(第47回)


説教日:2000年4月30日
聖書箇所:ローマ人への手紙13章8節〜10節


 きょうも、私たちが神さまのみこころを知るためにわきまえておかなくてはならない、基本的なことについてのお話を続けます。まず、これまでお話してきましたことを振り返りながら、まとめていきたいと思います。その上で、一つのことをお話ししたいと思います。
 神さまのみこころの出発点は神さまの永遠の聖定にあります。私たちは、永遠の聖定をのぞき見ることはできませんが、神さまは、私たちに関する永遠の聖定の中心にあることを啓示してくださいました。それは、私たちを、神さまの御臨在の御前にあって、神さまとの愛に生きる神の子どもとしてくださることであり、その神の子どもとしての実質が御子イエス・キリストの栄光のかたちとなるということです。
 神さまは、この永遠の聖定において定められたことを、御子イエス・キリストを通して遂行された創造の御業と贖いの御業によって実現してくださいました。
 創造の御業においては、人間を「神のかたち」にお造りになって、ご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださいました。これが、人間の本来の姿です。人間は「神のかたち」としての栄光と尊厳性を担うものです。
 その「神のかたち」の本質は、自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。そして、「神のかたち」は、愛を本質的な特性とする神さまのかたちですので、「神のかたち」の本質的な特性は愛です。
 ですから、人間は本来、自由な意志をもつ人格的な存在として、いつも、また、どのような場合においても、自分自身の本質的な特性である愛を表現します。人間がそのように、いつも、また、どのような場合においても、自分自身の本質的な特性である愛を表現するものとなるように、神さまは、「神のかたち」に造られている人間の心に「愛の律法」を書き記してくださいました。
 「愛の律法」は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられます。
 このような神さまの備えによって、人間は、神さまとのいのちの交わりの中に生きていました。「神のかたち」に造られている人間の栄光と尊厳性は、何よりも、神さまの愛に包まれて、神さまの栄光の御臨在の御前に立って、神さまとの愛にある交わりに生きるものであることにあります。


 人間は、「神のかたち」という、この上ない栄光と尊厳性を与えられていますが、誘惑者は、その人間の栄光と尊厳性の高さをついて、神さまと等しい栄光と尊厳性をもつことができると囁きました。人間は、自分が「神のかたち」に造られているものとしての栄光と尊厳性をもつものであること、その栄光と尊厳性は造り主である神さまから与えられたものであり、神さまに依存していることを見失ってしまいました。そして、誘惑者の声に従って、神さまに背き、罪を犯してしまいました。
 「神のかたち」に造られている人間は堕落し、その本性は、自分を神のようにしようとする自己中心性によって、腐敗してしまいました。これによって、人間は、神さまの栄光の御臨在の御前に立って、神さまとの交わりにあずかるのにふさわしい「神のかたち」としての栄光と尊厳性を腐敗させ、損なってしまったのです。その結果、神さまとのいのちの交わりにを絶たれてしまいました。
 しかし、神さまは、私たちを、神さまの御臨在の御前にあって、神さまとの愛に生きる神の子どもとしてくださり、その神の子どもとしての実質が御子イエス・キリストの栄光のかたちとなるという、永遠の聖定を実現してくださるために、御子イエス・キリストによって遂行される贖いの御業を備えてくださいました。
 御子イエス・キリストは、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、十字架の上で、私たちの罪に対する刑罰として私たちに下されるはずの神さまの無限の御怒りを、その身に負って死んでくださいました。これによって、私たちの罪は完全に贖われました。その贖いが完成していることのあかしとして、イエス・キリストは死者の中からよみがえられました。
 イエス・キリストを神さまが備えてくださった贖い主として信じ、その贖いを受け入れる人は誰でも、その時から、過去の罪も将来の罪もまったく贖っていただき、新しいいのちに生かしていただけます。その新しいいのちを「永遠のいのち」と呼びますが、それは、神さまの栄光の御臨在の御前に立って、神さまとの愛の交わりに生きるいのちです。そして、神さまとの愛にある交わりは尽きることがありませんので、そのいのちを「永遠のいのち」と呼ぶのです。
 イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪をまったく贖われて、新しいいのちに生きるものとされている私たちは、神さまの御臨在の御前に立つことができる「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復されています。そればかりか、神さまの永遠の聖定にしたがって、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えていただいているところです。それが、これまで取り上げてきました、コリント人への手紙第二・3章18節の、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

という御言葉が示すところです。そして、その完成は、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されています。
 これは、ただ、天地創造の初めに人間が「神のかたち」に造られた時の栄光と尊厳性が回復される── 初めの状態に戻るというだけのことではありません。その状態から、神さまの栄光の御臨在の御前にさらに近づくことができる栄光と尊厳性を与えられることを意味しています。それは、ここで「キリストのありのままの姿を見る」と言われているほどの近さにまで、神である主の御臨在に近づくことです。それによって、もっと深く豊かな愛にある神さまとの交わりに生きるようになるのです。
 それは、先程の引用でヨハネが言っていますように、世の終わりにイエス・キリストが栄光のうちに再臨される時に完成します。そして、その時に、神さまの永遠の聖定が完全に実現するのです。

