(第42回)


説教日:2000年3月19日
聖書箇所:コリント人への手紙第二・3章12節〜18節


 これまで、神さまのみこころを知るために基本的に必要なことをわきまえるために、神さまの律法について色々なことをお話ししてきたが、それには理由があります。
 一般に、私たちが神さまのみこころを知るための重要な手がかりは、神さまの律法である、ということが認められています。たとえば、『ウェストミンスター小教理問答書』の問39〜問42を見てみましょう。そこでは、

問39 神が人に求めておられる義務は、何ですか。
答 神が人に求めておられる義務は、神の啓示された御意志に服従することです。
問40 神は、人の服従の基準として、何を最初に啓示されましたか。
答 神が人の服従のために最初に啓示された基準は、道徳律法でした。
問41 道徳律法は、どこに要約的に含まれていますか。
答 道徳律法は、十戒の中に要約的に含まれています。
問42 十戒の要約は、何ですか。
答 十戒の要約は、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛することです。

となっています。そして、これに続く問43〜問81では、十戒に関する問答がなされています。
 『ウェストミンスター小教理問答書』は信仰の初心者のための教本ですが、それによって教育された人々のための教本として、あるいは、『ウェストミンスター小教理問答書』を用いて教える教師用のテキストとして、『ウェストミンスター大教理問答書』があります。その『ウェストミンスター大教理問答書』問103〜問148には、『ウェストミンスター小教理問答書』でなされているよりもはるかに詳しい、十戒の一つ一つの戒めに関する問答があります。
 いずれにしましても、これは、私たちが神さまのみこころを知るためには、神さまの律法を正しく知らなければならないという考え方を反映しています。
 もちろん、私たちは、この考え方を受け入れています。けれども、このように、十戒の一つ一つの戒めの意味を、どんなに詳しく探り求めても、神さまの律法が全体としてどのよな意味をもっているか理解できるわけではありません。
 それどころか、十戒の一つ一つの戒めをめぐって、「あれは良い」、「これはいけない」ということを事細かに規定することによって、イエス・キリストが糾弾しておられる律法学者たちと同じことをしてしまい、それらの細かい規定をきちんと守ることによって、神さまの律法を守っている、あるいは、神さまのみこころに従っていると考えるようになる、キリスト教的なパリサイ主義が、新たに生み出されてしまう可能性さえもあります。
 それで、これまで、神さまの戒めについて事細かに規定していくこととは別の方向に目を向けながら、神さまの律法そのものが、全体としてどのような意味をもっているかについて、お話を進めてきたわけです。
 きょうは、このような問題意識を踏まえて、もう少し立ち入ったことをお話ししたいと思います。


 きょうお話しすることと関連して、これまで、お話ししてきたことを振り返ってみましょう。これまで、コリント人への手紙第二・3章3節に記されている、

あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

という御言葉に基づいて、神さまの律法が神の子どもたちの心に書き記されていることについてお話ししてきました。
 ここで、「キリストの手紙」というのは、その作者が栄光の主であるイエス・キリストご自身であることを示しています。私の手紙は、私の思いや考えなどを伝えることを通して、私自身をあかししています。同じように、「キリストの手紙」は、イエス・キリストをあかしします。
 また、ここでは、コリントのクリスチャンを初めとして、私たち神の子どもたちが「キリストの手紙」であると言われています。ただ、私たちの言葉や行ないが「キリストの手紙」として、イエス・キリストをあかしするというだけでなく、私たち自身が「キリストの手紙」とされているということです。私たち自身が「キリストの手紙」であるので、私たちの言葉や行ないがイエス・キリストを表わし、あかしするようになるということです。
 これを、コリント人への手紙第二・3章の結論の部分に当たる18節の、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

という言葉に合わせて言いますと、私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくので、私たちは「キリストの手紙」であり、私たちの言葉や行ないがイエス・キリストを表わし、あかしするようになる、ということになります。

 先ほどの3節の、

あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

という御言葉で言われている「石の板にではなく、人の心の板に書かれた」ということは、神さまの律法が神の子どもたちの心に記されていることを示しています。
 「石の板」というのは、出エジプト記31章18節で、

こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

と言われていることを受けています。したがって、「石の板」に書かれたものとは、神である主が、シナイの山でモーセを通して与えてくださった律法を指しています。
 そして、神さまの律法が「石の板」に記されたということは、その時には、神さまの律法が、イスラエルの民の外側から与えられたということを意味しています。
 「石の板」に記された神さまの律法は、律法として純正なものであり、欠けはありません。けれども、それを受け取ったイスラエルの民のうちには、私たちの生まれながらの状態と同じように、罪が宿っており、その本性は罪によって腐敗してしまっておりました。そのために、どんなに純粋で純正な神さまの律法が外からの戒めとして与えられても、イスラエルの民はそれを守ることができませんでした。
 コリント人への手紙第二・3章14節では、そのようなイスラエルの民の状態のことが、

しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。

と言われています。

今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。

という言葉は、その状態が一時的な現象ではなく、人間の力では取り除くことができないものである── したがって、モーセの時代からパウロの時代まで、連綿と続いてきている、ということを示しています。
 それは、

なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。

と言われていますように、ただ、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いの御業によってのみ、取り除かれるものです。
 具体的には、イエス・キリストが成し遂げられた罪の贖いに基づいてお働きになる御霊によって、神さまの律法が神の子どもたちの心に書き記されます。これが、「生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものである」と言われていることです。これによって、神の子どもたちが「神のかたち」としての栄光に回復されるだけでなく、さらに、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくようになります。

 ここでのポイントは、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、神さまの律法が私たちの心に記されることによって、私たちが、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくようになるということにあります。
 どうしてそのようになるのか、ということに対しては、いくつかのことが考えられます。
 第一に、神さまの律法を私たちの心に記してくださるのは、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊であるということによっています。
 御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊は、新しい創造の御業を実現されます。そして、最初の天地創造の御業の中心が、「神のかたち」に造られている人間の創造にあったように、新しい創造の御業の中心は、神の子どもたちが「神のかたち」に回復されるとともに、さらに「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことにあります。
 御霊が神さまの律法を私たちの心に記してくださるお働きをしておられるということは、私たちのうちに新しい創造の御業を実現しておられるということ意味しています。それは、私たちが「神のかたち」に回復されるとともに、さらに、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことを意味しています。
 第二には、これと同じことを別の角度から言い換えているだけですが、神さまの律法が私たちの心に書き記されるということは、決して、それだけが独立してなされることではない、ということです。私たちが「神のかたち」の本来に姿を回復されていないのに、神さまの律法だけが私たちの心に記されるというようなことはありえません。
 ですから、神さまの律法が私たちの心に記されるということは、私たちが「神のかたち」に回復され、さらに「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことの中で起こっていることです。
 第三に、神さまの律法が私たちの心に記されるということは、神さまの律法が真に私たちのものとなることを意味しています。言い換えますと、私たちの心に記された神さまの律法は、そのまま、私たち自身の律法となり、私たちの思いと言葉と行ないを内側から導くようになります。
 その際、先週詳しくお話ししたことですが、神さまの律法は、単なるさまざまな戒めの寄せ集めではなく、また、さまざまな戒めを体系的に整理してまとめただけのものでもありません。神さまの律法は人格的な特性をもっていて、その全体が一つとなってイエス・キリストという一つの人格を映し出すものです。それで、神さまの律法によって内側から導かれる私たちの思いと言葉と行ないは、自然と、イエス・キリストを映し出し、あかしするようになります。
 もし、私たちの思いと言葉と行ないが全体的に調和していて、自然と、イエス・キリストを映し出し、あかしするようになっているのであれば、それは、私たち自身がイエス・キリストに似た者に造り変えられていることの現われであると言う他はありません。

