(第107回)


説教日:2002年12月8日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章13節〜21節


 先週は、ペテロの手紙第一・1章13節〜21節に記されている教えの中の14節〜16節に記されている

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

という戒めについてお話ししました。きょうは、そのお話を補足したいと思います。そのようなわけで、このシリーズのお話としては、きょうで終わることができませんので、来週も続けることにいたします。
 この13節〜16節に記されている戒め全体が、長い一つの戒めで、その中心は、15節の、

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

という戒めにあります。
 これは新しい戒めではなく、続く16節で、

それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

と言われていますように、旧約聖書のレビ記に記されている、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という主の戒めを、この手紙の読者たちに当てはめているのです。当然のことですが、これは、そのまま私たちにも当てはまります。

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という戒めは、「わたし」と言われている主と「あなたがた」と言われているイスラエルの民との間に、契約関係による交わりがあることを土台としています。
 しかし、この戒めを与えられたイスラエルの民は、古い契約の下にあった地上的な「ひな型」でした。それで、主とイスラエルの民との関係には、地上的な「ひな型」としての限界がありました。自らのうちに罪を宿している主の民が、聖なる主のご臨在の御前に立って主とのいのちの交わりに生きるようになるためには、主の民の罪が贖われていなければなりません。けれども、主の民の罪の贖いのために、地上の幕屋や神殿の聖所の前の祭壇でささげられていた動物のいけにえは、やがて来たるべき「本体」を指し示す「影」あるいは「ひな型」でしたので、人間の罪を贖って、主とのいのちの交わりに生かすことはできませんでした。それで、いくら、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

と戒められても、自らのうちにある罪がきよめられることはないので、本当の意味で聖なるものとなることはできなかったのです。そのことが、ヘブル人への手紙9章9節、10節には、

この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。

と記されています。
 ここで言われているのは、地上的な「ひな型」である動物の血は、人間を外面的に、いわば「儀式的に」きよいものにするだけであるということです。日本でも、神仏の前に出るときに口を濯いだりしますが、それによっては「儀式的に」きよめられたということになるだけであって、実際に、その人自身が内側からきよめられて変わるわけではありません。イスラエルの民に与えられた動物のいけにえもそれと同じでした。(ただし、そこには違いもあります。イスラエルの民に与えられた動物のいけにえは、造り主である神さまの御前に立つために必要な罪の贖いのためには、いのちの血による贖いが必要であるということを教えています。また、動物の血は人を「儀式的に」きよめられたことにしますが、それ自体が目的ではなく、やがて来たるべき「本体」をあかしする「ひな型」という、歴史的な意味をもっていました。日本において神仏の前に出るというときの「きよめ」にはそのような、教育的、歴史的な意味はありません)
 ですから、古い契約の下にあったイスラエルの民の間においては、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という戒めは、いわば、「儀式的に」きよいものとなるという形においてしか実現しませんでした。
 これに対しまして、この手紙の読者たちは、その動物のいけにえが「ひな型」としてあかししていた「本体」である約束の贖い主イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いによって、罪を贖われて、心の奥底から新しく造り変えられて、神である主のご臨在の御前に立つ者とされています。それで、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいてお働きになる御霊によって、罪と良心をきよめていただき、絶えず神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることができるのです。ヘブル人への手紙9章13節、14節に、

もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

と記されているとおりです。
 このイエス・キリストによる罪の贖いに基づく神さまとの生きた交わりの中で、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という主の戒めは、この手紙の読者たちの、また、私たちの現実となっています。
 このことは、私たちが神さまのご臨在の御前に立って聖なるものとなることは、私たちの人間的な資質にはよっていないということを意味しています。造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落したものであるという点では、私たちも、古い契約の下にあったイスラエルの民も同じです。違いは、私たちの人間的な資質にあるのではなく、神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いにあるのです。古い契約の下では、まだそれは約束としてしか与えられておらず、私たち新しい契約の下にある者にとっては、その約束は実現しているのです。


