(第49回)


説教日:2000年5月14日
聖書箇所:テモテへの手紙第二・3章14節〜17節


 きょうも、先週に続きまして、私たちが神さまのみこころを知るために大切な、聖書の読み方について、いくつかのことをお話ししたいと思います。そのためにも、まず、いつものように、私たちに対する神さまのみこころの中心にあることについて、確認しておきたいと思います。
 神さまは、永遠の聖定において、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださり、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださいました。
 神さまが永遠の聖定において、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださり、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださったことが、私たちに対する神さまのみこころの出発点であり、到達点であり、さらに、私たちに対する神さまのみこころの全体を集約してまとめています。言い換えますと、神さまのどのようなみこころも、最後には、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださり、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださったことを実現してくださることにつながっているということです。
 その意味で、神さまが、聖霊の霊感のお働きによって書き記してくださった聖書を与えてくださったことも、このこと── 私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださり、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださったことを実現してくださること── を目的としています。


 神さまの私たちに対する永遠の聖定は、まず、創造の御業を通して実現しています。神さまは、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになりました。神さまは、人間がご自身と愛にある交わりをもって生きるようになるために、人間を「神のかたち」にお造りになりました。
 生きた人格的な神さまのかたちとして、「神のかたち」の本質は、自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。また、愛を本質的な特性とする神さまのかたちとして、「神のかたち」の本質的な特性は愛です。
 神さまは、「神のかたち」に造られている人間が、自由な意志をもつ人格的な存在として、愛の特性を発揮して生きるようになるために、人間の心に、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」を記してくださいました。
 これによって、「神のかたち」に造られている人間は、実際に、造り主である神さまとの愛の交わりにあって生きるようになりました。また、神さまと隣り人に対する愛に生きることが「神のかたち」に造られている人間の自然な姿であり、本来の姿であるのです。── 「神のかたち」に造られている人間の栄光と尊厳性は、神さまの愛に包まれて、神さまの栄光の御臨在の御前に立って、神さまとの愛にある交わりに生きることによって、愛の神さまを、この世界において映し出す人格的な存在であることにあります。
 聖書が、天地創造の御業から書き記しているのは、それが、神さまの永遠の聖定において定められたみこころを実現してくださる最初の御業であるからです。これによって、人間の本来の姿と、造られた世界の中での、本来の位置と使命がどのようなものであるかが示されています。

 しかし、「神のかたち」に造られている人間は造り主である神さまに対して罪を犯して堕落し、その本性は、自分を神のようにしようとする自己中心性によって、腐敗してしまいました。これによって、人間は、神さまの栄光の御臨在の御前に立って、神さまとの交わりにあずかるのにふさわしい「神のかたち」としての栄光と尊厳性を腐敗させ、損なってしまいました。
 その結果、人間は、造り主である神さまを神として愛し、神として礼拝することはなくなってしまいました。「神のかたち」としての本性が罪によって腐敗してしまっている人間は、無限に聖い神さまの御臨在の御前に立つことは許されません。人間は、神さまとのいのちの交わりにを絶たれてしまいました。それは、葡萄の木の枝が葡萄の木から切り離されるのと同じで、造り主である神さまとのいのちの交わりを絶たれてしまった人間は、死の力に捕らえられてしまい、死と滅びの道を歩むことになってしまいました。
 神さまは、なおも、私たちを、神さまの御臨在の御前にあって、神さまとの愛に生きる神の子どもとしてくださり、その神の子どもとしての実質が御子イエス・キリストの栄光のかたちとなるという、永遠の聖定において定められたみこころを実現してくださるために、御子イエス・キリストによって遂行される贖いの御業を備えてくださいました。
 御子イエス・キリストは、父なる神さまのみこころにしたがって、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、十字架の上で、私たちの罪に対する刑罰として私たちに下されるはずの神さまの無限の御怒りを、その身に負って死んでくださいました。これによって、私たちの罪は完全に贖われました。その贖いが完成していることのあかしとして、イエス・キリストは死者の中からよみがえられました。
 私たちは、ちょうど葡萄の枝が葡萄の木につながって、葡萄の木のいのちによって生きているように、死者の中からよみがえられたイエス・キリストに結びつけられて、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされています。それは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによることです。御霊は、私たちを栄光のうちによみがえられて、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと結びつけてくださり、私たちを「神のかたち」の栄光と尊厳性をもつものとして、新しく生まれさせてくださいました。それによって、私たちをイエス・キリストと父なる神さまとのいのちの交わりに生かしてくださっておられます。

