(第34回)


説教日:2000年1月23日
聖書箇所:エレミヤ書33章19節〜26節


 私たちに対する神さまのみこころの出発点は、神さまの永遠の聖定です。神さまは、永遠の聖定において、私たちをご自身との愛にある交わりに生きる神の子どもとしての身分を持つものとなるように定めてくださいました。そして、神の子どもとしての実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちになるように定めてくださいました。
 神さまは、この永遠の聖定に従って、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」としての栄光と尊厳性を持つものとしてお造りになりました。「神のかたち」は、生きておられる人格的な神さまのかたちですので、「神のかたち」の本質は自由な意志を持つ人格的な存在であることにあります。また、愛を本質的な特性とする神さまのかたちでので、「神のかたち」の本質的な特性は愛です。
 神さまは、「神のかたち」に造られている人間が、自由な意志を持つ人格的な存在として、愛の特性を発揮し、神さまの栄光を現わすようになるために、人間の心に、ご自身の律法を記してくださいました。その律法の全体は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられます。その意味で、神さまの律法は「愛の律法」です。


 きょうも先週に続いて、「良心の自由」についてのお話を休んで、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている「愛の律法」について、これまでお話ししたことを補足したいと思います。
 先週お話ししたことできょうお話しすることと関連することを、簡単に復習しておきましょう。この世界のすべてのものは、造り主である神さまのみこころに従って造られた御手の作品であり、神さまとの関係において存在しています。すべてのものは、神さまの御手の作品として、それぞれに固有の特性や本性を与えられています。そして、造り主である神さまは、それぞれのものを、その特性と本性にふさわしく保っていてくださいます。その意味で、この世界のすべてのものが、神さまとの関係にあって存在しています。
 そのように、すべてのものが、それぞれに固有の特性や本性を持っていることや、その特性や本性がそのまま保たれていることに、また、それがそれぞれの特性や本性にふさわしく表現されていることに、広い意味での律法、すなわち、「法」あるいは「法則」が見られます。── 聖書が記されているヘブル語やギリシャ語では、「律法」も「法」も「法則」も同じ言葉(ヘブル語ではトーラー、ギリシャ語ではノモス)で表わされます。
 先週取り上げた例ですが、天体がそれぞれの軌道を運行することも、生き物たちが群れをつくり、子を産み育てることも、植物が、それぞれに固有の花を咲かせ、実をならせることも、みな、造り主である神さまの知恵と恵みに満ちたみこころに従って定められたことです。また、一つ一つのことが、それぞれに固有の特性や本性を発揮して存在していながら、すべてのものの関わり合いが見事な調和のうちに展開していることも、造り主である神さまの知恵と恵みに満ちたみこころによることです。
 すべてのものを、それぞれに固有の特性や本性に従って保ってくださる神さまのみこころは真実なものですから、私たちはそれを「法則」として受け止めることができます。
 その意味で、この世界のすべてのものを律している法(法則)は、造り主である神さまのみこころの表現です。それで、造り主である神さまのみこころの表現である法(法則)は、この世界のすべてのものを、それぞれに固有の特性や本性に従って保つものであり、生かすものです。

 このように、すべてのものが造り主である神さまのみこころの表現である法(法則)に従って存在しており、それぞれの特性と本性を発揮しています。その中でも特に、「神のかたち」に造られている人間は、自由な意志を持つ人格的な存在として造られています。そして、「神のかたち」に造られている人間の本質的な特性は愛です。人間は、造られたものの限界の中においてではありますが、造り主である神さまが人格的な方であることを映し出すものです。
 それで、神さまの法は、人間の人格に記されていて、人格的な法です。それを、私たちは「律法」と呼んでいます。神さまは、「神のかたち」に造られている人間がご自身の本質的な特性である愛を映し出すようにと、人間の心に「愛の律法」を記してくださったのです。
 先ほどお話ししましたように、造り主である神さまのみこころの表現である法(法則)は、この世界のすべてのものを、それぞれに固有の特性や本性に従って保つものであり、生かすものです。同じように、神さまが私たちの心に記してくださった「愛の律法」も、私たちを「神のかたち」としての栄光と尊厳性において生かすものであって、決して、私たちを束縛するものではありません。

