(第36回)


説教日:2000年2月6日
聖書箇所:コロサイ人への手紙2章13節〜23節


 神さまは、永遠の聖定において、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださり、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださいました。これが、私たちに対する神さまのすべてのみこころの 源であり、すべてのみこころが目指している到達点です。
神さまは、このような私たちに対する永遠の聖定を実現してくださるため、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになりました。私たちが「神のかたち」であることが、神さまが永遠の聖定において私たちのために定めてくださったことの、最初にして最も重要な現われです。
 生きた人格的な神さまのかたちとして、「神のかたち」の本質は、自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。また、愛を本質的な特性とする神さまのかたちとして、「神のかたち」の本質的な特性は愛です。
 神さまは、「神のかたち」に造られている人間が、自由な意志をもつ人格的な存在として、愛の特性を発揮して生きるようになるために、人間の心に、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」を記してくださいました。


 きょうも、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さま律法について、これまでお話ししてきたことを補足しながらお話ししたいと思います。
 これまで、「神のかたち」に造られている人間の心に記された神さまの律法は、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものを貫いており、すべてのものを覆っている、広い意味での神さまの「法」の一つとして分類される、ということをお話ししてきました。この広い意味での神さまの「法」には、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている律法や、物質の成り立ちから宇宙の成り立ちや構造に至るまでの、自然界のさまざまな法則、さらには、人間の社会や歴史を律しているさまざまな原理や法則などが含まれています。この、広い意味での神さまの「法」は、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものを、それぞれに固有の本質と特性において生かしているものです。
 このような、広い意味での神さまの「法」の根底には、神さまの「契約」があります。
 この世界のすべてのものをお造りになった神さまは、ご自身がお造りになった一つ一つのものに真実に心をかけてくださっておられます。そのことは、神さまの契約によって約束され、保証されています。
 そのような契約があることは、これまで繰り返し引用してきました、エレミヤ書33章20節〜22節の、

主はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。

という御言葉や、25節、26節の、

主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの捕われ人を帰らせ、彼らをあわれむ。」

という御言葉から知ることができます。
 また、ノアの時代に、それまでの人類の歴史全体を洪水によるさばきによって清算された神さまが、ノアに、

さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。
創世記9章9節〜11節

と言われた御言葉においても、神さまが、人間だけでなく、すべての生き物たちにも、契約を結んでくださっておられることが示されています。また、13節には、「わたしと地との間の契約」という言葉も出てきます。

 「神のかたち」に造られている人間の心に記されている律法、自然界のさまざまな法則、人間の社会や歴史を律しているさまざまな原理や法則などを含む、広い意味での神さまの「法」は、神さまの契約の中に位置づけられます。
 天地創造の御業において、神さまは、この世界のすべてのものを、ご自身との契約の中にあるものとして造り出してくださいました。神さまの契約によって約束されており、保証されている、神さまの真実な心遣いとご配慮は、天地創造の御業の初めから、造られた一つ一つのものに向かって注がれています。そして、神さまが、ご自身の契約に基づいて、お造りになったすべてのものを、真実に心にかけてくださり、一つ一つのものを、それぞれの本質と特性に従って支えてくださり、生かしてくださるためにお用いになっておられるのが、広い意味での神さまの「法」です。
 神さまは、ご自身がお造りになった一つ一つのものが、それ自体として、安定しているものとしてお造りになりました。また、それらが複雑に関わり合っているこの世界の全体を、調和しているものとしてお造りになりました。
 この世界にある一つ一つのものを、それ自体として、安定しているものとしてお造りになり、全体としても調和のうちにあるようにお造りになったのは神さまですし、そのようなものとして支えておられるのも神さまです。私たちは、そこに、造り主である神さまがお定めになった「法」を認めます。そして、この世界のすべてのものを貫いており、覆っている神さまの「法」は、神さまの契約に約束されており、保証されている神さまの真実な心遣いとご配慮の表われであると告白しています。

 そのような神さまの真実な心遣いとご配慮の中心にあるのは、「神のかたち」に造られていて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。
創世記1章28節