 このように、私たちは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、死と滅びの中から贖い出していただいただけでなく、「神のかたち」の栄光と尊厳性をもつものに回復していただいています。それによって、御子イエス・キリストと父なる神さまとの愛にある交わりの中に生きるものとしていただいています。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
ヨハネの手紙第一・1章3節

 この御霊のお働きによって実現する、父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりを通して、二つのことが実現します。一つは個人的なことです。コリント人への手紙第二・3章18節で、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と言われていますように、「神のかたち」の栄光と尊厳性を回復していただいている私たちそれぞれが、さらに、「神のかたち」の栄光と尊厳性の充満な形での完成である「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」すなわち、御霊のお働きによって、イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていくのです。
 これによって、私たちに対する神さまの永遠の聖定において定められたみこころが実現します。
 もう一つのことは、共同体的なことです。イエス・キリストが十字架の上で流された血によって新しい契約を確立してくださって、新しい契約のかしらとしてよみがえってくださったことにより、原理的に、キリストのからだである教会が成立しています。そして、私たちが、御霊のお働きによって、御子イエス・キリストに結び合わされることによって、キリストのからだである教会が地上において生み出されています。私たちそれぞれが「主と同じかたちに」に造り変えられていくのは、私たちそれぞれがキリストのからだである教会を構成する形で、かしらであるイエス・キリストに結び合わされているからです。
 このことは、神さまのみこころを教会論的に理解し受け止めるための出発点で、私たちが神さまのみこころを知るためにとても大事なことです。けれども、これまでは、この点はいったん置いておいて、より個人的なことをお話ししてきました。それは、この「みこころを知るために」というお話に先立ってお話ししていた、エペソ人への手紙からのお話では、より共同体的なことが中心となっていたということもありますが、私たちる日本の社会に生まれて育った者としましては、「日本的な集団主義」の発想に慣らされてしまっていますので、まずは、個人的なことをしっかりと理解すべきであろうと考えているからです。
 いずれにしましても、聖書は、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業を中心に記されています。その理由は、今お話ししてきたことからお分かりのことと思いますが、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業を通して、「神のかたち」に造られている人間の栄光と尊厳性が回復されているばかりか、神さまの永遠の聖定において定められた、私たちを、神さまの御臨在の御前にあって、神さまとの愛に生きる神の子どもとしてくださり、その神の子どもとしての実質が御子イエス・キリストの栄光のかたちとなるというみこころが実現しているからです。

