(第46回)


説教日:2000年4月16日
聖書箇所:ヨハネの手紙第一・1章1節〜10節


 天地創造の初めに人間を「神のかたち」にお造りになった神さまのみこころの中心は、私たちが、「神のかたち」に造られている人間としての栄光と尊厳性を認めて、それを守ることにあります。このことを欠いては、神さまのみこころを行なっていると言うことはできません。
 私たちが「神のかたち」に造られている人間としての栄光と尊厳性を守ることは、外から、人間としての栄光と尊厳性を損なうような攻撃があるので、その攻撃から守るという以上に、私たちそれぞれが、自分自身の「神のかたち」としての栄光と尊厳性を受け止めて、それにふさわしく生きることにあります。
 繰り返しお話ししていますように、生きた人格的な神さまのかたちとして、「神のかたち」の本質は、自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。また、愛を本質的な特性とする神さまのかたちとして、「神のかたち」の本質的な特性は愛です。このことに、「神のかたち」に造られている人間の栄光と尊厳性の中心があります。
 「神のかたち」の本質的な特性が愛ですので、「神のかたち」に造られている人間は愛のうちに生きることによって、真の意味で自由であることができます。そして、「神のかたち」の栄光と尊厳性を守ることができます。
 神さまは、「神のかたち」に造られている人間が、自らの自由な意志によって、愛の特性を発揮して生きるようになるために、人間の心に、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」を記してくださいました。
 これによって、人間は、実際に、神さまとの愛の交わりの中に生きるようになりました。また、お互いに神さまとの愛の交わりのうちに生きている神の子どもとして出会って、愛を育むようになりました。
 神さまとの愛の交わりにおいては、人間は、神さまの一方的な愛に包まれており、神さまの愛を受け止めることにおいて生きるという面が前面に出てきます。
 これに対しまして、隣人との愛においては、お互いの愛を育み育てることに強調点があります。その場合にも、神さまの一方的な愛に包まれているということが根底にあります。神さまの一方的な愛に包まれているので、人間のうちから愛が絶えることなく生まれてくるのです。
 神さまの愛に包まれて神さまを愛して生きることが、「神のかたち」としての栄光と尊厳性の第一の現われです。そして、お互いに隣人として出会って愛することは、その第二の現われです。そのような愛の中に生きることが、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を守ることの中心です。それによって、隣人の「神のかたち」としての栄光と尊厳性を守るようになるとともに、自分自身の「神のかたち」としての栄光と尊厳性を守るようになります。


 これは、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿ですが、実際には、人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまい、本性が腐敗してしまいました。そのため、「神のかたち」に造られている人間の心に記された神さまの律法も腐敗してしまいました。それで、「愛の律法」によって導かれて生み出されていた造り主である神さまへの愛は失われ、隣人への愛も罪が生み出す自己中心性によって歪められてしまいました。
 しかし、神さまは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを通して、私たちを義と認めてくださり、私たちに神の子どもの身分を与えてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。そして、神さまの愛に包まれて生きる神の子どもたちが、主にある兄弟姉妹として出会って、愛にあって生きるようにしてくださいました。
 さらには、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいてお働きになる御霊によって、私たちの罪をきよめてくださり、私たちを新しく造り変えて「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復してくださっています。
 私たちに対する神さまのみこころの中心は、私たちが「神のかたち」の栄光と尊厳性を守ることにあります。そして、「神のかたち」の栄光と尊厳性を守ることは、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている「愛の律法」にしたがって、神さまと隣人との愛の交わりに生きることによって初めてできることです。そうであれば、私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかることによって初めて「神のかたち」の栄光と尊厳性を守ることができます。
 神さまが御子イエス・キリストを通して成し遂げてくださった贖いの御業は、私たちの「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復し、守ってくださる御業です。

