(第31回)


説教日:2000年1月2日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・2章18節〜25節


 神さまは、永遠の聖定において、私たちをご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださり、その神の子どもとしての実質が御子イエス・キリストの栄光のかたちとなるように定めてくださいました。
 神さまは、その永遠の聖定に従って、人間を「神のかたち」にお造りになました。「神のかたち」の本質は、自由な意志を持っている人格的な存在であることにあります。また、人間は、愛を本質的な特性としておられる神さまのかたちに造られていますので、人間の本質的な特性も愛です。
 神さまは、さらに、「神のかたち」に造られている人間の心に「愛の律法」を記してくださいました。それによって、「神のかたち」の本質である自由な意志が、「愛の律法」に導かれて、「神のかたち」の本質的な特性である愛を表現するようにしてくださいました。
 人間の心に記されている律法の全体は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約されます。それで、人間の心に記されている律法は「愛の律法」なのです。
 このように、人間は、自らの心に記されている「愛の律法」に導かれて、造り主である神さまとの愛にある交わりと、同じく「神のかたち」に造られている隣人との愛にある交わりに生きるものです。そして、人間は、この交わりにおいて、「神のかたち」の本質的な特性である愛を表現する時に、自由であることができます。
 このような、愛を生み出す人格的な自由の中心にあるのが「良心の自由」です。そして、その「良心の自由」に基づく愛の中に生きることに、「神のかたち」に造られている人間としての栄光と尊厳性があります。


 すでに取り上げたことですが、きょうお話しすることと関わっていますので改めて触れておきますと、人間の罪は、このような「神のかたち」に造られている人間の栄光と尊厳性を腐敗させてしまうものです。
 ヨハネの手紙第一・3章4節では、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

と言われています。この「罪とは律法に逆らうことなのです。」の「律法に逆らうこと」と訳されている部分はアノミアという一つの言葉で、「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。」の「不法」と同じ言葉です。この言葉は、基本的に、「律法がないこと」すなわち「無法」と、「律法に逆らうこと」を表わします。
 人間が神さまに対して罪を犯して神さまの御前に堕落し、その本性が罪によって腐敗してしまったときに、その心に記されている「愛の律法」も腐敗してしまい、自己中心的に歪んでしまいました。それによって生み出されたのが、このアノミアという言葉によって表わされる状態です。
 そのような状態にあっては、人間の自由な意志は「愛の律法」によって導かれるのではなく、罪の自己中心性に縛られてしまっています。そのような「不自由」の状態を、パウロは、ローマ人への手紙7章18節〜23節で、

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

と告白しています。
 これは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を完全に清算され、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生かされていながらも、なお、世の終りのイエス・キリストの再臨の日に約束されている、からだのよみがえりによる贖いの完成を待つ身である私たちの「不自由な」現状を示しています。
 もちろん、私たちは、この世にあっても、贖いの恵みにあずかって成長するに従って、少しずつ、この状態から解放されていきます。ローマ人への手紙8章1節〜4節で、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

と言われているとおりです。
 そのように、すでに御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いにあずかって、法的には、罪を完全に清算したものとされており、神の子どもとしての身分を与えられていながら、なお、罪による本性の腐敗をうちに宿している私たちには、内なる「うめき」があります。それは。御子イエス・キリストの再臨の日に約束されているからだのよみがえりを通して、法的ばかりでなく実質的にも、私たちに対する贖いが完成することを持ち望んでいるためのうめきです。ローマ人への手紙8章23節で、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われているとおりです。

 先週と先々週は、「良心の自由」がどのようなものであるかを理解するために、御子イエス・キリストは常に「良心の自由」にあって歩まれた方であることと、イエス・キリストが十字架につけられた時に、「良心の自由」という点では、最も自由な状態にあったということをお話ししました。
 ヨハネの手紙第一・4章9節、10節で、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と言われていますように、父なる神さまは、ご自身の御手によって造られたものであるのに、ご自身に対して罪を犯し、ご自身に背きながら死と滅びへの道を歩んでいた私たちを、なおも愛してくださり、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 また、御子イエス・キリストは、父なる神さまのみこころに従って、人の性質を取って来てくださいました。そして、十字架にかかって、私たちの罪を完全に清算してくださいました。これに基づいて、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださり、復活のいのちに生かしてくださいました。
 すべては、神さまの愛を受けるに価しないばかりか、聖なる御怒りに価する罪を犯している私たちを、あえて、しかも一方的に、愛してくださった神さまの愛によっています。その愛は、神さまの主権的なご意志から出ています。
 このような、神さまの主権的な愛は、人間にたとえて言いますと、完全な「良心の自由」に基づく愛です。その愛は、人の性質をお取りになって来てくださった、御子イエス・キリストにおいて、最もはっきりと、また、豊かに示されています。ヨハネの手紙第一・3章16節で、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と言われているとおりです。

