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説教日:2000年4月9日 |
神さまは、「神のかたち」に造られている人間が、自由な意志をもつ人格的な存在として、愛の特性を発揮して生きるようになるために、人間の心に、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」を記してくださいました。 このことには、神さまの律法が「神のかたち」に造られている人間の心に記されているということと、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さまの律法が「愛の律法」であるという二つの面があります。 神さまの律法が「神のかたち」に造られている人間の心に記されているということは、その律法が自分自身のものであり、自分自身の考え方や意志を導いていることを意味しています。それで、人間は、自分自身の律法にしたがって意志を働かせ、物事を考えたり、決断したり、行なったりする存在、すなわち、自律的な存在です。 天地創造の初めに「神のかたち」に造られた状態の人間、すなわち、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落する前のアダムとエバには、「石の板」や文書に記された律法が与えられたのではありません。彼らの心には神さまの律法、すなわち「愛の律法」が記されていましたので、そのようなものは必要ありませんでした。自分ですべてのことを判断することができました。そして、その判断が、自然と、神さまのみこころと一致し調和していました。 このことは、神さまの律法が、本来は、「神のかたち」に造られている人間の心に記されているものであるということを意味しています。 人間の心に記されている「愛の律法」とは別に神さまの律法があって、外側から人間を規制するということは、神さまの律法の本来の状態ではありません。それは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落して本性が腐敗してしまったために、その心に記されている律法も腐敗してしまったことによる「応急措置」です。 次に、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さまの律法が「愛の律法」であるということは、人間の本来の状態においては、人間が自らの自由な意志にしたがって考えることや決断することや行なうことが、自然と、「愛の律法」沿っているということを意味しています。言い換えますと、人間が自らの自由な意志にしたがって考えることや決断することや行なうことが、すべて、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」神である主を愛することと、隣人を自分自身のように愛することを動機としており、目標としているということです。 人間が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落し、「神のかたち」としての本性を腐敗させてしまった後には、心に記された神さまの律法も腐敗してしまいました。そのため、「愛の律法」によって導かれて生み出されていた造り主である神さまへの愛は失われ、隣人への愛も罪が生み出す自己中心性によって歪められてしまいました。 しかし、先ほども触れましたように、神さまは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを通して、私たちに神の子どもの身分を与えてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。さらには、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちの罪をきよめてくださり、私たちを新しく造り変えて、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復してくださっています。 このことを、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さまの律法という観点から見ますと、御霊が、私たちを新しく造り変えて、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復してくださるとともに、私たちの心に「愛の律法」を新たに記してくださっています。神さまが預言者エレミヤを通して、 見よ。その日が来る。── 主の御告げ。── その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。── 主の御告げ。── 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。── 主の御告げ。── わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、「主を知れ。」と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。── 主の御告げ。── わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」 エレミヤ書31章31節〜34節 と預言しておられた通りです。 34節では、 そのようにして、人々はもはや、「主を知れ。」と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。 と言われています。ここでは、神である主の律法が主の民の心に記されるようになると、主の民は外からの規制で動かされるのではなく、それぞれが主を知り、主のみこころをわきまえるようになるという自律性が述べられています。 