(第8回)


説教日:1999年6月20日
聖書箇所:ローマ人への手紙八章二八節〜三〇節

 きょうも、これまでのお話に続いて、私たちに対する神さまのみこころを知るために、私たちが、基本的にわきまえておかなくてはならないことについてお話しします。
 繰り返しお話ししていますが、今、この世のさまざまな状況の中で生きている私たちに対する神さまのみこころは、すべて神さまの永遠のみこころから出ています。
 神さまの永遠のみこころは、神さまの無限の知恵によってこの世界のすべてのものの在り方を永遠に定めておられるものですから、私たち人間の小さな心では捉えることはできません。それで、神さまは、ご自身の永遠のみこころについては、私たちに対する永遠のみこころの「最終的な目標」ともいうべきことだけを示してくださっておられます。
 それは、エペソ人への手紙一章四節、五節では、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです

と言われており、ローマ人への手紙八章二九節では、

神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と言われています。
 エペソ人への手紙では、私たちが「御前で聖く、傷のない者」となり、「ご自分の子」となることであると言われています。一方、ローマ人への手紙では、私たちが「御子のかたちと同じ姿」、すなわち、「御子イエス・キリストに似た者」となることであると言われています。これは、同じことを別の角度から述べたものです。
 これが、私たちに対する神さまの永遠のみこころの「最終的な目標」です。それで、私たちの具体的な状況の中での神さまのみこころは、それがどのようなものであっても、また、どのような場合にも、必ず、この神さまの永遠のみこころの「最終的な目標」と一致し、調和しています。


 先週は、神さまがこのような永遠のみこころを実現してくださるために、天地創造の初めに人間を「神のかたち」にお造りになり、これに「歴史と文化を造る使命」をお委ねになったということをお話ししました。
 まず、それを復習しておきましょう。
 人間が「神のかたち」に造られているということの核心にあるのは、人間が「自分というもの」をもっており、自分自身の自由な意志に従って、また、それゆえに、自分の責任において、自分の在り方を選び取ることができる存在であるということにあります。それを一言で言いますと、人間は、「人格的な存在」であるということです。
 『ウェストミンスター小教理問答書』問四への答では、

神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。

と告白されています。
 「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において」というのは、神さまが、「神のかたち」にお造りになった人間に分かち与えてくださった属性です。「神のかたち」に造られている人間には、「知恵、力、聖、義、善、真実」という神さまの人格的な属性が分け与えられています。それで、人間には、知恵や力があるだけでなく、聖さ、義、善、真実といった人格的な特性も与えられているのです。
 「神のかたち」に造られていて「人格的な存在」である人間は、自分自身の自由な意志によって自分の在り方を選び取ることができますが、それによって、聖さ、義、善、真実といった人格的な特性を表現するのです。それによって、生きておられる人格的な神さまを映し出します。
 一五〇億光年の彼方に広がっていると言われる宇宙の壮大さや、その中で起こっていることの不思議さは、造り主である神さまの無限の知恵や全能の力をあかししています。しかし、神さまの知恵と力は、神さまの人格的な属性の一部でしかありません。しかも、この壮大な宇宙の奥には、これをお造りになった方がおられるというように、いわば、「間接的に」神さまの「人格性」をあかしするだけです。
 これに対しまして、「神のかたち」に造られている人間は、「人格的な存在」であるので、造り主である神さまの人格的な栄光を、いわば、「直接的に」また「総合的に」映し出すものです。言い換えますと、「神のかたち」に造られている人間は、この壮大な宇宙よりも深くまた豊かに、造り主である神さまの栄光を現わすものなのです。

 「神のかたち」に造られた人間には、また、「歴史と文化を造る使命」が委ねられています。ここから、さまざまな形の人間の営みが生み出され、それによって、さまざまな文化や歴史が生まれてきています。本来は、その使命の遂行の中に、「神のかたち」に造られている人間の聖さ、義、善、真実といった人格的な特性が、具体的な状況の中で、具体的な形を取って表現されるようになっていました。
詩篇八篇五節、六節で、

