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説教日:1999年4月18日 |
個人的なことになりますが、私は、今年に入りましてから、神さまのみこころを知ることについて、何人かの兄弟姉妹たちとお話しする機会がありました。そのことを通して、色々なことを考えさせていただきました。それで、いつか、神さまのみこころを知ることについて、基本的なことを整理して、皆さんにお話ししようと考えておりました。 すでにお話ししました何人かの兄弟姉妹たちとのお交わりの中でつくづく感じたことは、兄弟姉妹たちが、神さまのみこころを真実にまた真剣に求めているからこそ、そのことで深く悩んでいるということです。 私自身、身に覚えのあることですが、それほど真剣に神さまのみこころを求めることがないときには、目の前にある問題や苦しみがなかなか解決しないために悩むことはあっても、神さまのみこころを知ろうとして悩むことはありません。そのようなときの祈りは、「早くこの問題を解決してください。」というような祈りになってしまい、「あなたのみこころを教えてください。そして、あなたのみこころに従えますように。」というような祈りではありません。 神さまを愛し、神さまのみこころを大切にして、神さまのみこころを真実にまた真剣に求めている兄弟姉妹たちが、かえってそのために悩んでしまうという現実に接しますと、心が痛みます。しかし、神さまは生きておられます。神さまのみこころを真実に求めているからこそ悩んでしまう兄弟姉妹たちが、ご自身を愛していることをご存知ですし、その愛から出る思いを汲み取っていてくださると信じます。 神の子どもたちにとっては、神さまのみこころを真剣に求めるからこその悩みは避けられないのかも知れません。しかし、その一方で、もし神さまのみこころについて原則的なことを知っていたら悩まなくてすむことを、悩んでしまうという現実があるのです。 きょうは、この問題を中心としてお話しします。 その典型的な例は、次のようなものです。 ある女性は、同じ教会の男性から結婚を申し込まれました。ひそかに尊敬し好意を抱いていた男性でしたので、彼女は天にも昇るような気持ちになりました。すぐにでもその申し込みを受け入れる返事をしたかったのですが、大切なことであるので、祈りつつ、神さまのみこころを求めることにしました。彼も、「神さまのみこころを祈り求めてください。」と言いました。 それで、彼女は、「神さま。この結婚があなたのみこころかどうかお示しください。私はあなたのみこころに従います。」と祈り続けました。ところが、いくら祈っても、彼女が待っていた神さまからの「お返事」はありませんでした。 彼女は、「神さまがたった一言、『はい』とか『いいえ』とか言ってくださればいいのに ・・・・ 。」と思い続けていました。でも、その「声」は聞こえてきませんでした。 そのような状態が続く中で、相手の男性をこれ以上待たせてはいけないと思って、結婚を承諾する返事をしました。同時に、これは、自分がその男性を好きであるから結婚しようとしているだけであって、神さまのみこころではないのではないか、という疑問がわいてきました。ひそかに、自分は神さまのみこころではなく自分の気持ちにしたがっているのではないかと、苦しむようになりました。 彼女はその男性と結婚しました。夫となった男性の願いもありまして、教会のさまざまな奉仕に参加しました。しかし、彼女の中に、「自分は神さまのみこころに従わなかったのではないか。」という疑問とともに、一種の自責の念がわき続けていました。それで、教会で奉仕することにも、ほとんど無意識のうちに、その「自責の念」からくる負債感をはらそうとする一面がありました。けれども、どんなに奉仕をしても、神さまのみこころに背いてしまったのではないか、という疑問は消えませんでした。 あるとき、夫と些細なことでけんかをしてしまいました。とても辛くなったとき、「あの時、自分が神さまのみこころに従わなかったので、このようなことになってしまったのではないか。」という思いがわき上がってきました。 普段は忘れていても、ことあるごとに、「自分は神さまのみこころに従わなかったのではないか。」という、疑問と罪責感がわき上がってきました。 このお話は、私の創作ですが、実際に、これと同じような悩みを持っておられる方はたくさんいます。かく言う私も、結婚のことでではありませんが、問題の質としては同じ性質の問題で悩みました。 結論から言いますと、このような問題で悩むことは、神さまのみこころではありません。 ただし、それは、この女性のように、神さまのみこころを真実にまた真剣に求めることがむだなことである、という意味ではありません。彼女のように、神さまのみこころを真実にまた真剣に求めることは、神の子どもの自然な姿です。神さまのみこころを求めるうえでの、そのような真実さと真剣さを失ってしまったことを、「クリスチャンとして大人になったための余裕である。」と考える向きもあるようですが、とんでもない話です。 ── 先ほど言いましたように、生きておられる神さまは、そのような真実さと真剣さをないがしろにされることはありません。 そうではあっても、神の子どもたちがこの女性のような問題で悩み、神の子どもとしての歩みを、いわば「後ろめたさ」に引きずられながら歩み続けるのは、父なる神さまのみこころではありません。 問題は、彼女の、神さまのみこころに対する真実さと真剣さにあるのではありません。「神さまのみこころ」に対する理解の不備にあるのです。 私たちが「神さまのみこころを求めること」について思い描くイメージは、この女性の場合のように、あることについて「イエス」か「ノー」か答えていただこうとすることや、自分の目の前にいくつかの可能性があるときに、そのどれを取るべきであるか答えていただこうとすること、さらには、何をしたらいいのか分からないときに、どうしたらいいのか答えていただこうとすることでしょう。 