このことが御子イエス・キリストの贖いの御業を通して私たちの間に実現していることは、いまここではお読みしませんが、ヘブル人への手紙8章6節〜13節、10章16節、17節に記されています。 このように、私たちは、自由な意志をもつ人格的な存在として、自らの心に記されている「愛の律法」に導かれて、愛のうちに生きること── 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」神である主を愛することと、隣人を自分自身のように愛することを動機とし、目標として生きることによって、「神のかたち」に造られている人間としての栄光と尊厳性を発揮して生きることができます。 その際に、私たちがしっかりと心に留めておかなくてはならないことがいくつかあります。 繰り返しお話ししていることですが、人間の霊魂が「神のかたち」であるという考え方のように、「神のかたち」は人間の一部分ではありません。肉体と霊魂からなる一個の人間、すなわち、私たち一人一人が「神のかたち」であり、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を担っています。 しかし、それなら、私たちそれぞれが「神のかたち」に造られているのであるから、同じような存在であるかというと、そうではありません。私たちそれぞれが「自分というもの」をもっており、決して、他のものによって取り換えることができない、それぞれに固有の人格です。そして、それぞれが、自分の在り方と生き方を自分の自由な意志によって選び取っている存在です。 その意味で、人間は、機械とは違います。機械は、それを使う人の都合次第で、役に立たなければ不要のものとなります。機械は、使う人の都合次第、状況次第で、役に立つものになったり、不要なものになったりします。擬人化して言いますと、機械の存在の意味は、いつも「他人次第」ということになります。機械の存在の意味は、すべて、使う人によって決められています。使う人の都合や事情に合わなければ役に立たない、不要なものになってしまいます。言い換えますと、機械は、自分の外側から、自分の存在の意味や価値が決められてしまっているのです。 人間が「機械化」するのも、それと同じです。それは、ある事業を達成するためにという名目で、人間が「手段化」されるときに起こります。その極端な現われが戦争ですが、会社などが利益追求を第一にすればするほど、人間の「手段化」がひどくなっていきます。 それはまた、教会にも起こりかねません。教会が「企業的」になって、企業的な尺度での「成功」を図るために、教会員がどこかで「手段化」されて、動員されるというようなことが起こりやすいのです。 もちろん、教会は、この世に使命を与えられて存在しています。伝道や御言葉のあかしを事業としていると言えないことはありません。けれども、まさにその点で、教会は、この世の組織と区別されています。そのような使命の種類が違うということで区別されるのではありません。── 宗教的な布教活動であれば、この世のさまざまな宗教団体も行なっています。そうではなく、そのような使命を果たすときの動機と目的が、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」神である主を愛することと、隣人を自分自身のように愛することにあることにおいて、区別されるのです。 それで、教会は、企業的な尺度での「成功」を目的とはしていません。決して、お互いを「手段化」しないで、それぞれが、御子イエス・キリストによる贖いの御業によって、「神のかたち」として回復されていることを受け入れ、その栄光と尊厳性を守るとともに生かすことを動機とし目的としています。具体的には、お互いを、自由な意志をもつ人格的な存在として認めて、その自由を尊重するということです。言い換えますと、私たちそれぞれが、御霊が心に書き記してくださっている「愛の律法」に導かれて、自分の自由な意志で、神さまが委ねてくださっているイエス・キリストをあかしする使命を担っていくということです。 すでに、さまざまな学びや、先日お読みいただいた『対話・長老と執事の選挙について』においてお話ししましたように、長老政治の主眼は、このような、「神のかたち」の栄光と尊厳性の中心にある、神の子どもとしての自由を保証し、守り、また、生かすことにあります。 この世には、神は自分たちの願いや欲望を満たしてくれるものであるという発想があります。そして、神が自分たちの願いや欲望を満たしてくれる限りにおいて、神を礼拝するというメンタリティがあります。 そこでは、神は、あくまでも、人間が飛躍するための手段であり「踏み台」です。神は、人間の願いに応えるべきなのです。そして、礼拝や奉仕は、神が自分たちの願いをかなえてくれるように、神を動かすためのものとなってしまっています。このように、この世では、神と人間の関係が「取り引き」の関係にあります。 そのような、神との関係が「取り引き」の関係となっているこの世の発想とメンタリティーが私たちの中にも残っていて、私たちと神さまとの関係を根本から歪めてしまうことがあります。もし私たちが、どこかで、礼拝や祈りや奉仕を神さまを動かすための手段であると感じている部分があるとしたら、神さまに対する根本的な信頼は失われてしまいます。というのは、私たちの礼拝や祈りや奉仕にはいつも欠けたところがありますので、それによって神さまを動かすことは決してできないからです。 それで、目の前に試練がやって来ると、すぐに、これは自分があれをしなかったからではないかとか、こんなことをしたからではないかと、自分のしたことやしなかったことを考えて、不安に駆られてしまうことになります。それは、神さまと神さまの一方的で完全な愛と恵みを信じないことであると同時に、自分の良さや自分の奉仕の良さを信じようとしていることです。口では、神さまとの関係が、ただ恵みによると言いながら、実際には、「取り引き」の関係となっているからです。 