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説教日:2000年2月20日 |
きょうも、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間の心に記され、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの御業を通して、私たちの心に回復されつつある神さまの律法、すなわち「愛の律法」について、これまでお話ししたことを補足しながらお話しします。 これまで、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さまの律法である「愛の律法」は、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものに浸透しており、すべてのものを覆っている、広い意味での神さまの「法」の一つであると分類されることをお話ししてきました。 神さまがお造りになったこの世界には、人間の想像を絶する、多様で複雑な存在があります。神さまの「法」は、その一つ一つを、それぞれに固有の本質と特性において生かしているものです。その一方で、神さまがお造りになったこの世界では、多様な存在が複雑に絡み合って存在しています。けれども、混乱することなく、全体的な調和のうちに存在しています。それも、この世界のすべてのものが、神さまの「法」によって支えられ、導かれているからです。 その中で、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さまの「法」は、「神のかたち」の本質が自由な意志をもつ人格的な存在であることにありますから、人格的で、倫理的な性格をもっている「法」です。そのような神さまの「法」を、私たちは、律法と呼んでいます。 神さまの律法が人格的なものであるということにつきましては、すでにいくつかのことをお話ししてきましたが、きょうは、神さまの律法が全体として、イエス・キリストを映し出すものであるということをお話ししたいと思います。 律法と言いますと、さまざまな規定や戒めなどで成り立っているというイメージがあります。確かに、律法にはさまざまな規定や戒めがあります。けれども、神さまの律法は、単に、規定や戒めの寄せ集めなのではありません。 神さまの律法には全体としてのまとまりがあります。 神さまの律法の全体は、一般に「十戒」として知られている10の戒めにまとめられます。そのうちの第一戒から第4戒までの4つの戒めは、神さまとの関係の在り方を示すものです。それをさらにまとめますと、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めになります。 そして、十戒の第5戒から第10戒までは、人との関係の在り方を示すものです。それをさらにまとめますと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めになります。 これですと、律法は、この二つの戒めに尽きることになります。しかし、この二つの戒めが求めているのは、契約の神である主と隣人を愛することですから、機械的に守ることのできるものではありません。その愛は、「神のかたち」に造られていて、人格的な存在である私たちの自由な意志から生み出されるものです。ですから、この二つの戒めのさらに奥には、「神のかたち」に造られている人間が、自由な意志をもつ人格的な存在であるという事実があるのです。 これを逆の順序で見ますと、まず、「神のかたち」に造られていて自由な意志をもつ人格的な存在である人間がいます。その人間の本質的な特性は愛であり、その愛が造り主である神さまと隣人に向かって表現されるということが、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めによって示されています。 そして、造り主である神さまへの愛と隣人への愛が、基本的に、どのような事柄において表現されるものであるかということが、十戒の10の戒めによって示されています。さらに、それが、より具体的な、さまざまな状況の中で、どのように表現されるかということが、律法のさまざまな戒めを通して示されています。 このようなつながりを見ますと、神さまの律法は、「神のかたち」に造られている人間の人格がどのようなものであるかを示していることが分かります。神さまの律法は、「神のかたち」に造られていて、自由な意志をもつ人格的な存在である人間の本来の姿を映し出しているのです。 そして、神さまは、永遠の聖定において、「神のかたち」に造られていて、自由な意志をもつ人格的な存在である人間が、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた時の状態より、さらに栄光に満ちたものとなって、神さまの御前にさらに近づき、神さまとのより豊かな愛にある交わりに生きるようになるように定めてくださいました。その、より栄光に満ちた「神のかたち」の完成した姿が、御子イエス・キリストの栄光のかたちです。 ですから、御子イエス・キリストが、ご自身の十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちをご自身の栄光のかたちに造り変えてくださるに従って、私たちは、私たちの心に回復されつつある神さまの「愛の律法」を全うすることができるようになります。 このことは、これまで、しばしば引用してきました、コリント人への手紙第二・3章17節、18節の、 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 という御言葉を結論とするコリント人への手紙第二・3章に示されています。 この17節、18節では、御子イエス・キリストが十字架の死を通して成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによって、私たちが御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていくことが述べられています。これは、将来のことではなく、今すでに、私たちのうちで始められている御霊のお働きです。 私たちが御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられることは、神さまが、永遠の聖定において私たちを神の子どもとしての身分をもち、その実質が御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださったことが実現することを意味しています。 実は、このことを述べているコリント人への手紙第二・3章を全体として見てみますと、そこで取り上げられているのは神さまの律法のことなのです。 3節では、 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。 と言われています。 ここで、「キリストの手紙」の「キリストの」という言葉は二つのことを表わしています。 第一に、この「キリストの手紙」の著作者がイエス・キリストであるということです。パウロは、自分たちが「キリストの手紙」に関わっていることを「私たちの奉仕による」という言葉によって示しています。この言葉は、パウロたちはその手紙の著作者ではなく、著作者に用いられている「手段」であるということを示しています。 第二に、「あなたがた」と呼ばれているコリントのクリスチャンたちが、「キリストの手紙」としてキリストのものであり、キリストのものとしての特性を表わしているということです。これに先立つ2章14節、15節では、 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。 と言われていますが、それが、コリントのクリスチャンたちにも当てはまるわけです。 ここでは、「あなたがたが ・・・・ キリストの手紙であり」と言われていて、コリントのクリスチャンたちが── コリントのクリスチャンたちという具体的な人間が、「キリストの手紙」であると言われています。