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説教日:1999年6月13日 |
きょうも、これまでのお話に続いて、神さまのみこころを知るために基本的に必要なことについてお話しします。 私たちを神の子どもとしてくださり、御子イエス・キリストに似た者としてくださるという、神さまの永遠のみこころは、創世記一章二七節、二八節に、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されていますように、天地創造の初めに、神さまが、人間を「神のかたち」にお造りになって、「歴史と文化を造る使命」をお委ねになったことによって、実現の第一歩を踏み出しました。 それで、私たちの具体的な状況の中で、神さまのみこころを知るに当たっては、人間が「神のかたち」に造られているということと、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているということの意味を理解しておく必要があります。 人間が「神のかたち」に造られているということと、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているということにつきましては、色々な角度から考えなくてはなりませんが、ここでは、先週取り上げました、 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。 という、『ウェストミンスター小教理問答書』問一への答において告白されている、神さまの栄光を現わすこととの関わりで、もう少しお話ししたいと思います。 前もっておことわりしておきますが、これから、「『神のかたち』に造られている人間」と言うときには、天地創造の初めに神さまが人を「神のかたち」にお造りになったときの状態にある人間のこと、つまり、罪を犯して堕落する前の、「本来の姿」にある人間のことです。その「本来の姿」には、罪を犯して堕落してしまった状態にある人間に共通している面もありますが、堕落によって失われてしまった面もあります。いずれにしましても、神さまのみこころを知るためには、私たち自身の「本来の姿」を知る必要があるのです。 言うまでもなく、神さまがこの世界とその中にあるすべてのものをお造りになったのは、造られたすべてのものが神さまの栄光を映し出し、神さまの栄光を現わすためです。そして、実際に、この世界に存在するすべてのものが、何らかの形で造り主である神さまの栄光を現わしています。 その中で、「神のかたち」に造られた人間は、神さまが生きておられる人格的な方であることを、自らの存在の在り方を通して映し出すことによって、神さまの知恵と力だけでなく、愛と恵みと慈しみに満ちた神さまの人格的な栄光を現わします。 ── それが、人間の「本来の姿」です。 私たちの住んでいます宇宙は、一秒間に地球を七回り半する光が、一五〇億年かかって到達する先まで広がっているようです。また、星の誕生や終わりなど、その中で起こっているさまざまな現象の不思議さも、観測が進んでくるに従って増してきています。 このような宇宙の広大さと不思議さにも関わらず、宇宙そのものは、ちょうど、芸術作品がそこにあるのは作者がいてそれを制作したからであるというのと同じように、この広大で不思議な宇宙の背後には造り主である神さまがおられるというような形で、神さまをあかししています。 また、宇宙は、神さまの知恵や力を映し出しますが、知恵や力は、神さまの属性の一部です。しかし、「神のかたち」に造られている人間は、自らの在り方を通して、神さまの人格的な属性を、直接的に、また総合的に現わします。 これについてお話しするために、『ウェストミンスター小教理問答書』問四への答を見てみますと、そこでは、 神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。 と告白されています。 ── これで神さまが定義できたのではありませんが、神さまがどのような方であるかを考えるには、これを手がかりにするのがいいと思われます。 この、「神は霊であられ」ということは、神さまには造られた世界の特性である物質的な要素はないということを示しているだけでなく、神さまが生きておられる人格的な方であることを示しています。そして、「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において」というのは、人格的な方である神さまの属性を示しています。 この、「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において」という、人格的な方である神さまの属性は、「神のかたち」に造られている人間にも分け与えられている属性です。(1) 人間も存在しており、知恵と力が与えられており、聖、義、善、真実という、人格的な特性が備えられています。 ── もちろん、これも、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた時の、人間の「本来の姿」においてのことです。 そして、「無限、永遠、不変のかたです」というのは、神さまおひとりだけに当てはまる属性です。(2) これによって、神さまと被造物が「絶対的に」区別されます。 