(第104回)


説教日:2002年11月10日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜16節


 きょうは、これまでお話ししてきましたヨハネの福音書15章1節〜16節に記されている、ぶどうの木とその枝のたとえによるイエス・キリストの教えについてのお話を締めくくるお話をしたいと思います。
 ここに記されているイエス・キリストの教え全体の中心は、イエス・キリストが、1節で、

わたしはまことのぶどうの木です。

と言われ、5節で、

わたしはぶどうの木です。

と言われたことにあります。
 そして、5節で、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

と言われていますように、私たちとイエス・キリストの関係は、「ぶどうの木」とその「」にたとえられる関係にあります。それで、私たちがどのようなものであるかということは、イエス・キリストがどのような方であるかということによって決まります。「」は「ぶどうの木」によって生かされており、「ぶどうの木」を離れると枯れてしまうように、私たちはイエス・キリストと結び合わされて、イエス・キリストのいのちによって生かされています。
 さらに、5節では、続いて、

人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

と言われています。また、それに先立つ4節でも、

枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

と言われています。
 そのように、私たちは、イエス・キリストと結び合わされていることによって初めて、実を結ぶことができます。そして、その実がどのような実であるかは、やはり、イエス・キリストがどのような方であるかということによって決まっています。イエス・キリストが父なる神さまの御前によい実を結ぶ「まことのぶどうの木」であられるので、その「」である私たちもよい実を結ぶことができるのです。


 私たちをイエス・キリストと結び合わせてくださっているのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。御霊はイエス・キリストの御霊としてお働きになり、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いを私たちに当てはめてくださいます。その際に、ただイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの効果を私たちに当てはめてくださるだけではありません。御霊は、私たちを栄光をお受けになってよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストに結び合わせてくださっているのです。しかも、それは、御霊がまず第一になしてくださったことです。
 私たちの感じ方では、私たちが栄光のキリストに結び合わされるためには、まず、私たちに対して色々なことがなされて、私たちが十分に整えられてから、イエス・キリストに結び合わされるのではないかという気がします。たとえば、私たちが誰か特別な人に会うときには、そのための身支度をしてから会います。それと同じように、私たちが栄光のキリストと一つに結び合わされるというのであれば、それなりの準備がなされてからそのようになるのではないかと考えてしまいます。しかし、私たちが栄光のキリストと結び合わされることは、そのようなこととはまったく違います。そのことのために私たちがすることは一つもありません。すべて栄光のキリストご自身が一方的な愛と恵みによって、そして御霊によって、私たちに対してなしてくださったことです。
 そのためには、私たちが信じなければならないのではないかという疑問が出されます。確かに、私たちが自覚しているのは、私たちの信仰による歩みは、私たちがイエス・キリストを信じた時から始まっています。それで、私たちがイエス・キリストを信じなければ、何も始まらないのではないかという気がします。それは、そのとおりです。私たちがイエス・キリストを信じなければ、何も始まりません。
 しかし、その奥に、栄光のキリストの、御霊によるお働きがあります。ローマ人への手紙10章17節には、

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

と記されています。そのように、「キリストについてのみことば」あるいは新改訳欄外訳のように「キリストのみことば」を聞くことがなければ、誰も信じることはできません。
 さらに、コリント人への手紙第一・2章14節には、

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

と記されています。「キリストについてのみことば」を聞くことがなければ、信じることはできないばかりか、いくら「キリストについてのみことば」を聞いても、「生まれながらの人間」には、それを悟ることができないのです。
 ヨハネの福音書3章3節に記されていますように、イエス・キリストも、ニコデモに対して、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

と言われました。ここで、「神の国を見る」ということは、神の国の眺めを見るということではありません。聖書で言う神の国とは、領土のような場所的な範囲のことではなく、その王であられる栄光のキリストの恵みとまことに満ちた支配のことを指しています。「人は、新しく生まれなければ」栄光のキリストのこともその恵みとまことに満ちた支配も理解することができません。当然それを信じて、信頼することもできません。そして、イエス・キリストは、5節に、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