 これが、私たちに対する神さまのみこころの中心にあることです。ですから、どのような場合においても、私たちに対する神さまのみこころは、このことに関わっています。
 それで、すでにお話ししましたように、神さまはあらゆることを摂理の御手で導いてくださって、私たちを、御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復していただいているものとして生かしてくださり、さらに、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていくようにしてくださるのです。このことが、ローマ人への手紙8章28節〜30節では、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われています。
 このことに神さまのみこころの中心があるのであれば、私たちも、このことを中心にして神さまのみこころを判断しなければなりません。神さまが天地創造の初めに人間を「神のかたち」にお造りになり、さらに、人間の罪による堕落の後には、御子イエス・キリストが、ご自身のいのちの値を支払って成し遂げてくださった贖いの御業を通して回復してくださっている「神のかたち」の栄光と尊厳性を守ることを中心として、神さまのみこころを判断しなくてはなりません。
 そして、「神のかたち」の栄光と尊厳性は、私たちが、「神のかたち」の本質である自由な意志をもつ人格として、その人格の特性である愛のうちに生きることによって初めて守られるものです。具体的には、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約される「愛の律法」を私たち自身の意志として生きることによって守られます。
 そのように、神さまと隣り人との愛の交わりに生きることによって、私たちが、お互いに、御子イエス・キリストの栄光のかたちに似たものとして成長していきます。

 神さまのみこころを知るということについて、振り返って考えてみますと、一般には、目の前のことをどうするかという点で神さまのみこころを求めます。その場合に、どうしたら物事がうまくいくかとか、問題が解決するかというような関心からみこころを求めていないでしょうか。
 それは、必ずしも間違っているというわけではありませんが、これまでお話ししてきましたことからお分かりのことと思いますが、聖書に示されている神さまのみこころは、そのような発想のもとに示されてはいないのです。
 私の神学校時代の同期生で、精神科医をしておられたのですが、神さまの召命を受けて神学校に来て学んでおられた、リチャード・ガンツという方がおられます。その方がお書きになった本の中で、

あなたは成功する自由をもっていますし、失敗する自由をもっています。成功することが失敗することと同じような問題をもっていることがありえます。失敗することによってっても成功することによっても、あなたを損なってはなりません。成功することも失敗することも、あなたの目指すべきところではありません。[キリストにある]あなたの自由は、そのようなことよりもはるかに偉大なことへと広がっているのです。これから、そのことについて考えてみましょう。

と述べてから、イエス・キリストが私たちのためにご自身を犠牲にしてくださるほどに愛してくださった愛に覆われていることによって、私たちのうちに生み出される愛について述べておられます。 ( Richard. L. Ganz, You Shall Be Free Indeed!, pp.45-48. )
 古くから、あることが神さまのみこころであるかを判断するための第一の基準は、そのことが、神さまを愛することであるかどうか、また、隣り人を愛することであるかどうかを問うことであると言われてきました。それは、確かな洞察に基づいています。神さまのみこころを判断するうえでいちばん大切な基準は、それがうまくいくかどうかということではなく、それが、神さまと隣り人を愛することであるかどうかということだというのです。
 お気づきのことと思いますが、この基準は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」に基づく判断基準です。
 そして、そのような判断基準のさらに奥には、そのことを通して、私たちが、自分自身とお互いの、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を守るということと、お互いに、御子イエス・キリストの栄光のかたちに似たものとして成長していくという、神さまのみこころの中心にあることが実現していくことがあります。

 すでにお話ししましたように、神さまが天地創造の初めに人間を「神のかたち」にお造りになり、さらに、人間の罪による堕落の後には、御子イエス・キリストが、ご自身のいのちの値を支払って回復してくださっている「神のかたち」の栄光と尊厳性は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」神である主を愛することと、隣人を自分自身のように愛することによって守られるものです。
 ローマ人への手紙13章8節〜10節では、

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

と言われています。
 8節、9節の、

他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

という言葉は、何となく分かるような気がしますが、10節の、

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

という言葉は、少し分かりにくいような気がします。というのは、「愛は隣人に対して害を与えません。」ということでは消極的すぎて、それでは、「それゆえ、愛は律法を全うします。」と結論づけるのには十分ではないのではないかというような気がするからです。
 この「愛は隣人に対して害を与えません。」という言葉は、その前の9節前半で挙げられている、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒めが、「 ・・・・ するな」という禁止の戒めであることを受けています。これらの戒めは、それぞれ、十戒の第7戒、第6戒、第8戒、第十戒です。これらすべては、一言で言えば、隣人に害を与えてはならないという戒めです。
 以前お話ししましたように、このような禁止の戒めは、罪を犯して堕落して、本性が腐敗し、罪が生み出す自己中心性によって歪められてしまっている人間の現実を映し出しています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒めは、私たちも含めて、自分自身のうちに罪を宿している人間が、目に見える形ではないとしても、姦淫し、殺し、盗み、むさぼる者であることを示しています。それによって、「神のかたち」の栄光と尊厳性を傷つけ、損なっているのです。ですから、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒めが最終的に守っているのは、お互いの「神のかたち」の栄光と尊厳性です。
 9節では、