この「無限、永遠、不変のかたです」ということは、神さまの「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」の一つ一つにかかります。つまり、神さまは、その「存在」において「無限、永遠、不変のかた」であり、その「知恵」において「無限、永遠、不変のかた」であり、その「力」において「無限、永遠、不変のかた」であり ・・・(云々)というように、神さまは、「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実」の一つ一つにおいて、「無限、永遠、不変のかた」なのです。 これに対して、人間は、「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実」の一つ一つにおいて、有限であり、時間の流れの中にあり、変化していくものです。この点で、神さまと人間の間には、「絶対的な」区別があります。 このような、造り主である神さまと神さまによって造られた人間の「絶対的な」区別にも関わらず、「神のかたち」に造られている人間は、人格的な方である神さまの「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」という属性を分け与えられてもっている、人格的な存在です。それで、人間は、自分自身の在り方において、生きておられる人格的な方である神さまがどのような方であるかを、この造られた世界の中にあって、直接的に、また総合的に映し出すのです。 宇宙が、私たちにとっては気が遠くなるほどの広大さと、その中には想像を絶する出来事が起こっているとしても、宇宙そのものは生きたものではありません。ですから、生きておられる人格的な方である神さまの属性を、人間のように深くまた豊かに現わすことはできません。 このことのうちに、人間が「神のかたち」に造られていることの意味の重さ、すなわち、「神のかたち」としての栄光と尊厳性があります。私たちに対する神さまのみこころは、私たちが「神のかたち」に造られていることにある栄光と尊厳性をわきまえ、それを保つことにあります。 ── 実際には、人間は罪を犯して堕落してしまったことによって、「神のかたち」の栄光と尊厳性を腐敗させてしまいました。「神のかたち」の栄光と尊厳性は、ただ、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いに与ることによってだけ回復されます。 また、「神のかたち」に造られている人間には、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という、「歴史と文化を造る使命」が委ねられています。このことにも、さまざまな意味がありますが、ここでは、おそらく、その一番奥にあって、神さまがこの世界をお造りになったこと(天地創造の御業そのもの)に関わると思われることについてお話しします。 「神のかたち」に造られている人間は、生きている人格的な存在ですので、自分が何ものであるかを知ることができます。壮大な宇宙は、自分が何ものであるかを知りません。宇宙が造られた目的は、造り主である神さまの栄光が現われるためです。そして、実際に、この宇宙の中のすべてのものが造り主である神さまの栄光を現わしています。けれども、宇宙そのものは、そのことを知りません。そのことを知っているのは、「神のかたち」に造られている人間です。 確かに、人間の存在は不思議なものです。この世界に生命が誕生していること自体が、いまだに、科学的には解明できていない多くの謎を含んでいます。そのいのちの仕組みの不思議さも、生命体についての理解が深まれば深まるほど増してきます。その中でも、自分というものをもっていて人格的な存在である人間の存在の不思議さは、際立っています。そのような人間の存在自体が、神さまの御手の作品として、神さまの無限の知恵と力を映し出しています。 しかし、人間は、それ以上に、自分自身をわきまえることができる人格的な存在として、自分がそのような神さまの御手のすばらしい作品であることを知っています。また、自分たちが住んでいるこの世界とその中にあるすべてのものが神さまの御手の作品であることを知っています。そして、自由な意志をもっている人格的な存在として、神さまの御手の作品の素晴らしさと、それらがあかししている神さまの栄光に触れる時、自らの意志によって、神さまに向かって、讃美と感謝をささげることができます。そして、このような、自らの意志による礼拝と讃美を通して、神さまの栄光を現わすことができるのです。 その意味では、「神のかたち」に造られている人間は、神さまがお造りになったこの世界と、この世界をお造りになった神さまとの「接点」のような存在です。 もし人間がいなかったとしたら、この宇宙が神さまの御手の作品であることには変わりがありませんが、この宇宙は、ただ物事が起こっているだけの世界となってしまったことでしょう。起こっていることのスケールにおいて、とてつもないことが起こっているとしても、そのことの大きさ自体は、神さまの御前にどれほどの意味をもっているか疑問です。というのは、その「とてつもないこと」ということは、あくまでも、私たち人間の感じ方に過ぎないからです。