、 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 と記されています。 御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊は、私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださり、復活のいのちによって新しく生かしてくださいました。イエス・キリストの復活のいのちの実は、何よりも「偽りのない兄弟愛」です。そして、自らのうちに「偽りのない兄弟愛」をもっている者が「互いに心から熱く愛し合う」ことは最も自然なことです。 また、イエス・キリストの復活のいのちで私たちを生かしてくださるために御霊が用いてくださるのは福音のみことばです。御霊は、私たちの心を開いて福音のみことばを悟らせてくださり、そこにあかしされているイエス・キリストを信じさせてくださいました。それによって、私たちは罪をきよめていただき、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようにしていただきました。それで、 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 と言われています。その私たちが、福音のみことばにしたがって生きることは最も自然なことです。2章2節では、 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。 と戒められていますが、それも「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」によって生まれた私たちにとっては最も自然なことです。 大切なことは、主の戒めはすべて福音のみことばの中に示されているということです。どの宗教にも戒律があるように、キリスト教にも戒律があるというのとは意味がまったく違います。人間が考え出した宗教では、その戒律は救いを達成するためのものです。福音のみことばの中に示されていて、文の中で理解すべき主の戒めはそれとは意味が違います。福音のみことばは、まず、私たちが父なる神さまの愛と主イエス・キリストの恵みによって罪を贖っていただいており、御霊のお働きによって新しく生まれているということを明らかにしています。そして、福音のみことばのうちに示されている主の戒めは、御霊が私たちのうちにうちに生み出してくださっている新しいいのちが、主と兄弟への愛を中心として、最も自然な形で現われてくるための道筋を示しているのです。 私たちのうちにはなおも罪の性質が残っていますので、私たちは福音のみことばによってそのような道筋を示していただかなければなりません。そして、みことばとともに働かれる御霊によって、その道へと導いていただかなければなりません。私たちは自分自身のうちにある罪の性質のために、自分でも気づかないうちに道を踏み外してしまいます。主が福音のみことばによって本来の道筋を示してくださっているので、私たちは本来の道筋から逸れたときに、それに気がつき、悔い改めて本来の道筋に戻ることができるのです。 御霊は、私たちが常に御子イエス・キリストの贖いの恵みのうちに留まるように導いてくださいます。そして、御霊は、私たちがその贖いの恵みのうちにあって、主への愛と兄弟姉妹への愛に生きるように導いてくださいます。 |
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