(第48回)


説教日:2000年5月7日
聖書箇所:コリント人への手紙第二・3章12節〜18節


 私たち神の子どもたちにとって、神さまのみこころを知るための基準は、神さまの御言葉である聖書です。きょうは、このこととの関わりでのことですが、聖書の読み方について一つのことをお話ししたいと思います。
 皆さんがよくお分かりのように、聖書は、一つ一つの問題について「ああしなさい。」とか「こうしなさい。」とか指示する、「マニュアル本」ではありません。
 もう何か月も前のことですが、あるテレビの番組で、ある地方のイスラム教の指導者の方が、一冊の本を用いて、相談に来た人々の疑問に答えている様子が放映されました。その指導者の方は、その本には、現実の生活の中で起こる実際的な問題が取り上げられていて、その一つ一つの場合に、どのようにすべきであるかの「答え」が書いてあると言っておられました。どんな問題でも、その本を見れば答えが出るようになっているというのです。
 そんな本があれば、どんなに便利なことかと思われる方がおられるかもしれません。
 それと同じようなものは、ユダヤ教のラビたちによっても、代々、教師たちから弟子たちへと伝えられてきまして、『ミシュナー』にまとめられています。『ミシュナー』では、農耕に関することから宗教的な事柄にいたるまで6つの区分があり、それぞれの区分の下に、さらに細かい項目があって、そこでさまざまな問題や事例が取り上げられて、どのようにすべきかの「指針」が記されています。
 それらと同じようなものが、教会の歴史の中でも書き記されてきました。たとえば、リチャード・バクスターというピューリタンの時代の指導者の方は、教会の指導者たちが、具体的な問題をどのように取り扱ったらよいかの指針を書いているようです。実は、もう数年も前のことですが、私は、アメリカのある本屋さんのカタログにその本が載っていましたので、注文したことがあります。しかし、その本屋さんが、突然、倒産しまして、手にすることができませんでした。
 また、以前取り上げてお話ししたことがありますが、「クリスチャン生活の心得」ということで、生活上のさまざまな「指針」が記された本は、いくつも出版されています。
 私たちは、私たちに対する神さまのみこころは、神さまの啓示の書である聖書に記されていると信じています。しかし、聖書は、今お話ししましたような、私たちがこの世で経験するありとあらゆる問題の事例を取り上げて、その一つ一つに対する答えや指針を与える「マニュアル」のような形では記されていません。このことは、神さまは、私たちが、そのような形で、神さまのみこころを知ることを求めてはおられないということを意味しています。


 それでは、どのような形で神さまのみこころを知るように求められているのかということは、これまで、神さまのみこころ知るために、私たちがわきまえておかなくてはならない基本的なことをお話ししてきましたことからお分かりになることと思います。それを簡単にまとめておきましょう。
 その根本にあることは、神さまが人間を「神のかたち」にお造りになったこと── 「神のかたち」の栄光と尊厳性をもつものとしてお造りになったことです。そして、人間が罪を犯して堕落してしまった後には、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いの御業によって、私たちを「神のかたち」として回復してくださったということです。
 ですから、私たちに対する神さまのみこころの中心は、私たちが「神のかたち」として存在し、「神のかたち」の栄光と尊厳性をもつものとしてとして生きることにあります。
 その「神のかたち」の本質は、自由な意志をもつ人格的な存在であることにあり、「神のかたち」の本質的な特性は、その自由な意志から生み出される愛にあります。その意味で、私たちに対する神さまのみこころの中心は、私たちが自由な意志をもつ人格的な存在として、愛の特性を発揮して生きることにあります。
 神さまは、「神のかたち」に造られている人間が愛の特性を発揮して生きるようになるために、人間の心に、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」を書き記してくださっています。

 マタイの福音書22章35節〜40節には、

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

と記されています。
 このことから分かりますように、第一の戒めと第二の戒めは、神さまの具体的なみこころを示す神さまの律法のさまざまな戒めを集約し、まとめるものです。
 同じことは、ローマ人への手紙13章8節〜10節で、