原子の一億分の一と言われているレプトンやクォーク ── クォークを百分の一ミリの砂粒にたとえれば、人間は太陽系ほどの大きさになってしまいますが──そのレプトンやクォークの微細さも、一五〇億光年といわれるこの宇宙の広がりも、無限、永遠、不変の神さまにとっては同じことです。 さらに言いますと、無限、永遠、不変の神さまにとっては、この広大な宇宙が造り出されたから、ご自身に何かが増し加わったというようなことはありません。また、このような宇宙を造り出されるのに力をお使いになったので、ご自身の力が少しでも失われたというようなこともありません。 ですから、この世界とその中にあるもの、またこの世界の中で起こっていることを、この世界の中にあるものの立場から見つめて、そこに、神さまの御手の作品の壮大さと微細さの美しさ、複雑さと調和の美しさを汲み取ることができるのは「神のかたち」に造られている人間だけです。そして、恐れの念を抱きつつも感動し、自分自身の意志で、すべての栄光を造り主である神さまにお返しできるのも、「神のかたち」に造られている人間だけです。 このように、この宇宙の壮大さと複雑さ、これを構成している物質の微細さと単純さなどの特性は、「神のかたち」に造られている人間にとって意味があるものです。いわば、この壮大で複雑な宇宙は、「神のかたち」に造られている人間のために、造られたという一面があります。── 先ほどの言葉で言いますと、「神のかたち」に造られている人間が、この世界とその中にあるもの、またこの世界の中で起こっていることを、この世界の中にあるものの立場で見つめて、そこに、神さまの御手の作品の壮大さと微細さの美しさ、複雑さと調和の美しさを汲み取って、恐れの念を抱きつつも感動し、自分自身の意志で、すべての栄光を造り主である神さまにお返しするようになるために、この素晴らしい世界をお造りになったということです。 このような、「神のかたち」に造られている人間の存在の「宇宙大」の意味と尊厳性を歌っているのが、先週も引用しました詩篇八篇三節〜九節の、 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 私たちの主、主よ。 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 という言葉でしょう。 これは、今日のように発達した宇宙論をもっていなかった時代の人々の言葉を用いて表現されていますが、言わんとすることははっきりしています。「神のかたち」に造られている人間には、この世界のすべてのものを治める使命(歴史と文化を造る使命)が授けられているということです。── 今日の私たちの言葉で言いますと、この宇宙のすべてを支配し治める使命が授けられているということです。 もちろん、人間は、物理的には、宇宙の彼方にあるものを支配することはできません。そのような大それたことを言わなくても、人間は、土の中にいる虫たちの存在にも気づくことができず、手も届かないようなものです。ですから、「万物を彼の足の下に置かれました。」と言われているように、人間が「万物」を支配するということは、基本的には、物理的な力による支配のことではありません。 むしろ、先ほど言いましたように、「神のかたち」に造られているものとして、この世界とその中にあるもの、またこの世界の中で起こっていることを、この世界の中にあるものの立場で見つめて、そこに、神さまの御手の作品の壮大さと微細さの美しさ、複雑さと調和の美しさを汲み取って、恐れの念を抱きつつも感動し、自分自身の意志で、造り主である神さまを讃美し礼拝することを通して、すべての栄光を造り主である神さまにお返しすることに、この使命の本質があります。 言い換えますと、神さまの御手の作品であるすべてのものを、造り主である神さまへの礼拝へと結集させていくことです。 このことを通して「神のかたち」の栄光と尊厳性が表現されるようになります。ですから、「神のかたち」の栄光と尊厳性は、何よりもまず、神さまの栄光を礼拝しほめたたえることに現われてきます。そして、そのことの中心に、神の子どもとしての私たちの礼拝があります。 天地創造の初めに人間を「神のかたち」にお造りになって、「歴史と文化を造る使命」をお委ねになった神さまのみこころは、私たちが「神のかたち」の栄光と尊厳性をわきまえて、守ること また、それによって、神さまの栄光を現わすことにあります。しかし、実際には、人間が罪を犯して堕落してしまったことによって、「神のかたち」の人格的な特性(属性)は腐敗させられており、その栄光と尊厳性は大いに損なわれてしまっています。 それで、実際には、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に与って、「神のかたち」の栄光と尊厳性を回復していただくことが、神さまのみこころに従うことの第一歩となります。 (1) その意味で、これらの属性は、「分かち合うことができる属性」( communicable attributes )と呼ばれます。(本文に戻る) (2) その意味で、これらの属性は、「分かち合うことができない属性」( incommunicable attributes )と呼ばれます。(本文に戻る) |
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