と記されていますように、新しく生まれることは、御霊によることであることを示されました。
 ですから、私たちがイエス・キリストを信じたということは、私たちの意識からしますと、私たちがイエス・キリストを信じたことから始まっていますが、それに先立って、あるいはまたその奥で、神さまが私たちに、私たちがイエス・キリストを信じるようになるために必要なことをしてくださっているのです。
 何をしてくださったのかと言いますと、これまでお話ししたことからすぐに分かることは、御霊によって私たちを新しく生まれさせてくださったということです。そして、心の奥底から新しくされた私たちが、伝えられた福音の御言葉を理解することができるように、御霊によって心を照らしてくださって、福音の御言葉を理解させてくださったということです。もちろん、そのことは機械的になされることのではありません。その時には、私たちは伝えられた福音の御言葉を何とか理解しようとして、心を傾けて聞いているのです。その私たちが福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じることができたのは、私たちを新しく生まれさせてくださり、新しくされた心を照らしてくださっている御霊のお働きがあったからです。
 御霊が私たちを新しく生まれさせてくださったということは、私たちが新しいいのちによって生きるようになったということを意味しています。その新しいいのちは、イエス・キリストの復活のいのちです。御霊が私たちを栄光のキリストに結び合わせてくださったことによって、栄光のキリストの復活のいのちが私たちを生かしてくださるようになったのです。
 先ほど引用しましたコリント人への手紙第一・2章14節には「生まれながらの人間」という言葉が出てきました。これは、世間一般でいう誕生によって生まれた人のことを指しています。それは、御霊によって新しく生まれていない状態にあった私たちをのことでもあります。その「生まれながらの人間」は、最初の人アダムにある者として生まれてきます。アダムにあって罪を犯し、堕落している者として生まれてくるのです。ローマ人への手紙5章12節に、

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―― それというのも全人類が罪を犯したからです。

と記されているとおりです。
 このことをどのように考えたらいいのでしょうか。このことは、神さまの契約に照らして考えないと、十分には理解することはできません。
 神さまは創造の御業によって造り出された最初の人アダムをかしらとする人類全体をご自身との契約のうちに置かれました。人々は、自分は神さまと契約を結んだ覚えはないと言うことでしょう。しかし、聖書に記されている神さまの契約は、聖書が記された時代の契約の理解を反映しています。その当時の契約は、近代市民社会の契約と違って、双方の合意によって結ばれるものではなく、基本的に、主権者が一方的に、その主権の下にある者を自分との契約のうちに入れてしまうものです。それは、横暴だと言われるかもしれません。しかし、神さまは横暴な方ではありません。
 神さまの契約の主題は、神さまが「神のかたち」に造られている人間とともにいてくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるということにあります。それをひと言で言いますと、「インマヌエル」、「神さまは私たちとともにいてくださいます。」ということになります。神さまが、ご自身の主権によって、人類全体をご自身との契約のうちに置かれたということは、神さまが創造の御業によって人を「神のかたち」にお造りになったときに、「もしよかったら、わたしはあなたとともにいてあげます。そして、あなたをわたしとの交わりに入れて愛してあげます。」というように、人の意向をお聞きになることなく、ご自身が一方的な愛によって人を愛してくださり、人とともにいてくださって、人がご自身との交わりに生きるようにしてくださったということです。それは、神さまの造り主としての主権によることですが、決して横暴なことではありません。それは、親が生まれてきた子どもを一方的な愛をもって愛することが横暴なことではないのと同じです。
 そのようにして、神さまは、人を「神のかたち」にお造りになり、全人類を最初の人アダムをかしらとしてご自身との契約のうちに入れてくださいました。最初の女性であるエバも、神さまの直接的な御業によって造り出されましたが、それも、アダムの身体の一部から「素材」を取って造り出されました。それによって、全人類が例外なく「アダムから出たもの」という特質をもつようになりました。このようにして、全人類がアダムをかしらとする契約共同体を形成しており、「生まれながらの人間」はすべて、この契約共同体の一員として生まれてきます。
 この全人類の契約のかしらであるアダムが造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったときに、全人類がアダムにあって罪を犯し、造り主である神さまの御前に堕落した者になってしまったのです。それが、先ほど引用しましたローマ人への手紙5章12節で、

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―― それというのも全人類が罪を犯したからです。

と言われていることの意味です。
 このことを、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているイエス・キリストの教えで用いられているぶどうの木とその枝のたとえを当てはめて言いますと、全人類はアダムというぶどうの木につながれている枝として生まれてくるということです。イザヤ書5章1節、2節には、主の契約の民であるイスラエルとユダについて、

  さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。
  そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。
  わが愛する者は、よく肥えた山腹に、
  ぶどう畑を持っていた。
  彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、
  そこに良いぶどうを植え、
  その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、
  甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。
  ところが、酸いぶどうができてしまった。

と記されています。
 これは、そのまま全人類の状態に当てはまります。神さまは、人を「神のかたち」にお造りになって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。そして、御霊によってご臨在してくださって、人をそのご臨在の御前に住まわせてくださいました。それが、人がエデンの園に置かれたことの意味です。人はその神さまのご臨在の御前において神さまに対して罪を犯して、堕落してしまったのです。神さまのあわれみによって、その後も人類の歴史は存続して今日に至っています。しかし、それは、神さまの御前に「酸いぶどう」をならせる木となってしまったことにたとえられます。「生まれながらの人間」はみな、この「酸いぶどう」をならせる木の枝として生まれてきて、「酸いぶどう」の実をならせます。先ほどのイザヤの言葉は、それは古い契約の民であるイスラエルの民であっても例外ではなかったということを示しています。いくらアブラハムの子孫であったとしても、アブラハムとの血肉のつながりによっては「生まれながらの人間」、すなわち、アダムにあって罪を犯し、神さまの御前に堕落した者でしかありません。
 これに対して、ヨハネの福音書15章1節には、

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

というイエス・キリストの教えが記されています。ここでイエス・キリストはご自身のことを「まことのぶどうの木」であると言っておられます。これは、イエス・キリストが、「農夫」にたとえられている父なる神さまとの関係において「まことのぶどうの木」であられるということを示すものです。それはまた、古い契約の下にあったイスラエルの民が主の御前に「酸いぶどう」をならせる木になってしまったのに対して、ご自身こそがよい実を結ぶ「まことのぶどうの木」であられることを示しています。それはさらに、最初の人アダムをかしらとする人類全体が「酸いぶどう」をならせる木になってしまったのに対して、ご自身こそが「まことのぶどうの木」であられることをも意味しています。イエス・キリストがよい実を結ぶ「まことのぶどうの木」であられるので、その「」は良よい実を結ぶのです。5節で、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

と言われているとおりです。
 イエス・キリストは、これに先立つ3節に記されていますように、

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

と言われました。この場合の「わたしがあなたがたに話したことば」というのは、単数形のロゴスで、新しい契約の主であられるイエス・キリストが語ってくださった教えの全体をひとまとめとして見たものです。このことをすでにお話ししたことに合わせて言いますと、弟子たちは、このイエス・キリストの「ことば」を御霊のお働きによって理解し、イエス・キリストを約束の贖い主として信じることができるようになったのです。そのようになるために、御霊は弟子たちを新しく生まれさせてくださっています。さらには、それに先立って、弟子たちをイエス・キリストご自身に結び合わせてくださっています。そうであるからこそ、イエス・キリストは、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

と言われたのです。
 すべての人は最初の人アダムにある者として、また、アダムにあって罪を犯し、堕落している者として生まれてきます。それで、すべての人が死の力に捕らえられてしまっています。イエス・キリストはこのような私たちを罪と死の力から解放し、「神のかたち」に造られている人間の本来のいのちを回復してくださるために、人の性質を取って来てくださいました。そして、十字架にかかって死んでくださり、ご自身の民の罪をすべて、また完全に贖ってくださいました。そして、死者の中からよみがえられたことによって、「神のかたち」に造られている人間の本来のいのちを、さらに栄光あるいのちとして完成させてくださいました。最初の創造の御業によって造り出されたときの人間は、「神のかたち」に造られていましたので、聖さと義と栄光をもつものでしたが、なお、罪を犯す可能性のある状態にありました。しかし、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたイエス・キリストが獲得してくださった栄光あるいのち―― 復活のいのちにある状態は、もはや、罪を犯すことがないまでに聖められる状態です。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

と言われたイエス・キリストは、そのような栄光あるいのちの源となられました。私たちは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いに基づいてお働きになる御霊によって、この栄光あるいのちの源となられたイエス・キリストに結び合わされて、復活のいのちに生きているのです。
 先ほど、古い契約の下にあったイスラエルの民は、「酸いぶどう」をならせる木にたとえられており、実際に、「酸いぶどう」の実を結んでしまったということをお話ししました。それは、古い契約の下にあったイスラエルの民が地上的な「ひな型」でしかなかったことによっています。
 繰り返しお話ししてきましたが、