 人間の愛の素晴らしさだけに目を留めている人にとっては、愛が罪によって自己中心的に歪んでしまっているというような主張は受け入れ難いかも知れません。それで、自分自身のうちにある罪のために、愛が腐敗して自己中心的に歪んでいるということについて(少し気恥ずかしいのですが、他の人の例を引き合いに出すわけにも行きませんので)、私自身のことをお話しさせていただきたいと思います。
 私は複雑な事情のために、父親と名字の違う家庭で生まれて育ちました。高校生の頃、一学年下で、私と同じように父親と名字が違う事情の中で育った女性と出会って、おつき合いをしていました。その時には、私の父は亡くなっていましたし、その人のお父さんもいませんでした。その人には、私には分からない事情があったようで、お母さんとともに親戚の家にお世話になっていたようでした。それで、私がそこを訪ねることはできませんでした。また、その人には、そこに住むためのさまざまな義務もあったのでしょう。私たちは自由に会うことができませんでした。
 そのことで、私はしばしば悲しい思いをしましたが、ずっと、そのように悲しいのは、私がその人を愛しているからだと思っていました。
 しかし、ある日、期待していた通りその人と会うことができなくて、悲しい思いを噛みしめていた時に、その悲しい思いが自分の思いを中心とした、身勝手な思いであることに気がつきました。私は、その人が自分の願っているように動いてくれないということを悲しんでいるだけで、本当にその人のことを考えていたわけではなかったのです。
 その時に、自分にとって最も大切な愛にさえも、私自身のうちに潜んでいる自己中心が暗い影を落としているということに気がつきました。
 今から思いますと、私は、その人がいろいろな事情の中にあって苦しんでいたことを汲み取ることができませんでした。そのようなことに気が回らないままに、自分がどう感じるかということが先に立ってしまって、時に嬉しくなったり、時に焦ったり沈み込んだりしていました。
 しかし、自分自身の中にある、そのような自己中心性に気がついても、それで私自身の中から自己中心性がなくなったわけではありません。また、私の愛が、本当にその人を中心にしたものになったわけではありません。

 私が聖書を読み始めたのは、そのような自分に気づきつつあった時でした。それで、その中にあった、ローマ人への手紙7章15節〜20節に記されている、パウロの、

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

という言葉に心を揺さぶられました。「何という正直な告白なのだろう」と思いました。
 ただし、後ほどお話ししますように、パウロは自分の罪の深いことを正直に告白しているというように正直さをほめることは、パウロの言っていることを少しも理解していないと言わなければなりません。パウロにしてみれば、そのように言われることは、不本意なことであるはずです。
 このような御言葉に触れることによって、愛においても自己中心で、自分の思いばかりで相手の人を振り回している自分は、やはり罪を宿す人間なのだと納得しました。
 普通ですと、ここで、めでたしめでたしとなるのですが、私は、それでも、本当には自分の罪の現実に気がつくことはできていませんでした。自分の罪を認めたつもりでしたが、それは、自己流の罪の認識でした。というのは、本来、罪は何よりも造り主である神さまに対する罪です。私たち人間を愛してくださり、「神のかたち」にお造りになって、ご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださった神さまの愛を踏みにじり、神さまを悲しませるものです。
 まだ、神さまのことを知らなかった私は、神さまとの関係で罪を認めてはいませんでした。自分なりに考えた罪の現実に気づいてはいましたが、神さまの御前にそれを告白して、神さまに対して悔い改めたことはありませんでした。
 そのようなものでしたから、私は、やがて、自分は自分の罪が分かっている、ということを意識するようになりました。いつの間にか、それは、私の秘かな誇りとなっていきました。── そのようなことに気がついている自分は、気がついていない人々より、よいと感じられたわけです。
 これは、人と比べて自分のよさを誇ることで、本質的に、ルカの福音書18章11節、12節で、