 これらのことからも、先週もお話ししました、聖書は、一つ一つのケースについて「ああしなさい。」、「こうしなさい。」と指示する「マニュアル本」ではないということが理解できると思います。
 もし、聖書が一つ一つのケースについて「ああしなさい。」、「こうしなさい。」と指示する「マニュアル本」のようなものであったとしたら、新しい時代の新しい状況が出てきますと、そのつど、その時代のさまざまな事例を取り上げて、「ああしなさい。」、「こうしなさい。」という指示を書き加えていかなければなりません。言い換えますと、もし、聖書が一つ一つのケースについて「ああしなさい。」、「こうしなさい。」と指示する「マニュアル本」のようなものであったとしたら、聖書に記されている指示は、聖書が書き記された時代のさまざまな事例に対する「ああしなさい。」、「こうしなさい。」という指示であって、今日のように複雑な時代には通用しないものであるということになってしまいます。それで、聖書がさまざまな事例に対して、「ああしなさい。」、「こうしなさい。」という指示を示す「マニュアル本」のようなものであったのであれば、聖書は、とうの昔に古くさいことを教える本となっていたことでしょう。
 この意味でも、聖書は、さまざまなケースについて「ああしなさい。」、「こうしなさい。」と指示する「マニュアル本」ではありません。
 ですから、聖書から、あることに対する直接的な「指示」を聞き取ろうとすることは、聖書に対する正しい姿勢ではありません。どういうことかと言いますと、今では、そのようなことをする方はほとんどいないでしょうが、こんなことを聞いたことがあります。
 ある方が、お友だちからお誘いを受けました。その方は、すべてのことで神さまのみこころに従いたいと願っておられたので、神さまにお祈りをして、「きょうはお友だちのお誘いを受けて出かけるべきでしょうか、それとも、家にいるべきでしょうか。」とお聞きしました。もちろんそれに対して声が聞こえてくるわけではありませんので、「どうか、神さま。聖書の御言葉を通してお示しください。」とお祈りしてから、聖書を開いてみたら、そのページに「行きなさい。」という言葉が書いてあったので、出かけるのが神さまのみこころであると信じて出かけたというのです。
この方は、神さまのみこころは聖書の御言葉を通して示されるということを、このような、何か「占い的」な方法で用いることとして受け止めてしまったのです。
 この場合は、事柄が単純ですので、皆さんは、お笑いになるかもしれませんが、事柄が重大になるにしたがって、実質的にこれと同じ方法で、神さまの「指示」を受けようとするということが多くなってきます。
 たとえば、若い兄弟姉妹たちの中で、ご自分が福音の御言葉を述べ伝える働きに携わるべきかどうかを考えているときに、神さまの導きを求めて聖書を読んでいたら、「御言葉を述べ伝えなさい」という御言葉があって心に深い印象を与えたとか、イエス・キリストが「わたしにしたがって来なさい」と言われて、弟子たちを召してくださったことが深く心に迫ってきたということから、自分が伝道者になることが神さまのみこころであると判断したというようなことを、しばしば耳にしたことがあります。
 事柄が重大なことであればあるほど、自分で判断することによって間違ってしまえば、重大な結果を生み出すことになるという恐れが生まれやすいものです。そのような恐れからでしょうか、つい、通常の判断を下すことでは十分ではなく、何か特別なこと、普通とは違ったことによって、それが神さまからの指示であることを知りたいと願うようになることがあります。
 このような姿勢の問題は後でお話ししますが、差し当たって、申し上げたいことは、聖書の御言葉を、いわばページめくりのように「占い的」に使うことは、聖書を与えてくださった神さまのみこころに沿うことではないということです。そして、このような「ひらめき」や「深い印象」で重大なことを決断することは、「ひらめき」や「深い印象」だけで結婚を決断するのと同じように、危険なことです。

 聖書の究極的な著者は神ご自身です。テモテへの手紙第二・3章16節、17節で、

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

と言われており、ペテロの手紙第二・1章20節、21節で、

それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

と言われているとおりです。
 聖書の究極的な著者は神ご自身であるということは、神さまが、実際に聖書を記した人々を導いて、聖書の御言葉を与えてくださったという意味でです。
 ここで大切なことは、その場合、神さまが、聖書を記した人々の考えや思いを無視して、その人々をロボットのようにお使いになったということではありません。むしろ、その人々の自由な人格的特性や、思いや考え方を生かすように導いてくださったのです。
 ですから、聖書を記した人々は、自分が、主からいただいた預言の言葉なり、福音書なり、書簡なりの大切さを自覚し、それを書き記すべきことを理解し、自分の意志で書き記したのです。そこには、聖書を記した人々の意志が働いていたのですが、その人々の意志を、聖霊がさらに生かして導いておられたのです。また、その人々は、確かな資料を集め、自分に与えられているさまざまな力を傾けて問題と取り組んで書き記しました。
 それは、その人々にとっては、ごく自然なことでありましたから、その人々の中に、自分が神さまに導かれているという「不思議な感覚」、つまり、普段とは違う感覚である「違和感」があったわけではありません。しかし、そのすべてが、神さまの御霊のお導きの中にあったのです。
 聖書の霊感といいますと、御霊のお働きの中で、もっとも重大な意味をもっているお働きに数えられます。もし、御霊のお働きによって聖書が生み出されていなければ、教会の歴史のごく早い時期に、福音は人間の考えによって曲げられて、大きく変質してしまっていたことでしょう。そして、ひとたび変質してしまえば── 霊感された聖書がないという想定ですから── 、福音の本質を回復することもできないことでしょう。それほど、御霊による聖書の霊感のお働きは重大なお働きです。
 そのような、御霊のお働きの中でも最も大切なお働きに数えられる聖書の霊感ですら、聖書を記した人々は、自分の能力を注いで問題と取り組み、さまざまな資料を調べて、それを記しました。それは、その人々にとっては自然な作業であり、尋常でない「不思議な力」が働いたというような感覚はありません。聖霊は、聖書を記した人々の自由な人格的特性や、能力を生かして用いてくださっています。

