(第2回)


説教日:1999年4月25日
聖書箇所:エペソ人への手紙一章三節〜六節

 きょうも、先週に引き続き、神さまのみこころを知るための基本的な原則についてお話しします。
 先週は、神さまのみこころを求めて、神さまから直接的な「指示」を受けようとすることの問題をお話ししました。
 神さまから直接的な「指示」を受けようとするというのは、自分がしようとしていることや願っていることについて、「イエス」か「ノー」か答えていただこうとすることです。あるいは、自分の目の前にいくつかの可能性があるときに、そのどれを取るべきであるか答えていただこうとすること、さらには、何をしたらいいのか分からないときに、どうしたらいいのか答えていただこうとすることです。
 実際、多くの人々が、神さまのみこころを求めることは、神さまから直接的な「指示」を受けることであると考えています。その場合には、二つの問題が生じてきます。
 一つの問題は、自分と神さまとの関係のことで、さまざまな形で悩むようになるということです。
 まず、神さまは、直接的な「指示」を与えてはくださいません。それで、その人は、自分が神さまのみこころを行なっているかどうか分からなくなって悩むようになります。
 さらに、本当は、神さまが、その人が思っている形(直接的な「指示」を与えるという形)では答えてくださらない、というだけのことなのですが、その人は、神さまが自分に答えてくださらないと感じます。それで、神さまは自分のことをみこころに留めていてくださらないのではないか、と悩むようになってしまいます。そして、「誰々さん」のように信仰の深い人には答えが与えられるけれども、自分のような者には答えが与えられないのだ、と結論したりします。
 もう一つの問題は、神さまのみこころを求めること自体が意味のないことであると感じるようになることです。
 真剣に神さまのみこころを求めても、神さまは答えてくださらないということから ── 念のために繰り返しますと、あくまでも、その人が考えている形で答えが与えられないというだけのことですが ── 真剣に神さまのみこころを求めても仕方がないのだ、と結論してしまうのです。
 そして、それが、信仰の「現実」が分かるようになったことだと考えるようになります。それで、真剣に神さまのみこころを求めることは、信仰が幼くて「うぶな」ことのしるしである、とまで感じるようになってしまいます。
 どちらの問題も、神さまのみこころを求めることは、神さまから直接的な「指示」をいただくことであると考えているために生じたものです。


 先週は、このような考え方の根底には、「神さまのみこころは一つしかない。」とする考え方があることをお話ししました。そして、「神さまのみこころは一つしかない。」とする考え方に関わる、一つの問題についてお話ししました。
 それは、たとえば、神さまの永遠のみこころ(神さまの聖定的な意志)による「選び」について、「果たして私は選ばれているのでしょうか。」と神さまに問いかけて、直接、「イエス」か「ノー」か答えていただこうとすることに典型的に見られる問題です。
 それは、神さまの無限にして永遠のみこころを、限りのある人間が「直接的に」のぞき込もうとすることです。
 神さまの永遠のみこころは、無限に深くて広く、無限に複雑なものです。それは、この世界の一つ一つのものに関わるみこころですし、それらが複雑に関わり合っていること、また、関わり合いながら変化していることのすべてを包むみこころです。そして、全体として見たときにも、まったき調和のとれた、永遠に変わらないみこころです。
 神さまは、そのすべてを、初めから終わりまで、一点の曇りもなく明快に見通し、定めておられます。しかし、人間であれ御使いであれ、どのような被造物も、それを神さまのように見通すことはできません。
 ですから、私たちは、神さまの永遠のみこころ(聖定的な意志)を直接のぞき込むような形で知ることはできませんし、そのようなことをしてもなりません。私たちは、先週取り上げました申命記二九章二九節で、