これを一言で言いますと、神さまの「指示」を求めるということになります。この世の人々が、「神のお告げ」を受けようとしたり、占いに頼ったりするのは、「指示」を求めることです。そのようなこともあってのことでしょうか、神の子どもたちも、神さまのみこころを求めることは、神さまの「指示」を仰ぐことであると考えやすいのです。 しかし、この二つのことは、まったく同じことであるのではありません。神さまの「指示を仰ぐこと」は、神さまの「みこころを求めること」の一つの形です。しかも、それは、旧約聖書の時代のように、神さまからの直接的な語りかけや、預言者たちを通しての語りかけがあったときに典型的な、みこころの求め方でした。 たとえば、サムエル記第一・二三章一節、二節には、 その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています。」そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」 と記されています。 私たちが、神さまのみこころを求めることは、神さまの「指示」を仰ぐことである、というイメージをもつようになったのは、この世の占いや「お告げ」からの連想とともに、旧約の時代の、主の直接的な語りかけや、預言者たちを通しての語りかけのことを考えているからかもしれません。 そのような意味で神さまからの「指示」を仰ぐようになるためには、今も、神さまからの直接的な語りかけや、預言者たちを通しての語りかけがなければなりません。 しかし、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いが完成し、イエス・キリストの贖いの御業をあかしする啓示が完成した後には、 ── 具体的には、新約聖書に記されている啓示の御言葉が完結した後には、神さまからの直接的な語りかけや、預言者を通しての語りかけ、すなわち、新しい啓示はなくなりました。 また、注意しなくてはならないのは、旧約の時代でも、神さまの直接的な語りかけや、預言者たちを通しての語りかけがあったのは、神さまの救いの御業に関わるごく限られた状況においてのことでした。誰であっても、自由に神さまの直接的な語りかけを聞いたわけではありません。 今日のように、啓示の御言葉が完結していて、神さまからの直接的な語りかけや、預言者たちを通しての語りかけがない時代に、神さまのみこころをどのように求めるべきかということは、日を改めてお話しします。ここでは、これまでのお話と関連して、もう一つのことをお話しします。 神さまのみこころを求めて、あることについて「イエス」か「ノー」か答えていただこうとしたり、自分の目の前にいくつかの可能性があるときに、そのどれを取るべきであるか答えていただこうとしたり、さらには、何をしたらいいのか分からないときに、どうしたらいいのか答えていただこうとするのは、私たちが「神さまのみこころは一つしかない。」と考えているからであると思われます。 ── そして、その「一つしかないみこころ」が分からなくて悩むわけです。 しかし、このような意味で「一つしかないみこころ」を求めることには、大きな問題があります。 確かに、神さまのみこころは一つです。ただし、それは、厳密に言いますと、神さまにとって、みこころは一つであるということです。そして、そのみこころは、神さまにとっては、はっきりしていて、何の曇りもありません。それは、無限、永遠、不変の神さまが、無限、永遠、不変の知恵と知識をもって、すべてをお定めになり、すべてを見通しておられるからです。 神さまのみこころは、神さまの無限の知恵によって定められたものですから、神さまの無限の知恵を表現しています。それは、神さまには明白なものです。けれども、私たち一介の被造物でしかない人間は、神さまの無限の知恵の表われであるみこころを、そのまま(すなわち、神さまと同じように)知ることはできません。 私たちは、ただ、神さまが私たちに分かるように示してくださったこと(すなわち、神さまの啓示)を知ることができるだけです。 私たちに分かることは、神さまは生きておられて、はっきりとしたみこころをもっておられるということです。 ── その意味で、神さまのみこころは永遠に一つです。そして、私たち人間には、その神さまの永遠のみこころをそのまま、神さまと同じように、知ることはできないということです。 教会は、このような、神さまの永遠のみこころのことを「聖定的な意志」と呼んできました。 この、神さまの永遠のみこころ(聖定的な意志)は私たち人間には、そのままの形では、知らされていません。それは、神さまが「出し惜しみ」をしておられるからではありません。神さまの永遠のみこころは、神さまの無限の知恵を表現していますので、どのような被造物であっても、決して見通すことができない無限の深さと無限の広がりと無限の複雑さをもっているみこころです。たとえそれがそのまま啓示されたとしても、人間ばかりでなく、どのような御使いであっても、それを理解することはできません。 私たちは、一介の被造物である人間と、無限、永遠、不変の神さまとの間にある、「絶対的な」区別をわきまえておかなくてはなりません。その上で、「神さまの永遠のみこころは一つである。」と言わなければなりません。繰り返しになりますが、その神さまの永遠のみこころは、神さまにとって一点の曇りもなく明白なものです。しかし、私たちには、それは、決して見通すことができない無限の深さと広がりと複雑さをもっているみこころです。 