(第41回)


説教日:2000年3月12日
聖書箇所:コリント人への手紙第二・3章1節〜18節


 これまで、コリント人への手紙第二・3節3節の、

あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

という言葉を中心として、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づく新しい契約の祝福として、神さまの律法が神の子どもたちの心に記されていることについてお話ししてきました。
 コリント人への手紙第二・3章3節では、コリントのクリスチャンたちが「墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた」「キリストの手紙」であると言われています。もちろん、このことは、神の子どもたちすべてに当てはまることです。
 私たちが「キリストの手紙」であるということは、私たちの言葉や行ないが「キリストの手紙」としてイエス・キリストをあかししているというだけでなく、私たち自身が「キリストの手紙」であるということを意味しています。私たち自身が「キリストの手紙」であれば、私たちの言葉や行ないはイエス・キリストをあかしするようになります。
 それで、このコリント人への手紙第二・3章3節以下のパウロの論述は、その結論に当たる18節の、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

という言葉に行き着きます。
 ですから、私たちは、御霊のお働きによって「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことによって、「キリストの手紙」として、イエス・キリストを映し出し、あかしする者となるわけです。── それが、神さまのみこころを行なうことのアルファでありオメガです。


 3節で「墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた」と言われているのは、もちろん「キリストの手紙」のことです。ところが、これまでお話ししてきましたように、「石の板」というのは、出エジプト記31章18節で、

こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

と言われていることを受けています。したがって、「石の板」に書かれたものとは、神である主が、シナイの山でモーセを通して与えてくださった律法を指しています。
 ですから、コリント人への手紙第二・3章3節では、「生ける神の御霊によって」、神さまの律法が「人の(肉の)心の板に」記されると、その人々が「キリストの手紙」となると言われているわけです。
 そして、さらに、18節で、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と言われていることも、「生ける神の御霊によって」神さまの律法が「人の(肉の)心の板に」記されることの結果を述べたものであると考えられます。

 このことは、御霊のお働きによって、神さまの律法が私たちの心に記されることによって、私たちが御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていくということを意味しています。これは、神さまの律法の意味を考える上でとても大切なことです。
 一体、どうして、御霊のお働きによって、神さまの律法が私たちの心に記されることによって、私たちが御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていくようになるのでしょうか。
 それは、神さまの律法が単なる律法の条文の寄せ集めではなく、また、律法の体系として全体としてのまとまりをもっているというだけでもなく、律法の全体が人格的なまとまりをもっていて、最終的には、御子イエス・キリストを映し出すものであるからに他なりません。
 ヨハネの福音書5章39節、40節には、

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

というイエス・キリストの言葉が記されています。
 この場合の「聖書」は、もちろん、旧約聖書のことです。ここで、イエス・キリストは、旧約聖書の全体が、神さまがお遣わしになった贖い主であるイエス・キリストを証言していると主張しておられます。
 それは、ただ単に、旧約聖書の中には、イエス・キリストについての証言が含まれているという意味ではありません。── 他にも色々なことが記されているけれども、その中に、イエス・キリストについての証言もあるという意味ではありませんし、旧約聖書に記されていることの中で、イエス・キリストについてのあかしがいちばん大切なことであるということでもありません。
 そのイエス・キリストの言葉は、旧約聖書全体の主題はただ一つであり、それは、イエス・キリストをあかしすることであるということを意味しています。

 正直に言いまして、私は、かなり長いこと、このことを理解することができませんでしたし、受け入れることもできませんでした。どう考えても、旧約聖書には、イエス・キリストをあかしする言葉だけではなく、それ以外の、色々なことが記されていると思われたからです。
 たとえば、私は、旧約聖書には、イエス・キリストという一個の人格的な存在よりももっと広い「神の国」のことが記されている、というような考え方をしていました。ところが、だんだん、イエス・キリストのことが分かってまいりますと、イエス・キリストは、私が考えている「神の国」をすべて包み込むような方であることが分かってきました。
 早い話が、ヨハネの福音書20章28節に記されていますように、イエス・キリストは、ユダヤ人であるトマスが、