神さまの一番深いみこころ── そして、どんなときにも変わることがなく、すべてのことを貫いているみこころは、私たちに対する無限、永遠、不変の愛に基づく永遠の聖定にあります。私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださり、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださったことにあります。 言い換えますと、神さまは、私たちと「取り引き」をしようとはしておられません。私たちを、無限、永遠、不変の愛をもって愛してくださっておられるのであって、ご自身の「事業」のために私たちを「手段化」されるようなことは、決してありません。 私たちに委ねてくださった使命について言いますなら、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」神である主を愛することと、隣人を自分自身のように愛することを動機とし目標として、御子イエス・キリストをあかしするための御言葉の宣教と伝道をすることを通して、私たちを神の子どもとして、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように育ててくださるのです。 このことを信じるなら、私たちは、試練を目の前にしても、そして、自分自身のうちには恐れがあるとしても、なお、御子イエス・キリストにあって示されている神さまの愛と恵みを待ち望む信仰の姿勢を保つようになります。 この点からも、天地創造の初めに、神さまが「神のかたち」に造られている人間の心に、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めに集約される「愛の律法」を記してくださったことの意味を汲み取ることができます。 本当の愛は、その人を愛することを動機としており、目的としています。ですから、愛はその人と「取り引き」をしませんし、その人を「手段化」しません。それは、私たちと神さまとの関係にも当てはまります。 私たちが「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」私たちの神である主を愛しているときには、私たちは、神さまご自身を私たちの心の喜びとしています。それで、神さまを「手段化」してしまうことはありません。そこには愛の交わりがあるのであって、「取り引きの」の関係は締め出されてしまいます。 ですから、私たちの礼拝や祈りや奉仕が本来の礼拝や祈りや奉仕となるためには、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって、私たちの罪がきよめられていなくてはなりませんが、同時に、私たちと神さまの関係が、この世的な宗教の「取り引き」の関係からきよめられて、愛にあるいのちの交わりへと回復されていなければなりません。 同じように、私たちが、私たちの隣人を自分自身のように愛しているなら、主にある兄弟姉妹が与えられていること自体を心の喜びとするようになります。そして、お互いを「手段化」することを注意深くさけるようになります。そして、お互いの「神のかたち」としての栄光と尊厳性を守ることに心を遣うようになります。 最後に、もう一つのことをお話ししたいと思います。 人間は外側からの働きかけや試練にさらされて、その影響を受けます。自分が住んでいる時代や社会の文化や、世間のものの見方や考え方、家族、友人たちとの関係、そして、次々と起こってくる悩みや苦しみの種となるものなど、色々なものが関わってきます。しかし、そのようなものの中で、なお、人間は、先ほど触れました機械とは違って、本来、自分というものをもっています。他人によっては決められないし、決められてはならない、固有の意味と価値を自らのうちにもっている存在です。 そのことの根本にあるのは、私たち一人一人が「神のかたち」に造られており、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を担っているということです。私たちの人間としての栄光と尊厳性は、私たち自身が「神のかたち」に造られていることにあります。 ですから、私たちに何かができるという前に、私たち自身が── 私たちの存在そのものが、「神のかたち」の栄光と尊厳性を担っているのです。 そのことを、身をもって、また、鮮明な形であかししているのが、先週お話ししましたような、脳に重大な損傷を受けてしまったために、ご自分では何もできないような状態にあって、なおも、御子イエス・キリスト後によって確立された新しい契約の中にあって生きておられる方々です。 先週は、私たち夫婦ががアメリカでお世話させていただいた方のことをお話ししましたが、日本に帰ってきてからも、そのような方々にお会いしました。ある方は、生まれてからずっと寝たきりで、ご自分では動くことも、考えることも、食べ物を咀嚼することもできません。ご両親に抱きかかえられて礼拝の場に来られて、ずっと横になっておられます。私は何度もその方を含めた礼拝でご奉仕させていただきましたが、その方が礼拝の一つの中心を占めていると感じ続けてきました。その方は、ただ物のようにそこに置かれているのではありません。そこに、「神のかたち」に造られている人間として存在しておられるのです。 先週お話しした言葉を繰り返しますが、「神のかたち」の栄光と尊厳性は、何かができることにあるのではなく、「神のかたち」そのものにあります。そして、「神のかたち」とは、肉体と霊魂からなる人格的な存在である人間そのもののことです。その「神のかたち」である人間の一部── たとえば脳が損傷してしまったために、動くことも話すことも考えることもできないとしても、その人が「神のかたち」であることには変わりありません。 