(第106回)


説教日:2002年12月1日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章13節〜21節


 きょうは、ペテロの手紙第一・1章13節〜21節に記されていることからお話しします。
 この個所を取り上げるのには二つの理由があります。
 一つは、「聖なるものであること」についてお話しするときには、16節においてペテロが引用しています、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という旧約聖書のレビ記に記されている主の言葉を外すことはできないと思われるからです。
 もう一つの理由は、先週もお話ししましたように、「聖なるものであること」についてのお話の最後に、二つのことをお話ししたいと考えていましたが、そのうちの一つのことを、おそらく、この個所とのかかわりでお話しできるのではないかと思われるからです。もう一つのことは、先週お話ししました、教会の歴史の早い時期において起こった「ドナトゥス派論争」のことです。
 そのようなわけで、きょうは、この契約の神である主の言葉をペテロの教えの流れの中で見たときに伝わってくることをお話ししたいと思います。そして、来週、このこととの関連で、お話を続けることにいたします。


 16節には、

それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

と記されています。
 この言葉は、「それは ・・・・ と書いてあるからです。」という言葉から始まっていることから分かりますように、それに先だつ14節、15節に述べられていることの理由を示しています。これによって、ペテロは自分が述べていることが新しいことではなく、すでに旧約聖書に記されている戒めであるということを示しています。
 同時に、このペテロの手紙第一では、ただ旧約聖書に記されている戒めをおうむ返しに繰り返しているのではありません。それを、約束の贖い主であるイエス・キリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりをもってご自身の民の罪を贖う御業を成し遂げてくださったということと関わらせて伝えています。イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げてくださったことによって、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という主の戒めは、主の贖いの御業の歴史の新しい状況に置かれて、意味をもつようになっているのです。
 この、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という戒めは、必ずしもこのとおりの言葉で表わされているわけではありませんが、レビ記に3回出てきます。それで、まず、それを見てみましょう。
 11章44節、45節には、

わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

と記されています。
 この戒めで、まず注目したいことは、最後に記されている、

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

という主の言葉です。
 主が、出エジプトの贖いの御業を成し遂げてくださったのは、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださるためでした。その贖いの御業の目的が、ここでは、

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主である

と言われています。つまり、出エジプトの贖いの御業の目的は、主がイスラエルの民の神となってくださるためであると言われています。それは、イスラエルの父祖アブラハムに与えられた契約を記している創世記17章7節に、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

と記されていることの成就です。
 このように、主は、出エジプトの贖いの御業によって、イスラエルの民をご自身の民としてくださり、ご自身がイスラエルの民の神となってくださいました。これによって、イスラエルの民は、主の恵みによって与えられた契約によって、主の民とされ、主との親しい交わりの中に入れられました。このことの中で、主が聖なる方であるので、イスラエルの民も聖なるものでなければならないと言われています。
 ですから、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という主の戒めは、「あなた方が聖なるものとなったら、わたしはあなた方の神となってあげる。」とか「あなた方が聖なるものとなったら、あなた方をわたしの民としてあげる。」というような条件を示しているのではありません。すでに、主の一方的な愛と恵みによって、エジプトの奴隷の身分から贖い出されて、主の契約の民とされ、主のとの親しい交わりに生きるものとされているイスラエルの民に対して、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

と戒められているのです。イスラエルの民は、主の一方的な愛と恵みによって主のものとされているので、そして、主が聖なる方であるので、主の聖さにあずかって、聖なるものとなりなさいと戒められているのです。
 これは、レビ記に3回出てくる、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という主の戒めの根本にあることです。
 このことと調和して、ペテロの手紙第一・1章15節では、

