(第37回)


説教日:2000年2月13日
聖書箇所:エペソ人への手紙4章1節〜16節


 きょうも、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さま律法について、これまでお話ししてきたことを補足しながらお話ししたいと思います。
 これまで、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さまの律法は、広い意味での神さまの「法」の一つとして分類されるということをお話ししてきました。
 広い意味での神さまの「法」は、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものに浸透しており、すべてのものを覆っています。そして、この世界のすべてのものをそれぞれに固有の本質と特性に従って生かしているものです。
 神さまがお造りになったこの世界には、私たちの思いをはるかに越えた、多様で複雑な存在がありますが、神さまの「法」は、その一つ一つを、それぞれに固有の本質と特性において生かしているものです。その一方で、神さまがお造りになったこの世界では、多様な存在が複雑に絡み合っていながら、混乱することなく、全体的な調和のうちに存在しています。それも、この世界のすべてのものが、神さまの「法」によって支えられているからに他なりません。
 この世界にある多様な存在の一つ一つが、それぞれに固有の本質を保ち、固有の特性を発揮しながら存在していることを、神さまがお造りになった世界の「多様性」と呼びます。これに対しまして、この世界で、多様な存在が複雑に絡み合っていながら、混乱することなく、全体的な調和のうちに存在していることを、神さまがお造りになった世界の「統一性」と呼びます。神さまがお造りになったこの世界においては、「統一性」は「多様性」を損なわず、「多様性」も「統一性」を損なうことがありません。「統一性」と「多様性」がともに生かされています。


 このことは、教会の歴史の早い時期から考えられてきたことですが、また、以前、お話ししたことですが、この世界が三位一体の神さまの御手の作品として、神さまの存在を映し出していることによっていると考えられています。
 神さまが3位一体の神さまであられることがどのようなことであるかは、人間の知性では完全に理解することはできません。神さまは、存在においても、属性においても、栄光においても、無限、永遠、不変な方です。それに対して、人間は、有限であり、時間の流れの中にあり、変化するものです。そのような、限りのある人間の知性ですべて捉えることができる「神」があるとしたら、それは、人間以下の存在であって、もはや「神」とは呼べません。
 私たちが、どこまで神さまのことを知ることができるかと言いますと、神さまが、聖書の御言葉を通してご自身のことを啓示してくださっておられる限りのことです。とはいえ、神さまが御言葉を通して示してくださっておられることは、本当に広くて深いことですから、神の子どもたちが教会の歴史を通して探り続けてきましたが、なお、すべてを理解してしまったということはありません。
 その御言葉は、神は唯一であって、他に神はいないことを示しています。それと同時に、父なる神さまがまことの神であり、御子がまことの神であり、御霊がまことの神であることを示しています。さらに、父なる神さまと御子と御霊は区別される方であることも示しています。
 この三つのことが同時に示されていますので、教会は、それを三位一体の教理として整理し、理解してきました。その際、神さまが唯一であることを、神さまの「実体」あるいは「本質」はただ一つであると理解し、父なる神さまがまことの神であり、御子がまことの神であり、御霊がまことの神であるとともに、それぞれが区別されることは、「位格」あるいは「人格」における区別であると理解しています。
 これは、私たちには矛盾したことと写ります。父なる神さまがまことの神であるのは、父なる神さまが神の「実体」あるいは「本質」をもっておられるからです。同じように、御子も神の「実体」あるいは「本質」をもっておられますし、御霊も神の「実体」あるいは「本質」をもっておられます。それでは、神の「実体」あるいは「本質」が三つあることになるはずなのに、そして、そうなると、三つの神があることになってしまうのに、神の「実体」あるいは「本質」は唯一であり、神は唯一であるというのです。
 これが矛盾と写るのは、人間が数の概念を離れてものを考えることができないという、人間の限界によっています。私たちは、空気を一つ二つ ・・・・ と数えることはできません。あるものが数えられるためには、それがどこかで区切られていなくてはなりません。私がひとりの人間であるのは、私がこの時ここにあるだけの存在であるからです。私には、ここまでが私であるという限界があるので、私を一個の人間として数えることができます。
 このように、人間が数えることができるのは、神さまがお造りになったこの世界にある、限りがあるものだけです。空気さえも、「地球の空気」という形で区切れば、それをひとまとめにして数えられます。ところが、神さまは無限、永遠、不変の方です。神さまには、ここまでが神さまであるというような限界がありません。それで、神さまは、どのようにしても数えることはできません。
 けれども、私たちは、生きている具体的な存在というと、どうしても、人間や動物のように、数えられるものしか考えられません。神さまは、私たちにそのような限界があるにもかかわらず、ご自身を生きておられる方として示してくださいました。神さまは、私たちが、ご自身のことを、生きた具体的な方として知ることを望んでおられるからです。そのために、私たちは、本来、数えることができない神さまに、三と一という数を当てはめて考えているわけです。── 父なる神さまと御子と御霊が区別されると言いますと、私たちは、三つの人格としてしか、考えることができません。
 三位一体の神さまにおいては、神の「実体」あるいは「本質」は唯一であり、神は唯一である、ということに見られる「統一性」と、父なる神さまがまことの神であり、御子がまことの神であり、御霊がまことの神でありつつ、それぞれが区別される、ということに見られる「多様性」は、完全に調和していますし、永遠に損なわれることがありません。
 このような、三位一体の神さまの存在の特性は、神さまがお造りになったこの世界に反映しています。それで、この世界にある多様な存在の一つ一つが、それぞれに固有な本質を保ち、固有な特性を発揮しながら存在していると同時に、その多様な存在が複雑に絡み合っていながら、混乱することなく、全体的な調和のうちに存在しています。

