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説教日:1999年6月27日 |
きょうも、これまでのお話に続いて、私たちが神さまのみこころを知るためにわきまえておかなくてはならない、基本的なことについてお話しします。 第二に、神さまは、ご自身の永遠のみこころに従って、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになり、「歴史と文化を造る使命」をお委ねになりました。 最初に造られた状態の人は、「神のかたち」の栄光と尊厳性を担う者として、「御前で聖く、傷のない者」でした。そして、神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまを礼拝することを中心とする、神さまとのいのちの交わりに生きる者として「神の子ども」の特権にあずかっていました。 すでに繰り返しお話ししましたので説明は省きますが、「神のかたち」に造られている人間は、宇宙の壮大さと不思議さにまさって、深く豊かに、また、直接的に、生きておられる神さまの人格的な特性を映し出す存在です。 また、「神のかたち」に造られている人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」には、宇宙大の意味があります。「神のかたち」に造られている人間は、造り主である神さまと、神さまによって造られたすべてのものの間に立つ「仲保者」のような存在です。そして、造られたすべてのものを、造り主である神さまへの礼拝へと結集することによって「まとめていく」ものです。 ── 私たちの礼拝は、この宇宙大の礼拝の中心にあります。 第三に、「神のかたち」の栄光と尊厳性を担う者として造られている人間は、その状態にとどまっているべきものではなく、「歴史と文化を造る使命」を遂行する中で、自分の心を神さまのみこころと一致させることによって、「御前で聖く、傷のない者」、「神の子ども」として、さらに成長し成熟して、ついには「御子のかたちと同じ姿」に造り変えていただく恵みにあずかるべきものです。 それは、神さまがご自身の契約に基づいて遂行してくださる「特別な摂理の御業」を通して実現することです。そのことは、『ウェストミンスター小教理問答書』問一二の、 神は、創造された状態の人に、どのような特別の摂理の行為をとられましたか。 という問いかけに対する答において、 人を創造された時、神は人に、完全な服従を条件として命を契約されました。しかし、善悪を知る木の実を食べることは、死を制裁として禁じられました。 と告白されている中にまとめられています。 すでに、色々な機会にお話ししていますが、天地創造の初めに「神のかたち」に造られて「歴史と文化を造る使命」を委ねられていた人間は、初めから、この神さま契約の中に入れられていました。ちょうど、生まれてくる赤ちゃんが両親との「親子関係」にあるものとして生まれてくるように、「神のかたち」に造られた人間は、造り主である神さまとの「契約関係」にあるものとして造り出されたのです。 ── この契約は一般に「業の契約」と呼ばれますが、私たちは「創造の契約」と呼んできました。 神さまは、この契約の中に備えてくださった祝福によって、人を最初に造られた状態の「神のかたち」の栄光から、さらに充満な栄光の姿に造り変えてくださるようにしてくださったのです。それが、神さまの永遠のみこころによって定められている「御子のかたちと同じ姿」です。 第四に、「神のかたち」に造られて、神さまの契約の祝福の下に置かれていた人間は、神さまに背いて罪を犯し、堕落してしまいました。それにもかかわらず、、神さまは、御子イエス・キリストの贖いの御業を通して、ご自身の永遠のみこころに定めておられるとおりに、私たちを「御前で聖く、傷のない者」、「神の子ども」としてくださり、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださるみこころを果たしてくださっておられます。 人類は、最初の人アダムにあって罪を犯して堕落してしまい、創造の契約の違反者となってしまいました。それによって、契約の祝福を失ってしまい、契約の違反者に対するのろいの下に置かれるようになってしまいました。人間は、造り主である神さまを礼拝しないものとなっているというだけでなく、神さまのご臨在の御前から退けられ、契約の祝福である神さまとの交わりにあるいのちを失い、死と滅びの中をさまようものとなってしまいました。しかも、「歴史と文化を造る使命」を委ねられている「仲保者」のような立場にあるものとして、造られたすべてのものとの「一体において」、のろいに服するものとなってしまいました。 これに対して、御子イエス・キリストは、第二のアダム、すなわち、「新しい契約」のかしらとして、「人の性質」を取って来てくださいました。そして、十字架の上で「のろわれたもの」となられて、最初の契約の違反ののろいをすべてご自身の身に負ってくださいました。それによって、ご自身の契約の民を、最初の契約の違反ののろいである死と滅びの中から贖い出してくださいました。 そればかりか、十字架の死に至るまでの生涯を通しての徹底的な従順に対する報いとして、最初の契約の祝福を「充満な形において」受けてくださいました。 言い換えますと、最初のアダムが、神である主のみこころに最後まで従うことによって獲得すべきであった栄光を獲得してくださったのです。それが、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことです。 