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

と言われています。「聖なるものとされなさい」というのは受動態です。私たちが聖なるものとなるのは、私たち自身の力によることではなく、主の恵みにあずかって、「聖なるものとされ」ることによることが示されています。
 [この場合の、「されなさい」という言葉(エゲネーセーン)が受動態であることについては、形は受動態ではあるけれども、意味は能動の意味であるという、かなり強い意見があります。新共同訳も新国際訳(NIV)も、能動の意味で訳しています。そのおもな理由は、他の個所でこの言葉は、能動の意味で用いられているということです。また、これに続く16節に引用されているレビ記の、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という戒めでは、同じことが戒められているわけですが、能動の命令になっているということです。けれども、これは解釈の問題でもありますが、受動の意味合いで理解できる個所は他にもあります。ここでも、今お話ししたことから分かりますが、受動の意味合いで理解することに問題があるわけではありません。むしろ、その意味合いをくみ取った方が、主の贖いの御業の流れの中で与えられた、レビ記の戒めの精神を表現していると考えられます。]
 先ほど引用しました、11章44節、45節に記されている主の言葉は、11章全体にわたって記されている、おもに食用となる生き物に関して、汚れたものときよいものを区別すべきことを具体的に示していることの結論として語られた言葉です。これによって、食べるというごく日常的な行為においても、きよいものと汚れたものを区別すべきであるという原則が語られています。もちろん、これは、古い契約の下での地上的な「ひな型」、まさに「視聴覚教材」を用いて、きよいものと汚れたものを区別すべきことを教えるものです。これによって教えられている、食べることのようにごく日常的なことにおいても、きよいものと汚れたものを区別すべきであるという原則は、新しい契約の下でも原則として生きています。しかし、「視聴覚教材」として用いられた食べ物自体が汚れているとか、それが人を汚すというようなことは、新しい契約の下では意味を失っています。ですから、たとえば、マルコの福音書7章18節、19節には、

イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。

と記されています。また、テモテへの手紙第一・4章3節後半〜5節には、

しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

と記されています。さらに、コリント人への手紙第一・10章31節には、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

と記されています。
 食べることや飲むことという、ごく日常的なことにおいても、神さまの栄光を現わすことができるのです。また、私たちは、そのような、ごく日常的なことにおいても、神さまの栄光を現わす者として聖別されています。
 また、レビ記19章2節には、

イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

と記されています。
 これにによって導入される19章全体には、十戒のいくつかの戒めやいけにえの制度に関する戒めから始まって、社会生活に関するさまざまな戒めが記されています。このことから分かりますように、ここでは、主のご臨在の御前に生きているイスラエルの民が、宗教的また社会的な生活において聖なるものであるべきことが示されています。
 さらに、レビ記20章26節には、

あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。

と記されています。
 これは、20章全体に記されていることの結論的な言葉として述べられたものです。後半の、

主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。

という言葉から分かりますように、イスラエルの民が周囲の国々の民から区別されて主のものとされているということが述べられています。20章では、子どもをいけにえとしてモレクにささげるという礼拝にかかわることや、霊媒、口寄せに頼るという信仰に関わることから始まって、周囲の国々の民の間に見られる恥ずべき風習に従ってはならないということが戒められています。
 このように、ペテロが引用している、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

という主の戒めは、イスラエルの民が、地上の「ひな型」を通してではありますが、主の贖いの御業によって、エジプトの奴隷の身分から解放され、主の契約の民とされて、主のご臨在の御前に生きるものとされたことに基づいて与えられています。そのようにして、主のご臨在の御前に生きるものは、主の聖さにあずかって聖なるものとならなければならないということが教えられています。
 そして、イスラエルの民が、主の御前に聖なるものであることは、食べることや飲むことのように、ごく日常的なことから始まって、宗教的、社会的なことに至まで、生活の全体を通して表わされるべきであることが示されています。さらに、主の御前に聖なるものであることは、周囲の国々との区別において表わされるものであることも示されています。
 このようなことを踏まえて、ペテロの手紙第一・1章14節〜16節に記されていることを見てみましょう。そこには、

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

と記されています。
 この、ペテロの戒めの構造を見てみますと、この14節〜16節全体が長い一つの命令文です。その中心は、15節の「聖なるものとされなさい」ということにあります。
 内容的には、すでにお話ししましたように、16節の、

それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

という言葉は、「聖なるものとされなさい」という戒めの理由を示しています。
 14節の初めの、

従順な子どもとなり

という言葉は、後ほど詳しくお話ししますが、「聖なるものとされなさい」という戒めの基礎となる事実を述べています。そして、それに続く、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