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていますように、「神のかたち」に造られている人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」には、神さまがお造りになったすべてのものに関わる意味の広がりがあります。言い換えますと「宇宙大」の意味があります。
 それは、人間がこの広大な宇宙を、物理的な力で支配するという意味ではありません。
 この宇宙とその中のすべてのものは、神さまの御手の作品として、神さまの栄光を現わしています。しかし、人格的なものではありませんから、自分たちが神さまの栄光のために造られていることを知りませんし、自らの意志に従って神さまを礼拝することもありません。
 しかし、「神のかたち」に造られている人間は、神さまの御手の作品であるこの宇宙とその中にあるすべてのものに表わされている栄光をくみ取って、その栄光のゆえに神さまを礼拝し、その栄光を神さまにお返しします。そのようにして、人間は、この宇宙とその中のすべてのものを造り主である神さまに対する礼拝へとかかわらせていくという形において、すべてのものを治めるのです。
 詩篇一四八篇一節〜六節では、

ハレルヤ。
天において主をほめたたえよ。
いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。
主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。
主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
主をほめたたえよ。天の天よ。
天の上にある水よ。
彼らに主の名をほめたたえさせよ。
主が命じて、彼らが造られた。
主は彼らを、世々限りなく立てられた。
主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。

と、「神のかたち」に造られている人間の呼びかけによる宇宙大の礼拝が歌われています。

 このように、「神のかたち」に造られている人間は、この壮大な宇宙が造り主である神さまの栄光を現わすのにまさって、深く豊かに神さまの栄光を現わします。また、「神のかたち」に造られている人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」には、造られたすべてのものを造り主である神さまに結びつける、「宇宙大」の意味があります。
 しかし、一体、誰が、このようなことを信じるでしょうか。本気でこのようなことを信じていると言えば、「誇大妄想」に陥っている、と言い返されることでしょう。
 それでも、私たちは、天地創造の初めに神さまが人間を「神のかたち」にお造りになったことには、そして、「歴史と文化を造る使命」をお委ねになったことには、このような意味があると告白します。それは、私たちが、自然と、そのように感じるからではありません。ひとえに、御言葉がそのように教えているからです。
 先ほど引用しました詩篇八篇三節、四節で、

あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。

と告白されていますように、神さまご自身と、神さまがお造りになった世界の壮大さと調和の見事さと美しさを知れば知るほど、私たちには、自分たちに与えられている「神のかたち」としての栄光と尊厳性の高さと深さが信じがたくなってきます。
 そうではあっても、私たちは、御言葉に従って、

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
とつないで、告白を続けます。なぜなら、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。

と歌われていますように、人間が「神のかたち」に造られたのは、神さまの一方的な愛とあわれみによっているからです。私たちは、その神さまの愛とあわれみを無にしないためにも、自分たちが「神のかたち」に造られていることと、その栄光と尊厳性を告白するのです。
 私たちは、まず、神さまとの関係を第一に考えるべきものです。それが「神中心」に歩むことの基本です。そのようにして、神さまとの関係において自分を理解するときに、まず、受け止めなくてはならないことは、自分は、神さまの永遠のみこころに従って「神のかたち」に造られて、「歴史と文化を造る使命」を委ねられている人間であるということです。そして、「神のかたち」の栄光と尊厳性には、宇宙大の意味の広がりがあるということです。
 確かに、それは、私たち人間の本来の姿であって、実際には、人間は罪を犯して堕落してしまっているために、「神のかたち」を腐敗させてしまっています。それで、私たちは、神さまとの関係において初めて理解できる「神のかたち」の栄光と尊厳性とはまったく関係のない人間理解をしてきました。自らのうちにある罪の自己中心性に縛られて、お互いを比べ合うような形で、誇ったりひがんだりしながら、自分が何ものであるかを知ろうとしてきました。
 しかし、神さまは御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、死者の中からのよみがえりによって、私たちのうちに、「神のかたち」の本来の姿と、その栄光と尊厳性を回復してくださっています。そして、まず、神さまとの関係で、自分が何ものであるかを知るように、導いてくださっています。それによって、お互いを比べて誇ったりひがんだりするところからも解放してくださいました。というのは、自分たちが担っている「神のかたち」の栄光と尊厳性の重さの前には、お互いの違いは、まったく相対化されてしまうからです。 ── 普通ですと、百万円があるかないかは大変なことです。しかし、たとえば、一〇億円もっている人と一〇億百万円もっている人を比べてみますと、その差の百万円があるかないかは相対化されてしまいます。
 神さまのみこころを受け止めるためには、まず、私たちそれぞれが、自分は神さまの永遠のみこころに従って「神のかたち」に造られており、「神のかたち」の栄光と尊厳性を担っていることを認めること、そして、それを、お互いに対しても認めることが大切です。