 先週詳しくお話ししましたが、この、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という主の戒めは、すべてが同じ言葉遣いではありませんが、レビ記の中では3回出てきます。そして、それぞれが、違ったことを取り上げる中で語られていますので、お互いが補い合って、主の民が聖なるものでなければならないということがいくつかの面から示されています。
 それをまとめますと、主の民は、食べることという、生活のごく日常的なことから始まって、礼拝を中心とする主との関係や、家族関係を始めとする社会生活のあり方において、聖なるものであるべきことが示されています。言い換えますと、生活のあらゆる点において聖なるものであるべきであるということです。
 これらのことは、いわば、聖なるものであることの積極的な面ですが、消極的な面として、イスラエルの民は、周囲の国々の民の風習に従わないようにと戒められていました。その風習には、自分たちの子どもたちをいけにえとしてささげるというような、忌むべきものがありました。
 最初の、食べることにおいて聖なるものであるということは、この戒めの理解に取ってとても大切なものですが、それがどういうことかは、少し分かりにくいかもしれません。というのは、聖なるものであるということが、道徳的に悪いことをしないというような形で理解されることが多いからです。もちろん、道徳的に許されるべきでないことをすることは、聖なるものであることと相容れません。しかし、聖なるものであることは、道徳的な面に限られるものではありません。それが、まさに、食べることにおいても、聖なるものとなるように求められているということによって示されています。食べ物を食べるということは、人間にとって最も自然なことであって、食事をしたから立派な行ないをしたとか、悪いことをしたというようなことにはなりません。誰かがご飯を食べたということで、「なんて素晴しいことをしたのでしょう。」とほめたり、「とんでもないことをするやつだ。」と非難する人はありません。でも、私たちは、その食べることにおいて、聖なるものであるようにと戒められているのです。
 食べることにおいて聖なるものであるということは、古い契約の下にあったレビ記においては、ある食べ物を食べないということによって、教えられていました。しかし、それは、古い契約の地上的な「ひな型」による教育でした。これによって、二つのことが教えられました。一つは、食べることのように、ごく日常的なことにおいても聖なるものであるべきことが示されました。もう一つは、より根本的なことで、聖さあるいは聖いことと、汚れあるいは汚れたことがあるので、それを区別して、汚れを避けるべきであるということ自体を教えるということです。
 そのために用いられた食べ物は、いわば「視聴覚教材」でした。何かを食べたからといって、食べた人が汚れるわけではありません。あくまでも、地上的な「ひな型」として定められた制度や規定の中で「儀式的に」汚れるとされていただけです。食べ物自体は、汚れたものではありません。
 そのことは新約聖書が一貫して教えていることです。テモテへの手紙第一・4章1節〜5節には、

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

と記されています。
 それでは、食べることにおいて、聖なるものであるということはどういうことなのでしょうか。それは、私たちが食べ物を食べることによってからだが支えられるようにお造りになったのは神さまですし、その私たちに食べ物を与えてくださっているのも神さまです。それで、私たちは、自分が食べ物を食べるということ自体の中に、造り主である神さまの御手を覚えることができるように造られています。私たちは、食べ物を食べるということにおいて、造り主である神さまを身近に覚え、神さまに感謝します。そのようにして、食べることや飲むことという、最も日常的なことにおいて神さまの御前にあることができるのです。このように、信仰によって、食べることや飲むことのように、ごく日常的なことを造り主である神さまの御前においてなし、神さまの愛と恵みを受け止め、感謝と信頼を覚える機会とすることによって、聖別することができるのです。そのような意味で、コリント人への手紙第一・10章31節では、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