 聖書の真の著者は聖霊ですから、聖書を読む場合には、真の著者である聖霊に頼って読まなければなりません。
 それと同時に、聖書そのものがこのような聖霊のお働きによって生み出されたのであれば、聖霊が生かして用いてくださった、聖書を記した人々の時代的な背景や、人格的特性とものの見方や考え方の特徴、そして表現の仕方の特徴などを調べることも大切なことです。── そのようなことにしっかりと注意を払いながら聖書を読む読み方を、「歴史的・文法的方法」と呼びます。
 先ほどお話ししたこととの関係で言いますと、聖書を霊感してくださった聖霊のお働きが、このように、聖書を記した人々の自由な人格的特性や能力を十分に生かしてくださったことにあるのであれば、私たちも、自分の自由な人格的特性や能力を傾けて聖書を読むときに、聖霊が、一般に「聖霊の内的照明」と呼ばれるお働きによって、聖書の御言葉を理解させてくださることを期待することができます。
 もちろん、その場合にも、聖書を霊感してくださった聖霊のお働きと同じように、私たちに異常な力が働くのではありません。私たちは、ごく自然な形で御言葉を理解し、納得していきます。そのことを通して、福音の御言葉に示されている御子イエス・キリストの恵みと父なる神さまの愛に触れていきます。そのようにして、聖書の御言葉が、自然な形で私たちのうちに根づいて私たちを導くようになります。それによって、私たちは、ますます聖書の御言葉に対する理解を深めて成長していくことになります。── それが、主の御霊が、私たちを御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださる方法でもあります。
 この意味でも、聖書を「占い的な」操作のために用いることは、聖書に対する誤った姿勢です。
 ペテロは、先ほど引用しました御言葉の中で、私たちが「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない」ということをしっかりとわきまえていなくてはならないと言っています。聖書を読んでいたときに、あることがが「ひらめいた」とか「深く印象に残った」ということで、それをあることに対する神さまからの「指示」であると解釈することは、聖書に対する「私的な解釈」の一例です。悪いことに、それは、当てにならない私たちの「ひらめき」や「印象」を解釈の根拠にすることです。

 聖書の究極的な著者は神ご自身です。そのために、聖書の御言葉には全体的な調和があり、その伝えるメッセージには、はっきりとした目的があります。それは、これまでお話ししてきましたように、神さまが永遠の聖定において定められた、私たちを、神さまの御臨在の御前にあって、神さまとの愛に生きる神の子どもとしてくださり、その神の子どもとしての実質が御子イエス・キリストの栄光のかたちとなるというみこころを、私たちのうちに実現してくださることです。
 ですから、私たちは、神さまが聖書の御言葉を与えてくださったことの、このような目的をしっかりと心に刻んで、それとの関わりを見失うことなく、聖書を読んでいく必要があります。
 私たちは、聖書の御言葉を通してあかしされている、御子イエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかり、「神のかたち」の栄光と尊厳性をもつものに回復していただいています。そして、御霊のお働きによって、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にある交わりのうちに生きるようにしていただいています。そればかりか、御霊は、私たちが、御子イエス・キリストにあって、神さまと隣り人との愛に生きることの中で、私たちを「栄光から栄光へと、主と同じかたちに」造り変えてくださいます。
 その際に、御霊が用いてくださるのが聖書の御言葉です。その意味で、聖書の御言葉は「恵みの手段」です。
 御霊は、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいて、私たちを「神のかたち」の本質である自由な意志をもつ人格的な存在として回復してくださり、神さまと隣り人との愛の交わりの中に生かしてくださっています。そして、この愛の交わりの中にあって、「神のかたち」としての自由な人格的特性や能力を生かして用いてくださって、聖書の御言葉を悟らせてくださいます。それによって、私たちは、御言葉にあかしされている御子イエス・キリストをより深く、また、親しく知ることができるようになります。そのことを通して、私たちはイエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていきます。

 


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