その証拠に、その人は(契約の子であれば確実に)、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いの御業を完成してくださる時、すなわち、イエス・キリストが栄光のうちに再臨されて、ご自身の民の救いを完成してくださる日に、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられて、自由な意志をもつ人格的な存在として、愛に満ちた「神のかたち」の完成した姿をもつようになります。 ここにいる私たちの場合は、御霊によって、心に「愛の律法」が再び記されることによって、そして、私たちが「愛の律法」にしたがって自由な意志を働かせて、神さまと隣人を愛することを通して、徐々に御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていきます。そして、御子イエス・キリストの再臨の日に完成されます。すべては、神さまの一方的な愛と恵みによることです。 これに対しまして、脳に重大な損傷を受けておられる方々の場合は、御子イエス・キリストの再臨の日に、いわば、一気に、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられます。それによって、すべては神さまの一方的な愛と恵みによるということが、より鮮明にあかしされます。 どちらも、神さまの私たちに対する無限、永遠、不変の愛にある永遠の聖定によって定められた、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとしてくださり、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるようにしてくださるというみこころが実現することです。ただ、その道筋が違うだけです。 このように、私たちそれぞれは、天地創造の初めに「神のかたち」に造られている人間としての意味と価値をもっています。その「神のかたち」の意味と価値の中心には、自由な意志をもつ人格的な存在であることがあります。 そのように言いますと、人間の存在の意味と価値は神さまから決められたものであれば、外から決められたのではないか、それなら機械と同じではないか、と言われることでしょう。これには、神を信じることは人間の自由が失われることだ、というような主張に通じるものがあります。 しかし、このことについては、慎重に考えなくてはなりません。その根本にあることは、神さまを、造られたものと同じように考えてはならないということです。 神さまの御業と働きかけは、無限、永遠、不変の神さまのお働きとして、私たち人間の思いをはるかに越えた超越的なものです。それは、神さまが造られたこの世界に存在するものの働きかけとは本質的に違います。 神さまのお働きは、私たちを存在させ、私たちを支え、私たちの特性を生かすものであって、私たちの外側から私たちを束縛するものとして作用するものではありません。また、神さまのお働きは、私たちの本来の姿、私たちの本来の特質や賜物を生かすように働きかけてくださるものです。その点で、神さまの働きかけは、造られたものからの働きかけとは根本的に違っています。 たとえば、人が私たちに語りかけてくださるときには、私たちは、その声を聞きますので、その人が語りかけてくださったことを感じます。その声も、空気の振動が伝わってきて、私たちの鼓膜がそれを関知するわけです。それは、物理的に、外側からの働きかけがあるということです。造られたものからの働きかけには、そのような、私たちの感覚に伝わってくる物理的な外側からの働きかけがあります。それが、私たちの外側からの働きかけである以上、私たちはそれを自分の外からのものと感じます。 逆に言いますと、造られたものは、人に対して外からのものと感じられるようにしてしか、働きかけることができないのです。もちろん、洗脳や、マインド・コントロールのような「操作」によって、あるいは、繰り返しの教育などによって、外からの働きかけが外からの働きとわからなくなるほどに「慣らされて」しまうことがあります。しかし、それらは、外側からの働きかけの結果、その働きを受けている人の感覚が「マヒ」させられたことであって、その働きかけそのものが、外からのものであることには変わりありません。 けれども、私たちを含めたすべてのものの造り主であり、無限、永遠、不変の霊である神さまの働きかけは、私たちの感覚に伝わってくる、外側からの物理的な働きかけではありません。 神さまは、私たちを含めて、この世界のすべてのものをお造りになって、それぞれの特性にしたがって支えておられる方です。この神さまの働きかけによって、造られたすべてのものが、それぞれの特性を発揮しながら存在することができているのです。 その神さまのお働きによって、私たちは「神のかたち」として、自由な意志をもち、愛を本質的な特性とする人格的な存在として生きることができます。また、それぞれが独自の固有性をもち、他のものと取り換えることができないものとして生きることができます。 ですから、神さまが私たち人間を「神のかたち」にお造りになったことは、私たちを自由な意志をもち、愛を特性とする人格的な存在として生かしてくださったことであって、決して、私たちの自由を制限することではありません。 私たちは、この点でも神さまに倣うべきものです。神さまほどの「見事さ」でというわけにはいきませんし、あらゆることを支えるというわけにもいきませんが、「神のかたち」に造られた者として、また、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって「神のかたち」としての栄光と尊厳性を回復していただいている者として、自分とお互いの意志の自由── 神の子どもとしての自由を守り、積極的に生かすようにと召されています。 |
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