(第6回)


説教日:1999年6月6日
聖書箇所:エペソ人への手紙一章三節〜六節

 きょうも、これまでのお話に続いて、神さまのみこころを知るために、私たちが、基本的なこととしてわきまえておかなくてはならないことについてお話しします。
 これまでは、いわば、私たちに対する神さまの一つ一つのみこころの「源」ともいうべき、神さまの永遠のみこころ(聖定的なご意志)についてお話ししてきました。
 神さまの無限の知恵に基づく永遠のみこころは、私たちのような有限な存在には隠されています。私たちにはそれを受け止めるだけの力がないからです。しかし、神さまは、永遠のみこころにおいて、私たちを最終的にどのようなものとしてくださると定められたのかを、御言葉を通して示してくださっています。
 たとえば、エペソ人への手紙一章四節、五節では、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と言われています。
 神さまは永遠のみこころにおいて、私たちを「御前で聖く、傷のない者」となるようにと、「キリストのうちに」お選びになりました。そして、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ」ました。
 さらに、ローマ人への手紙八章二九節では、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。

と言われています。
 この「あらかじめ知っておられる人々を」とか「あらかじめ定められた」という言葉は、神さまの永遠のみこころにおいて定められたことを示しています。父なる神さまは、私たちを愛してくださり、私たちが「御子のかたちと同じ姿」、すなわち、御子イエス・キリストに似た者となるように、あらかじめ定めてくださった、というのです。
 父なる神さまが、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」ことと、私たちを「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ことは、同じ永遠のみこころにおいて定められたことです。その意味で、この二つは同じことを別の言葉で述べています。父なる神さまの「御前で聖く、傷のない者」となり、「ご自分の子」となることは、「御子のかたちと同じ姿」になることに他なりません。
 神さまの私たちに対するみこころは、すべて、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ」、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」という永遠のみこころから出ています。そして、その永遠のみこころと一致し、調和しています。私たちは、神さまのみこころを求めるに当たって、まず、このことをしっかりと心に留めなくてはなりません。
 それを踏まえたうえで、きょうは、私たちが、『ウェストミンスター小教理問答書』の問一への答に従って、

人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

と告白していることと、神さまのみこころの関係についてお話ししたいと思います。


 神さまは、ご自身の永遠のみこころに従って、この世界のすべてのものをお造りになりました。黙示録四章一一節に記されている天における礼拝において、二十四人の長老たちが、「永遠に生きておられる方」に向かって、

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

と告白しているとおりです。
 そのように、この世界のすべてのものは、神さまの永遠のみこころに従って創造されたので、存在する意味があり、価値があり、目的があります。その意味と価値と目的は、

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。

という、長老たちの告白の言葉に示されています。それを一言で言いますと、神さまの栄光が現わされ、ほめ讚えられるようになることです。
 神さまの永遠のみこころの最終的な目的が、神さまの栄光が現わされ、ほめ讚えられるようになることにあるということは、特に、神さまが永遠のみこころにおいて、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」こと、また、私たちを「御子のかたちと同じ姿」(御子イエス・キリストに似た者)に「あらかじめ定められた」ということに当てはまります。
 そのことは、神さまの永遠のみこころについて述べているエペソ人への手紙一章四節、五節に続いて、六節で、

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と言われていることに示されています。
 このように、神さまの永遠のみこころの究極的な目的は、すべてのものを通して、神さまの栄光が現わされ、ほめ讚えられるようになることにあります。   中でも特に、「御前で聖く、傷のない者」となるように「キリストのうちに」選ばれ、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定め」られ、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定め」られていた私たちが、「神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光」をほめたたえるようになることにあります。
 それで、この永遠のみこころを実現する天地創造の御業を通して、また、人間の罪による堕落の後には、御子イエス・キリストによる贖いの御業を通して、神さまの栄光が現わされるようになりました。
 創造の御業においては、詩篇一九篇一節〜四節で、

天は神の栄光を語り告げ、
大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、
夜は夜へ、知識を示す。
話もなく、ことばもなく、
その声も聞かれない。
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
そのことばは、地の果てまで届いた。