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。

と言われていますように、ただ、神さまが私たちに与えてくださっている啓示の御言葉に示されている神さまのみこころに従うように求められています。


 それでは、どうして、神さまの永遠のみこころがあることが、私たちに啓示されているのでしょうか。
 もちろん、それは、神の子どもたちの益のためです。
 先週も取り上げましたが、この世の人々が、占いに頼ったり、「神」のお告げを聞こうとしたりすることは、その人々が信じている「神」の「指示」を仰ぐことです。その場合、その人々が信じている「神」は、人間の想像によって考えられたものです。人間と同じように、この世界の中に住んでいるものであり、人間よりは大きな力をもっているので、少し先のことが読めたり、目の前のことを操作して少しは変えることができる存在です。 ── 人間の想像力が、そのような「神」しか考えつかなかったり、それ以上の「神」を考えますと、現実離れしたものと感じられてしまうわけです。
 仮に、そのような「神」があったとしても、その「神」の上には、さらに、その「神」をも支配している、大きな「ものの流れ」があることになります。そのようなものを、人は「運命」と呼びます。その「神」も、その流れに乗りながら、少しでも先を読もうとしたり、それを、少しでも自分たちにとってよい方向に変えようとして、目先の操作を加えているというようなことになるでしよう。
 占いやおまじないをする人々は、そのようなものを頼みとしているわけです。けれども、結局、それが単なる幻想でしかないのではないかと感じながら恐れたり、その奥にある大きな「ものの流れ」(運命)の真っ暗で気ままな力、機械的で冷徹な力におびえるほかはありません。
 このようなことを見てみますと、神さまが、私たちに、御自身の永遠のみこころがあることを示してくださっていることの意味が分かってきます。これによって、神さまは、すべてのことに対して永遠に変わることがないみこころをもっておられる神さまを信頼することが最も確かなことであることを示してくださるとともに、私たちを、神さまに信頼するようにと、招いてくださっておられるのです。
 繰り返しますが、神さまの永遠のみこころは、神さまの無限の知恵の表現であり、無限に深く、広く、複雑なものです。この世界の一つ一つのものに関わるみこころですし、それらが複雑に関わり合いながら変化していることのすべてを包むみこころです。そして、全体として見たときにも、まったき調和のとれたみこころです。神さまは、そのすべてを、初めから終わりまで、一点の曇りもなく明快に見通し、定めておられます。
 このことを『ウェストミンスター小教理問答書』問七では、

神の聖定とは、神の御意志の熟慮による永遠の決意です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。

と、告白しています。私たちは、このような告白とともに、神さまに信頼しています。

 私たちは、ただ、そのような、神さまの無限の知恵による永遠のみこころがあるという事実だけを示されているのではありません。私たちには、無限に深く、無限に広く、無限に複雑な、神さまのみこころを見通すことはできませんが、その神さまの永遠のみこころを貫いている、中心的で核心となるみこころは示されています。
 それは、『ウェストミンスター小教理問答書』問七で「御自身の栄光のために」と告白されていることです。神さまの永遠のみこころが全体としての調和をもっているのは、それが、無限、永遠、不変の神さまの知恵によることであるからです。そのような、神さまの永遠のみこころは、混乱したばらばらなことの寄せ集めではありません。そこには、すべてを調和のうちににまとめている「主題」のようなものがあります。それが、「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」ということです。
 神さまのみこころを考えるときに、まず第一にわきまえていなくてはならないことは、神さまのみこころの全体を貫いているのは、「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」ということです。神さまのみこころは、どのように細かなことに関わるみこころであっても、すべて、「神さまの栄光が現わされること」と調和しています。
 ただし、それがどのように調和しているのか、私たちに、見通すことができるわけではありません。私たちがこの世にあって味わわなくてはならない試練や苦しみが、「神さまの栄光が現わされること」とどのようにつながっているのか、理解できないことはいくらでもあります。
 しかし、私たちは、神さまとの永遠の交わりに生きるものです。そのような意味での永遠の相の下で物事を受け止めるようになる時に、すなわち、イエス・キリストの再臨とともにもたらされる救いの完成の日に、神さまのご臨在の御前に立つときに、すべてのことを、なお、見通すことはできなくても、納得できるようにはなります。その時こそ、

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
黙示録二一章三節、四節

とあかしされているように、神さまが与えてくださる、神の子どもの最終的な慰めが成就する時です。

 神さまの無限の知恵による永遠のみこころを一貫して貫いており、その全体を完全な調和のうちにまとめているのは、「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」ということです。「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」ということは、この世界のすべてのものには明確な目的があるということを意味しています。この世界のすべてのことは、神さまの永遠のみこころに従って造り出されたものであり、造り主である神さまの御手の作品としての意味と価値をもっているということです。一つの音楽が、それを作った作曲家の存在を表わすのが自然であるのと同じように、そのような、神さまの御手の作品が、それをお造りになった神さまの栄光を現わすことは、最も自然なことです。
 もし、この世界が神さまの栄光を現わすことがなかったとしたらどうなっていたことでしょうか。世界は、何の意味もなく目的もないものが、ただあるというだけの、まことに殺伐とした、空しいものでしかなかったことでしょう。仮に、そのような世界を支配する力があるとしたら、真っ暗で無性格な力が荒れ狂うだけであったことでしょう。それは、初めから意味のない世界であり、意味あるものを何も生み出さない世界です。人はこのような世界に生きることはできませんし、そこには頼るべきものは何もありません。
 しかし、実際にはそうではありません。すべてのものが神さまの御手の作品としての意味と価値をもっており、造り主である神さまの栄光を映し出しています。私たちは、このような世界に住んであることに心をときめかしながら、次のように告白します。

天は神の栄光を語り告げ、
大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、
夜は夜へ、知識を示す。
話もなく、ことばもなく、
その声も聞かれない。
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
そのことばは、地の果てまで届いた。
詩篇一九篇一節〜四節

主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。
あなたは、それらをみな、
知恵をもって造っておられます。
地はあなたの造られたもので満ちています。
詩篇一〇四篇二四節

