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説教日:1999年5月2日 |
これまで、私たちの間に、神さまのみこころを求めることは、神さまから直接的な「指示」を受けることであるという考え方があるために生まれてくる、さまざまな問題についてお話ししました。 先週は、このような神さまの永遠のみこころ(聖定的なご意志)があるので、私たち人間を含めて、この世界に存在するすべてのものが、意味と価値をもっているということをお話ししました。 もし、神さまがおられないとしたら、この世界は、それ自体としては何の目的をもたない、従って、何の意味もない素粒子の動きのままに任せられていることになります。そうであれば、私たち人間とこの世界のすべてのものにとっての最終的な真実は、すべてのものは、それ自体としては何の目的も意味もない素粒子の動きの中から偶然に生じたものであり、必ずしもこのような形で存在しなければならなかったわけではないし、そもそも初めから存在しなくてもよかったものであるということになります。(1) そうであれば、そのような世界の中に、目的意識をもち、自らの存在の意味と価値を考える人間のような存在が「発生した」ということ自体が、おかしなことであったと言わなければなりません。つまり、現実に、この世界に人間が存在していますので、この世界に人間が存在することは当たり前のことになっていますが、人間の存在は、物質的な世界そのものの動きからは説明できないものです。 これに対して、私たちは、 神の聖定とは、神の御意志の熟慮による永遠の決意です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。 と告白しています。私たち人間を含めてこの世界のすべてのものは、無限、永遠、不変の神さまによって定められたみこころによって存在しているので、一つ一つのものが存在する意味と価値をもっているということです。当然、目的意識をもち、自らの存在の意味と価値を考える人間のような存在がいてもおかしくはないわけです。 このように、神さまの永遠のみこころ(聖定的なご意志)は、この世界に存在するすべてのものの存在に、確かな意味と価値があることを保証するものです。この世界に存在するすべてのものは、神さまの永遠のみこころ(聖定的なご意志)に従って存在するようになりましたので、存在する意味と価値をもっているのです。 創世記一章三一節には、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。 と記されています。 創世記一章一節〜二章三節に記されている神さまの創造の御業において、神さまがお造りになったものを「よい」とご覧になったことは七回記されています。これは、その七回目のことを記すものです。 これに先立って、神さまは、あるものや状態をお造りになって、それを「よい」とご覧になったことが記されています。創造の御業の過程の中で造り出されたもののそれぞれが、神さまの御目に「よい」と認められたというのです。 これに対しまして、この三一節では、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。」と言われています。創造の御業の過程の中で造り出されたものの一つ一つが「よい」だけでなく、造られたもののすべてが、お互いに深く関わり合っていることに見られる全体的な調和においても、「よい」と見られる状態にあったということです。 たとえて言いますと、合唱のパート練習で、ソプラノ、アルト、テナー、バスのそれぞれのパートが美しく歌うことには、それとしての美しさがあります。しかし、それぞれのパートがお互いに響き合いながら歌うときには、一つ一つのパートの美しさを越えたハーモニーの美しさが生まれてきます。神さまがお造りになった世界も、そのような、全体としての調和の美しさを備えているわけです。 ところで、神さまは、創造の御業を遂行されるときに、お造りになったものをしっかりとご覧になっておられたはずです。それなのに、「神は見て、それをよしとされた。」とか、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。」というように、ご自身が、お造りになったものを改めてご覧になるということは、どういうことでしょうか。 これは、人間が、自分の造ったものの出来栄えを確かめるために、改めて「検査」をするのと同じように考えることはできません。というのは、神さまが直接、ご自身の御手によってお造りになったものには失敗がないからです。 ですから、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。」ということは、どこかに問題がありはしないかと調べたということではありません。むしろ、人間的な言い方をしますが、神さまが心を込めてお造りになったものに、改めて深い関心を寄せてくださったことを示しています。 かつて、神さまは、ご自身がお造りになった世界を、それが見事に秩序立てられ整えられている世界であるので、その世界自体の法則に任せて動いていくようにされた。その意味で、神さまは直接この世界に関わることから手を引かれた、と考えられたことがありました。