(第44回)


説教日:2000年4月2日
聖書箇所:ローマ人への手紙8章28節〜32節


 私たちに対する神さまのみこころの出発点は、神さまの無限、永遠、不変の愛に基づいて定められた、永遠の聖定にあります。というのは、すべてのものは、神さまの永遠の聖定に従って存在しており、導かれているからです。
 そのことは、たとえば、黙示録4章11節に記されている、神さまの御前で礼拝している24人の長老たちの、

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

という告白に示されています。
 私たちに対する神さまのみこころの出発点は、神さまの永遠の聖定にありますが、永遠の聖定は、無限、永遠、不変の神さまのみこころであって、被造物である人間の思いを無限に越えたものです。それで、私たちは、神さまの永遠の聖定において、ものごとがどのように定められているかを知ることはできません。それは、無限、永遠、不変の神さまだけが知っておられるものです。
ローマ人への手紙11章33節〜36節で、パウロは、

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

と告白しています。
 私たちは被造物であり、有限な存在です。私たちには、永遠に、神さまの「知恵と知識との富」の深さを究めることは出来ません。また、「そのさばき」も「その道」も、私たちの思いを無限に越えています。


 けれども、この永遠の聖定に関しては、私たちが確かなこととして告白することが出来ることがあります。
 その一つは、神さまの永遠の聖定において定められたことは必ず実現するということです。
 というのは、神さまの「さばき」も「」も、私たち人間には測り知ることが出来ないものですが、神さまの無限の「知恵と知識との富」に基づいて展開されていきます。神さまはすべてのことをご存知であられ、御手のうちに掌握しておられます。それで、

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。

と告白されているとおり、神さまの永遠の聖定において定められたことは、必ず実現します。
 神である主も、預言者イザヤを通して、

万軍の主が立てられたことを、
だれが破りえよう。
御手が伸ばされた。
だれがそれを引き戻しえよう。
イザヤ書14章27節

わたしは、終わりの事を初めから告げ、
まだなされていない事を昔から告げ、
「わたしのはかりごとは成就し、
わたしの望む事をすべて成し遂げる。」と言う。
イザヤ書46章10節

とあかししておられます。
 もう一つの確かなことは、神さまの「さばき」も神さまの「」も、神さまの無限の「知恵と知識との富」に基づいて展開されていきますので、必ず実現しますが、その神さまの「知恵と知識」を特徴づけ、導いているのは、神さまの本質的な特性である愛であるということです。
 そのことは、神さまの永遠の聖定による決定を記す、エペソ人への手紙1章4節、5節の、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

という言葉に示されています。
 仮に、新改訳欄外注にありますように、「愛をもってあらかじめ定めておられた」の「愛をもって」が4節の「御前で」の後に続くと取って、「愛をもって」が私たちの愛のことを述べていると理解したとしても、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」定めてくださったことに、父なる神さまの無限、永遠、不変の愛が働いていることを、いささかも曇らせることにはなりません。

 神さまの永遠の聖定はそのようなものですが、神さまは、永遠の聖定において定めておられることのうちの二つのことを、啓示の御言葉を通して示してくださいました。
 一つは、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださったということです。そのことは、いま引用しましたエペソ人への手紙1章4節、5節に示されています。
 そして、もう一つは、神の子どもとしての私たちの実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださったということです。そのことは、ローマ人への手紙8章28節〜30節の、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

という御言葉に示されています。
 ですから、神さまがご自身の愛に基づく永遠の聖定において、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださったことと、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださったことは、神さまの無限の「知恵と知識との富」に基づいて展開される、神さまの「さばき」と神さまの「」に従って必ず実現します。
 ローマ人への手紙8章28節、29節では、神さまは、「神のご計画に従って召された」「神を愛する人々」、すなわち、神さまとの愛の交わりのうちにある私たちのために、「すべてのことを働かせて」くださり、私たちを「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」みこころを実現してくださると言われています。
 そして、その具体的な現われが、30節の、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

ということです。ここでは、このことが、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの御業を通して、すでに、私たちのうちに実現していると言われています。

