(第4回)


説教日:1999年5月9日
聖書箇所:エペソ人への手紙一章三節〜六節

 これまで、私たちが神さまのみこころを求めるときに、「神さまのみこころは一つである。」という考え方に従って、その「一つだけしかないみこころ」を知ろうとすることにまつわる問題についてお話ししてきました。
 具体的には、一つ一つのことについて、神さまから「指示」を受けようとすることです。自分がしようとしていることに対して、神さまに「イエス」か「ノー」か答えていただこうとしたり、どうしたらよいか分からないときに、どうしたらよいか「指示」してもらいたいと願うことです。
 その人は、「神さまの『指示』があれば、すべてはうまくいくし、自分はみこころに従っている、と信じて生きていくことができる。」と考えているのでしょう。
 しかし、実際には、神さまからの「指示」は与えられません。それで、その人は、「神さまからの『指示』があればいいのに。」という思いを持ち続けながら、あきらめに近い思いを持ったり、ひそかに、「自分は、神さまのみこころに従っているのだろうか。」というような漠然とした不安を感じたりすることになります。    さらに悪いことになりますと、神さまのみこころを求めても仕方がない、と考えるようになってしまいます。


 これまで繰り返しお話ししてきましたが、「神さまのみこころは一つである。」ということは、厳密に言いますと、神さまの無限の知恵に基づく「永遠のみこころ」(聖定的なご意志)にのみ当てはまることです。
 神さまの無限の知恵に基づく「永遠のみこころ」(聖定的なご意志)につきましては、『ウェストミンスター小教理問答書』問七への答で、

神の聖定とは、神の御意志の熟慮による永遠の決意です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。

と告白されています。
 もう詳しい説明は省きますが、このような神さまの「永遠のみこころ」は、私たち人間を含めて、この世界に存在しているすべてのものの意味と価値の源です。
 もし、神さまの「永遠のみこころ」(聖定的なご意志)がなかったとしたら、この世界のすべてのものは、それ自体では何の意味も価値ももっていない粒子の偶然の重なり合いによって、たまたま「発生した」だけのものであるということになります。私たち人間も、「発生」しても、しなくてもよかったものであるけれど、たまたま「発生した」だけのものである、ということになります。
 しかし、御言葉は、この世界とその中にあるすべてのものは、神さまの無限の知恵に基づく「永遠のみこころ」に従って造り出されたものである、と教えています。この世界に存在しているすべてのものは、神さまの「永遠のみこころ」によって肯定されています。   神さまの「永遠のみこころ」は、この世界に存在しているすべてのものが確かな意味と価値をもっているということの根拠です。
 このような、神さまの無限の知恵に基づく「永遠のみこころ」(聖定的なご意志)は、無限に深くて広く、無限に複雑なものです。それは、この世界の一つ一つのものに関わるみこころですし、それらが複雑に関わり合っていること、また、関わり合いながら変化していることのすべてを包むみこころです。そして、全体として見たときにも、まったき調和のとれた、永遠に変わらないみこころです。
 そのような、神さまの「永遠のみこころ」は一つしかありませんが、それは、無限に深くて広く、無限に複雑なものです。神さまおひとりが、そのすべてを、初めから終わりまで見通し、すべてのことを定めておられます。しかし、有限な私たちには、それを見通すことはできませんし、それをのぞき込もうとしてはなりません。   そのようなことができると考えている人がいるとしたら、その人は、神さまを自分と同じようなものと考えている人です。

 私たちとしましては、私たち自身とこの世界が、神さまの「永遠のみこころ」によって肯定されていることを、しっかりと受け止めていけばよいのです。
 私たちに求められているのは、申命記二九章二九節に、