ちょうど、うまく組み立てられた時計のねじを巻いたら、後は時計が自動的に動いていくということにたとえられるようなことです。 しかし、神さまは、ご自身がお造りになったこの世界を、なるがままに任せるという形で「放置」されることはありません。この世界に深く心を注いでおられるばかりでなく、ご自身が深く関わってくださっておられます。それが、創造の御業の過程の中で造り出されたものについて「神は見て、それをよしとされた。」と言われていること、特に、最後に、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われていることに表わされています。 そうしますと、「見よ。それは非常によかった。」ということは、単に、ちゃんと出来上がっていた ── 一つ一つが素晴らしく、全体としての調和も取れているものとして造られていた、ということを意味しているだけではありません。ちゃんと出来上がっていることは、それが神さまご自身がお造りになったものであるということから、初めから分かっていることです。 まず、ここで「よかった」と訳されている言葉(トーブ)のことですが、この言葉は、非常に意味の広い言葉です。倫理的に「善い」ことや、たとえば「良質である」ことや「上出来な」ことなど、一般的に「良い」ことを表わすばかりでなく、「美しい」ことや「正確である」ことも表わしますし、「喜ばしい」ことなども表わします。 それで、これは、神さまご自身のうちに喜びがあったことを表わすものであると考えられます。これにつきましては、かすかなたとえでしかありませんが、一つのたとえを用いてお話ししましょう。 作曲家が手直しの必要のないまでに遂行を重ねて完成させた曲は、どこかに問題がありはしないかと、「検査」をする必要はありません。そして、その曲を作った作曲家は、それがどのような曲であるかを十分理解しています。そうであっても、実際にその曲が演奏されるときには、その作曲家も、改めて、その美しさに感動します。 ── 本当に優れた「よい」ものとは、そのようなものです。その「よい」ものが現実に存在することが喜びとなります。 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われていますのは、そのようなことでしょう。 神さまは、ご自身の永遠のみこころに従って、美しく整えられた世界をお造りになりました。この世界が、神さまの永遠のみこころのとおりに創造された「よい」世界であり、その中にある一つ一つのものも「よい」ものであることは、初めから分かっていました。けれども、ご自身の創造の御業を通して、実際にそれが存在するようになったことに、神さまは深い喜びを覚えられたということです。 ── このような世界が存在するようになったことへの喜びです。 では、神さまは、この世界を造り出されて、一体、何を得たというのでしょうか。そのような、「損得の計算」から言いますと、神さまには「損得」はありません。「損得」は、私たちのように、すべての点において限りのあるものだけに当てはまることです。特に、罪によって堕落してしまったために、他の存在を搾取してでも自分を肥やそうとするようになってしまった人間がする「損得」の勘定は、神さまには当てはまりません。 神さまは、その存在とすべての属性において、無限、永遠、不変の方です。神さまは、あらゆる点において無限に豊かな方であり、何の不足もありません。この世界が造られたからといって、神さまに何かが増し加えられることはありません。また、神さまがご自身の御力をもって、私たち人間は気の遠くなるような広大な世界を造り出され、そのすべてを支えておられるからといって、神さまから何かが出ていって少なくなってしまうということもありません。 ですから、神さまは、私たち人間を含めて、この世界をお造りになったことによって、ご自身の豊かさに何かを増し加えれられたということはありません。かえって、ご自身の豊かさをもって、お造りになった世界を満たしてくださっておられます。しかし、神さまは生きておられます。神さまは、ご自身が心を注いでお造りになったこの世界が存在することを喜んでくださいます。特に、ご自身との愛の交わりに生きるものとして、「神のかたち」にお造りになった人間の存在を喜んでくださっておられます。 ── それは、この世界や人間が神さまの役に立つからとか、神さまに何かを加えるからではなく、この世界の存在そのものを、特に、私たち人間の存在そのものをお喜びくださるのです。 先週も、別の観点から、これと同じことをお話ししましたが、このことは、神さまのみこころを知るために、私たちが十分にわきまえておかなくてはならないことです。このことは、何でもないことのように思われるかもしれませんが、実際には、クリスチャンも、神さまとの関係を「取り引き」の関係で考えてしまいがちだからです。 人間が「神」との関係を「取り引き」の関係と考えてしまうことについて、一つの例として、聖書の文化的な背景となっている、古代西アジア(古代オリエント)の文化の中で記された神話の一つである、バビロニヤの創造神話『エヌーマ エリシュ』に表わされている、神と人間との関係についての基本的な考え方を見てみましょう。 その中では、人間は神々への奉仕をするために造られたと言われています。 その『エヌーマ エリシュ』の、板の五行〜八行には次のように記されています。 