(第5回)


説教日:1999年5月16日
聖書箇所:ヘブル人への手紙一章一節〜三節

 きょうも、神さまのみこころを知るために、基本的に必要なことについてお話しします。
 これまで、神さまのみこころを知ろうとするときに問題となる、二つの考え方を取り上げてお話ししてきました。
 一つは、「神さまのみこころは、一つしかない。」という考え方です。神さまのみこころが、一つしかないのであれば、その「一つしかないみこころ」以外は、みな、神さまのみこころから外れたものである、ということになります。そのように考えることから、どのような決断をしても、「本当に、これは主のみこころなのだろうか。」という不安な思いが残ってしまうことがあります。
 もう一つは、「神さまのみこころを求めることは、神さまから『指示』をいただくことである。」という考え方です。自分がしようとしていることに対して、神さまに「イエス」か「ノー」か答えていただこうとしたり、どうしたらよいか「指示」してもらいたいと願うことです。
 でも、実際には、神さまからの「指示」は与えられませんので、「神さまのみこころが分からない。」と、悩み続けることになります。時には、聖書をぱっと開いたら、その頁に「やめよ。」という言葉があったからやめた、というように、聖書を「占い」の道具でもあるかのように使ってしまうということも耳にします。これは、全く間違ったことですが、何とか神さまからの「指示」を得ようとするがための「試み」と言えましょう。


 このような問題についてどのように考えるべきかをお話しするために、まず、神さまの「聖定的な意志」として知られている、神さまの無限の知恵に基づく「永遠のみこころ」と、神さまが私たちに「啓示してくださっているみこころ」の区別と関係についてお話ししました。
 申命記二九章二九節に、

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。

と記されているとおり、神さまのみこころについて私たちに求められているのは、神さまが私たちに「啓示してくださったみこころ」に従うことです。
 それは、神さまの「永遠のみこころ」があるということに基づいて、「どんなに福音の御言葉に従って、神さまの御前に自分の罪を認めて、悔い改め、イエス・キリストが十字架にかかって自分の罪を贖ってくださったことを信じたとしても、もし、神さまの『永遠のみこころ』で選ばれていなかったなら、すべては空しいことになる。」というような心配と不安を持ってはならない、ということでもあります。
 神さまの「永遠のみこころ」による「選び」につきましては、「果たして、私は選ばれているのですか。」と問いかけて、神さまに「はい。」とか「いいえ。」とか答えていただくべきものではありません。それは、神さまの「永遠のみこころ」を直接的にのぞき込もうとすることです。そのようなことは、私たちには許されていません。

 神さまが私たちに「啓示してくださっているみこころ」は、神さまの「永遠のみこころ」と完全に調和しています。
 私たちが福音の御言葉によって、神さまの私たちに対する愛に触れるとともに、私たちの神さまに対する罪を悟って心を刺され、その罪を悔い改めて、御子イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったことを信じて、イエス・キリストを受け入れているなら、福音の御言葉の約束のとおりに救われており、永遠に神の子どもとしての身分と特権を与えられています。
 私たちは、福音の御言葉に基づいて、自分と神さまとの関係を理解します。そして、福音の御言葉の保証の下に、自分がイエス・キリストのものであり、神の子どもであることを信じます。そのようにして受け入れた福音の御言葉の光の下でのみ、神さまの「永遠のみこころ」を仰いで、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
 エペソ人への手紙一章四節、五節

と告白することができます。 ── これ以外の道筋で、神さまの「永遠のみこころ」のうちにある「選び」のことを知る道筋はありません。
 ですから、神さまが「啓示してくださったみこころ」である福音の御言葉に従って神さまの御前に罪を悔い改めて、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じている人は、父なる神さまが、「御前で聖く、傷のない者」としてくださるために「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」人です。
 ただ「選ばれている」というだけではありません。御子イエス・キリストにあって、またイエス・キリストによって、「御前で聖く、傷のない者」となるように、また、「ご自分の子」となるようにと選ばれているのです。しかも、その「選び」は、父なる神さまの永遠の愛による「選び」である、とあかしされています。
 私たちに対する神さまのみこころは、すべて、この、父なる神さまの永遠の愛に基づく「永遠のみこころ」と一致し、完全に調和しています。ですから、私たちは、神さまのみこころを求めるときには、それがどのようなことに関するみこころであっても、まず、この父なる神さまの永遠の愛に基づく「永遠のみこころ」と調和することを、信じなくてはなりません。言い換えますと、この父なる神さまの永遠の愛に基づく「永遠のみこころ」と調和しないような形で、みこころを受け止めてはなりません。