と言われています。これは、食べて元気をつけて、しっかり仕事をすることによって神さまの栄光を現わすということではなく、食べること、飲むこと自体において神さまの栄光を現わすということを意味しています。
 このことを、すでにお話ししたことに当てはめて言いますと、食べることや飲むことという、最も日常的なことも神さまと無関係なことではなく、神さまのご臨在の御前においてなすべきことであるということです。そうであれば、私たちの生活の中に、神さまのご臨在の御前においてなされないことは何もないということになります。ある弁証学者の言葉をもじって言いますと、私たちの生活の領域で神さまと関係がなく、神さまのご臨在の御前にないことは一ミリもなく、私たちの人生の中で神さまと関係がなく、神さまのご臨在の御前で過ぎない時は一秒もないということです。それは、私たち自身が、いつも神さまの聖なるご臨在の御前にあるということによっています。
 後ほどお話ししますが、このことが、ペテロの手紙第一・1章15節に記されている、

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

という戒めの、「あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」ということに関わっています。
 ペテロの手紙第一・1章14節では、

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

と記されています。
 先週お話ししましたように、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず

と言われているときの「さまざまな欲望」(エピスミアイ・エピスミアの複数形)は、必ずしも、情欲や肉欲といった悪い意味の欲望を指しているわけではありません。それは、世のため人のために役立つことをしようという強い願いでもあり得ます。ただ、問題は、そのような「さまざまな欲望」が、私たちが「以前」造り主である神さまを知らなかった時の霊的な「無知」の状態から生み出されていたということです。霊的な「無知」とは、造り主である神さまを知らない状態のことです。そのために、その世のため人のために役に立つことをしようという願いは、造り主である神さまとはまったく無関係なものとして、私たちのうちから生み出されていたということです。そこに、根本的な欠けがあったのです。
 そのことは、何も、そのような大きな志でなくても、いまお話ししました、食べることや飲むことという、ごく日常のことにおいても現われてきています。私たちは、「以前」造り主である神さまを知らなかったときの霊的な「無知」の状態にあった時には、食べることや飲むこと自体を造り主である神さまのご臨在の御前でのこととして受け止めていませんでした。食べ物があることをありがたいと思っても、それだからといって、造り主である神さまを身近に覚え、その御手の支えに感謝して食べていたわけではありません。繰り返しになりますが、私たちを食べ物を食べることによって支えられるものとしてお造りになったのは、天地の造り主である神さまです。それで、私たちに食欲があるのは、造り主である神さまのお働きによることです。食欲も「さまざまな欲望」(エピスミアイ)の一つですが、それは決して否定されるものではなく、神さまが私たちに与えてくださった良いものです。また、その必要を満たす食べ物を与えてくださっているのも、造り主である神さまです。しかし、「以前」造り主である神さまを知らなかったときの霊的な「無知」の状態にあった時の私たちは、食べ物を食べるときに、造り主である神さまを覚えることはありませんでした。
 ですから、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず

ということが私たちの現実になるためには、まず、私たちの霊的な「無知」を取り除いていただかなければなりません。そのためには、私たち自身が、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いにあずかって、罪をきよめていただき、造り主である神さまとの親しい交わりの中に生きるものとしていただかなければなりません。そのような恵みにあずかっていて初めて、私たちの霊的な「無知」は取り除かれます。そして、私たちのうちに神さまが与えてくださった「さまざまな欲望」を神さまのみこころに沿って働かせていくことができるようになります。
 ですから、聖書は、あるものを食べるなとか、あるものを飲むなというようには教えていません。神さまのご臨在の御前において、神さまの愛と恵みを覚えて食べなさい、また、飲みなさいと教えています。
 また、レビ記においては、聖なるものであることの消極的な面として、イスラエルの民は、周囲の国々の民の風習に従わないように戒められていました。そして、その風習には、自分たちの子どもたちをいけにえとして、モレクにささげるというような、忌むべきものがありました。
 それは、外面的な風習を真似しないということを求めているだけではありません。もちろん、礼拝において自分の子どもをいけにえとしてささげるというようなことは、神さまの御前に忌むべきことです。しかし、そこにはさらに深い問題があります。それは、そのような忌むべき風習には、それを生み出している考え方があります。それで、そのような風習を生み出している考え方を注意深く見抜いて、それを避けることが必要なのです。なぜ、自分の子どもをいけにえとしてささげるようなことをしたのでしょうか。それは、その人々がもっている神についての理解が狂っていて、そのような風習を生み出しているのです。先ほどの言葉で言いますと、その人々が霊的な「無知」の状態にあるために、神についての考え方が狂ってしまい、そのような忌むべき風習を生み出してしまったのです。
 どういうことかと言いますと、その霊的な「無知」から、神と人間の関係は「取り引き」の関係であるという発想が生み出されています。その当時の文化、すなわち、古代オリエントの文化で一般的な考え方は、神々は人間を自分に奉仕させるために造ったというものです。それで、神々は人間の奉仕を当てにしているし、人間が奉仕するのに報いて幸運をもたらせてくれるという考え方が生まれてきます。そこから、さらに、神々は、人間が奉仕をしたり、大切なものを差し出したりしないと、報いてくれないというような思いが根づいていってしまいます。それで、自分たちの大切な子どもをいけにえとしてささげれば、モレクは喜んでくれるに違いないというような考え方が生まれてきたわけです。
 そうであれば、周囲の国々の風習に倣わないということは、礼拝において子どもをいけにえとしてささげるようなことをしないという、形だけの区別をしていればいいということにはなりません。さらに、このような、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間の中にある「神」に対する考え方と、その根本的な原因である霊的な「無知」を問題にしなければならないのです。
 聖書に記されている神さまの聖さは、神さまがあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちた方であって、ご自身において完全に充足しておられる方であられるということ、そして、それゆえに、あらゆる点において限りのある被造物と「絶対的に」区別される方であられるということを意味しています。無限、永遠、不変の豊かさにおいて完全に充足しておられる神さまが、その豊かさをもって、この世界を満たしてくださり、特に「神のかたち」に造られている人間をご自身の愛をもって満たしてくださるために創造の御業を遂行されました。ですから、神さまは人間の奉仕を必要としてはおられません。使徒の働き17章24節、25節に、

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

と記されているとおりです。
 もし私たちが、神さまは私たちの奉仕を必要としており、私たちが奉仕をしたり、大切なものをささげることに報いて恵みを施してくださるというような考え方をしているとしたら、あるいは、神さまはなかなか祈りを聞いてくださらないので、私たちが神さまの前に奉仕をしていることや熱心に祈っていることを見せなければならないというような考え方をしているとしたら、無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる神さまの聖さを冒すことになってしまいます。それでは、子どもをいけにえとしてささげるようなことはしないとしても、神さまに対する考え方では、周囲の国々の人々の考え方と同じような考え方、あるいは、感じ方をしてしまっていることになります。
 詩篇104篇13節、14節では、

  主はその高殿から山々に水を注ぎ、
  地はあなたのみわざの実によって
  満ち足りています。
  主は家畜のために草を、
  また、人に役立つ植物を生えさせられます。
  人が地から食物を得るために。

と謳われており、24節では、

  主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。
  あなたは、それらをみな、
  知恵をもって造っておられます。
  地はあなたの造られたもので満ちています。

と謳われています。
 また、マタイの福音書6章7節、8節には、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。さらに、7章9節〜11節には、

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このように、御言葉は、神さまが、すでに、ご自身の無限、永遠、不変の豊かさの中からこの世界を満たしてくださっており、真実に私たちを支えてくださっていることを教えています。さらに、御子イエス・キリストの御名によってご自身のご臨在の御許に行く者たちを喜んで受け入れてくださって、礼拝を受け入れてくださり、祈りをお聞きくださっているということを示しています。そうであるからこそ、私たちは、食べることや飲むことという、ごく日常的なことにおいて、神さまとともにあることができるのです。そして、いつでも、イエス・キリストの御名によって神さまの御許に近づいて、神さまに向かって親しく語りかけることができるのです。そして、信頼とともに、自分自身と兄弟姉妹たちを、その愛の御手にお委ねすることができるのです。
 ペテロの手紙第一・1章15節には、

