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説教日:2002年12月15日 |
このこととのかかわりで注目したいのは、22節、23節に記されていることです。そこには、 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 と記されています。 この22節、23節に記されていることも、一つの戒めとしてのまとまりをもっています。その中心は、22節後半の、 互いに心から熱く愛し合いなさい。 ということばです。そして、このように、 互いに心から熱く愛し合いなさい。 と戒められていることにはやはり、前提となっていることがあります。それは二つあって、22節前半で、 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、 と言われていることと、23節で、 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 と言われていることです。 23節に記されている、 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 ということは、節の区切りの関係で独立した文として訳されていますが、独立した文ではなく、中心となっている、 互いに心から熱く愛し合いなさい。 という戒めを説明しています。その点は、22節前半の、 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、 ということばと同じ役割を果たしています。ですから、この、 互いに心から熱く愛し合いなさい。 という戒めは、この戒めの根拠となっている二つのことに挟まれて表わされています。ただ単に、 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。 と言われているだけでなく、 あなたがたは。生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによって、朽ちる種からではなく朽ちない種から新しく生まれたのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。 と言われているのです。この、 あなたがたは。生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによって、朽ちる種からではなく朽ちない種から新しく生まれたのですから という訳は、私が訳したものです。 言われていることの内容からしますと、 あなたがたは、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによって、朽ちる種からではなく朽ちない種から新しく生まれたのですから、 ということは、いわば、父なる神さまが、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって私たちを新しく生まれさせてくださったことを述べていますので、より根本的な根拠を示していると考えられます。そのように、神さまが私たちを新しく生まれさせてくださったので、私たちは、 真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった と言うことができます。 お話のつながりの関係で、まず、23節に記されている、 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 ということからお話しします。これは、すでにお話ししましたように、独立した文ではありません。そのことを表わすように訳し直しますと、先ほどのように、 あなたがたは、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによって、朽ちる種からではなく朽ちない種から新しく生まれたのですから、 となります。 まず、ここでは「あなたがたは ・・・・ 新しく生まれた」と言われています。これはすでになされたことの結果が今も続いていることを示すもの[完了時制(分詞)]です。私たちは、ある時、御霊のお働きによって新しく生まれたのですが、その後もずっと新しく生まれたものとして存在し続けていますし、これからも新しく生まれたものとして存在し続けます。ここではそのことが意識されています。 これに対しまして、同じ1章の3節には、 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 と記されています。ここで、 私たちを新しく生まれさせて と言われているのは、そのことが一度限りきっぱりと、あるいは決定的になされていることを示すもの[不定過去時制(分詞)]です。23節では、そのようにして、確かにまた決定的に新しく生まれた私たちが、今も新しく生まれたものとして存在し続けていると言われているわけです。 3節では、私たちが新しく生まれたのは、 イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、 と言われていますように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかることによっていることが示されています。そして、それが、父なる神さまの「大きなあわれみ」によっていることも示されています。23節の、 あなたがたは、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによって、朽ちる種からではなく朽ちない種から新しく生まれたのですから、 ということばは、同じことを別の面から述べています。 まず、「朽ちる種からではなく朽ちない種から」ということですが、これは、父親の「種」が子を生み出すというような意味での血肉のつながりによる誕生と、神さまのみこころによる御業によって新しく生まれることの対比を述べています。ヨハネの手紙第一・3章9節には、 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。 と記されていますが、「朽ちない種」はヨハネの言う「神の種」に当たるものであると考えられます。神さまは無限、永遠、不変の霊であられますから、「神の種」は物理的なものではありません。それは、「神から生まれた者」のうちに、新しいいのちと「神のかたち」の本来の人格的な特性を生み出す比喩的な「種」です。 さらに、「朽ちる種からではなく朽ちない種から」の「から」ということば(エク)は起源を表わしています。