他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

と言われており、ガラテヤ人への手紙5章14節で、

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。

と言われています。
 ローマ人への手紙13章8節〜10節とガラテヤ人への手紙5章14節では、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めしか出てきません。それは、そこで取り上げられている教えが、神の子どもたちのお互いの関係のあり方に関することであることによっています。
 ですから、私たちが、神さまのどのような戒めを守るにしても、その根本には、私たちの神である主を愛する愛と、隣り人を愛する愛が生きて働いていて、すべてのことを支え導いていなくてはならないのです。それは、コリント人への手紙第一・13章1節〜3節で、

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

と言われていることに通じます。

 このように、どのような戒めであっても、神さまの戒めを守るためには、私たち自身ののうちに、神である主を愛する愛と、隣り人を愛する愛が生きて働いていて、すべてのことを支え導いていなくてはなりません。
 しかし、私たちのうちに神である主を愛する愛と、隣り人を愛する愛が生きて働くようになるためには、どうしても、私たち自身が、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復されていなくてはなりません。
 その理由は、少なくとも、二つあります。一つは、愛は、人格的な存在の自由な意志によって生み出されるものですが、「神のかたち」として回復されていなくては、真に自由な意志をもつ人格的な存在であることはできないからです。
 もう一つの理由は、「神のかたち」の本質的な特性は愛ですから、「神のかたち」が本来の姿に回復されることによって初めて、愛も本来の姿に回復されるからです。
 それとともに、私たちのうちに神である主を愛する愛と、隣り人を愛する愛が生きて働くようになるためには、私たちが、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、父なる神さまの子どもとされ、御子イエス・キリストにある父なる神さまの無限の愛に満たしていただいていなくてはなりません。
 人間は「神のかたち」の栄光と尊厳性をもつものとして造られています。そして、私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって「神のかたち」の栄光と尊厳性を回復していただいています。けれども、その「神のかたち」としての栄光と尊厳性は、神である主との愛の交わりに生きることができるという栄光であり、尊厳性です。その意味で、「神のかたち」の栄光と尊厳性は、ちょうど、月が太陽の光を反射させて光るように、神さまの栄光を「反射させて」映し出す栄光であり尊厳性です。そして、私たちが神さまの栄光を映し出しているなら、何よりも、神さまの愛が、私たちのうちで、神である主を愛する愛と、隣り人を愛する愛として(変換されて)映し出されるようになります。

 このように、私たちに対する神さまのみこころを私たちに啓示する聖書は、人間がこの世で経験するさまざまな問題を解決するための「マニュアル」ではありません。
 むしろ、聖書は、私たちが「神のかたち」としての栄光と尊厳性を担うものとして造られており、堕落の後には、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復していただいているという福音を伝えています。
 その上で、私たちに対する神さまのみこころの中心は、私たちが「神のかたち」としての栄光と尊厳性を担うものとして生きることにあることを示しています。そして、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を担うものとして生きることは、御子イエス・キリストを通して示されている神さまの愛に満たしていただいて、神である主を愛する愛と、隣り人を愛する愛のうちに生きることにあることを示しています。
 私たちが神である主を愛する愛と、隣り人を愛する愛のうちに生きるのは、私たちが御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、自由な意志をもつ人格的な存在に造り変えられているからです。
 このことを踏まえて一つのことをお話ししたいと思います。私は、預言の賜物は聖書の完成とともに神さまによって止められていると理解しています。それで、あくまでもお話のために言うことですが、仮に、私に預言をする賜物があって、さまざまな問題を抱えておられる方々が私のもとにやって来るとします。そして、私がお伝えすることは間違いなく当たり、それに従えば問題が解決するとします。もしそのようなことが、実際にあったとしたらどうでしょうか。私の家は「門前市を成す」という状態になることでしょう。人々は、問題が解決したことで神さまに感謝することでしょう。
 しかし、そこには、大きな「落とし穴」があります。それは、それによって、人々は、ことあるごとに私のもとにやって来て、「伺いを立てる」ことになるからです。そのようにして、人々は、私への依存度を深めていって、その結果、神の子どもとしての自由を失っていってしまいます。
 どんなことでも解決策を示してくれる「預言者」に依存してしまうために、自分で神さまのみこころを判断することができなくなってしまうのです。── 自分で判断しなくても分かるからというだけでなく、自分ですると間違うかもしれないという恐れのために、自分で神さまのみこころを判断することできなくなってしまいます。そのような状態になることは、自由な意志をもつ人格的な存在であることを本質とする「神のかたち」の栄光と尊厳性を失うことです。
 お気づきのことと思いますが、最初にお話ししました、この世で生きるうえでのあらゆる問題に対する回答が載っている本を持っているということと、預言の賜物をもっていて、どんな問題に対してもすぐさま答えてくれる人がいるということは、実質的に同じことで、そこには同じ危険な「落とし穴」があります。また、聖書を問題解決のための「マニュアル本」のように読もうとすること、あるいは、「聖書に基づいている」といううたい文句のもとに作り出された信仰生活の「マニュアル本」などに頼ることにも、これと同じような「落とし穴」があります。