 このことから私たちがしっかりと心に留めておかなくてはならないことは、私たちに対して起こること、あるいは、私たちの目前に展開することがどのようなことであっても、神さまは、それを通して、必ずご自身のみこころを実現されるということです。それが越えられない山のように見える困難であっても、あるいは、踊るような喜びであっても、それらすべての奥には、常に変わらない父なる神さまの「永遠のみこころ」── ただ変わらないだけでなく、必ず実現される父なる神さまのみこころがあります。
 それは、すでに、御子イエス・キリストの十字架の死による贖いの御業を通して、私たちのうちに実現してくださっていることで、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとしてくださっていることと、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるようにしてくださっていることです。
 先ほどのローマ人への手紙8章28節では、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

と言われていて、「神のご計画に従って召され」、神さまとの愛の交わりのうちにある私たちの「」のために、神さまが「すべてのことを働かせて」くださると言われています。これは、神さまの摂理の御業のことを述べるものです。
 そして、続く、29節の、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

という言葉は、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と言われているときの「」が、私たちが「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられることであること、そして、私たちが御子を「長子」とする神の子どもとなることであることを示しています。言い換えますと、神さまの摂理の御業の目的が、私たちが「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられることにあるということです。
 そして、30節の、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

という言葉は、28節、29節に記されている、私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださることを目的とする、神さまの摂理の御業の中心が、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にあることを示しています。
 私たちが「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられるようになるために、神さまは「すべてのことを働かせて」くださいます。その、「すべてのことを働かせて」くださることの中心に、私たちの罪の贖いのために御子をも与えてくださったことが含まれているということです。
 そして、このことを受けて、31節と32節では、

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

と告白されています。
 これを今お話ししていることとの関わりで言いますと、父なる神さまは、私たちを御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださるという、永遠の聖定において定められたみこころを、必ず実現してくださいます。そのためには、ご自身の御子をもお遣わしくださり、私たちのために、御子イエス・キリストの十字架の死をもって、私たちの罪を贖うことさえしてしてくださいました。
 ですから、どのようなことがあっても、決して変わらない、父なる神さまのみこころは、どのようなときにも、私たちそれぞれは、御子イエス・キリストのいのちの価をもって買い取られた父なる神さまの子どもであるということです。
 このことは決して変わらないということを、神さまの真実さと、御言葉全体の保証のもとに、しっかりと心に留めておきたいと思います。

 神さまは、私たちに対する永遠の聖定、すなわち、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださったことと、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださったことを実現してくださるため、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになりました。
 このことが、私たちに対する神さまの永遠の聖定の実現の第一歩です。そして、これまでお話ししてきました、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちが御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられることは、人間が「神のかたち」に造られたことの完成です。── 「御子イエス・キリストの栄光のかたち」は、「神のかたち」の完成です。「神のかたち」の栄光と尊厳性は、「御子イエス・キリストの栄光のかたち」において充満なものになります。
 ですから、私たちに対する神さまのみこころのいちばん大切なことは、私たちが、創造の御業によって与えられ、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業によって回復されている、「神のかたち」の栄光と尊厳性を受け入れ、それを守ることあります。それは、私たちが最も私たちらしくなることですが、同時に、私たちが神さまの栄光を現わすことの中心です。
 これまで、繰り返しお話ししてきましたように、生きた人格的な神さまのかたちとして、「神のかたち」の本質は、自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。また、愛を本質的な特性とする神さまのかたちとして、「神のかたち」の本質的な特性は愛です。
 それで、私たちは、自由な意志をもつ人格的な存在として、愛の特性を発揮して生きることによって、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を守ることができます。