御子イエス・キリストが「人の性質」において栄光を獲得してくださったのは、私たちのためです。私たちはその栄光にあずかって、「御前で聖く、傷のない者」、「神の子ども」としていただき、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えていただいています。 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 コリント人への手紙第二・三章一八節、そして、ヨハネの手紙第一・三章二節で、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と言われているとおり、それは、世の終わりの御子イエス・キリストの再臨の日に完成します。 これによって、私たちを、ご自身の御前で「御前で聖く、傷のない者」また「ご自分の子」としてくださるように定められ、「御子のかたちと同じ姿」としてくださるように定められた、神さまの永遠のみこころが最終的に完成します。 以上が、これまでお話ししたことのまとめですが、ここで、神さまのみこころを知るためのお話で、どうして、このようなお話をしてきたのかについてお話しして、次に進むために必要なことを確認をしておきたいと思います。 神さまのみこころを知るために、私たちが基本的にわきまえておかなくてはならないことについてのお話で、まず、このようなことをお話ししたのは、これまでお話ししてきたことを知ることが、私たちに対する神さまのみこころの中で一番大切なことであるからです。 一般的に言いまして、神さまのみこころを求めるということは、「この場合、私は何をしたらいいのでしょうか。」というような形で、自分が、何かをすることについてのみこころを求めることを意味しています。 そのように、神さまのみこころを求めることは、自分が何かをすることに対するみこころを求めることであると考えておられる人にとっては、これまでのお話が、神さまのみこころを知ることと、どのようにつながっているのか分からない、と感じられるかもしれません。 確かに、これまでお話ししてきたことは、ある特定の場合に、自分が何をしたらよいか、という形でのみこころを知ることには直接関係がないことばかりです。 これまで、きょうまとめてお話しした四つのことを、かなり詳しくお話ししてきましたのは、いちばん大切な神さまのみこころは、私たちが何かをするという前に、神さまが、私たちのために、また、私たちに対してなしてくださっていることを、私たちが知ることにあるからです。 ── 言い換えますと、私たちが何かをするという前に、その私たち自身がどういうものであるかを、神さまとの関係において理解するということです。神さまの御言葉の光に照らして、自分がどのようなものであるかをしっかりとわきまえるということです。それは、神さまの目的(神さまにとって大切なこと)が、私たちの「奉仕」ではなく、私たち自身だからです。 神さまが、ご自身の永遠のみこころに従って、「神のかたち」に造ってくださった人間は、私たちが考えている以上の、いや、私たちの想像をはるかに超えた、栄光と尊厳性を与えられています。 すでにお話しましたように、御言葉の光に照らして見ますと、「神のかたち」に造られている人間は、壮大な宇宙がこぞって現わしているのにまさって、深くまた豊かに、造り主である神さまの人格的な栄光を現わすものとして造られています。また、人間には、造り主である神さまと神さまによって造られたすべてのものの間に立って、この宇宙のすべてのものを治める使命が与えられています。しかし、このようなことは、「本気で信じている。」と言うほうが恥ずかしくなるくらいに、途方もないことと思われます。 それは、私たちが実感できることではありません。というのは、私たちは、いまだ完全に聖められていませんので、「神のかたち」としての私たち自身が、なおも腐敗しているという一面があるからです。また、私たちが住んでいて、私たちが絶えず接しているこの世の文化の中では、聖書があかししている「神のかたち」の栄光と尊厳性は、決して、認められることはないからです。 この日本に住んでいる私には、南極の寒さが実感できません。今はこの世に住んでいる私たちが、「神のかたち」の栄光と尊厳性がどれほどのものであるかを実感できないというのも、それと同じようなことでしょう。 本来の「神のかたち」の栄光と尊厳性は、この世にいる私たちの思いをはるかに超えていますので、私たちは、心して御言葉から学ばないかぎり、それに気がつくことはできません。それは、実感することではなく、御言葉のあかしに基づいて信じるほかはないことです。 しかし、私たちに実感できないことであるといって、重要なことではないというのではありません。これまでお話ししてきたことが本当であれば、私たちが「神のかたち」に造られており、「神のかたち」の栄光と尊厳性を与えられているということは、神さまが、どんなに深い愛と恵みを、私たちに注いでくださっているかのしるしです。 人間の罪による堕落の後にも、神さまが、御子イエス・キリストの十字架の死による贖いによって、私たちの罪を贖ってくださり、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださり、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださっているのも、神さまが、初めからの愛と恵みを貫き通してくださっているからです。 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 ── 事実、いま私たちは神の子どもです。 ── 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。 ヨハネの手紙第一・三章一節 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 ヨハネの手紙第一・四章九節、一〇節 とあかしされている、神さまの私たちに対する愛は、確かに、十字架につけられて、私たちの贖いとなってくださった御子イエス・キリストを通して、この上なくはっきりと示されました。しかし、それは、その時に神さまの私たちに対する愛が増したということではありません。 神さまは、初めから、そのように深い愛と恵みをもって私たちを愛してくださっておられます。罪を犯して、心が神さまから離れてしまった人間が、その愛を見失ってしまっているだけです。神さまは、それでもなお、ご自身の私たちに対する愛が変わっていないことを示してくださるために、御子イエス・キリストを通して、ご自身の愛を、よりはっきりと示してくださったのです。 ── 神さまは、初めから、私たちの思いを超えた愛で、私たちを愛してくださっており、その愛を最後まで示し続けてくださっておられます。 その愛は、神さまの永遠のみこころのうちに、私たちを「御前で聖く、傷のない者」、「神の子ども」と定めてくださり、「御子のかたちと同じ姿」に定めてくださっていることから出ています。神さまは、無限、永遠、不変の愛をもって、私たちをそのように定めてくださっておられます。そして、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになったことによって、この愛が私たちに示されるようになりました。そして、今、御子イエス・キリストによって、私たちを「御前で聖く、傷のない者」、「神の子ども」としてくださり、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださることを通して、その変わらない愛を、さらに豊かに示してくださっておられます。 もし、神さまがこれほどまでに、私たちを愛してくださっておられるのであれば、私たちに対する神さまのみこころは、私たちが神さまの愛をしっかりと受け止めることにあります。それは、神さまが、永遠のみこころに従って、人間を「神のかたち」にお造りになり、これに「神のかたち」の栄光と尊厳性を与えてくださったことの意味をしっかりと受け止めることです。そして、人間が罪を犯して、そのみこころを踏みにじってしまった時にも、なお、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、「神のかたち」の栄光と尊厳性を回復してくださり、その充満な栄光の形である御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださることの意味を、しっかりと受け止めることです。 もし、私たちが、このことをしっかりと受け止めようとしていないなら、 たとえ、自分の気持ちでは、神さまを愛しており、実際に「神さまのために」何かをしようとしていても、私たちは根本的なところで、神さまのみこころを踏みにじってしまっている状態にあります。 そのような姿勢は、神さまのことを根本的に誤解しているところから出ていると言う他ありません。 この世では、人間は「神」の奉仕を必要としており、「神」も人間の奉仕を必要としていると考えられています。それで、人間が「神」に奉仕すると、「神」は喜ぶと受け止められています。逆に、人間が奉仕をしないと、「神」は腹を立てて怒り狂い、災いをもたらすと考えられています。 そのような発想は、残念ながら、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、造り主である神さまを知るようになった神の子どもたちの中にも、残ってしまっているものです。 しかし、無限、永遠、不変の神さまは、無限に豊かな方です。私たちの奉仕が必要な方ではありません。人間を「神のかたち」にお造りになって、「歴史と文化を造る使命」をお委ねになったのも、私たちに対する愛によること ── 私たちが「神のかたち」の栄光と尊厳性を表現して、神さまの栄光を映し出すようにしてくださったからであって、ご自身の必要を満たすためではありません。 そうであれば、私たちにできる最大のことは、私たちが「神のかたち」の栄光と尊厳性を担う者として造られていることと、罪による堕落の後にも、御子イエス・キリストの贖いの御業によって、その栄光と尊厳性を回復していただき、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えていただいていることによって示されている、神さまの無限、永遠、不変の愛を、しっかりと受け止めることです。 それは、私たちが永遠になし続けていくことです。私たちが神さまの愛をすべて分かってしまう時は、永遠にやって来ません。 ── それなのに、地上にいる私たちが、神さまの愛を、もう分かってしまったかのような態度を取ってしまうのは、一体、どういうことなのでしょうか ・・・ 。 私たちにとっては、このような神さまの愛をしっかりと受け止めて、永遠に至るまで、神さまを喜ぶことが、神さまの栄光を現わす、ただ一つの道です。それ以外に、神さまの栄光を現わす道はありません。 ですから、日々の歩みの中で、御言葉の光の下で ── あくまでも、御言葉の光の下で、神さまを仰いで、神さまの愛を新しく受け止めることを、第一のこととしたいと思います。すべてのことは、ここから始まります。 |
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