神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。

と祈っているパリサイ人と同じです。
 人は、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって、神さまの愛とイエス・キリストの恵みのうちに生きるようになって初めて、自分の罪が何よりもまず神さまに対する罪であることが分かるようになります。そして、神さまに対して罪を悔い改めることができるようになります。
 罪の自己中心性は本当に巧妙なものです。自分の罪を自覚することさえも、自分の誇りというか、自己主張の種になってしまいます。その時の、私は、自分の罪の自己中心性によって、巧妙に心の奥底から縛られ、支配されていました。そして、そのことに、気がつくことができませんでした。それで、(自分流に)自分の罪を自覚していること、そして、自分に罪があることを悲しんでいることさえ、誇りの種にしてしまっていたわけです。
 今もそのようなものが残っていることを、認めないわけにはいきません。そのような状態にある時には、自分では「私は罪が深い」と言って嘆いていながら、人からその罪を指摘されると、憤りがわき上がってきたり、「傷つけられた」と言って相手を攻撃したりします。あるいは、「私がこんなに罪を悔いていることを認めてくれない」と言って嘆いたり、不満をぶつけたりするのです。
 そのような状態でしたから、当然、私の愛も巧妙な罪の自己中心性によって支配されてしまっていました。私は、その人を愛しているつもりでしたが、やはり、いつの間にか、自分の思い── 私はそれを愛だと思っていましたが── 、自分の思いを中心にして、その人を動かそうとしてしまっていたのです。その結果、愛しているはずの人の心に重い重荷を負わせ、その人を傷つけることになりました。
 私自身のうちに罪の自己中心性があって、それが、自分でも気がつくことができないほどの自然さと巧妙さで、内側から自分を縛りつけている以上、私の中から出てくる愛は、罪の自己中心性によって歪められています。
 ですから、私の自己中心性がなくならないかぎり、私の愛は自己中心的に歪んだものとなる他はありません。その自己中心性は、私自身の罪によって腐敗した本性から生まれてくるものです。それで、私の罪によって腐敗した本性がきよめられないかぎり、私には自己中心性があり、それが愛を初めすべてのものを歪めてしまいます。

 私がそうでしたように、人間は、たとえ自分の罪と、罪が生み出す自己中心性に気がついても、そして、その事実を嘆いても、自分の力でそれをなくすことはできません。
 しかし、それは、神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みを知る前の私たちの現実であっただけではありません。御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを信じている神の子どもたちにも当てはまる現実です。
 先ほど、私が引かれたことがあるということでローマ人への手紙7章15節〜20節に記されているパウロの言葉を引用しました。その中でパウロは、

私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 ・・・・ 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

と告白しています。さらに、その後で、

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
ローマ人への手紙7章24節

と言って、自分の現実を嘆いています。しかし、そのように嘆くこと以上のこと── 自分のうちにある罪を取り除いて、自分自身を罪の力と罪が生み出す自己中心性から解放すること── は人間の力ではできません。
 このパウロの告白は、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを信じた後の、パウロの現実を告白するものです。それは、御子イエス・キリスト罪の贖いを信じている神の子どもたち、すべてに当てはまる現実です。
 ここには、自らのうちに罪を宿している人間の無力さが生み出す、一種の袋小路があります。自から「自分はこれだけ罪を嘆いているのだから良い」と言うなら、それは、自分が罪を認めていることを秘かに誇ることです。それは、自己義認の誇りで、私が陥った罠です。
 それで、このような自己義認の罠に陥らないためには、「私は罪が深い」ということを常に言い続けなくてはなりません。そこには解放がありません。── 実際には、そのように、罪を認め続けることが人間のあるべき姿である、というような主張とともに、やはり、「それでいいのだ」という思いが忍び込んできます。
 そのような自己義認の罠にはまることなく、私たちを罪の力から解放してくれるのは、神さまが私たちのために備えてくださった、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いです。