 次に、私たちが確かめておきたいことは、神さまが「啓示してくださっているみこころ」、すなわち、私たちが求めなくてはならないみこころは、すべて、聖書に記されている御言葉による啓示の枠の中にあるということです。
 このことにつきましては、『ウェストミンスター信仰告白』第一章六項の前半で、

神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない。

と言われています。

神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。

ということによって、神さまの御言葉を通しての啓示が、私たちにとって十分なものであることが告白されています。
 これには二つの面があります。
 一つは、神さまは、「神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体」を、私たちに啓示してくださっているということです。
 もう一つは、私たちがそれを知ることができるということです。 ── 聖書の御言葉を読んで、すぐには分からないことがあっても、「正当な」解釈をすることを通して、知ることができるということです。
 このことは、続く七項において改めて取り上げられて、

聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様に明らかでもない。しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの個所で非常に明らかに提出され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる。

と告白されています。

 このように、聖書に記されている御言葉は、私たちそれぞれが、自分自身で、神さまが「啓示してくださったみこころ」を知るために十分なものです。それで、一章六項では、これに続いて、

その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない。

と言われています。
 聖書の御言葉は、私たちが神さまの「啓示してくださっているみこころ」を知るために、十分な啓示であるので、それに何も付け加えてはならない、ということです。
 「みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない。」という、畳みかけるような言葉遣いと、その中に「みたまの新しい啓示によっても ・・・・ 付加されてはならない。」ということが加えられていることは、それがとても厳格に守られなくてはならないことを示しています。ここには、

しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
 ガラテヤ人への手紙一章八節

という、パウロの言葉の激しさに通じるものがあります。確かに、教会の歴史の中では、「御霊によって新しい啓示を受けた。」と主張する人々によって福音が曲げられて「人の教え」に変質してしまうことが、繰り返し起こりました。

 ある人々にとっては、「みたまの新しい啓示によっても ・・・・ 付加されてはならない。」ということは、言い過ぎであると感じられることでしょう。御霊が新しい啓示を与えてくださるのなら、それ受け取ることには、何の問題もないのではないでしょうか。
 それは、そのとおりです。ただし、それは、あくまでも「御霊が新しい啓示を与えてくださるのなら」の話です。この「みたまの新しい啓示によっても ・・・・ 付加されてはならない。」という言葉は、神さまの私たちに対する啓示は完成しているので、「みたまの新しい啓示」というものはない、ということを踏まえています。
 どうして、「みたまの新しい啓示」はない、と言えるのでしょうか。神さまは、ずっと預言者たちを起こされて、預言者たちを通して語り続けてこられたでのではなかったでしょうか。それなのに、そのようなことはもう起こらないというのでしょうか。
 確かに、旧約の時代においては、次々と預言者たちが起こされて、神さまは、預言者たちを通して語られました。しかし、その場合にも、すべての人が、どのような時にも、預言者に伺いを立てれば、神さまからの啓示を受けられたというのではありません。言い換えますと、旧約の時代にも、いわゆる「私的な啓示」はなかったのです。
 この世の考え方では、人間が「祈り」や「おまじない」によって「神」を操作して、「神」からの「お告げ」を引き出します。しかし、預言者たちは、神さまを操作するようなことはありませんでした。いつ、何を、どのように語るべきかは、神さまがお決めになったのであって、人間の都合に合わせて人間が求めたのではありません。 ── 先ほどの、神さまからの「指示」を求めることは、預言者たちを通しての語りかけに聞くことよりは、「神」からの「お告げ」を引き出そうとすることの方に近いものです。

 また、神さまが預言者たちを通して語ってくださったことは、基本的に、神さまの贖いの御業に関することです。
 神さまが預言者たちを通して語ってくださったことが、基本的にどのようなことであったかは、書き記されている預言者たちの言葉である聖書から知ることができます。それが基本的にどのようなものであるかについて、イエス・キリストご自身が、次のようにあかししておられます。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
 ヨハネの福音書五章三九節