 このように、神さまがお造りになったこの世界は、三位一体の神さまの存在の在り方をを反映しています。その意味で、この世界には「神のかたち」の痕跡が認められると言われています。そして、今お話ししていることとの関わりで言いますと、神さまがお造りになったこの世界を、このような「多様性」と「統一性」の調和のうちに保っているのが、広い意味での神さまの「法」です。
 このような世界の中にあって、人間は、まさに「神のかたち」に造られています。ですから、「神のかたち」に造られている人間においてこそ、「統一性」と「多様性」の完全な調和のうちにある三位一体の神さまの存在の特質が最も豊かに、また鮮明に反映しているはずです。そして、「神のかたち」に造られている人間が、このような意味で、三位一体の神さまの存在のかたちを反映することは、人間の心に記されている神さまの律法を通して現実のものとなります。
 それについてお話しする前に、人格的な存在ではないものの間に見られる「統一性」と「多様性」について見てみましょう。たとえば、生き物について言えば、生物学的な分類によって分かりますように、さまざまな種類の生き物が系統だって存在しています。同じことは、植物にも当てはまります。そこに、「統一性」と「多様性」の調和が見られます。また、実際の生態系におきましても、複雑な絡み合いをもって、生き物たちと植物たちの営みが続けられています。
 これらのものの間に見られる「統一性」と「多様性」の調和を見てみますと、植物で言えば、それぞれの植物の性質は決まっています。そして、置かれた環境によってさらに規制される中で、それぞれの性質にしたがって生長しながら、さまざまな関わり合いをしています。いわば、植物の場合には、それぞれの性質が、広い意味での神さまの「法」を表現していて、それによって、「統一性」と「多様性」の調和が保たれているわけです。
 また、生き物たちは、動き回ることがありますので、植物より複雑なところがあります。けれども、それぞれの本能によって行動が規制され導かれていますので、そこに一定の秩序と調和が生まれてきています。ですから、生き物たちの場合には、それぞれの本能が、広い意味での神さまの「法」を表現していて、それによって、「統一性」と「多様性」の調和が保たれているわけです。
 これに対しまして、「神のかたち」に造られている人間の場合は、「神のかたち」の本質が、自由な意志をもつ人格的な存在であることにありますから、人間の間に生み出される「統一性」と「多様性」の表われには、それぞれの人間の自由な意志が関わっていて、生き物たちの場合よりも、はるかに複雑です。── そのような人格的な「多様性」が十分に生かされつつ、「統一性」が実現することによって、三位一体の神さまの存在の特質である「統一性」と「多様性」の完全な調和が、より豊かに反映されるようになります。
 植物や生き物たちの場合には、それぞれの植物に与えられている性質や、それぞれの生き物に与えられている本能的な性質が、広い意味での神さまの「法」を表現していて、それによって、「統一性」と「多様性」の調和が保たれています。人間の場合にも、人間に関わる神さまの「法」である律法、すなわち、「愛の律法」が、人間の社会に生み出される「統一性」と「多様性」の調和を保ちます。
 もちろん、それは、天地創造の初めに、人間が「神のかたち」に造られた時の、人間の本来の姿におけることです。実際には、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまった結果、人間の間に生み出されるべき「統一性」と「多様性」の調和は破られてしまっています。罪による堕落後の人類の歴史においては、無限の包容力をもっておられる神さまではなく、限りがあるだけでなく、罪によって自己中心的になっている人間が「統一」を図るために、常に、「統一」の名の下に、個々の人間の個性や特質が抑圧され、ある目的のために画一化され、規格化されてきました。そして、時の権威者の規格に合わない者が疎まれ、抑圧されてきました。その一方では、秩序が乱されることによって、社会が腐敗し弱体化して、かえって、悪しき全体主義を生み出すこともありました。