 神さまは、ご自身の永遠のみこころに従って、人間を「神のかたち」にお造りになり、「歴史と文化を造る使命」を委ねてくださいました。人間は、「歴史と文化を造る使命」を遂行することの中で、神さまのみこころに完全に従い、心を神さまとまったく一つにすることを通して、成長し成熟していき、ついには、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えていただくべきでした。 ── ですから、「御子のかたちと同じ姿」は、いわば、「神のかたち」が完成した姿です。
 しかし、実際には、人間は罪を犯して、「神のかたち」の栄光と尊厳性を腐敗させてしまいました。
 それでもなお、神さまは、ご自身の永遠のみこころに従って、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように導いてくださいます。
 先ほど引用しましたローマ人への手紙八章二九節の、

神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

という、神さまの永遠のみこころは、その前の二八節からのつながりの中で示されています。二八節〜三〇節では、

二八 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。二九 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。三〇 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われています。
 二八節の、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

という御言葉は、神さまの「摂理の御業」のことを述べています。
 神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものを、いわば、「責任をもって」治めておられます。ご自身の永遠のみこころに従ってお造りになったすべてのものを、さらに、永遠のみこころに従って治めておられるのです。ですから、神さまは、すべてのものを行き当たりばったりに治めておられるのではなく、はっきりとした目的に向かって導いていかれます。それを「摂理の御業」と呼びます。
 二八節では、神さまは、その摂理の御業において、すべてのことを働かせて私たちの「益」を図ってくださると言われています。そして二九節で、その「益」とは、私たちが「御子のかたちと同じ姿」、すなわち、「御子イエス・キリストに似た者」になることであると言われているのです。このことから、私たちに対する神さまの摂理の御業も、私たちを「御子のかたちと同じ姿」としてくださるという、神さまの永遠のみこころに従ってなされるということが分かります。

 また、三〇節では、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われています。
 これは、御子イエス・キリストが、今から二千年前に、十字架の死と死者の中からのよみがえりを通して成し遂げてくださった贖いを、今この時、ここに生きている私たちに当てはめてくださる、神さまのお働きを記しています。
 御子イエス・キリストによる贖いの御業には、今から二千年前に、御子イエス・キリストが、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身が、十字架にかかって死んでくださり、私たちを復活のいのち(永遠のいのち)に生かしてくださるために、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださった「御業」と、そのようにして、成し遂げてくださった贖いを、御霊によって、今ここに生きている私たちに当てはめてくださる「お働き」があります。
 この御子イエス・キリストによる贖いの御業は、神さまの摂理のお働きの中にあって、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしてくださる、特別な摂理のお働きです。
 三〇節の、「あらかじめ定めた人々をさらに召し」の「定めた」は、二九節の、

神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

の「あらかじめ定められた」と同じ言葉です。それで、三〇節に記されている、イエス・キリストの贖いを私たちに当てはめてくださるお働きも、二九節に記されている、私たちを、「御子のかたちと同じ姿」、すなわち、「御子イエス・キリストに似た者」としてくださるという、神さまの永遠のみこころに従ってなされていることが分かります。
 ですから

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

というときの、「栄光をお与えになりました」ということは、私たちが「御子のかたちと同じ姿」になることを、別の言葉で述べたものです。

 このように、神さまは、あらゆることを通して、私たちに対する永遠のみこころを実現してくださいます。 ── すなわち、ご自身の永遠のみこころに従って、私たち人間を「神のかたち」に造ってくださいました。
 さらには、すべてのものを永遠のみこころに従って導かれる摂理の御業を通して、私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださることに役立たせてくださいます。特に、人間が罪を犯して堕落してしまった後には、御子イエス・キリストが、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを復活のいのちに生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださった御業と、それを当てはめてくださるお働きを通して、私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださいます。
 そうであれば、私たちも、心を開いて、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いと、それを、私たちに当てはめてくださって、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださる、神さまのお働きを受け入れたいと思います。それが、神さまのみこころに従うことへの出発点です。


【メッセージ】のリストに戻る

「みこころを知るために」
(第7回)へ戻る

「みこころを知るために」
(第9回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church