 旧約の時代に、神さまは、預言者たちを通して、ご自身の贖いの御業について語ってくださいました。神さまが備えてくださった贖いの御業は、約束の贖い主によって成し遂げられますから、贖いの御業についての預言は、贖い主と、その御業についてのあかしになります。旧約の時代には、それについての預言と約束が中心でした。
 しかも、それは、約束の贖い主が来て、贖いの御業を成し遂げてくださるまでの間に、積み上げるような形で与えられました。それだけ、贖い主によって成し遂げられる贖いの御業が豊かな内容を持ったものであるからです。
 ヘブル人への手紙一章一節、二節では、

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と言われています。
 「多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました」という言葉は、そのような、贖いの御業の豊かで多様な面を映し出すために、積み上げるような形で語られてきたことを示しています。
 そして、「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」という言葉は、御子イエス・キリストによる啓示が最終的で完全なものであることを示しています。ちょうど、色々な川が海に流れ込むように、預言者たちを通して「多くの部分に分け、また、いろいろな方法で」語られてきた御言葉は、すべて、御子イエス・キリストに集約されて豊かな内容を持った「まとまり」となっているのです。
 ですから、イエス・キリストは、続く、ヘブル人への手紙一章三節で、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」であるとあかしされており、ご自身が、

わたしを見た者は、父を見たのです。
 ヨハネの福音書一四章九節

とあかしされるほど、神さまの自己啓示であるのです。
 このように、約束の贖い主ご自身と、その御業についての預言者を通してのあかしは、御子イエス・キリストが来られて贖いの御業を成し遂げてくださったことによって、すべて成就しました。その意味では、旧約の預言者を通しての語りかけの形での啓示は終わりました。
 残っていたのは、御子イエス・キリストが約束の贖い主であることと、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げてくださったことをあかしすることでした。それが新約時代の啓示の基本的な意味です。それで、御子イエス・キリストがどなたであるかということと、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業と、その意味が十分にあかしされたことによって、すなわち、新約聖書の完成とともに、新約の時代の啓示は完成しました。
 そのようなわけで、私たちは、「みたまの新しい啓示」はない、と告白しています。
 今日、「みたまの新しい啓示」があると主張する人々は、自分たちの事情に合わせて、いわゆる「私的な啓示」を引き出そうとします。それは、御言葉によって示されている、神さまの啓示の基本的な意味にそぐわないことです。また、それは、先ほどの、神さまからの「指示」を求めることの一つの形で、この世の人々が、自分たちの事情にしたがって、「神」の「お告げ」を求めることに近いものです。

 このことと関連して、さらに確かめておきたいことは、神さまのみこころを求める時の、私たちの姿勢です。
 これまでお話ししてきましたように、『ウェストミンスター信仰告白』第一章六項の前半で、

神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない。

と言われていることは、聖書の御言葉を通しての神さまの啓示が、十分なものであることを告白するものです。このことは、聖書に記されている御言葉は、私たちそれぞれが、自分自身で、神さまが「啓示してくださったみこころ」を知るために十分なものであることを意味しています。
 私たちは、神さまのみこころを求めるときに、人に相談します。それは、正当なことであるばかりか、むしろ、必要なことでもあります。しかし、そうであっても、最後には、自分自身で、聖書に記されている御言葉を理解して、神さまのみこころを判断しなければなりません。ただ、人の意見に従う、というだけであってはならないのです。
 なぜかと言いますと、私たちに対する神さまのあらゆるみこころの源であり、その全体を貫いている、神さまの「永遠のみこころ」が、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださることにあるからです。
 私たちが、「御前で聖く、傷のない者」として聖められ、神の子どもとして成長していくために、神さまが備えてくださった恵みの手段は、御言葉と聖礼典です。聖礼典は、見える形で与えられた福音の御言葉ですから、恵みの手段は、御言葉に集約されます。
 御言葉が、私たちのうちで恵みの手段として働くようになるためには、御霊が御言葉を用いてくださらなければなりません。私たちは、御霊のお働きによって、福音の御言葉を自分自身のこととして理解し、自分に当てはめることができるようになります。しかし、御霊は、私たちが、自分で聖書の御言葉を理解して、それを自分自身に当てはめながら、神さまが「啓示してくださっているみこころ」を判断していくことの中で働いてくださいます。
 そのようにして、私たちは、自分で、聖書の御言葉に照らして神さまのみこころを判断し、みこころに従うことを通して、「御前で聖く、傷のない者」として、また、神の子どもとして成長していくようになります。ですから、私たちそれぞれが聖書の御言葉を理解し、神さまが「啓示してくださっているみこころ」を判断していくことは、神さまの「永遠のみこころ」にそうことなのです。


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