という「歴史と文化を造る使命」を委ねられている人間です。
 そのことは、先ほどの、ノアの時代に、すべての生き物と結ばれた神さまの契約── 神さまの真実な心遣いとご配慮を約束し、保証する契約が、「神のかたち」に造られていて、すべての生き物を治める使命を委ねられている人間であるノアに語られていることに表われています。
 「神のかたち」に造られて、「歴史と文化を造る使命」を委ねられている人間は、自分に委ねられたすべての生き物が、造り主である神さまの真実な心遣いとご配慮の下にあることを深く心に留めなくてはなりません。それは、「神のかたち」に造られている人間が生き物たちに仕えることによって、造り主である神さまの生き物たちへの心遣いとご配慮を身をもってあかしするようになるためであって、生き物たちを搾取することに「お墨付き」を与えるものではありません。
 その使命を果たすことは、また、先週も引用しました、

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
マタイの福音書6章26節

というイエス・キリストの御言葉に示されていますように、造り主である神さまのより深い心遣いとご配慮が、「神のかたち」に造られている人間に向けられていることを人間に教え、実感させることにもなるのです。

 これらのことから、改めて、二つのことを確認しておきたいと思います。
 第一に、神さまの契約に約束されており、保証されている、神さまの真実な心遣いとご配慮は、神さまがお造りになったすべてのものに向けられています。けれども、神さまの真実な心遣いとご配慮の中心は、「神のかたち」に造られている人間にあります。それは、神さまの永遠の聖定において、私たちをご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださったことから出ています。
 このことをどのように呼んだらいいのか分かりませんが、よい意味での「人間中心」と呼んだらいいのではないかと思われます。言うまでもなく、これは造り主である神さまの真実な心遣いとご配慮の中心に「神のかたち」に造られている人間があるということです。従って、これは、「神中心」と対立する「人間中心」ではありません。
 第二に、そのような神さまの真実な心遣いとご配慮を具体的なかたちで表現する、広い意味での神さまの「法」は、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものを、それぞれに固有の本質と特性において生かしているものです。
 そして、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている律法は、そのような、広い意味での神さまの「法」の枠の中に位置づけられます。それで、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さまの律法は、「神のかたち」に造られている人間が、自由な意志をもつ人格的な存在として、その本質的な特性である愛のうちに生きるようになるために記されたものです。
 このことから、神さまの「法」は、実に広範で多種多様なものの一つ一つに、それぞれの特性を与えており、それを安定的に支えているものであることが分かります。
同時に、そのような多種多様なものも全体として見ますと、見事な調和のうちに保たれています。全体としての調和が保たれているということは「統一性」があるということです。その「統一性」は、この世界に存在するすべてのものが、神さまの「法」によって、それぞれの本質と特性と位置を与えられ、支えられているということから来ています。
 このことのうちに、神さまの「法」の特質を見ることができます。神さまの「法」は、この世界のすべてのものの複雑な絡み合いを見事な調和のうちに保ちつつも、一つ一つのものに固有な本質と特質を生かしているものです。「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さまの「法」としての律法も、そのような特質をもった神さまの「法」の一つとして分類されるものです。
 先ほども触れましたように、神さまは、天地創造の初めに「神のかたち」にお造りになった人間に「歴史と文化を造る使命」をお委ねになり、ご自身がお造りになったこの世界を治めるものとしてくださいました。この世界は、契約に約束され、保証されている神さまの真実な心遣いとご配慮が向けられている世界ですし、神さまの「法」によって、全体的な調和と、一つ一つのものに固有な本質と特性が十分に生かされ、保たれている世界です。
 「神のかたち」に造られている人間は、神さまがお造りになったこの世界を観察し、より深く知るようになることを通して、神さまの「法」が、この世界のすべてのものの複雑な絡み合いを見事な調和のうちに保ちつつ、なおも、一つ一つのものに固有の本質と特質を生かしているものであることを理解するようになります。そして、そのような特質をもった神さまの「法」が、自分たちの心にも記されていることを理解するようになります。
 先ほど、よい意味での「人間中心」ということを言いましたが、神さまの「法」が、この世界のすべてのものの複雑な絡み合いを見事な調和のうちに保ちつつ、なおも、一つ一つのものに固有の本質と特質を生かしていることは、この世界の中にあるもののうちで、「神のかたち」に造られている人間だけが知ることができることです。
 この意味で、神さまが「神のかたち」に造られている人間に「歴史と文化を造る使命」をお委ねになった目的の一つは、私たちが、神さまがお造りになったこの世界をより深く知るようになることを通して、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さまの律法にも、このような特質があること── すべてのものを全体的な調和のうちに保ちながら、その一つ一つのものに固有な本質や特性を十分に生かしているものであるということを理解するようになるためであると考えることができます。