 
神さまの栄光は、神さまご自身の存在と同じように、無限、永遠、不変です。それで、神さまの栄光は、増えたり減ったりすることはありません。神さまの栄光を現わすということは、神さまの栄光を反映させて映し出すということです。ちょうど、鏡が太陽の光を反射しても、太陽の光が増えたり減ったりしないように、この世界に存在するものがこぞって神さまの栄光を映し出しても、神さまの栄光が増えたり減ったりすることはありません。
 けれども、鏡が太陽の光を反射させるなら、鏡はその光で輝きます。それと同じように、この世界は、神さまの栄光を映し出すことによって、神さまの真実さによって支えられている秩序と美しさをもち、神さまの愛から出る恵みと慈しみに満ちている世界となります。
 このように、「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」ということは、神さまによって造られたものにとって、最も自然なことであるばかりでなく、一つ一つのものが、その特性を発揮するようになるための条件です。
 私たちに対する神さまのみこころが「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」という大原則の下にあるということも、私たちが神さまの御手の作品として、最も自然で、私たちらしくあるために必要なことです。
 「神のかたち」に造られている人間は、本来、愛に集約される神さまの人格的な栄光を映し出すものです。ですから、私たちが最も私たちらしくなるのは、神さまの愛を映し出し、その愛によって導かれて生きるときです。この意味で、「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」という神さまの永遠のみこころの大原則は、私たちが、神さまの愛を映し出し、その愛によって導かれて生きることによって、私たちの間に実現します。

 それにしましても、多くの人が「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」ということに反発を覚えています。おそらく、「それは、神さまの横暴ではないか。」というような感じを抱いてのことではないかと思われます。
 もちろん、それは神さまがどのような方であるかを知らないで、神さまを人間と同じようなものと考えているために生まれる感情です。罪を宿す人間は、罪が生み出す自己中心の野望と欲望に縛られています。そのような人間が自分の「栄光」を求めるときには、自分以外のものを利用しますし、利用できないものを踏みつけたりします。神さまを知らない人間は、神さまも自分たちのようだと考えます。それで、「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」ということは、神さまがすべてのものを利用することであり、神さまの横暴であると感じてしまいます。
 しかし、神さまはそのような方ではありません。神さまは、ご自身がお造りになったものを真実に支えてくださり、一つ一つのものの特性を最大限に生かしてくださる方です。それで、すべてのものは造り主である神さまの栄光を映し出すときに、最もそのものらしくあることができます。

 しかし、もし、「あるもの」が神さまの栄光のためではなく、神さま以外のもの(被造物)の栄誉のために存在しているとしますと、その「あるもの」は、神さま以外のものの栄誉のために手段化されてしまいます。特に、人間が罪によって堕落して、腐敗した性質をもつようになってからは、人間が他の人間を手段化し、利用してしまうことが珍しくなくなってしまいました。
 「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」ということは、「すべてのものが、造り主である神さまの栄光を映し出す栄誉をもっている。」ということを意味しています。「すべてのものが、造り主である神さまの栄光を映し出す栄誉をもっている。」ということは、すべてのものが「ある」(存在する)だけで、十分な意味をもっているということを意味しています。「あるもの」が何かの役に立つから存在する意味があるというのではなく、その「あるもの」は造り主である神さまの栄光を映し出すものとして、そこに「ある」だけで、十分に存在する意味をもっています。
 このように、「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」ということは、すべてのものが、他のどのような被造物によっても手段化されてはならない、神さまの御手の作品であるということを意味しています。
 そのことは、特に、「神のかたち」に造られている人間について当てはまります。「神の栄光のために。」という名目によって、人間が、何らかの事業の達成など、ある「目的」のために手段化され利用されるようなことがありますと、かえって、「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」という、神さまのみこころの大原則が踏みにじられてしまうことになります。 ── 私たちは、そのような、罪がもたらす倒錯が、キリストの御名を戴く教会にも忍び込んでくるという現実を見据えておく必要があります。

 神さまは、決して、私たちを手段化して、利用されることはありません。無限の神さまには、被造物を利用しなければならないような「欠乏」はありません。
また、それ以上に、神さまは愛です。私たちの間であっても、本当の愛は、愛する人を「目的」として、その人の存在そのものを喜びます。決してその人を「手段」とするようなことはありません。
 きょうのテキストであるエペソ人への手紙一章三節〜六節にあかしされていますように、父なる神さまは、私たちを、イエス・キリストにあって、永遠の愛で愛してくださっています。それで、神さまは、決して、私たちを手段化して、利用されるようなことはありません。   むしろ、私たちを「神のかたち」としての本来のいのちに生かしてくださいます。すなわち、私たちを、愛に集約される神さまの人格的な栄光を映し出す者として整えてくださいます。
 ですから、「すべては、神さまの栄光が現わされるために。」という神さまの永遠のみこころの大原則は、私たちの間では、やはり、私たち自身が神さまの愛に満たされ、神さまから出る愛に導かれて生きることのうちに実現します。


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