 私たちは、すでに、福音の御言葉を通してあかしされている御子イエス・キリストを、神さまから遣わされた贖い主として信じ、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを受け入れたことによって、神さまの御前に義と認められており、神の子どもとして受け入れられています。今はまだ、そのようにイエス・キリストを贖い主として信じておられない方も、福音の御言葉にあかしされている御子イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて受け入れるなら、その時直ちに、神さまの御前に義と認められ、神の子どもとして受け入れられます。
 これは、神さまの御前における、私たちの「法的な身分」のことです。私たちは、福音の御言葉に基づいて、御子イエス・キリストを神さまが遣わしてくださった贖い主として信じる信仰によって、義と認められ、神の子どもとしての身分を与えられています。このことに基づいて、神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとされています。それで、たとえば、聖書の御言葉を通して語ってくださる神さまの御言葉に耳を傾け、祈りによって神さまの御前に私たちの思いを注ぎ出して聞いていただくことができます。
 また、信仰によって神さまの御前に義と認められ神の子どもとされている私たちは、神の子どもとしての自由の中に生かされています。そして、その自由から生まれてくる愛によって互いに仕え合う、神の家族としての交わりのうちに生きることができるようにしていただいています。

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。
ガラテヤ人への手紙5章13節、14節

 私たちが神さまと隣人との愛の交わりに生きることができる根拠は、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりを通して成し遂げてくださった、罪の贖いの御業にあります。私たちはそれを信じて受け入れていますので、義と認められ、神の子どもとされています。ですから、私たちが義と認められて、神の子どもとされていることの根拠は、私たちの信仰にあるのではなく── 私たちが信じているということにあるのではなく、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いにあります。私たちは、その根拠となることを信じて受け取っていますので、義と認められ、神の子どもとして受け入れられています。

 しかし、これには、もう一つの面があります。福音の御言葉にあかしされている御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いの御業を信じて、その贖いを根拠として、義と認められ、神の子どもとして受け入れられている私たちは、神さまの愛に包まれ、神の子どもたちの交わりを深めていきます。その時にこそ、私たちは、自分の罪の現実に気がつくのです。
 ちょうど、ずっと、汚れた空気の部屋の中にいる人は、それに慣れてしまって、部屋の空気の汚れに気がつかないように、私たちは、自分のうちにある罪によって巧妙に動かされていた状態の時には、その罪に気づくこともできませんでした。しかし、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いの御業を信じて、その贖いにあずかって、義と認められ、神の子どもとして受け入れられたことによって、私たちは、自分の罪の現実に気がつくようになったのです。
 先ほど引用しました、パウロの、

私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 ・・・・ 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

という告白は、そのような中から生まれています。
 しかし、この告白は、かつての私のように、秘かな誇りを生みだすものではありません。これは、自分の罪の現実に対する本当の悲しみの告白です。それとともに、ただ嘆いて終わるのではなく、神さまの愛と御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに頼る信仰を生み出す告白です。
 事実、この告白に続いて、パウロは、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
ローマ人への手紙8章1節〜4節

と述べています。
 それで、先ほどお話ししましたように、このようなパウロの告白に、「正直に自分の罪を認めているから、えらい。」というような評価を下してしまってはならないわけです。そのような評価を下すことは、そこで(自己義認で)止まってしまうことです。そうするのではなく、お互いに、自分の罪の現実を認めながら、福音の御言葉によってあかしされている、神さまが備えてくださった、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いに信頼することへと進んでいくべきなのです。

 そのような私たちのために、神さまは、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙第一・1章9節

という約束を与えてくださっています。
 この約束は、父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりを中心とする、神の子どもたちの交わりに生きる者たちに与えられている約束です。
 そのことは、これに先立つ1章7節で、

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

と言われていることから分かります。また、ヨハネの手紙第一全体の主題が、ヨハネの手紙第一全体への序論の結論に当たる、1章3節で、

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

と言われていますように、父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりを中心とする、神の子どもたちの交わりにあることからも分かります。
 私たちは、今、このような約束に包んでいただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりを中心とする、神の子どもたちの交わりの中に生きることによって、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業を通して回復してくださった、「神のかたち」の栄光と尊厳性を守る歩みを続けています。

 


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