 このように、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、神さまの律法が私たちの心に記されることによって、私たちは「神のかたち」の栄光を回復されるとともに、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくようになります。
 しかし、ここに、一つの疑問がわいてきます。それは、もし、私たちすべてが、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくのであれば、私たちはみな同じようなものになってしまうのかという疑問です。
 これについては、改めてお話しするまでもないことかも知れません。というのは、天地創造の初めに人間が「神のかたち」に造られましたが、だからといって、人間が画一的なものではないからです。今日に至るまでの人類の歴史の中で、私たちの想像を絶する数の人々が生まれましたが、その中に、「神のかたち」ではないというような人は、一人もいません。それと同時に、誰かのコピーであるというような人も、一人もいません。それぞれが、独自の人格をもち、決して他の人と取り換えることはできません。
 「神のかたち」としての尊厳性をもった人間が画一化され、取り換えが効くかのように扱われることは、人間が「手段化」される時に起こります。たとえば、あるものを造るために、人間が道具か、機械の部品と同じように扱われるときに起こります。もちろん、そのようなことは、人間が罪を犯して堕落してしまった結果、この世に生じてきたことです。
 「神のかたち」に造られている人間に同じ人はなく、それぞれが独自の人格をもち、決して取り換えることはできないのと同じように、あるいは、それ以上に、私たちが、御霊のお働きによって御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられることによって、画一化したものになるというようなことは、決してありません。
 それでは、コリント人への手紙第二・3章3節で、私たちが「キリストの手紙」として、イエス・キリストを映し出し、あかしするようになるということを、どのように考えたらいいのでしょうか。皆がイエス・キリストを映し出し、あかしするのであれば、皆が同じようなものになるということではないのでしょうか。
 もちろん、そうではありません。
 ヨハネの福音書1章18節では、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と言われています。
 これは、イエス・キリストが言葉で神さまのことを説明されたというだけのことでなく、それを含めて、イエス・キリストの存在そのものが、父なる神さまを解き明かしているということです。それで、イエス・キリストは、

わたしを見た者は、父を見たのです。
ヨハネの福音書14章9節

と言われました。
 いわば、私たちは、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを新しいいのちに生かしてくださるためによみがえってくださった御子イエス・キリストを「解き明かす」のです。それも、私たちそれぞれの独自の人格において「翻訳」しながら解き明かすのです。
 父なる神さまと一つであられる御子イエス・キリストは、ご自身で、父なる神さまを十分に「説き明かされ」ました。しかし、私たちは、誰か一人で、あるいは数人で、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
ヨハネの福音書1章14節

とあかしされている御子イエス・キリストを、十分に解き明かすことはできません。
 神の子どもたちすべてが、御霊のお働きによって復活のキリストと結び合わされて「キリストのからだ」を形成し、「恵みとまことに満ちて」おられる御子イエス・キリストを解き明かすのです。
 その際に、神の子どもたちが画一化されるようなことは、決してありません。それでは、誰か一人が御子イエス・キリストを「解き明かす」ということと同じことになってしまい、イエス・キリストの「恵みとまこと」の豊かさをあかしすることはできなくなってしまいます。
 初めにお話しした問題との関わりで言いますと、神さまの律法の一つ一つの戒めをめぐって、「あれは良い」、「これはいけない」ということを事細かく規定していく範囲が広くなればなるほど、また、皆がそれを几帳面に守る度合いが深くなればなるほど、神さまの律法の人格的な特性が見失われてしまいます。それで、お互いが画一化していく危険性が増えていきます。

 このように、御子イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことによって、「キリストの手紙」となり、私たちの言葉や行ないがイエス・キリストを表わし、あかしするようになることは、私たちが神さまのみこころに従うことの出発点であり、到達点でもあります。
 それは、二つの点から言うことができます。
 第一に、神さまは永遠の聖定において、私たちを神の子どもとしての身分をもつ者と定めてくださり、その神の子どもとしての実質が御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださいました。ですから、私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことは、父なる神さまが、永遠の聖定において定められた私たちに対するみこころを実現してくださることです。
 それで、この世にある私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことを離れて、神さまのみこころがなされるということはありえません。私たちの間で、イエス・キリストの名によって、どんなに人が驚くような事業がなされても、もしそれが、私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくという最終的な目的を見失っているものであれば、決して父なる神さまのみこころに沿ったものとはなりません。
 第二に、もし私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いなければ、私たちは「キリストの手紙」ではありませんし、私たちの言葉や行ないがイエス・キリストを表わし、あかしするようになることもありません。したがって、もし私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いなければ、私たちの言葉や行ないが人の目にどんなにすぐれていると見えても、神さまのみこころに従っていることにはなりません。
 再び、初めにお話ししました問題意識から言いますと、実際問題として、私たちが、神さまの律法の一つ一つの戒めについて「あれは良い」、「これはいけない」ということを事細かに規定して、その一つ一つを几帳面に守っていこうとすればするほど、そのことで縛られてしまって、御霊にある自由のうちに「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことを見失ってしまいます。
 私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、神の子どもとしての自由のうちに、心に記された律法に導かれて、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことによって初めて、「キリストの手紙」として、父なる神さまのみこころに従い、みこころを行なうことができるのです。

 


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