という言葉は、いわば、否定的な面で、捨て去るべきものを捨て去ることを示しています。そして、15節の、

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

という言葉が、積極的に、このようにしなさいという戒めとなっています。
 このような見通しをもって、この戒めを具体的に見てみましょう。
 14節の初めには、

従順な子どもとなり

ということが語られています。
 ここには二つほど問題があります。
 一つは、「従順な子ども」という言葉です。これは、ヘブル語聖書のギリシャ語訳である七十人訳に出てくる「 ・・・・ の子たち」とか「 ・・・・ の子どもたち」という表現からきているもので、文字通りには、「従順の子どもたち」ということを表わします。この「従順の子ども」は「従順な子ども」というのと少し意味合いが違います。「従順な子ども」は行ないや態度や姿勢が従順であるということを表わします。これに対して、「従順の子ども」というのは、子どもが親の性質をそのまま受け継ぐということにたとえられます。従順という「親」の性質をそのまま本質的な特性としている「子ども」ということになります。ただ表に出てきた行ないや姿勢や態度が従順であるというだけでなく、従順がその子どもたちの本質的な特性になっているということです。
 もう一つの問題は、

従順な子どもとなり

という言葉は、「従順の子ども」となるようにという命令あるいは戒めですが、実際には、これは命令ではありません。

従順な子どもとなり

と言いますと、今は必ずしも「従順な子」ではないけれども、これからは「従順な子」となりなさいと戒めているということになります。ここではそのようなことを言っているのではありません。これは、直訳すると、「従順の子どもとして」となります。「あなたがたは従順の子どもなのですから」という意味合いを伝えています。これから「従順の子ども」になるのではなく、すでに「従順の子ども」として生まれていて、「従順の子ども」であるということを明らかにしています。その意味で、この「従順の子どもとして」という言葉は、この戒め全体の中心である、「聖なるものとされなさい」という戒めの土台となる事実を示しています。
 この手紙の読者が、そして、私たちが、すでに「従順の子ども」であるということは、18節、19節で、

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

と言われており、23節で、

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

と言われていますように、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いにあずかって、御霊のお働きによって、新しく生まれているからに他なりません。
 言うまでもなく、私たちが「従順の子ども」と言われるほどに従順を本質的な特性として新しく生まれているのは、私たちが、ピリピ人への手紙2章8節に、

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

と記されているとおり、父なる神さまへの従順を本質的な特性としておられるイエス・キリストに結び合わされて、新しく生まれているからに他なりません。
 ペテロの手紙第一・1章14節では、これに続いて、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

と言われています。
 この「従わず」ということに用いられている「従う」という言葉(スンスケーマティゾー)は、新約聖書の中では、こことローマ人への手紙12章2節に出てくるだけです。ローマ人への手紙12章2節では、

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

と言われています。この、

この世と調子を合わせてはいけません。

の「調子を合わせる」と訳されているのがこの言葉です。ペテロの手紙第一・1章14節の「従う」よりは言葉の意味合いをよく伝えています。
 ローマ人への手紙12章2節の、

この世と調子を合わせてはいけません。

という戒めは、先ほどお話ししました、レビ記の中で、イスラエルの民が周囲の国々の宗教的、社会的な風習にならってはいけないと戒められていたことを思い起こさせます。これに対しまして、ペテロの手紙第一・1章14節で、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

と言われているのは、空間的・場所的に区別して、この世の考え方やあり方に調子を合わせないようにということよりは、時間的に、かつての自分のあり方や考え方に倣わないようにと戒められています。もちろん、かつての自分は、「この世と調子を合わせて」生きていたわけです。
 そのかつての自分のあり方を支配していたのは、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望

であると言われています。「さまざまな欲望」という言葉(エピスミアの複数形)は、「欲望」や「強い願い」を表わします。必ずしも、「情欲」とか「肉欲」というような、道徳的に悪い意味の「欲望」を表わすわけではありません。言葉自体の意味合いは中立です。このことは大切なことです。ここでは「以前」と言われていて、それが神さまの恵みにあずかってイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いによって新しく生まれる前の状態のことを述べているのと、その「欲望」に従うことを避けるように戒められていることから、罪によって腐敗してしまっている人間のうちから生まれる「欲望」のことを指しています。
 ガラテヤ人への手紙5章16節では、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と言われています。この「肉の欲望」の「欲望」がこれと同じ言葉です。ただし、この「肉の欲望」もそうですが、それは、必ずしも、「肉欲」とか「情欲」という言葉が示すような、道徳的な悪のことであるとは限りません。世のため人のためになろうというような、高い志から生まれてくる「高尚な願い」であることもあります。
 そのような高い志から来る強い願いを捨てなければならないというのはおかしいのではないかという疑問が出てきます。捨てなければならないのは、情欲や肉欲のような道徳的に悪い欲望であって、高い志から来る強い願いは持ち続けるべきなのではないかということです。しかし、ここでは、そのような区別をしないで、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