わたしは(まことの)ぶどうの木です。

というイエス・キリストの言葉は、イエス・キリストが、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられるということを示すものです。この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という主の御名の啓示は、主が古い契約のもとでなされた贖いの御業の頂点である出エジプトの贖いの御業を遂行されるに当たって、古い契約の仲保者として召されたモーセに与えられたものです。
 この時、確かに、主は、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる方であることが示されました。そして、そのとおりに、出エジプトの贖いの御業が遂行されました。しかし、そのすべてが、古い契約の下での地上的な「ひな型」でしかありませんでした。
 私たちは、出エジプトの際になされた主の御業に驚きます。エジプトの地でなされた十のさばきはもとより、紅海の水を分けてイスラエルの民を乾いた地を通るようにしてそこを渡らせてくださったこと、60万人といわれるイスラエルの民を、マナとうずらをもって養い続けてくださったことなどについては、そのようなことが起こるわけがないという思いから、聖書にはそのように記されているが、実際にはこういうことだったのだという形で、さまざまな「合理化」がなされています。しかし、私たちは、霊感された神さまの御言葉に記されているそれらの御業が実際になされたということを信じています。それで、出エジプトの際になされた主の御業に驚きます。
 けれども、そこにおいて示された主の御力―― エジプトの地の光をやみに変えられたこと、エジプトの初子を撃たれたこと、紅海の水を分けられたこと、イスラエルの民を養ってくださるために毎日マナを与えてくださったことなどによって示された主の御力を、さらに何倍にして働かせてくださったとしても、私たちの一つの罪も贖うことはできません。というのは、神さまがそのような力を働かせてくださることによっては、私たちを取り巻く状況を変えることしかできないからです。私たちの罪は無限、永遠、不変の栄光の神さまに背くことです。その一つの罪も聖なる神さまの御前には無限、永遠、不変の重さをもっています。それで、それを贖うためには、無限の償いがなされなければなりません。
 ですから、出エジプトの際になされた贖いの御業において主が働かせてくださった御力の何倍かの力を働かせてくださっても、私たちの罪の一つも贖うことはできません。まして、私たちのうちに「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復し、私たちと神さまとの関係を、本来の愛にあるいのちの交わりの関係に回復することはできないのです。
 私たちは、神さまが出エジプトの時代になさったのと同じような御業を今もなされば、それを見る人々は神さまを信じ神さまに従うようになるはずだと考えがちです。そして、ひそかに、神さまがそのような御業をなしてくださることを期待しているかもしれません。しかし、そのことによっては、ある種の「信仰」は生まれることはあっても、真の意味で主を信じる信仰は生まれてこないことは、「酸いぶどう」をならせる木にたとえられているイスラエルの民、特に、出エジプトの時代の荒野のイスラエルの民の歴史が示しています。荒野のイスラエルは、自分たちの目の前でなされた数々の御業を見て、主を信じました。しかし、その信仰は、以前お話ししましたが、ことあるごとに主につぶやき、主を試みて、しるしを求める信仰でした。それは、主の愛と恵みを信じていなかったから―― 卑近な言葉で言いますと、主を信用していなかったから、問題が起こると主の「悪意」の現われだと解釈したのです。
 このように、古い契約の下にある、出エジプトの時代になされた「ひな型」としての贖いの御業そのものには、アダムにあって造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落している人間の罪を贖って、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復し、神さまとの関係を本来の愛にあるいのちの交わりの関係に回復する力はありませんでした。それは、ちょうど、ジャンボ・ジェットの模型が私たちを乗せて空を飛ぶことができないのと同じです。
 古い契約の下でなされた「ひな型」としての贖いの御業は、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の神である主が、ご自身の民の罪を贖ってくださるということを約束してくださる「約束」としての意味をもっていました。
 エペソ人への手紙2章1節〜3節には、生まれながらの私たちの状態について、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 イスラエルの民がエジプトの奴隷の身分であったことは、私たちが、このエペソ人への手紙2章1節〜3節に記されている状態にあったことを表わす「ひな型」でした。私たちは自分の罪とその結果である死の力に縛られ、その罪を通して働きかけてきていた「空中の権威を持つ支配者」の巧妙な支配の下に縛られていたのです。
 主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださったことは、主が私たちを、私たちを縛っていたこれらすべての力から解放してくださって、私たちのうちに「神のかたち」の栄光と尊厳を回復してくださり、神さまとの愛にあるいのちの交わり回復してくださることを「約束」してくださるための「ひな型」でした。