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

と記されています。すでにお話ししましたように、この「聖なるものとされなさい」という戒めは、14節〜16節に記されている戒め全体の中心です。これは、受動態で表わされています。この「聖なるものとされなさい」と訳されている言葉が、他で用いられている用例から、受け身の意味合いを伝えていると考えることはできないという見方が圧倒的に多いのですが、あえて、この場合には、受身の意味合いがあって、私たちが「聖なるもの」となることは、私たちの努力によって実現するものではないということを伝えていると考えます。私たちが「聖なるもの」となるのは、父なる神さまが、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちを「聖なるもの」として造り変えてくださることによっているということです。
 ここで、そのような意味合いを受け止めるのは、この「聖なるものとされなさい」という戒めが受動態によって表わされているというだけでなく、この戒めの初めに、

従順な子どもとなり、

という言葉によって表わされている大前提が示されているからでもあります。これは、新改訳では命令形として訳されていますが、文字通りには、

従順の子どもとして

ということで、私たちがすでに「従順の子ども」であるということを示しています。私たちは、あたかも「従順」を親として生まれた子どもであるかのように、従順を本質的な特性として新しく生まれているというのです。それは、御子イエス・キリストにある神さまの恵みによって、また、御霊のお働きによって、罪をきよめられて、新しく生まれているということです。22節、23節に、

あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

と記されているとおりです。
 このように、この戒め全体が、父なる神さまが御子イエス・キリストにあって、そして、御霊によって、私たちに対してなしてくださっている恵みの御業を大前提としています。それで、この「聖なるものとされなさい」という戒めの中心にも、そのことが反映していると考えられるのです。
 ただし、私たちは生きているものですし、自由な意志を与えられている人格的な存在です。それで、外からの働きかけによって、機械的に造り変えられるものではありません。つまり、私たちはまったく受身であるわけではありません。私たちが、神さまの御言葉に示されているように、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださったことを信じて、私たち自身を贖い主である御子イエス・キリストにお委ねすることが必要です。
 しかも、そのことは、私たちの毎日の生活の具体的なことにおいてなすべきことであるということが示されています。ペテロは、

あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

と述べています。
 この「あらゆる行ないにおいて」ということは、生活のあらゆる面における行ないにおいてということです。すでにお話ししましたように、この戒めの基となっているレビ記に記されている、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という戒めでは、食べることという、最も日常的なことにおいてさえも、聖なるものでなければならないことが示されていました。そこから始まって、さらに、礼拝を中心とする神さまとの関係のあり方や、家庭における人間関係を初めとするあらゆる社会的な関係において、神さまのご臨在の御前にある者にふさわしく聖なるものであるようにと戒められていました。このことが、ペテロの手紙第一・1章15節に記されている「あらゆる行ないにおいて」ということに集約されていると考えられます。
 このことにを、すでにお話ししたことに当てはめて言いますと、まず、私たちがかつては、罪によって神さまの御前に堕落していたことと、そのために、霊的な「無知」の状態にあったことを認めます。そして、神さまが、その私たちを、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、御霊によって、「従順の子ども」として新しく生まれたものとしてくださっていること、そして、私たちの間にご臨在してくださっていることを信じます。そのことを信じて、食べることのように、ごく日常的なことから始まって、私たちが毎日の生活においてなすすべてのことを、神さまのご臨在の御前においてなすこととして聖別していくのです。
 イスラエルの民が周囲の国々の風習に従わないということは、その形をまねしないというだけのことではありませんでした。むしろ、それらの風習を生み出している、霊的な「無知」からくる考え方を見抜いて、それを注意深く退けなければなりませんでした。そのためには、積極的に、神さまの御言葉をとおして教えられている原則にしたがって、生活のあり方を本来のあり方にきよめていく必要がありました。
 このことは、そのまま、

あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

ということにも当てはまります。それは、ただ単に、生活のスタイルがキリスト教的なものに変わるということではありません。食べることのように、ごく日常的なことから始まって、私たちが毎日の生活においてなすすべてのことについて、その根本的な考え方から、御言葉に示されている原則にしたがって、神さまのご臨在の御前においてなすこととして聖別していくということです。

 


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