 神さまが、お造りになったすべてのものをご自身のみこころの表現である法(法則)に従って保ってくださり、導いてくださっておられることは、自然科学のさまざまな法則を学んでいて、なおかつ造り主である神さまを信じている私たちには、抵抗なく受け止められることでしょう。ただ、そのような法(法則)と私たちの心に記されている「愛の律法」が、神さまの法としてひとまとめにできるかどうかについては、疑問を持たれる方もおられるかもしれません。
 そのような法(法則)と私たちの心に記されている「愛の律法」が、同じ神さまの真実さに基づいており、神さまの真実さを表わしていることを示す御言葉としては、エレミヤ書33章20節〜22節に記されている、

主はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。

という御言葉と、同じ章の25節、26節の、

主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの捕われ人を帰らせ、彼らをあわれむ。」

という御言葉を挙げることができます。
 20節では、「昼と夜とが定まった時に」来るのは、神さまが創造の御業において、昼と夜に対して契約を結ばれたからであると言われています。もちろん、昼と夜は人格的な存在ではありませんから、その契約も人格的なものではありません。私たちとしては、「そんな契約ってあるの。」と言いたくなりますが、古代オリエントの契約は、私たちの社会の契約と違って、双方の合意に基づいて結ばれるというより、主権者が、その主権の下にある者たちを、契約によって自分に関係づけるものでした。それで、造り主である神さまは、主権者として、ご自身がお造りになったものを、契約によって、ご自身に結び合わせておられるのです。
 具体的には、25節で「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら」と言われていますことから分かりますように、私たちの言葉で言えば、神さまが創造の御業において、「天と地との諸法則」を確立されたことを意味しています。

 私たちが「天と地との諸法則」として受け止めることができるほど、神さまは、お造りになったものを真実に支えておられます。神さまの契約は、神さまの真実さから生み出されています。また、神さまの契約は、神さまが、ご自身の御手の作品をすべて、それぞれに固有な本性と特性にしたがって支え続けてくださることを保証し、約束してくださるものです。ですから、私たちが受け止めているさまざまな法則は、造り主である神さまの契約に根差しています。
 主は、エレミヤを通して、それは、人格的な存在である私たちに与えられている契約にも当てはまることであると語ってくださっています。
 そこで取り上げられているのは、ダビデに与えられた契約で、神である主がダビデに、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。 ・・・・・・ あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。
サムエル記第二・7章12節〜16節

と約束してくださったものです。
 主がダビデのこの王座を永遠に確立してくださることによって、ダビデの子が主の神殿を建てるというのが、この契約が与えられた主旨ですので、エレミヤを通しての言葉にはに「レビ人の祭司たち」鋸とも出てくるわけです。
 事実、それは、イエス・キリストが、ダビデの子として来てくださり、ご自身の十字架の死をもって罪の贖いを成し遂げてくださった後に、死者の中からよみがえり、父なる神さまの右の座に着座されたことによって成就しました。ペンテコステの日にペテロが、

兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。
『主は私の主に言われた。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは
わたしの右の座に着いていなさい。』
使徒の働き2章29節〜35節

とあかししているとおりです。
 けれども、それは、ダビデへの契約だけに当てはまることではなく、主がご自身の民に与えてくださったすべての契約に当てはまることです。このエレミヤ書33章で特にダビデへの契約が取り上げられているのは、イスラエルが主の契約に背いて罪を犯し続けたために、主のさばきを招くに至り、バビロンの捕囚というイスラエルの滅亡に向かって、下り坂を転がり落ちるように、突き進んでいた時代であったからです。イスラエルは、主のさばきによって滅亡してしまってもおかしくなかったのですが、神さまは、そのような事態になってもなお、ご自身の契約に約束してくださったことを守ってくださり、ダビデの子が永遠の王座について治めてくださる永遠の御国を実現してくださるというのです。
 そのような特殊な事情の中で、ダビデへの契約が取り上げられていますが、神さまの契約によって示されている神さまの真実さは、神さまのすべての契約を等しく貫いているものです。もし私たちが「天と地との諸法則」が確かなものであることを認めて、心安らかにこの日を過ごしているのでしたら、神さまが、「天と地との諸法則」を生み出しておられるのと同じ真実さを持って、私たちへの契約を保ってくださり、そこに約束してくださっている救いを完成してくださることを信じて、心安らかに歩みたいと思います。