私は血を固まりとして集め、骨を造り出そう。私は野蛮なものを造り上げよう。その名は「人間」としよう。確かに、私は野蛮なものである人間を造ろう。人間には神々に奉仕するという務めを与えることにする。それによって、神々が安楽に過ごすようになるためである。(2) その「血」は、反逆者(怪獣)ティアマトをマルドゥク(バビロニヤの主神)に反逆させた廉で捕えられて処刑された、ティアマトの軍隊の最高指揮官(キングウ)の血です。人間は、反逆者の血から造られ、神々への奉仕の務めを負わされたと言われています。これによって、神々が楽になったというのです(三三行〜三六行参照)。 このような神話は、堕落後の人間が抱いている、神と人間の関係についての考え方をよく表わしています。それは、神と人間の関係は、基本的に、「取り引き」の関係であるというのです。人間が神に奉仕すると、神はそれに応えて(報いて)、人間のために働いてくれるというのです。このような神は、人間の奉仕を必要としている神です。 この世の発想では、神と人間の関係は基本的には「取り引き」(奉仕)の関係です。それぞれの働きが、互いにとって必要であるということの上に成り立っている関係です。 先ほども言いましたように、その存在とすべての属性において、無限、永遠、不変の方である神さまは、あらゆる点において無限に豊かな方です。この世界をお造りになったといって、ご自身に何かが増し加えられることはありません。むしろ、神さまはご自身の豊かさをもって、造られたものを満たしてくださっています。 神さまがこのような方であるということを、単に知識として知っているだけでは十分ではありません。そのような知識をもっていながら、実際には、ほとんど無意識のうちに、神さまと自分たちが「取り引き」の関係にあるかのように受け止めてしまっている人々はめずらしくないからです。 そのような、歪んだ受け止め方が自分のうちにあることに気づかないままに、神さまのみこころを求めますと、みこころの理解が根本的に誤ってしまいます。 たとえば、どのような奉仕をすべきかという前に、神さまとの関係が「取り引き」のように受け止めているとしたら、そのような受け止め方をしながら奉仕をするということ自体が、みこころから外れてしまっています。 神さまとの関係をそのように受け止めることからは、二つの問題が生まれてくると考えられます。 一つは、神さまは自分たちの奉仕を必要としているという発想がもとになって、奉仕をしないと、神さまの怒りを招くことになる、というような「恐怖感」がその人のうちに生まれてきます。それは、この世の「神」が「たたる」というようなことと同じです。言うまでもなく、神さまを「畏れること」と、「神」の機嫌を損ねるのではないかと「恐れること」はまったく違います。 残念なことには、指導者たちが、そのような「恐怖感」を煽って、人々を奉仕へと駆り立てようとする場合もあります。しかし、そのような「恐怖感」に基づく「奉仕」は神さまが求めておられる奉仕ではありません。 この点につきましては、日を改めてお話しします。 もう一つの問題は、その逆のことです。やはり、神さまは自分たちの奉仕を必要としている、という発想があるために、熱心な奉仕をしている人々が、自分の奉仕の実績に頼るようになるということです。自分の「実績」に頼っている人々の例は、マタイの福音書七章二二節、二三節で、 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」 と言われている人々です。 この二つの問題の現われた形は、神さまに対する「恐怖感」と「大胆さ」というように、正反対のものですが、その奥にある、神さまと人間の関係についての発想は同じです。そして、それが、神さまのみこころについての理解を、根本から誤らせています。 もし、ご自身の中に、このような「恐怖感」か「大胆さ」があることに気づかれましたら、さらに、深いところで、神さまとの関係を「取り引き」の関係で考えているようなことはないかと、振り返っていただきたいと思います。そのような発想を持ち続けたままで、神さまのみこころを求めても、根本的なところで誤ってしまいます。 1 この宇宙の全体にわたる物質的な世界を律している法則として考えられているのは、一般に「エントロピー増大の法則」として知られている「熱力学の第二法則」です。これは、「外から何のエネルギーの加えられないところ(閉じられた系)では、エントロピーは増大する。」という法則です。「エントロピーが増大する」ということは、暖かいものや冷たいものが平均化されていき、最終的に「熱平衡の状態」になってしまうということです。それによって、秩序立てられているものの秩序は崩壊して、無秩序や混乱が増えていきます。なぜ、「エントロピー増大の法則」が成り立つのかといいますと、物質の最小単位である素粒子の動きが一定していなくて、全体としては平均化するものであるからであると考えられています。(本文に戻る) 2 J.B.Pritchard ed., Ancient Near Eastern Texts. 3rd ed., 1969. (Princeton: Prenceton University Press) p.68 (本文に戻る) |
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