このことをわきまえないまま、神さまのみこころは一つである、ということから、神さまの「一つしかないみこころ」を求めて、あることについて「イエス」か「ノー」か答えていただこうとしたり、自分の目の前にいくつかの可能性があるときに、そのどれを取るべきであるか答えていただこうとしたり、さらには、何をしたらいいのか分からないときに、どうしたらいいのか答えていただこうとするのは、神さまの永遠のみこころ(聖定的な意志)を知ろうとすること ── それを直接のぞき込もうとすることに当たります。そのようなことは、人間には許されていません。 私たちはこのことをわきまえて、注意深く避けなくてはなりません。というのは、そのような意味で神さまの「一つしかないみこころ」を求めることは、神さまと自分たちを同じようなものと感じる「錯覚」に基づくことだからです。 この世で、占いをしたり、「お告げ」を求める人々にとって、「神」は、自分たちと同じ世界に住んでいる、自分たちより上の(比較級)存在でしかありません。私たちは、それと同じように神さまに接してはならないのです。 この世の人々は、神さまの無限の知恵の表現であり、人間が決して見通すことができない無限の深さと広がりと複雑さをもっている、永遠のみこころの存在を知りません。 しかし、私たち神の子どもたちは、それを知っています。そのことのゆえに、神さまを畏れ敬うとともに、神さまを信頼します。私たちは、神さまの無限の知恵の表現である永遠のみこころを直接的に知ることはできないけれども、心配する必要はありません。神さまは、その永遠のみこころに基づいて、あらゆることにおいて、私たちを導いてくださると信じて、信頼することができるのです。 私たちは、神さまの永遠のみこころ(聖定的な意志)を知らされてはいませんし、それを知ることことを求められてもいません。私たちは、ただ、神さまを信頼して、神さまが私たちに分かるように啓示してくださっているみこころをわきまえて、それに従うことを求められているのです。 ── 実際には、聖書に記されている御言葉に示されているみこころに従うことが求められています。 このことを述べているのが、きょうのテキストとして取り上げました、申命記二九章二九節です。そこには、 隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。 と記されています。 「隠されていることは、私たちの神、主のものである。」と言われていますように、神さまの永遠のみこころ(聖定的な意志)は、神さまおひとりのものであって、私たちからは隠されています。しかし、 現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。 と言われていますように、私たちは、私たちに分かるように啓示してくださった神さまのみこころを自分たちのものとして受け取り、これに従うように求められています。 大切なことは、私たちに啓示されている神さまのみこころは、神さまの永遠のみこころと完全に調和しているということです。一つの例を挙げてお話しします。 かつて、神さまの「選び」をめぐって、私も含めてのことですが、多くの方が悩みました。「自分がどんなにイエス・キリストを信じても、 ── どんなに自分の罪を認めて、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを受け入れても、もし、自分が選ばれていなかったとしたら、何にもならないのではないか。」という、恐ろしい悩みでした。それで、神さまに向かって、「果たして、私は選ばれているのでしょうか。」と、問い続けたものでした。 それに対して、「イエス」とか「ノー」とかいう答えは与えられません。それは、神さまだけのものである永遠のみこころ(聖定的な意志)を、直接のぞき込もうとすることですから、私たちには許されないことです。 しかし、そのことで恐れる必要はありません。先ほどの、申命記二九章二九節の御言葉が示しているとおり、私たちは、私たちに啓示されている御言葉に示されている神さまのみこころに従えばいいのです。私たちに啓示されている神さまの御言葉は、福音の御言葉です。自分の罪を認めて悔い改め、私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じて、永遠のいのちを得ることが、福音の御言葉に啓示されている神さまのみこころです。イエス・キリストが、 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 ヨハネの福音書六章三九節、四〇節 とあかししておられるとおりです。 神さまには、矛盾はありません。この福音の御言葉に示されている神さまのみこころは、神さまの永遠のみこころと完全に調和しています。 もし、あなたが福音の御言葉にしたがって、イエス・キリストを信じておられるなら、あなたはイエス・キリストにあって永遠のいのちをもっておられます。そうであれば、それとは別のルートで ── 神さまの永遠のみこころを直接的にのぞき込もうとする方法で ── 自分が選ばれているかどうかを知ろうとする必要はありません。あなたは、福音の御言葉の約束にしたがって、永遠に神の子どもです。 私たちは、神さまが、ご自身の無限の知恵の表現であり、私たち人間が決して見通すことができない、無限の深さと広がりと複雑さをもっている永遠のみこころをもっておられる方であるので、神さまに信頼します。そのような私たちに求められているのは、そのように神さまを信頼して、聖書の御言葉を通して私たちに啓示されている神さまのみこころに従うことです。 このことにつきましては、続いてお話しします。 |
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