 このような神さまの真実さを表現する、神さまの契約は、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている「愛の律法」が「愛の律法」として働く土台です。
 繰り返しになりますが、神さまの律法の全体は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられます。
 この、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めは、神さまと私たちの間に契約関係があることが前提となっています。ここに出てくる「あなたの神である主」は契約の神である主で、ご自身の一方的な恵みによって、私たちをご自身の民としてくださった主です。
 神である主は、ご自身の一方的な愛と恵みによる交わりを、ご自身の契約を通して約束し、保証してくださっておられます。そのことが「契約」を通して示されているのは、神さまの愛と恵みが真実で変らないことを示してくださるためです。神さまの「契約の愛」といえば、神さまの変らない真実な愛のことです。このことは、神さまの契約がどのような契約であっても、すべてに当てはまることです。
 天地創造の初めに「神のかたち」に造られている人間に与えられた神さまの契約が「創造の契約」(「わざの契約」)です。創造の御業においては、いまだ存在していない人間を、ご自身の一方的な愛と恵みによって「神のかたち」にお造りになり、ご自身の愛と恵みによる交わりのうちに置いてくださいました。この、神さまとの愛の交わりを約束し、保証しているのが「創造の契約」です。
 このように、神さまは、「神のかたち」にお造りになった人間をご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださいました。そして、そのことを実現してくださるために、人間の心に「愛の律法」を記してくださいました。
 その意味で、天地創造の初めに、「神のかたち」に造られた人間の心に記された「愛の律法」は、神さまがご自身との愛にある交わりを約束し保証してくださっている、神さまの契約のうちに備えられたものです。

 ところが、人間は造り主である神さまに対して罪を犯して、その契約を破ってしまいました。それでも、神さまは私たちに対する愛と恵みのみこころを変えてしまわれることはありませんでした。さらなる一方的な愛と恵みによって罪の贖いを備えてくださり、私たちをご自身のものとしてくださり、再びご自身との愛の交わりに生きるものとして回復してくださいました。そのことを約束し、保証してくださったのが「救済の契約」(「恵みの契約」)です。
 この「救済の契約」(「恵みの契約」)には、古い契約と新しい契約があります。古い契約は、私たちの言葉で言えば、新しい契約の「模型」です。古い契約においては、雄牛や羊や山羊などの血によって、罪が赦されるためにはいのちの血が流されなくてはならないことが示されました。しかし、模型は本物を指し示すものですが、本物のような力はありません。そのために、古い契約のもとで流された動物たちの血によっては、主の民の罪は贖われず、良心はきよめられることがありませんでした。

この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
ヘブル人への手紙9章9節

雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
ヘブル人への手紙10章4節

 私たちの罪を贖い、良心をきよめるのは、これらの「ささげ物といけにえ」が指し示しているものの本体である、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血です。

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
ヘブル人への手紙10章12節〜14節

 神さまは、このように、ご自身の契約において約束してくださり、保証してくださっておられる、私たちへの一方的な愛と恵みを貫いてくださいました。そして、そのために、ご自分の「ひとり子」をも、私たちの罪のための「なだめの供え物」としてお遣わしになりました。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ヨハネの手紙第一・4章9節、10節


 私たちは、このような、神さまの一方的で真実な愛と恵みに包まれています。その愛と恵みによって備えられた贖いを通して、神さまとの愛の交わりに生きる「神のかたち」として回復されています。それで、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」が、私たちのうちに回復されているのです。
 私たちは、私たちのうちに回復されている「愛の律法」に導かれて歩みますが、それに先立って、御子イエス・キリストの血による新しい契約によって保証されている罪の贖いの恵みにあずかっており、それによって鮮やかに示されている、神さまの深く豊かな愛に包まれていることを忘れてはなりません。私たちは、神さまのそのような愛を受け止めていて初めて、「愛の律法」に導かれて、神さまを愛し、隣人を愛することができます。先ほどの、神さまの私たちに対する愛をあかししているヨハネの手紙第一・4章9節、10節の御言葉に続いて、11節で、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と言われているとおりです。
 天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間の心に記された「愛の律法」── そして、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっている私たちのうちに回復されつつある「愛の律法」は、神さまが一方的で真実な愛と恵みをもって私たちを包んでくださっているということに、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかることによって気づいた私たちが、愛をもって神さまに応答するようにと、私たちを内側から動かすものです。

 


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