 神さまがお造りになったこの世界にあっては、「神のかたち」に造られている人間が、自由な意志をもつ人格的な存在です。そして、愛を本質的な特性とする神さまのかたちとしての人間の本質的な特性は愛です。「神のかたち」に造られている人間の心に記されている「愛の律法」は、本来、人間が、そのような「神のかたち」としての本質と特性を発揮して生きるように支える神さまの「法」です。
 神さまの「法」は、この世界にあって、人格的な存在ではない、実にさまざまな存在をも、全体的な調和のうちに保ちながら、一つ一つのものに固有な本質や特性を十分に生かしているものです。そうであれば、より優れた神さまの「法」である「神のかたち」に造られている人間の心に記されている「愛の律法」は、なおのこと、人間を、自由な意志をもつ人格的な存在としての本質において生かし、愛のうちに生きるものとしての特性のうちに生きるように支えるものであるはずです。また、人間を、全体的な調和、すなわち、一致と平和のうちに保ちつつ、一人一人に固有の特質を十分に生かし発揮するように支えるものであるはずです。
 このことを、否定的に言いますと、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている「愛の律法」は、本来、すべての人間を「画一化」するものではない、ということです。私たちの中には、神さまの律法は、人間を画一化するものであるというような、神さまの律法に対する誤った考え方やイメージがあるかも知れません。
 しかし、繰り返しになりますが、広い意味での神さまの「法」は、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものを見事な調和のうちに保ってはいますが、決して、すべてのものを画一化するようなことはありません。むしろ、それぞれのものを、その固有な本質と特性において生かすように支えるものです。まして、自由な意志をもつ人格的な存在であることを本質としており、愛のうちを生きることを特質としている人間の心に記されている「愛の律法」は、決して、人間を画一化することはありません。「神のかたち」に造られている人間の心に記されている「愛の律法」は、本来、愛に生きることにある自由の中に私たちを生かすものです。その意味で「愛の律法」は「自由の律法」です。

 神さまが「神のかたち」に造られている人間の心に記してくださった「愛の律法」は、本来、「自由の律法」として、人間を自由にしますし、「神のかたち」の栄光と尊厳性の中に保ちます。それなのに、もし私たちが、神さまのみこころに従うという名目で、私たち自身や、お互いを画一化するようなことがあるとすれば、それは、私たち自身の狭さや罪がもたらす歪みによって、「自由の律法」を、人を縛って奴隷化し、画一化するように作用する「人間の言い伝え」にすり替えてしまっているからです。
 私たちは、「クリスチャンとは、このようなものだ」というイメージをもっています。そのようなイメージをもつことは、私たちには、避けられないことです。問題は、しばしば、そのイメージが、生活のスタイルという形で造られてしまうことです。典型的な例を挙げますと、クリスチャンらしいこととは、朝早く起きてディボーションをしてから、一日の歩みを始めることだ、というようなことです。
 朝早く起きてディボーションをしてから、一日の歩みを始めることは、一つの生活のスタイルです。けれども、神さまとの個人的な交わりをするのには夕方が良い、と言った偉大な指導者もいます。
 ところが、朝早く起きてディボーションをすることがクリスチャンらしいことだと思っている人は、そのようにしていない人を、クリスチャンらしくないといって「さばく」ようになります。それは、無意識のうちに、画一化した生活のスタイルを人に押し付けることです。
 朝早く起きてディボーションをすることは、神さまとの交わりの時を確保するための工夫の一つです。そのこと自体に問題はありません。ところが、それがクリスチャンの間の「言い伝え」としてパターン(固定)化して、自分自身を縛り、さらに他人を縛り始めることがあるのです。そうなりますと、私たちそれぞれに与えられており、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して回復されている「神のかたち」としての栄光と尊厳性の中心にある「良心の自由」が踏みにじられてしまうことになります。
 イエス・キリストは、パリサイ人や律法学者たちに、

あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。 ・・・・・・ あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。
マルコの福音書7章8節、9節

と言われました。パリサイ人や律法学者たちは、律法学者の伝統的な教えの中で伝えられてきた「言い伝え」(律法を守るための工夫)を守ることをパターン化して、それによって自ら縛られているだけでなく、人々をも縛っていました。この時は、そのパターンに従わないイエス・キリストの弟子たちをさばいて、イエス・キリストを糾弾していました。
 私たちは、パリサイ人や律法学者たちと同じ誤りに陥りやすいものです。しかも、パリサイ人や律法学者たちと同じように、それがどれほどの問題を生み出しているかに気づきにくいものです。そのような私たちに対してパウロは、

もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
コロサイ人への手紙2章20節〜23節

と教えています。

 そのような危険に陥らないためには、「クリスチャンらしい生き方」ということをパターン化したスタイルで考える習慣を捨てる必要があるでしょう。また、そのようなことを助長する「クリスチャンの言い伝え」によって自分自身を縛ったり、お互いを縛り合ったりしてしまう習慣を捨てる必要もあるでしょう。しかし、実際に、あるスタイルを守って生きてきた人にとっては、そのようなことをしますと、自分がなくなってしまうような不安と心もとなさを感じるものです。そこには、本当の解放はありません。
 本当の解放を経験するためには、ただ、それまでのものを捨てるだけで終わってしまってはなりません。それでは、空っぽになってしまったのではないかという不安が襲ってきてしまいます。それで、私たちは、私たちに対する神さまのみこころを、根本から理解し直すこと、すなわち、永遠の聖定にまで遡って理解する必要があります。
 繰り返し確認していることですが、私たちに対する神さまのみこころの中心は、私たちが、御子イエス・キリストの十字架の死による贖いの御業を通して回復されている「神のかたち」としての栄光と尊厳性を保って生きることにあります。それによって、私たちは、神さまが永遠の聖定において定めてくださった、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていきます。私たちは、まず、このことを理解し受け止めることから始めなくてはなりません。
 「神のかたち」の本質は自由な意志をもつ人格的な存在であることにありますから、私たちはが「神のかたち」としての「良心の自由」を保っていなければ、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を保って生きることはできません。
 先ほどお話しましたように、「クリスチャンらしい生き方」というパターン化したスタイルによって自分自身とお互いを縛って、画一化してしまうことは、自分自身とお互いの「良心の自由」を縛りつけ、「神のかたち」の栄光と尊厳性を損なうことになります。その結果、私たちを御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださる御霊のお働きを妨げてしまうことになります。
 先ほど引用しましたコロサイ人への手紙2章20節〜23節で、パウロは、「『すがるな。味わうな。さわるな。』というような定め」には「縛られる」だけであって、「肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもない」と教えています。これに対して、ガラテヤ人への手紙5章16節では、罪によって腐敗した本性を通して人を縛る「」(肉体のことではありません。)に縛られていたガラテヤのクリスチャンたちに向かって、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と教えています。
 以前お話したことにつながることですが、これに続く17節では、

なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

と言われていて、そのようにするときに、私たちの内側に、ある種の葛藤が生じてくることが予想されています。
 けれども、そのような葛藤があるにもかかわらず、御霊に導かれて歩むなら、私たちのうちに「御霊の実」が結ばれることが示されています。22節、23節で、

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

と言われているとおりです。
 この「御霊の実」は、単数ですから、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という9つの実ではなく、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という特性を表わす一つの「」です。そのような特性を表わす「」は人格であり、御子イエス・キリストの十字架の死による贖いの御業によって私たちのうちに回復されている「神のかたち」の本来の姿のことでしょう。その完成は、御子イエス・キリストの栄光のかたちです。
 御霊は、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業を私たちに当てはめて、私たちを自由なものとしてくださいます。そして、私たちを「愛の律法」に従って導いてくださることを通して、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださいます。

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
コリント人への手紙第二・3章17節、18節

 


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