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の神である主は、永遠に変わることなく存在される方であり、他の何ものにも依存しないでご自身で存在される方です。この主の契約も変更されることがなく、必ず成し遂げられます。
 しかし、主は、「自分の罪過と罪との中に死んでいた」私たちの罪と罪過を贖ってくださることを、他の誰にも委ねることはおできになりませんでした。それは、私たちの罪の本質は、「神のかたち」に造られている私たちが無限、永遠、不変の栄光の主に逆らうことだからです。そのような私たちの罪は、やはり無限、永遠、不変の重さをもっています。それで、その罪を贖うためには、無限、永遠、不変の償いがなされなければなりません。それはどのような被造物にもできないことです。それで、ご自身の契約において私たちの罪を贖ってくださると約束してくださった主は、私たちと同じ人の性質をお取りになって来てくださり、私たちの罪を背負って、十字架にかかって死んでくださいました。
 ご自身の民の罪を贖うということは、それほど難しいことです。しかし、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる主であられるイエス・キリストは、私たちのためにそのような贖いの御業を成し遂げてくださいました。
 このように見ますと、神さまは出エジプトの時代に、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

というご自身の御名を啓示してくださいましたが、この御名が意味していることは、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストによって初めて、完全な形でこの歴史の現実になっていることが分かります。―― それで、私たちは、イエス・キリストこそが契約の神である主、ヤハウェであられると言っているのです。
 最初の人アダムにあって造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落していた私たちは、神さまが備えてくださった贖い主であられる御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いにあずかって、新しく生まれ、復活のいのちによって生かされています。イエス・キリストの復活のことを記しているコリント人への手紙第一・15章20節〜22節に、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

と記されているとおりです。
 私たちがイエス・キリストの贖いにあずかっているのは、私たちの信仰によることです。しかし、私たちが信じるようになる前に、イエス・キリストが成し遂げられた贖いに基づいてお働きになる御霊が、私たちをこの栄光ある復活のいのちの源となられたイエス・キリストに結び合わせてくださっています。それで、私たちは、イエス・キリストに結び合わされたことによって、イエス・キリストの復活のいのちによって生きるものとして新しく生まれたのです。さらに、新しく生まれたので、イエス・キリストの御言葉を理解し悟ることができるようになりました。
 その私たちのことを、イエス・キリストは「」と呼んでくださっています。ヨハネの福音書15章15節に、

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

と記されていますように、イエス・キリストは、私たちに、父なる神さまからお聞きになったことをすべて知らせてくださっています。
 このことに続いて、16節では、

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

と言われています。
 私たちは、

あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

という約束の下にあります。その私たちが父なる神さまに祈り求めるものとは何でしょうか。それは、当然、私たちを「」と呼んでくださったイエス・キリストが知らせてくださったことです。先週お話ししましたように、御子イエス・キリストによって成し遂げられる贖いの御業のご計画の全体に関することです。父なる神さまが、御子イエス・キリストを遣わしてくださって、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりに回復してくださったことに示されたみこころを、ご自身の契約の民すべての間に実現してくださり、ひいては、御子をかしらとして、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものを一つに集めて、ご自身と和解させてくださるという贖いのご計画を実現してくださることです。
 私たちは、そのような父なる神さまのみこころの全体を知らせていただいて、栄光のキリストから「」と呼んでいただいている者として、機会あるごとに、また、特に礼拝において、主が教えてくださったように、

  天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように
     地でも行なわれますように。
  私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
  私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
  私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

と祈ります。
 主の祈りは、基本的に、父なる神さまの栄光が現わされることを祈り求めるものです。その後半においては、私たちの必要のために祈りますが、それも、恵みとまことに満ちた主の栄光が現わされることにかかわっています。前半においては、父なる神さまの栄光が現わされることを、直接的に祈り求めます。その中で、私たちは、父なる神さまのみこころが実現することを祈り求めて、

  みこころが天で行なわれるように
     地でも行なわれますように。

と祈ります。この祈りについては様々な説明がなされていますが、最終的には、すでにお話ししました、エペソ人への手紙1章10節に記されている、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という、父なる神さまの「みこころの奥義」が実現されることを祈り求めるものです。

 


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