(第35回)


説教日:2000年1月30日
聖書箇所:ヨハネの福音書20章24節〜29節


 神さまは、永遠の聖定において、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとしての身分をもつものとなるように定めてくださいました。そして、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださいました。これが、私たちに対する神さまのすべてのみこころの源であり、すべてのみこころが目指している到達点です。
 神さまは、この永遠の聖定を実現してくださるために、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになりました。私たちが「神のかたち」であることが、神さまが永遠の聖定において私たちのために定めてくださったことの、最初の現われであり、最も重要な現われです。
 「神のかたち」は、生きておられる人格的な神さまのかたちですので、「神のかたち」の本質は自由な意志を持つ人格的な存在であることにあります。また、「神のかたち」は、愛を本質的な特性とする神さまのかたちでので、「神のかたち」の本質的な特性は愛です。
 神さまは、「神のかたち」に造られている人間が、自由な意志を持つ人格的な存在として、愛の特性を発揮して生きるようになるために、人間の心に、ご自身の律法を記してくださいました。その律法の全体は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられます。その意味で、神さまの律法は「愛の律法」です。


 きょうも、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている神さま律法について、これまでお話ししてきたことを補足しながらお話ししたいと思います。
 先週と先々週お話ししましたように、神さまが「神のかたち」に造られている人間の心にご自身の律法を記してくださったことは、より広い観点から見ますと、神さまが、ご自身の永遠の聖定において定められたみこころに従ってお造りになったすべてのものに、それぞれに固有の本性や特質や位置などをお与えになっていることの現われの一つです。
 神さまが、お造りになったすべてのものに、それぞれに固有の本性や特性や位置などをお与えになったといっても、それで、それぞれがばらばらで全体として見ると混乱状態になるのではなく、すべてのものの間に見事な調和があるように造られています。それで、「神のかたち」に造られている人間は、神さまがお造りになったそれぞれのものに与えておられる固有の本性や特性を観察し、整理して、さまざまな学問を生み出してきました。それは、植物や動物に限らず、さまざまな鉱物や地質や海洋や気象など、地球に関することや、宇宙全体の成り立ちや構造に関することにまで及びます。それぞれの研究分野が学問として成り立つのは、そこに、広い意味での法(法則)があるからです。
 神である主は、主のみこころを自分の狭い知識と考えの枠の中で考えてしまったために、結果的に主の御前に高ぶってしまっていたヨブに向かって、

あなたは天の法令を知っているか。
地にその法則を立てることができるか。
ヨブ記38章33節

と問いかけられました。これは、主が、ご自身の御業とご計画が人間の小さな思いと知識では捉えきることができないことを示してくださっている中で語られたことです。これによって、主は、天の法令と地の法則を確立し、それらを支えておられるのは、ご自身であることを主張しておられます。人間は、それらを観察して発見しているだけです。
 これらすべてのものやことに、それぞれに固有の本性や特性や位置を与えながら、すべてのものを調和のうちに保っている法(法則)は、造り主である神さまの真実のこの世界における現われです。

 先週も引用しましたが、エレミヤ書33章20節〜22節では、

主はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。

と言われており、25節、26節では、

主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの捕われ人を帰らせ、彼らをあわれむ。」
と言われています。
 ここでは、主が、天と地の造り主として「天と地との諸法則」をお定めになったことと、ご自身の契約に従って、お造りになったすべてのものを真実に保ってくださっていることが自明のこととして語られており、そのことに基づいて、主が、それと同じ真実さにおいて、ご自身の民への契約を守ってくださることが示されています。
 ここには、神さまが、ご自身がお造りになったものとの間に結んでくださった「契約」と、神さまがお定めになった「天と地との諸法則」が出てきます。この二つは、どのような関係にあるのでしょうか。この二つは、ほぼ同じものを指しているように思われますが、厳密に考えますと、少し意味するところが違っています。
 「天と地との諸法則」は、今日の私たちが理解している、この世界のさまざまな法則に当たるものです。それは、天と地の造り主である神さまが、創造の御業を通して確立され、お定めになったものです。
 これに対して、神さまの契約は、神さまが、お造りになったものに対して真実に関わってくださることを約束し保証してくださっているものです。── 生きておられる人格的な神さまが、お造りになった一つ一つのものをみこころに留めてくださり、真実をもってそれを支えてくださることを約束し、保証してくださっているものです。ですから、神さまの契約には人格的な意味合いがあるのです。
 イエス・キリストが、