私の主。私の神。

と告白した方です。これは、イエス・キリストが、契約の神である主、ヤハウェであるという告白に他なりません。
 イエス・キリストは、ヨハネがその福音書の冒頭で、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
ヨハネの福音書1章1節〜3節

とあかししている、永遠の「ことば」である方です。父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちに充足しておられる方であり、その充満な豊かさによって、すべてのものを満たしておられる方です。ヨハネの福音書1章16節で、

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

とあかしされているとおりです。
 私たちが考える神の国がどんなに豊かな御国であっても、その豊かさの源は、御子イエス・キリストです。神の国を成り立たせ、支えてくださり、満たしてくださっておられるのは、御子イエス・キリストです。
 私が、旧約聖書の全体が、最終的には、御子イエス・キリストをあかししているということを理解し受け入れることができなかったのは、私が御子イエス・キリストをどなたであるか知らなかったからです。トマスが、イエス・キリストに向かって、

私の主。私の神。

と告白した告白の重さを、万分の一も理解できていなかったからに他なりません。
 御言葉を通して、御子イエス・キリストの栄光を知るようになるにしたがって、私にも、旧約聖書の全体が、最終的には、御子イエス・キリストをあかししているということが、当然のこととして理解できるようになってきました。そして、同じ論理で、新約聖書が御子イエス・キリストをあかししているということも理解できるようになりました。

 聖書全体が御子イエス・キリストをあかししているのであれば、聖書の御言葉を理解するための鍵は、トマスが、十字架にかかって死んだ後、死者の中からよみがえられた栄光のキリストに出会って、

私の主。私の神。

告白したのと同じように、御子イエス・キリストの現実に触れることによって、御子イエス・キリストを知ることです。御子イエス・キリストを知ることなしに聖書を読むことは、望遠鏡なしに、天体観測をするようなものです。それでは、自分の目に見えることだけしか見えません。
 そうであるとしますと、旧約聖書の中心にあります神さまの律法も、最終的には、御子イエス・キリストをあかししているということになります。それは、たとえば、罪の贖いやきよめのためのいけにえのことを定めている、律法の書の一部が、イエス・キリストをあかししているというだけのことではありません。聖書に記されている神さまの律法のすべてが、イエス・キリストをあかししているのです。
 このように言いましても、確かにそういうことになるということは分かっても、具体的にどのようなことかはよく分からないという気がします。確かに、そのことを私たちが頭で理解することは難しいことです。しかし、それが、具体的にどういうことであるかを示すことがあります。それは、御霊が、神さまの律法を私たちの心に記してくださると、私たちが御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていくようになるという事実です。

 このことを、コリント人への手紙第二・3章12節〜15節に記されていることに照らして見てみましょう。そこでは、

このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

と言われています。
 ここで、「古い契約が朗読される」とか「モーセの書が朗読される」というのは、神である主が、シナイの山でモーセを通して与えてくださった律法が朗読されること、すなわち、外側から教えられることを意味しています。
 また、「モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けた」と言われているのは、出エジプト記34章29節〜35節に、

それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

と記されていることを受けています。
 モーセは、神である主が与えてくださった「二枚のあかしの石の板」をその手に持って、シナイの山から降りてきました。その時、シナイの山の上で、そこにご臨在される神である主と語り合ったことによって、モーセの「顔のはだが光を放った」と言われています。
 これは、神である主の栄光のご臨在に触れる者が、その栄光を汚す者としてさばきを受けて滅ぼされてしまうか、そうでなければ、贖いの恵みによって、その栄光に触れるのにふさわしい栄光をもつ者に変えられる── すなわち、栄光化されるということのうち、後者の、モーセが主の贖いの恵みによって、栄光のご臨在に触れるのにふさわしい者として栄光化されていたことを意味しています。
 けれども、ここでは、注意深く、モーセの「顔のはだ」が光を放っていたということが、繰り返し語られています。それは、「顔のはだ」が光を放っていただけであるということです。しかも、この時にそうなっただけであって、やがてそのような状態はなくなっていきました。