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。

と記されていますように、神さまが私たちに「啓示してくださったみこころ」に従うことです。
 しかし、その場合にも、これまでお話ししてきました、「神さまのみこころは一つである。」という考え方に従って、その「一つだけしかないみこころ」を知ろうとする姿勢、すなわち、一つ一つのことについて、神さまから具体的な「指示」を受けようとすることの問題は残ります。
 神さまの「永遠のみこころ」と、神さまが私たちに「啓示してくださったみこころ」との区別と関係を理解して、私たちは、神さまが私たちに「啓示してくださったみこころ」に従って歩めばよいということが分かることによって、「自分がどんなに主を信じても、もし『永遠のみこころ』において選ばれていなかったら、何にもならないのではないか。」というような、無用な不安はなくなることでしょう。
 けれども、「神さまが私たちに啓示してくださったみこころも、一つだけしかないのではないか。」という思いが残ってしまって、やはり、神さまからの「指示」を受けようとすることにまつわる問題が生まれてきてしまいます。

 このような問題を考えるためには、「神さまが啓示してくださったみこころ」について、より基本的なことから、確かめるべきことを確かめていく必要があります。
 そもそも、私たちが神さまのみこころを求めるのは、「自分は、神さまの御前に意味がある存在であるし、神さまのみこころに従うことによって、自分の存在の意味と価値が具体的に表わされるようになる。」と信じているからです。
 どうしてそのように信じることができるかと言いますと、やはり、神さまの「永遠のみこころ」(聖定的なご意志)があるからです。先程もお話ししましたように、私たちを含めて、この世界に存在しているすべてのものは、神さまの「永遠のみこころ」によって、確かな意味と価値をもっているものとして、造り出されました。
 そうしますと、私たちが神さまのみこころを求めることは、神さまの無限の知恵に基づく「永遠のみこころ」(聖定的なご意志)を認める ── 「求める」のではなく、「認める」ことから始めなくてはなりません。
 私たちには、神さまの無限の知恵に基づく「永遠のみこころ」があるということを知らされているだけでなく、それが基本的にどのようなものであるかを知らされています。
 私たちに対する神さまの「永遠のみこころ」が、基本的にどのようなものであるかを示しているのは、エペソ人への手紙一章三節〜六節です。そこでは、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と言われています。
 私たちに対する神さまの「永遠のみこころ」は、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださることです。そして、そのように定めてくださったのは、私たちの側に何らかの価値があるからではなく、「愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」という言葉が示しているとおり、神さまの私たちに対する一方的な愛によっています。
 ここに示されている、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、父なる神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」につきましては、三月七日と一四日の礼拝説教で詳しくお話ししました。
 そこでもお話ししたことですが、神さまは、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、私たちに対する愛に基づく「永遠のみこころ」を実現してくださるために、天地創造の御業の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになりました。それによって、人間を、ご自身との愛にある交わりに生きるものとしてくださいました。 ── 「神のかたち」に造られている人間のいのちは、造り主である神さまの愛を受け止めて、神さまの愛に応えることを特徴とするいのちであるということです。
さらに、人間が神さまの愛のみこころに背いて罪を犯し、神さまとのいのちの交わりを失ってしまった後も、神さまは、ご自身の愛に基づく「永遠のみこころ」を変えることはありませんでした。
 なおも、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、「永遠のみこころ」を実現してくださるために、御子イエス・キリストを私たちの贖い主として立ててくださり、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して、私たちを、再び、ご自身の愛に包まれた、いのちの交わりに生きるものとして回復してくださいました。
 このように、神さまの創造の御業も、贖いの御業も、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」を実現してくださる御業に他なりません。

 私たちに対する神さまのみこころのすべては、神さまの創造の御業と、お造りになったすべてのものを御手をもって支え、導いてくださる摂理の御業と、贖いの御業のうちに示されています。そして、神さまの創造と摂理の御業と、贖いの御業は、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」を実現してくださる御業です。
 ですから、私たちに対する神さまのみこころのすべては、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」を源として、そこから出ています。また、私たちに対する神さまのみこころのすべては、その、神さまの「永遠のみこころ」を実現するためのものです。
 当然、私たちに対する神さまのみこころは、それがどのようなみこころであっても、必ず、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」と調和するものです。
 私たちが、神さまの「啓示されているみこころ」を求めるときには、このことを、しっかりとわきまえておかなくてはなりません。