と戒められていると考えられます。
 どういうことかと言いますと、この「欲望」については、

以前あなたがたが無知であったときの

と言われています。文字通りには、「あなたがたの無知にある欲望」ということです。その「欲望」は、私たちが霊的な無知の状態の中で、私たちを突き動かしていたのです。これは、私たちが罪の暗やみのために心が閉ざされていて、神さまを知らなかったし、知ろうとしなかったために、神さまに従う代わりに、自らの願いや欲望によって動かされて生きていたということです。それは、人生の方向という長い目で見たときの生き方から、とっさの判断に至るまで、生活のあらゆる面を、自分の願いや欲望が、支配していたということを意味しています。
 当然、その中には、この世の基準では、立派な願い(エピスミア)であると言われることも含まれています。しかし、そのような願いでも、霊的には決定的な欠けがありました。それは、私たちが造り主である神さまをまったく無視して生きていたということです。その根本的なことが狂っていたために、常に、根本的なところで、神さまに背いていたのです。その原因は、私たちの霊的な無知の状態にありました。
 その意味で、私たちは、かつては、根本的なところで神さまに背いていた者、すなわち、「不従順の子ら」でした。エペソ人への手紙2章1節〜3節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 このように、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望

というのは、造り主である神さまを神として認めず、あがめることもしない生き方の中で抱いたさまざまな願いや欲望のことです。そして、そのような願いや欲望のことが、ガラテヤ人への手紙5章16節では「肉の欲望」と言われています。
 先ほどお話ししましたように、14節後半の、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

ということは、15節で、

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

と戒められていることが、私たちの間に実現するために必要なことを示しています。花瓶に新しい花を入れるためには、それまであった古い花を捨てなければなりません。それと同じように、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

ということがなされなければ、

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

ということは実現しません。
 14節〜16節全体が一つの戒めですが、すでにお話ししましたように、その中心である15節の「聖なるものとされなさい」という戒めは、受動態です。これは、もちろん、私たちが聖くなるべきであることを示していますが、私たちが自分の力ですることではなく、神さまが私たちに対して、なしてくださることにあずかって実現することであることを示しています。神さまが、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいてお働きになる御霊によって、私たちの罪と汚れを聖めてくださり、私たち自身を新しく生まれさせ、新しく造り変えてくださることによって、私たちは「聖なるものとされ」るのです。
 それでは、そのために必要な、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

ということは、どうなのでしょうか。
 これは、何となく、私たちがしなければならないことのように思われます。しかし、先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙5章16節では、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と言われていました。この戒めは、私たちは御霊によって歩むことによって初めて、「肉の欲望を満足させるようなことは」なくなるということを示しています。自分の力で、自分の「肉の欲望」から自由になることはできないということです。それで、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

ということも、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいてお働きになる御霊のお働きによって初めて、私たちの現実になるのです。なぜなら、

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望

と言われている「欲望」に従って生きていた私たちを、自由な者としてくださって、「従順の子ども」に造り変えてくださったのは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いを私たちに当てはめてくださって、私たちの罪と汚れを聖めてくださり、私たちを新しく造り変えてくださった御霊のお働きであっるからです。
 このように、14節〜16節に記されている、

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

という戒めは、初めから終わりまで、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いに基づいて実現することです。そして、その贖いを私たちに当てはめてくださって、私たちを聖なるものとしてくださるのは、御霊のお働きによることです。
 ですから、

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。

というレビ記に記されている戒めは、御霊のお働きによって、私たちの現実になります。
 私たちは、父なる神さまが、御子イエス・キリストにあって、私たちを、御霊によって造り変えてくださっていることを信じて、御言葉に示されているみこころに従うのです。それが御霊によって歩むということの核心にあることです。そのようにして、私たちが御霊によって歩むときに、「従順の子ども」の実質が現われてきます。そして、

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

ということが、私たちの現実となってきます。
 このすべてが、父なる神さまの愛と、御子イエス・キリストの恵みによっています。

 


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