先ほど引用しましたことばでヨハネは「神から生まれた者」と言っていますが、この「神から」の「から」が、そのことば(エク)です。ですから、「朽ちない種から ・・・・ 新しく生まれた」ということは「神から生まれた」ということと同じことを指しています。 その意味で、「朽ちる種からではなく朽ちない種から新しく生まれた」ということは、ヨハネの福音書1章13節に、 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 と記されている対比を示しています。ちなみにここで「よって」と訳されていることばは、すべて「から」に当たる(エク)で、起源を表わしています。 ペテロの手紙第一・1章23節では、さらに、 あなたがたは、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによって ・・・・ 新しく生まれた と言われています。この「よって」ということば(ティア)は手段を表わしています。 この「神のことば」には「生ける」と「いつまでも変わることのない」という二つの修飾語がついています。どちらも(現在時制・分詞で表わされていて)、「神のことば」の変わることのない特性を示しています。この「神のことば」のことは、25節で、 あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。 と言われています。「神のことば」はいつの時代のどのような人にとっても「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」として伝えられ、「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」としての働きをします。それで、ペテロの時代から約二千年の後の時代の、まったく違った文化の中に生きている私たちも、この「生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによって ・・・・ 新しく生まれた」のです。もちろん、私たちを新しく生まれさせてくださったのは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいてお働きになり、みことばとともにお働きになる御霊のお働きによることです。御霊が、私たちにイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いを当てはめてくださいます。それによって、私たちに「宣べ伝えられた福音のことば」を理解させてくださり、そのみことばにあかしされているイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださるのです。それによって、新しく生まれたことが私たちの現実となりました。 次に、もう一つの根拠の方ですが、22節には、 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。 と記されています。前半の、 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、 ということばは、直訳調に訳しますと、 真理への従順によって、偽りのない兄弟愛へと、あなたがたのたましいを清めたのですから、 となります。 ギリシャ語の原文では、「たましいを」ということばが最初に出てきて強調されています。これによって、私たちが外面的にあるいは儀式的にきよいとされているのではなく、内側からきよめられていることが示されています。私たちは、古い契約の下にあった人々のように儀式的にきよめられたとされているのではありません。私たちの「たましい」そのものがきよめられているのです。それは、18節、19節に、 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。 と記されていますように、私たちが、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが十字架の上で流されたいのちの血による罪の贖いにあずかっているからです。 ここでは、「あなたがたのたましいを清めた」というように、私たちが信仰によってなしたことが取り上げられています。この「清めた」は(完了時制の分詞で)、すでにある時になされていることの結果が、その後も続いていることを示しています。その点は、もう一つの根拠である23節の「新しく生まれた」と同じです。しかも、「清めた」は(能動態で)、私たちがなしたことであることが示されています。 ここには信仰によってということばは出てきませんが、それは当然のこととして踏まえられています。信仰は、いわば、「受け取る手」です。私たちが顔を汚してしまったときに、水で顔を洗います。その時、私たちは自分の「手」で水をすくって顔を洗います。信仰は、その場合の「手」に当たります。顔の汚れを取り去るのは水ですが、その水を顔に当てるのは「手」です。私たちの罪の汚れをきよめてくださるのは、イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血です。私たちは信仰によってその血を受け取って、自分に当てはめます。そうしますと、御霊がイエス・キリストの血の効果を私たちのうちに実現してくださって、私たちの罪の汚れがきよめられます。 ペテロの手紙第一・1章22節では、これらのことのうちの、私たちがなしたことに焦点を合わせています。それは、ここでペテロが言いたいことが「偽りのない兄弟愛」にあるからです。もし私たちが、信仰によって、イエス・キリストが十字架の上で流してくださった贖いの血を受け取っているなら、御霊が私たちを内側からきよめてくださいます。そのようにして、私たちがたましいをきよめていることは、私たちのうちに「偽りのない兄弟愛」が生み出されることに現われてくるというのです。 私たちが、御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださった贖いの血によってきよめられているということには、二つの面があります。 一つは、いわば客観的な面です。18節、19節では、 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。 と言われています。この「贖い出された」ということばは(不定過去時制・直説法・受動態)で、それが一度限り決定的になされたことを示しています。しかも、それは(受動態で表わされていて)、父なる神さまが御子イエス・キリストによって私たちのために成し遂げてくださったことであって、私たちはただ恵みによってそれにあずかっているだけであることが示されています。