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
マタイの福音書6章26節

と教えてくださったのも、このことに基づいています。
 神さまは、ご自身の契約に約束し保証してくださったように、お造りになった一つ一つのものをみこころに留めてくださり、真実をもってそれを支えてくださっておられます。そのために、私たちの思いをはるかに越えた知恵と御力によって「天と地との諸法則」を確立してくださり、それを通して、すべてのものを支え導いてくださっておられるのです。その意味で、この世界のすべてのものは神さまがお定めになった「天と地との諸法則」によって律せられていますが、それは、神さまの御手の支えの現われです。
 ある人々は、「天と地との諸法則」はがっちりと定まっていて、神さまといえども変えることができないと感じています。けれども、神さまは、この世界をお造りになった方であり、「天と地との諸法則」をお定めになり、支えておられる方ですがら、「天と地との諸法則」に律せられてはいませんし、縛られてはいません。
 たとえば、ノアの時代に洪水によるさばきを執行されたことや、出エジプトの時代に紅海を二つに分けて、イスラエルの救いとエジプトに対するさばきを執行されたことのように、もしそれが無限の知恵に満ちておられる神さまのみこころであれば、「天と地との諸法則」が一時的に停止あるいは変更されることもありえるわけです。
 ただ、注意しなければならないことに、それらの御業は、神さまが、ご自身の民に与えてくださった契約に示されている、救いとさばきを実現してくださるための御業でした。また、それらの御業が創造の御業において確立された「天と地との諸法則」を破壊するようなことはありませんでした。神さまは、気ままに、「天と地との諸法則」を一時的に停止あるいは変更されるわけではありません。
 このように、神さまが、お造りになったものとの間に結んでくださった「契約」と、神さまが創造の御業においてお定めになった「天と地との諸法則」は、互いに深く結び合っています。両者の関係は、神さまが、お造りになったものに真実に関わってくださることを約束し保証している契約に従って、すべてのものを支えてくださり、導いてくださるために、「天と地との諸法則」をお定めになり、お用いになっておられる、という関係です。
 ですから、「天と地との諸法則」は、神さまの契約の広い枠の中に位置づけられます。

 このことは、神さまが、天地創造の御業において「神のかたち」にお造りになった人間の心に記してくださった律法にも当てはまります。
 神さまが創造の御業において確立された、さまざまな法(法則)は、神さまが、お造りになったすべてのものを、それぞれに固有な本性や特性に従って支えてくださるために用いてくださっておられるものです。「神のかたち」に造られている人間の心に記されている律法もその一つです。
 「神のかたち」の本質は自由な意志を持つ人格的な存在であることにありますから、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている律法は、人間を自由な意志を持つ人格的な存在として生かす「人格的な法」です。また、「神のかたち」の本質的な特性は愛ですから、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている律法は、人間を本質的な特性である愛において生かす「愛の律法」です。
 また、先ほどお話しましたように、神さまが創造の御業において確立してくださった「天と地との諸法則」は、神さまの契約の枠の中に位置づけられるものです。神さまが、お造りになったものに真実に関わってくださることを約束し保証している契約に従って、すべてのものを支えてくださり、導いてくださるために、「天と地との諸法則」お用いになっておられます。
 それと同じように、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間の心に記された「愛の律法」は、神である主が、私たちをご自身の民としてくださり、真実をもって私たちとともにいてくださることを約束し保証してくださっている、契約の枠の中に位置づけられます。
 ですから、まず、神である主が、私たちをご自身の民としてくださり、真実をもって私たちとともにいてくださることを約束し保証してくださっている契約があるのです。── その契約の約束と保証に従って、私たちが主の民とされているということが、先にあるのです。
 そのことがあって初めて、私たちは、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」に従って生きることができるようになります。
 先週お話しましたように、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めの「あなたの神である主」は、契約の神である主── ご自身の契約に従って、私たちをご自身の民としてくださり、ご自身が私たちの神となってくださった契約の神である主です。私たちが主の契約によって主の民とされていなければ、神さまを「私の神である主」として愛することはできません。
 それで、私たちが「愛の律法」に従って神さまを愛し、隣人を愛することは、神さまの契約において示されている、神さまの私たちに対する愛に、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」、「応答」することなのです。