 このことを受けて、コリント人への手紙第二・3章13節では、モーセは、「消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けた」と言われています。さらに、14節では、

しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。

とも言われています。

 ここには「おおい」がかけられている状態のことが出てきます。それは、モーセの「顔のはだ」が光を放っていたことが一時的であり、それによって示されている栄光がやがて消え去ってしまう栄光でしかなかったことを示すとともに、「イスラエルの人々の思いは鈍くなった」と言われていることを示すものです。
 この、「おおい」がかけられている状態によって示されている、一時的で消え去るべき栄光と、思いや考えが鈍くなってしまっている状態は、「今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。」と言われていますように、古い契約の限界によるのです。古い契約の限界は、6節〜8節で、新しい契約の豊かさとの比較で、

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。

と言われています。
 古い契約の律法は「石に刻まれた文字による」もので、それに仕えることは「死の務め」であると言われています。それは、律法が人間の死を生み出したという意味ではありません。人間の死は、人間が造り主である神さまに対して罪を犯したことによって生み出されたものです。律法は、神さまに対して罪を犯している人間を死に定めるだけです。律法は、それによって神さまの義を確立します。
 その一方で、古い契約の律法は、いけにえの制度によって、罪の贖いを規定しています。それによって、罪がもたらすさばきを代わりに受けていのちの血を注ぎ出すものが備えられ、贖いがなされて、神さまとの交わりが回復されることが約束されています。これによって、律法が求める義ガ確立されつつ、罪の赦しによるいのちへの道が開かれています。

 モーセが神である主と語り合ったために、その「顔のはだ」が光を放っていたというのは、罪の贖いによって確立される神さまとのいのちの交わりがもたらす栄光を示しています。けれども、モーセが仕えていたのは、古い契約でした。古い契約のうちに備えられた動物の血による贖いは、本物の「模型」でしかありませんでした。
さらに言いますと、出エジプト記19章16節〜18節で、

3日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。 ・・・・ シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

とあかしされている主の栄光のご臨在も、古い契約の「模型」であるために、感覚的に捉えられるご臨在でした。
 それで、そのご臨在に接したモーセも、内側から栄光あるものに造り変えられたのではなく、「模型」のように、一時的に「顔のはだ」が光を放っただけだったのです。
コリント人への手紙第二・3章14節では、一時的で消え去るべき栄光と、イスラエルの民の思いが鈍くなってしまっている状態を表わす「おおい」は「キリストによって取り除かれるもの」であると言われています。
 文字による古い契約の限界の中では、イスラエルの民の思いが鈍くなってしまっていた状態を罪に定めても、その状態を変えることはできませんでした。しかし、新しい契約においては、イエス・キリストが十字架の死をもって成し遂げられた贖いの御業に基づいて働かれる御霊が、私たちを心の内側からまったく新しく造り変えてくださいます。
 そのことを、私たちは、心に神さまの律法が書き記されることと理解しています。それは、全体として人格的なまとまりをもっていて、最終的には、御子イエス・キリストご自身を映し出す神さまの律法が心に記されるということですから、私たちが御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられることを意味しています。
 さらに、文字による古い契約の限界の中では、モーセが「模型」の形で示された神である主のご臨在の御前に立って、一時的に「顔のはだ」が光を放っただけでした。しかし、新しい契約においては、栄光のキリストの御霊が、私たちを、真に、栄光の主── すなわち、トマスが、「私の主。私の神。」と告白した方のご臨在の御前に立たせてくださり、その方── すなわち、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださいます。
 この二つは、一つのことの裏表で、18節では、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて鏡のように主の栄光を反映させながら

とまとめられており、さらに、

栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と言われています。

 


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