私たちは、この父なる神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神さまの契約の民、神の子ども、キリストにある聖徒とされています。この意味では、私たちは、イエス・キリストにあって神さまのものとして聖別されています。 この客観的な面が基礎となって、主観的な面が考えられます。その主観的な面とは、私たちがそのように、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いにあずかって罪を贖っていただいていることを、どのようにして私たちの現実とするかということです。あるいは、どのようにして、そのことを確信することができるかということです。ペテロの手紙第一・1章22節、23節に記されているペテロの戒めは、まさにこのことを取り扱っています。 私たちはしばしば、自分はきよめられたような気がしないというような思いになることがあります。特に、罪を犯してしまったときには、そのように感じることがあります。そのような場合には、いまお話ししました、私たちがきよめられていることの二つの面をともに心に留めなければなりません。どちらか一方を心に留めるだけでは、私たちは確信をもって歩むことが難しくなります。 でも、そのうちでより大切なことは、父なる神さまが、御子イエス・キリストによって、私たちのために成し遂げてくださったことの方です。その贖いの御業は、すでに今から二千年前に成し遂げられています。そのことは、私たちの感じ方に左右されるものではありません。私たちの感じ方は実にいい加減なものです。私たち自身の罪が生み出す暗やみのために、自分の罪に気づかないこともあります。あるいは、神さまの御前ではより深い罪とされる罪には鈍感となって、よりささいな罪ばかりにこだわり続けることもあります。父なる神さまが、御子イエス・キリストによって、私たちのために成し遂げてくださった贖いは、先ほどの、「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」によって保証されている確かさをもっています。私たちは、それを信じています。いわば私たちは、疑いと恐れの嵐の中でも、その「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」の保証の上に足を据えて立つのです。もちろん、そのように私たちを導いてくださるのは御霊です。 それと同時に、そして、そのことの上に立ってのことですが、みことばは、私たちがそのような確かな贖いの御業によって罪を贖われており、主の契約の民であり、新しく生まれており、たましいをきよめていただいている者であることを、私たちの間の現実とすることの大切さを教えています。先ほど言いましたように、それが、このペテロの手紙第一・1章22節、23節の戒めの意味しているところです。ここでは、私たちが、たましいの奥底からきよめていただいていることは、どのように私たちの現実となって現われてくるかということを示しています。それは、 偽りのない兄弟愛へと、あなたがたのたましいを清めた と言われていることに示されていますし、それに基づいて語られている、 互いに心から熱く愛し合いなさい。 という戒めに示されています。 私たちが御子イエス・キリストが十字架の上で流された血によって罪を贖われて、たましいの奥底からきよめられていることは、私たちのうちに「偽りのない兄弟愛」が生み出されていることに現われてきます。この「偽りのない兄弟愛」の「偽りのない」ということば(アンゥポクリトス)は「偽善的でない」という意味のことばです。心はそうではないのに、形は兄弟を愛するふりをするということの反対で、「心からの兄弟愛」ということです。 また、 互いに心から熱く愛し合いなさい。 という戒めの、「愛しなさい」ということば(アガパオーの不定過去時制・命令法)は、いわゆるアガペーの愛をもって愛することを示しています。この愛は、感情的なものであるより、深い考えと強い意志によって働く愛で、自らを犠牲としてでも相手にとって最善のことを願い、それを追い求める愛です。この愛は、御子イエス・キリストの十字架の死において示されました。ヨハネの手紙第一・3節16節に、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。 と記されているとおりです。 ここでは、深い考えと強い意志によって相手の人の最善を追い求める愛をもって愛し合うということが、「心から熱く」という二つの言葉によって強められています。「心から」というのは、日本語の「心から」に当たる面がありますが、「心」は感情的な面だけでなく、知的・感情的・意志的な面のすべてを含む内的ないのちの全体を指しています。「熱く」も感情的な熱さというより、その内的ないのちの全体を「強く働かせること」を意味しています。 ある人々は、聖なるものとなるためには、俗世間を離れて生活しなければならないと言います。そして、実際に、そのような生活のスタイルが勧められて実践されたこともありました。また、人によっては、人とのおつき合いでは人を傷つけたり自分が傷ついたりするから、それを避けたほうがきよめられた者でいられると考えることもあります。 しかし、それはみことばが示している方向ではありません。みことばは、むしろ、私たちのうちに御霊が生み出してくださった「偽りのない兄弟愛」が、アガペーの愛として表わされることに、御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血によって、私たちがきよめられていることの実質が現われてくるということを教えています。 それでも、「そうは言っても」と言いたくなります。私たちはみな自分のうちに罪を宿しており、この罪の力が猛威を振るっている世界に生きているので、誘惑は多いし、実際に誘惑に負けてしまうこともしばしばです。兄弟姉妹への愛においては欠けばかりが感じられて、惨めな思いにさいなまれるばかりです。そのような私たちの現実であれば、私たちの聖さは、私たちのうちに「偽りのない兄弟愛」が生み出されていることに現われてくるという教えは、無理な要求なのではないかというような気がしないでもありません。 しかし、それは私たちに伝えられた福音のみことばが示しているところではありません。 もちろん、私たちは、自分たちの罪の深さと、さまざまな弱さを認めるとともに、お互いにそのことを思いやらなければなりません。それは、私たちのあわれみ深い大祭司であられるイエス・キリストが私たちに対して示してくださっていることでもあります。 