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

と言われていて、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という禁止の戒めも、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という、第二の戒めに要約されると教えられています。

 ですから、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という禁止の戒めであっても、
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めの精神に裏打ちされているということが示されているわけです。言い換えますと、隣り人に害を与えないという「消極的なこと」も、隣り人を自分自身のように愛しているという、極めて「積極的なことの」表現の一つの形であることもあり得るのです。その人を大切に思うので、その人の「神のかたち」としての栄光と尊厳性を守って、決して、その人を自分の自己中心的な思いによって踏みつけたりしたりしないという姿勢は、その人を自分自身のように愛する愛から生まれてくるものです。

 さらに、「消極的なこと」と言われることについて、考えておかなくてはならないことがあります。
 先ほど触れました、リチャード・ガンツの言葉を用いて、私なりに言いますと、私たちは、自分が成功しようとして、あるいは、あることを成功させようとして、「神のかたち」に造られている人間の栄光と尊厳性をひどく損なってしまうことがあります。その典型的なことは、自分の成功のために他の人々を利用したり、蹴落としたりして踏みつけてしまうということでしょう。しかし、そのように明白なことでないとしても、同じように「神のかたち」の栄光と尊厳性を損なうことがあります。
 私自身のことで言いますと、私は、この教会の牧師として皆さんの前に立っています。そして、このように御言葉の解き明かしをしています。このような務めに当たっているかぎり、私には問題がないように見えます。
 しかし、ふと気がついてみますと、いつの間にか、牧師として成功したいというような思いが忍び込んできています。主からお委ねしていただいた教会の兄弟姉妹たちを愛するということはだんだん後退していってしまい、そつなく物事をこなすことに心を奪われてしまいます。また、主と主の御言葉を愛して御言葉に取り組むという、愛を忘れて、ただ御言葉の「よい解釈」をしようという思いが私を支配してしまうこともしばしばです。
 まさに、「成功すること」そのものが目的になってしまい、愛が名目の上だけのことになってしまう形で失われてしまっているのです。そのようにして、ほかの人々の「神のかたち」としての栄光と尊厳性を傷つけてしまうばかりでなく、そのようにする自分自身の「神のかたち」としての栄光と尊厳性を傷つけてしまいます。

 その一方で、お互いの「神のかたち」としての栄光と尊厳性を守るために、あえて、「損失」を被ったり、「失敗」と見える道を選ぶこともあります。神さまの御国には、主を愛して、また、兄弟姉妹を愛して、あえて、ご自分の権利を放棄したり、損と思えることをその身に負われたりしてこられた方々がおられます。主がご存知です。
 そのような場合には、あえて損失と見える道を歩む「消極的なこと」が、神の子どもとしての心に記されている、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という、第二の戒めに沿っています。
 私たちには、イエス・キリストが十字架につけられたことが、この上なく「積極的なこと」であるということを見る「目」(価値観)が与えられています。しかし、この世の目には、イエス・キリストが十字架につけられたことは、

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
マルコの福音書15章29節〜32節

という言葉に見られるように、まったくみじめで「消極的なこと」であったのです。
 人々の上に君臨して、自分の意のままに人を支配することを目指している人々の「目」には、イエス・キリストがその生涯の最後に十字架に付けられて殺されたことは、大失敗であるとしか見えません。その人々からすれば、イエス・キリストは、もっともっと奇跡的な力を働かせて人々を引きつけるべきであったということになるでしょう。
 けれども、イエス・キリストが十字架におつきになったことは、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という、第二の戒めを、もっとも深くて豊かな形において満たすことでした。
 そして、この愛は、私たち神の子どもたちが、お互いに、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を発揮し、守るための基準となりました。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
ヨハネの手紙第一・3章16節

 改めて申すまでもありませんが、ここに述べられているような愛に生きるためには、十字架につけられたイエス・キリストのように、神さまと隣人を愛しているということから、この世の目に「失敗」や「損失」と見える道を歩むことが、「豊かないのちの道」であることを見る「目」(価値観)を養う必要があります。
 そのような「目」(価値観)は、十字架に付けられたイエス・キリストを知りることによって、そして、私たちそれぞれが、イエス・キリストを通して示されている神さまの愛に満たしていただくことによって、神さまと隣人への愛に生きることの中で、養われていきます。

 


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