とあかしされており、ローマ人への手紙一章二〇節で、

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる ・・・ 。

とあかしされているとおりです。
 その中で、人間は、特に、「神のかたち」の栄光を担うものとして造られています。詩篇八篇三節〜八節で、

あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

と、讃美とともに告白されているとおりです。
 宇宙の壮大さやその調和の見事さ、また、微細な世界に至るまでの複雑さと調和の素晴らしさ、それらがこぞって、造り主である神さまの無限、永遠、不変の知恵と力をあかししています。そうではあっても、宇宙そのものは、人格的な存在ではありません。宇宙は、神さまの知恵や力など、神さまの人格的な属性のいくつかを映し出すだけです。
 これに対しまして、人間は、存在の大きさという点では、壮大な宇宙と比べようもありません。しかし、人間は「神のかたち」に造られています。人間は、神さまが生きておられる方であり、人格的な方であることを、自らの存在そのものを通して映し出すものです。その意味で、「神のかたち」に造られている人間は、宇宙よりも深くまた豊かに、造り主である神さまの栄光を映し出すものなのです。

 きっと、私たちは、それは余りにも大げさなことである、と感じることでしょう。しかし、どうしてもそのように考えなくてはならない理由が他にもあります。それは、言うまでもなく、宇宙全体とその中にあるすべてのもの、御使いたちをも含めてのことですが、この世界に存在しているもののうちで、神さまの無限、永遠、不変の栄光を、最も深くまた豊かに現わされたのは、人の性質を取って来られた神の御子イエス・キリストであるということです。
 ヨハネの福音書一章一四節で、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と言われており、ヘブル人への手紙一章三節で、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と言われているとおりです。
 また、イエス・キリストご自身も、

わたしを見た者は、父を見たのです。
 
ヨハネの福音書一四章九節

とあかししておられます。
 私たちが、「主は、聖霊によりてやどり、乙女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり ・・・ 」と告白していますように、御子イエス・キリストがお取りになった「人の性質」は、罪によって腐敗してはいませんでしたが、私たちと同じように、誕生によって生まれ、一つの時代に生きて成長し、傷つき苦しみ、死を経験することがあるものでした。言い換えますと、天地創造の初めに造り出された「神のかたち」の本来の姿にある「人の性質」でした。
 そのように正真正銘の「人の性質」を取って来られて、十字架にかかって死なれ、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださった御子イエス・キリストにおいてこそ、神さまの栄光は、最も深くまた豊かに現わされたのです。
 事実、天における礼拝を記す黙示録五章九節、一〇節は、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業に触れています。そこでは、「ほふられたと見える小羊」に向かって、「四つの生き物と二十四人の長老」が、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

と言って、贖いの御業を成し遂げてくださった「小羊」が歴史の主であり、ご自身の民を「神のために ・・・ 王国とし、祭司とされ」たことを、讃美とともに告白しています。そして、一二節では、その告白を受けて、御使いたちの群れが、

ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。

という讃美をささげています。
 天の礼拝において、その栄光を讚えられているイエス・キリストの姿は、「ほふられたと見える小羊」であり、その讃美においても、イエス・キリストがほふられたことは   カッコ悪いから触れないでおこうというのではなく、むしろ、そのことこそが「小羊」の栄光の現われであると讚えられ、永遠に覚えられるのです。
そうであれば、「神のかたち」に造られている人間は、御使いたちをも含めた他のすべてのものよりも深くまた豊かに、造り主である神さまの栄光を映し出すものである、と言うことができます。現実には、罪を犯して堕落してしまい、「神のかたち」としての本性が腐敗してしまっているために、神さまの栄光を歪めて映し出してしまっていますが、本来は、何ものにもまさって、神さまの栄光を深くまた豊かに映し出すものであるのです。
 言うまでもありませんが、御子イエス・キリストが「人の性質」を取って来てくださったのは、私たちと同じ「人の性質」において私たちと一つとなり代表となってくださり、十字架の上で私たちに代わって罪のさばきを受けてくださり、罪の贖いを成し遂げてくださるためでした。そして、私たちと同じ「人の性質」において死者の中からよみがえってくださり、私たちを「神のかたち」の本来の姿に回復してくださるためでした。また、さらに、私たちをご自身の復活の栄光にあずからせてくださるためでした。
 それは、神さまが、永遠のみこころにおいて「あらかじめ定めて」くださったとおりに、私たちを「御子のかたちと同じ姿」(御子イエス・キリストに似た者)に造り変えてくださることです。それによって、私たちを、「御前で聖く、傷のない者」となるようにと「キリストのうちに」お選びになり、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」、神さまの永遠のみこころが実現します。