これは、ただ単に、コリントのクリスチャンたちが語ることやすることが「キリストの手紙」としてイエス・キリストをあかしし表わしているというだけではありません。そのことも含みつつ、コリントのクリスチャンたち自身が「キリストの手紙」であり、イエス・キリストを表わしあかししているというのです。 このことは、先ほど引用しました18節で、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と言われていることを、「キリストの手紙」というたとえをもって言い換えたものに他なりません。 3節では、この「キリストの手紙」は、「墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ」たと言われており、さらに、「石の板にではなく、人の心の板に書かれた」と言われています。これによって、「墨によって」「石の板に」書かれた手紙と、「生ける神の御霊によって」「人の心の板に書かれた」手紙が対比されています。 「石の板」は、当時においても、手紙の一般的な材料ではありませんでしたから、それは、単なる手紙ではなく、特別なものを指していると考えなければなりません。 また、6節〜8節において、 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。 と言われていて、「石の板」に書かれたものに仕えることが新しい契約に仕えることと対比されており、古い契約の中でも、モーセを通して与えられた契約に仕えることと対比されています。 ですから、この「石の板」は、シナイにおいて、モーセを通して与えられた、一般に「シナイ契約」と呼ばれる契約の文書ことを示していると考えられます。神である主は、エジプトの奴隷の身分から贖い出されたイスラエルの民と、シナイにおいて契約を結ばれた時に、律法を与えてくださいました。それが十戒を中心とする「モーセ律法」です。 これに対しまして、「石の板にではなく、人の心の板に書かれた」ということは、旧約聖書に預言されている新しい契約が、コリントのクリスチャンたちのうちに成就していることを示しています。 「人の心の板に書かれた」の「人の心」(カルディア・サルキネー)は、新改訳の欄外にありますように、直訳では「肉の心」です。それで、この部分は、 墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、肉の心の板に書かれた となります。 これは、おもに、新しい契約についての二つの預言を背景にして語られていると考えられます。 第一は、エレミヤ書31章31節〜34節の、 見よ。その日が来る。── 主の御告げ。── その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。── 主の御告げ。── 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。── 主の御告げ。── わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。── 主の御告げ。── わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。 という御言葉です。 この新しい契約の預言の中心に当たる、33節の「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」の「心に ・・・・ 書きしるす」がコリント人への手紙第二・3章3節に取り入れられています。 エレミヤ書31章32節では、「石の板」に書かれていて外側から与えられた律法の不十分さのことが、 わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。 と言われています。「石の板」に書かれていて外側から与えられた律法は、人の心そのものをきよめて、新しく造り変えることはできないのです。 人の心を造り変えることは、33節で、 わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。 と言われていることによって実現します。 ここで大切なことですが、これは、神さまの律法の内容を変更することではなく、神さまの律法が与えられる方法が変わること── 外側から与えられることから、その人の心に記されることに変わるということです。 もう一つの背景は、エゼキエル書11章19節、20節の、 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。 という言葉と、36章25節〜27節の、 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。 という言葉です。 11章19節と36章26節で「肉の心を与える」と言われていますが、旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳では、この「肉の心」という言葉は、コリント人への手紙第二・3章3節の「肉の心」と同じ言葉です。 また、11章19節と36章26節では、主がご自身の民に「新しい霊」を与えてくださると言われています。この「新しい霊」は、36章27節で「わたしの霊」と言われていますから、神である主の御霊のことです。新しい契約の下では、主の御霊が主の民のうちに与えられるというのです。コリント人への手紙第二・3章3節では、このことを背景として、「生ける神の御霊によって書かれ」と言われていると考えられます。 エゼキエル書11章19節、20節でも、36章25節〜27節でも、主が「肉の心」と「新しい霊」すなわちご自身の御霊を与えてくださることによって、主の民が主の律法に従って生きるようになると言われています。 このように、コリント人への手紙第二・3章3節では、エレミヤ書31章31節〜34節と、エゼキエル書11章19節、20節、36章25節〜27節に記されている新しい契約の祝福の預言が、私たちのうちに成就していることが示されています。具体的には、私たちに主の御霊が与えられ、その御霊によって、神さまの律法が私たちの心に記されるようになりました。それによって、私たちが神さまの律法に従って歩むようになったというのです。 さらに、これによって、私たちが、「キリストの手紙」としてキリストのものとなり、キリストを表わしあかしするものとなっていると言われています。それは、ただ単に、私たちが神さまの律法の戒めに従うものとなるというだけのことではありません。私たち自身が、イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられるということです。このことが、3章17節、18節の、 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 という結論へとつながっていきます。 これらのことから、神さまの律法である「愛の律法」は、ただ単に、さまざまな戒めの集大成で終わるものではなく、その全体が、イエス・キリストの栄光のかたちを映し出すものであることが分かります。 そして、私たちに与えられている御霊が、私たちの心に「愛の律法」を記してくださり、私たちをそれに従って歩ませてくださることを通して、私たち自身が御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていきます。 また、先ほどお話ししましたように、その逆も真なりです。御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業に基づいて働かれる御霊のお働きによって、私たちが御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていくに従って、私たちのうちに神さまの「愛の律法」が全うされるようになっていきます。 |
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