 「神のかたち」に造られている人間が、その本来の姿において生み出すべき「統一性」と「多様性」の調和は、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまったことによって損なわれてしまっていますが、御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業によって回復されています。それは、キリストのからだである教会において、実現すべきものです。
 そのようなことを示す御言葉の教えはいくつかありますが、エペソ人への手紙4章1節〜16節を見てみましょう。
 まず、1節〜6節では、

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

と言われています。
 これは、御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって神の子どもとされている者たちの間に生み出されるべき「一致」すなわち「統一性」の姿を示しています。それは、贖いの御業を通して回復されている神さまとの交わりを中心とする一致です。その神さまとの交わりを土台として、

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

という、お互いに対する愛が具体的な形を取って表現されることによって、一致(統一性)が生み出されるわけです。
 この意味で、御子イエス・キリストの贖いの御業に基づいて、キリストのからだである教会において回復されている神の子どもたちの間における一致(統一性)は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」が神の子どもたちのうちに回復され、神の子どもたちがそれに導かれて生きることによって実現します。
 さらに、エペソ人への手紙4章7節〜11節では、

しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こう言われています。
「高い所に上られたとき、
彼は多くの捕虜を引き連れ、
人々に賜物を分け与えられた。」
── この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。── こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

と言われています。
 これは、十字架の死による罪の贖いを成し遂げ、私たちを復活のいのちに生かしてくださるためによみがえられた栄光の主イエス・キリストが、私たちそれぞれに与えてくださる賜物における「多様性」を示しています。
 当然、これらの多様な賜物は、神の子どもたちのうちに回復されている「愛の律法」に導かれることによって生み出される「御霊の一致」(統一性)の中で用いられることが期待されます。コリント人への手紙第一・12章4節〜7節で、

さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。

と言われているとおりです。
 「みなの益となるために」と言われていますように、「御霊の賜物」は、自己目的的なもの── その賜物を与えられた人を誇らせるためのものではなく、その人が愛をもって仕えるためのものです。言い換えますと、その人が「愛の律法」に導かれて生きることを具体化するための手段です。その人は、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって神の子どもとされていますが、「愛の律法」に導かれて、「御霊の賜物」をもって仕えることを通して、御子イエス・キリストの栄光のかたちに向かって成長していきます。 ── それによって、神さまの永遠の聖定において定められたことが実現します。

 このことは、神の子どもたちそれぞれに実現するだけではありません。キリストのからだである教会の全体においても実現することです。そのことは、エペソ人への手紙4章では、続く、12節〜16節で、

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

と言われています。特に、最後の部分の、

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

という言葉だけに注目しますと、その最初に出てくる、「キリストによって」(直訳「この方から」)という言葉によって、「からだ全体」の成長の源が栄光のキリストであることが示されています。
 「からだ全体」を組み合わせ、結び合わせる「備えられたあらゆる結び目」は単数で、一つ一つの結び目、すなわち、私たち一人一人のことです。しかも、「備えられた」は、むしろ「備える」あるいは「支える」で、一つ一つの結び目がお互いを支えていることを示しています。また、「一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により」は「一つ一つの部分の力量にふさわしい働きによって」ということで、それぞれの賜物が生かされることによって、「からだ全体」が「愛のうちに建てられる」ことを示しています。
 このように、キリストのからだである教会の成長においては、個々の賜物や特性が、それぞれにふさわしく生かされています。誤った全体主義のために、個々の賜物や特性が押しつぶされてしまうようなことがあってはなりません。
 そして、キリストのからだである教会に連なる一人一人が、「愛の律法」に導かれて、それぞれの賜物を生かして仕え合うことによって、それぞれが御子イエス・キリストの栄光のかたちに成長するだけでなく、キリストのからだである教会全体も、かしらであるキリストのかたちに成長していくのです。その点にも、御子イエス・キリストの贖いを通して回復されている神の子どもたちの間に実現している「統一性」と「多様性」の調和があります。

 


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