 それにしましても、たとえば、民数記27章21節には、

[ヨシュア]は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、はいらなければならない。

と記されています。また、サムエル記第一・28章6節には、

それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので ・・・・

と記されています。

 旧約聖書の時代には、神である主は、しばしば、ウリム、あるいはウリムとトンミムによって、みこころを示してくださいました。どのような方法によったのかは分かりませんが、「伺いを立てれば」主からのお答えがあったのです。
 このことから、預言や幻やウリムとトンミムによるみこころの啓示があった旧約の時代の方が、それがなくなった新約の時代よりも、神である主のみこころがよく分かったと言うべきでしょうか。決して、そうではありません。
 小さな子どもが、父親のところにやって来て、「ねえ、お父さん。紙飛行機を作りたいんだけど、どうしたらいい。」というようなことを聞きますと、父親は、喜んで、紙飛行機の作り方などを教えてあげるでしょう。
 しかし、その子が成人しても、ことあるごとに父親のところにやって来て、「ねえ、お父さん。このことをどうしたらいい。」と聞くとしたらどうでしょうか。きっと、父親は、「間違ってもいいから、勇気をもって、自分で判断しなさい。」と諭すでしょう。
 旧約の時代に、預言や幻やウリムとトンミムによるみこころの啓示があったのは、旧約の時代には、御子イエス・キリストによる贖いが成就していないために、いわば、人々は、まだ、自分で物事を判断することができない子どもの状態にあったからです。コリント人への手紙第二・3章14節の言葉で言いますと、罪によって「人々の思いは鈍く」なり、神さまとの間に「おおいが掛けられ」ていたからです。

 父なる神さまのみこころは、私たちが、聖書の御言葉にしたがって、自分で、神さまのみこころを判断することができるようになることにあります。最善の判断でなくてもいいから、自分で判断することです。それは、御子イエス・キリストの贖いを通して、「愛の律法」が、私たちのうちに回復されているからです。そして、神さまのみこころを自分で判断することを通して、私たちが、御霊のお働きによって、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられつつ、成長していくようになるからです。

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
コリント人への手紙第二・3章17節,18節

 また、その逆も真なりです。御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちの心に「愛の律法」が回復され、私たちが御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられつつ成長していくに従って、私たちの判断は、自然と、神さまのみこころと一致あるいは調和するようになっていきます。
 もちろん、そうなるために、私たちは、聖書にますます親しむようにしなければなりません。御霊は、聖書の御言葉を悟らせてくださることによって、私たちを、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださるからです。
 聖書は、私たちが落ち度なく信仰生活を送るための「マニュアル本」ではありません。聖書は、私たちのために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストの愛と恵みをあかししています。御霊が御言葉を悟らせてくださることによって、私たちは、イエス・キリストを親しく知り、イエス・キリストを愛するようになります。それによって、私たちは、イエス・キリストに信頼して、自分自身で、神さまのみこころを判断して、生きることができるようになります。

 


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