 これまでは、このことから、特に、「神のかたち」に造られている人間の心に神さまの律法が記されていることとの関わりで、さまざまなことをお話ししてきました。きょうは、「神のかたち」の栄光と尊厳性が、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業を通して回復されていることをお話ししてきましので、そのこととの関連で、一つのことをお話ししたいと思います。
 私がアメリカの神学校で学んでいたときに、私たち夫婦は、ジョアンという、その当時二十歳くらいの女性のお世話をさせていただきました。ジョアンさんは、二歳の時に脳に何らかの菌が入って感染したために、脳の発達がその段階で止まってしまっていました。時々、介護で疲れてしまっているジョアンさんのお母さんを休ませるために、私たち夫婦とジョアンさんだけで一月ほど過ごしました。
 ジョアンさんは、脳の発達が阻害されてしまっていただけでなく、しばしば、脳の損傷による発作も起こりました。そのようなことに初めて接した私には、ジョアンさんが発作に襲われて、全身を硬直させて痙攣している様子は、心の痛みとなる前に、縛りつけられるような恐怖でした。
 その後、日本に帰って来てからも、さらに思いハンディを背負っている方々とお会いする機会がありました。あるいは、そこまでいかなくても、さまざまなハンディを背負っておられる方々との出会いを経験しました。
 そのような経験を通して、さまざまなことを考えさせられましたし、教えられました。それらの中心にあったことは、「神のかたち」の栄光と尊厳性のことでした。

 結論的なことを言いますと、私は、それらの方々との出会いを心のどこかに刻んだものとして、聖書を読むようになりました。事柄や事情に合わせて聖書に「読み込み」をしてしまうということではありません。それは聖書を歪めることです。そうではなく、私の目が、それまで見えていなかったものに対して開かれるようになったということです。
 私は、聖書研究を通して、御言葉が、「神のかたち」とは、たとえば、霊魂が「神のかたち」であるというように、人間の一面のことではなく、肉体と霊魂から成り立っている人間自身が「神のかたち」である、と教えていることに気づいていました。それが、これらの方々との出会いを通して、このこと── 人間の一面や一部分が「神のかたち」なのではなく、人間自身が「神のかたち」であるということが、がぜん大きな意味をもつこととして見えてきました。
 御言葉は、ジョアンさんのように、ご自分からは何もできず、ご自身のうちにあるものを表わすこともできない方も、同じように「神のかたち」としての栄光と尊厳性を担っているということを教えていたのです。このことから、私は、「神のかたち」の栄光と尊厳性は、私たちの目から見て、何かができるとかできないということによって左右されるものではないということに気づかせていただきました。
 私は、そのようなことに気づかせていただくまでは、自分に何かができるということで自分を支えてきたところがありました。必ずしも、意識していたわけではありませんが、「自分の能力は自分の価値の尺度である」というような発想を受け入れてしまっていたわけです。
 その方々との出会いの経験を手がかりとして御言葉に触れたときに、私自身の中に「自分の能力は自分の価値の尺度である」というような発想があることに気づかされました。それは、人間の価値は、何かができるということに先立って、人間自身がが「神のかたち」に造られていることにある、ということを知るようになったということでもあります。

 「神のかたち」の栄光と尊厳性は、何かができることにあるのではなく、「神のかたち」そのものにあります。そして、「神のかたち」とは、肉体と霊魂からなる人格的な存在である人間そのもののことです。
 その「神のかたち」である人間の一部── たとえば脳が損傷してしまったために、動くことも話すことも考えることもできないとしても、その人が「神のかたち」であることには変わりありません。それで、その人は(契約の子であれば確実に)、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いの御業を完成してくださる時、すなわち、イエス・キリストが栄光のうちに再臨されて、ご自身の民の救いを完成してくださる日に、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられて、「神のかたち」の完成した姿をもつようになります。
 私たちの場合は、これまでお話ししてきましたように、御霊によって、心に「愛の律法」が記されることによって、そして、私たちが「愛の律法」にしたがって自由な意志を働かせて、神さまと隣人を愛することを通して、徐々に御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていきます。そして、御子イエス・キリストの再臨の日に完成されます。すべては、神さまの一方的な愛と恵みによることです。
 これに対しまして、ジョアンさんのような方の場合は、御子イエス・キリストの再臨の日に、いわば、一気に、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられます。それによって、すべては神さまの一方的な愛と恵みによるということが、より鮮明にあかしされます。
 どちらも、神さまの私たちに対する無限、永遠、不変の愛にある永遠の聖定によって定められたみこころが実現することです。ただ、その道筋が違うだけです。── 神さまは、「ご計画に従って召された人々のために」「すべてのことを働かせて益としてくださる」ときに、人間の目からは、ハンディとしか見えないことをも用いて、ご自身の愛と恵みに満ちたご栄光を現わしてくださるのです。

 


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