それと同時に、私たちは、私たち自身の罪深さや私たち自身の弱さにとらわれてしまって、父なる神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業の完全さと、それを私たちに当てはめてくださる御霊のお働きの完全さを見失ってしまってはなりません。父なる神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と、死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いは、私たちをまったく新しく造り変えてくださる力を持っていると福音のみことばがあかししています。私たちばかりでなく、神さまがお造りになった全被造物を新しく造り変え、栄光あるものとしてくださる力があるとあかししています。 ですから、先ほど使ったことばで言いますと、私たちは、神さまの贖いの御業の客観的な確かさを信じる信仰を見失ってしまってはならないのです。これは、すでにお話ししました「ドナトゥス派論争」において、アウグスティヌスが強調した点で、宗教改革者たちもこの点を受け止めていますし、私たちもそれを受け継いでいます。 私たちのうちには罪があるし、私たちは罪の力が猛威を振るっている世界に生きているということから、もうこの世界に生きていくことはできないと考えることは、自分を信じることができないということです。確かに、そのような私たちと私たちの住んでいるこの世界の現実の前では、私たちは自分を信じることはできません。しかし、それが、いつの間にか神さまを信じることはできないということにすり替わってしまう危険性があります。神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業、また神さまが私たちをきよめてくださるお働きの客観的な面と主観的な面を混同して、自分たちの現実の厳しさによって、神さまが成し遂げてくださっている贖いの御業に対して絶望してしまってはならないのです。 私たちは、みことばのあかしにしたがって、神さまが御子イエス・キリストによって贖いの御業を成し遂げてくださったということに基づいて、神さまは、救いかさばきかのどちらかの御業によって、この世界のあらゆる罪と悪をまったく清算してしまわれるということを信じます。それは終わりの日の栄光のキリストの再臨においてなされます。それまでは、この世の歴史は、人間の罪が猛威を振るっている現実があっても、神さまのあわれみによって保たれていきます。ペテロの手紙第二・3章9節に、 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 と記されているとおりです。 言い換えますと、神さまの忍耐とあわれみには、それほどの懐の深さがあって、いまは、それによって、この世界が保たれているということです。それによって、神さまの永遠の前からのご計画が果たされていくのです。ですから、そのことで、私たちが望みを失ってしまっては、神さまを悲しませることになりますし、サタンの思うつぼです。 ネロによる迫害の中にあって苦しんでいる小アジアのクリスチャンたちに向かって、ペテロはこの手紙を書いています。書いているペテロ自身が数年後に殉教の死を遂げることになります。そのペテロは、1章20節、21節において、 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。 と記しています。 22節では、 真理への従順によって、偽りのない兄弟愛へと、あなたがたのたましいを清めたのですから、 と言われていました。 ここでは、私たちがたましいをきよめたのは、「真理への従順によって」であると言われています。この(定冠詞つきの)「真理」は、抽象的な真理、あるいは一般的な真理のことではなく、福音のみことばによってあかしされている御子イエス・キリストに関する真理です。御子イエス・キリストご自身と御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業を明らかにする真理のみことばです。 私たちがたましいをきよめたのは、「真理への従順によって」であると言われています。ですから、この「従順」は、「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」によってあかしされている、御子イエス・キリストご自身と御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業を明らかにする真理に対する「従順」で、「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」によってあかしされていることを信じることに他なりません。その意味で、この「真理への従順」は、イエス・キリストを信じる信仰と同じものです。 この「真理への従順によって」の「従順」は、14節で、 従順の子どもとして と言われているときの「従順」と同じことばです。14節では、私たちがすでに「従順の子どもとして」新しく生まれているということが、いわば、前提として明らかにされていました。そして、ペテロはそれを説明しようとしているわけではありませんので結果的にということですが、その「従順の子ども」であることがどういうことであるかが、22節で説明されることになっています。 このようなつながりを見てみますと、14節〜16節で、 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。 と戒められていることが、22節、23節において、 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 と戒められていることによって、さらに発展されているということが分かります。 14節〜16節に記されている戒めの中心は、 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。 ということでした。この あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。 ということは、飲むこと食べることというごく日常的なことから始まって、生活のあらゆることを神さまのご臨在の御前におけることとして、聖別していくべきことを示していました。そして、22節の、 互いに心から熱く愛し合いなさい。 という戒めにおいて、生活のあらゆることを神さまのご臨在の御前におけることとして、聖別していくことは、より具体的には、兄弟姉妹への偽りのない愛を具体的に表わすことの中で実現していくということが示されています。 |
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