 このように見ますと、私たちが、『ウェストミンスター小教理問答書』の問一への答に従って、

人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

と告白していることと、神さまのみこころとの関係の一端が見えてきます。
 神さまは、私たちを、「御前で聖く、傷のない者」とするために「キリストのうちに」お選びになり、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ」、「御子のかたちと同じ姿」に「あらかじめ定められ」ました。そして、その永遠のみこころに従って、人間を「神のかたち」にお造りになりました。
 「神のかたち」に造られている人間は人格的な存在です。それで、人間は、この世界に存在するどのようなものにもまさって深くまた豊かに、愛と恵みと慈しみに満ちた神さまの人格的な特性を映し出します。人間は、そのようにして、神さまの栄光を現わします。その意味で、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわす ・・・ ことです。」ということは、神さまの永遠のみこころから出ています。
 さらに、私たちを、「御前で聖く、傷のない者」となるように「キリストのうちに」お選びになり、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」という神さまの永遠のみこころは、私たちが神さまのご臨在の御前で、ご自身とのいのちの交わりを享受し、神さまを喜びとするようになることも意味しています。その意味では、「人のおもな目的は、 ・・・ 永遠に神を喜ぶことです。」ということも、神さまの永遠のみこころから出ています。
 この、神さまの永遠のみこころに従って、天地創造の初めに人間が「神のかたち」に造られたのは、人間が神さまとのいのちの交わりに生きるようになるためです。それが、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」ということの出発点でした。

 人間を「神のかたち」にお造りになった創造の御業は、神さまの永遠のみこころを実現してくださるための第一歩です。人間は、「神のかたち」に造られていることから出発して、さらに、私たちを、「御前で聖く、傷のない者」となるように「キリストのうちに」お選びになり、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」、神さまの永遠のみこころが自分たちに実現するようになることを目指して進むべきでした。
 それは、人間が神さまのみこころに完全に従うこと、すなわち、心をまったく神さまと一つとすることを通して、「御子のかたちと同じ姿」(御子イエス・キリストに似た者)に造り変えられていくことによって実現します。
 実際には、人間が罪を犯して堕落し、「神のかたち」としての本性を腐敗させてしまったために、その実現が妨げられてしまいました。それで、神さまは、御子イエス・キリストの贖いの御業を通して、私たちを御子イエス・キリストと一つに結び合わせて、「御子のかたちと同じ姿」(御子イエス・キリストに似た者)に造り変えてくださり、ご自身の永遠のみこころを実現してくださいます。
 このことは、ヨハネの手紙第一・三章二節で、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と言われていますように、世の終わりのキリストの再臨の日に完全な形で実現します。

 まとめますと、私たちに対する神さまのみこころのすべては、私たちを、「御前で聖く、傷のない者」となるように「キリストのうちに」お選びになり、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ」、「御子のかたちと同じ姿」に「あらかじめ定められた」神さまの永遠のみこころから出ています。
 そして、このことは、

人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

という、私たちの信仰告白とも一致します。
 私たちは、御子イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって、「御子のかたちと同じ姿」、(御子イエス・キリストに似た者)に造り変えていただけば、いただくほど、より深くまた豊かに神さまの栄光を現わすようになりますし、より深くまた豊かに神さまとのいのちの交わりにあずかるようになって、神さまご自身を喜ぶ者となります。


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(c) Tamagawa Josui Christ Church