 私たちは、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落し、「神のかたち」としての本性を腐敗させてしまっているものです。しかし、神さまは、そのような私たちをなおも愛して、御子イエス・キリストによる贖いの御業を通して、ご自身の民としてくださいました。そのことも、神さまが、契約によって約束し保証してくださったことです。
 先ほどの、預言者エレミヤを通して、神である主があかししてくださったように、また、イエス・キリストが、

まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
マタイの福音書5章18節

とあかししておられるように、私たちに対する、神である主の契約は、この天と地が神さまの真実な御手によって保たれていることの確かさに劣らず確かです。
 確かに、神さまは、ご自身の独り子を、私たちのための贖い主として遣わしてくださいました。永遠の神の御子イエス・キリストが人の性質を取ってきてくださり、十字架にかかって死の苦しみを味わってくださったのは、それによって成し遂げられた罪の贖いによって、私たちの罪を完全に清算し、私たちをご自身の民としてくださるためでした。
 12弟子の一人であるトマスは、ご自身の民の罪を背負って十字架にかかって死んでくださり、罪の贖いが確かに成し遂げられたことのあかしとして、死者の中からよみがえられたイエス・キリストに出会って、その傷跡に触れた時、

私の主。私の神。
ヨハネの福音書20章28節

と告白しました。私たちも、十字架につけられて殺されたイエス・キリストを永遠の神の御子として信じ、「私の主。私の神。」と告白しています。それは、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ヨハネの手紙第一・4章10節

とあかしされていますように、神さまが、一方的な愛によって私たちを愛してくださり、私たちをご自身の民としてくださるために、御子を、私たちの契約の主として立ててくださり、贖い主として遣わしてくださったからです。
 この、神である主の契約の約束は、すべて、イエス・キリストが十字架の上で流された贖いの血による新しい契約によって、私たちの間に実現しました。

神の約束はことごとく、この方[イエス・キリスト]において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。
コリント人への手紙第二・1章19節、20節


 このように、私たちは、イエス・キリストが十字架の上で流された贖いの血による「新しい契約」にあずかって、イエス・キリストの民とされています。イエス・キリストは、ご自身の契約に基づいて、どのような時にも、私たちとともにいてくださいます。
 ですから、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」に従って生きることは、私たちにとっては、イエス・キリストを通して示された父なる神さまの愛を受け止めることと、イエス・キリストが十字架の上で流された血による贖いにあずかって、イエス・キリストを「私の主。私の神。」として告白することから始まります。
 イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血による「新しい契約」にあずかっている私たちにとっては、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めが示している「あなたの神である主」は、私たちを愛して、人の性質を取ってきてくださり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださった、永遠の神の御子イエス・キリストです。そして、この第一の戒めに従うことは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」、「私の主。私の神。」であるイエス・キリストを愛することに他なりません。また、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに従うことは、イエス・キリストが十字架の上で流された贖いの血による「新しい契約」にあずかって、ともにイエス・キリストに結び合わされ、イエス・キリストを「私の主。私の神。」として告白して愛している、神の家族の兄弟姉妹たちを愛することを意味しています。

 ここで、神さまが永遠の聖定において定めてくださったことを思い起こしますと、神さまは、私たちにご自身の子どもとしての身分を与えてくださるとともに、その神の子どもとしての私たちの実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださいました。
 私たちが「愛の律法」に従って、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」、御子イエス・キリストを「私の主。私の神。」として愛することは、私たちに対する父なる神さまの愛に「応答」することですが、同時に、それによって、私たち自身が、御子イエス・キリストをますます親しく知るようになり、御霊のお働きによって、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていきます。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
コリント人への手紙第二・3章18節

 


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