 このことを、別の御言葉に従って見てみましょう。
 ローマ人への手紙八章二八節〜三〇節では、私たちに対する神さまの「永遠のみこころ」が、神さまの摂理の御業と、贖いの御業に結びつけられて示されています。そこでは、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われています。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

という、多くの神の子どもたちが暗記している御言葉は、神さまの摂理の御手による導きを示しています。
 「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」というときの「益」は、よく、問題や苦しみが解決することと理解されることがあります。もちろん、それも神さまの摂理の御手のお働きによることです。けれども、このローマ人への手紙八章二八節では、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」に照らして見たときに見えてくる「益」です。
 というのは、続く二九節で、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。

と、その摂理の御手の働きがなされる理由が、説明されているからです。
 「神は、あらかじめ知っておられる人々を」という言葉は、ただ単に、神さまが永遠の前からその「人々」の存在を知っておられるということではありません。「知る」という言葉は、聖書の中では、しばしば「愛する」ことを表わすものとして用いられています。ここでは、それが、神さまの「永遠のみこころ」に適用されていると考えられます。ですから、神さまが「あらかじめ知っておられる人々」とは、神さまが永遠の愛をもって愛しておられる人々のことです。
 また、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ということは、神さまが「永遠のみこころ」(聖定的なご意志)によって、私たちを「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ということを示しています。
 このように見ますと、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。

ということは、エペソ人への手紙一章四節、五節で、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と言われていることと、同じことを述べていることが分かります。
 ですから、この神さまの摂理の御手のお働きによってもたらされる「益」とは、目前の問題の解決にとどまらないで、それをはるかに越えて、私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださることにあります。言い換えますと、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」を実現してくださることにあります。
 さらに、ローマ人への手紙八章三〇節では、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われています。これは、神さまが、御子イエス・キリストによる贖いの御業を、私たちに当てはめてくださることを述べています。それで、ここでは、神さまが、御子イエス・キリストによる贖いの御業を私たちに当てはめて、私たちを義と認めてくださり、栄光あるものに造り変えてくださることも、私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださるという、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」を実現することであるということが示されています。

 このように、神さまの創造と摂理の御業と、贖いの御業は、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」を実現してくださる御業です。

 そして、私たちに対する神さまのみこころのすべては、例外なく、この、神さまの創造と摂理の御業と、贖いの御業のうちに示されています。
 ですから、私たちに対する神さまのみこころは、それがどのようなみこころであっても、必ず、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」と調和しています。
 もちろん、有限な私たちには、 ── 特に、さまざまな痛みと苦しみの中にある時には、その時の私たちに対するみこころが、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」と、どのように調和しているのか、分からないことがあります。
 しかし、私たちは、それがどのように調和しているのか分からなくても、それが確かに調和していることを信じています。それで、絶望しないで、ローマ人への手紙八章二八節の御言葉に合わせて、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

と告白します。
 そうであれば、私たちは、神さまのみこころを求める時に、神さまの私たちに対する愛に基づく「永遠のみこころ」を認めること ── それゆえに、神さまの愛を信じて、神さまに信頼すること ── から始めているわけです。
 これらのことから、私たちが神さまの「啓示されたみこころ」を知るために基本的に必要な、二つのことを確かめておきたいと思います。
 第一に、神さまのみこころはすべて、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださるという、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」と調和していることを、しっかりとわきまえることです。
 第二に、そのようなわきまえの上に立って、神さまの永遠の愛を信じて、神さまに信頼することです。
 このような「基本的な姿勢」をもつことは、神さまの「指示」を求めても得られないことで、あきらめたり、不安を覚えたりすることから解放されることへの第一歩です。
 それにつきましては、続いてお話しします。


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