 御子イエス・キリストは、私たち罪人を愛してくださった父なる神さまのみこころをご自身のみこころとされました。それで、十字架の死によって、ご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださることを地上の生涯の目標として歩まれました。そのために、十字架を回避するようにと迫る、いかなる提案も道も断固と退けられました。
 このように言いますと、イエス・キリストは、「すんなりと」十字架におつきになったように聞こえます。
 ある面から見ますと、イエス・キリストはご自身の意志で、真っすぐに十字架に向かって進まれました。
 その一方で、私たちは、先週取り上げました、ゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りに接します。
 マタイの福音書26章39節に記されていますように、その祈りの中で、イエス・キリストは、まず、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

とお祈りになりました。
 先週詳しくお話ししましたように、このイエス・キリストの祈りには、二つのことが含まれています。一つは、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

という祈りです。
 これは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきの執行が、イエス・キリストにとって、どれほど恐ろしいものであるかを示しています。同時に、そのさばきの執行によって、父なる神さまとの愛の交わりを絶たれてしまうことがイエス・キリストにとって、どれほど悲しいものであったかを示しています。
 イエス・キリストは、神さまの聖なる御怒りに触れて、父なる神さまとの愛の交わりがまったく絶たれてしまうことは何としても避けたいという、思いを父なる神さまに告白したのです。それは、無限、永遠、不変の愛において父なる神さまと結ばれている御子イエス・キリストにとっては、最も自然で当然の願いです。
 しかし、イエス・キリストは、さらに、

しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

とお祈りになられました。
 また、42節と44節に記されていますように、二度目と、恐らく三度目には、

わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。

とお祈りになりました。
 ここで、イエス・キリストは、神さまの聖なる御怒りに触れて、父なる神さまとの愛の交わりがまったく絶たれてしまうことは何としても避けたいという、ご自身にとって当然の思いをお捨てになり、それを越えて、父なる神さまのみこころが実現することを祈り求めておられます。

 先週は、イエス・キリストがご自身にとって当然の思いと願いをお捨てになり、それを越えて、父なる神さまのみこころが実現することを祈り求めて、実際に、十字架の死の苦しみをお受けになったことの中に、「良心の自由」に基づく愛の特質が見られることをお話ししました。
 このことは、いわば、その逆から見ることもできます。
 御子イエス・キリストは、私たちを愛してくださり、ご自身の意志で、いのちを捨ててくださいました。そこに、「神のかたち」に造られている人間の自由が最も深く、また、豊かに表わされています。その自由は、ゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りに見られますように、内側の葛藤による悲しみと苦しみの中でも表わされます。
 イエス・キリストは、神さまの御怒りにより、父なる神さまとの愛の交わりがまったく絶たれてしまうことは何としても避けたいという、ご自身にとって当然の思いと、私たちの罪のためのなだめの供え物となるという父なる神さまのみこころに従いたいという願いの間で、いわば、引き裂かれてしまっています。それが、内側の葛藤でした。
 ご自身のうちにそのような葛藤があったからといって、イエス・キリストが父なる神さまに不従順であったわけではありません。また、そのような内的な葛藤があったからといって、イエス・キリストが不自由であったわけでもありません。むしろ、そのような内的な葛藤とそれによる苦しみと悲しみがあることは、「神のかたち」に造られている人間の「良心の自由」の特徴であると言わなくてはなりません。── きょうは、是非、そのことを理解していただきたいのです。
 どういうことかと言いますと、もし、人間の愛が、自由な意志に基づく人格的な愛でなかったとしたら、どうなるでしょうか。たとえば、人間の愛が単なる本能的なものでしかなかったとしたら── それは、もう愛とは言えないかもしれませんが、そのことは置いておいて── 、人間は、本能の赴くままに行動するだけであったでしょう。そうすれば、そこには、内的な葛藤はなかったことでしょう。あるいは、人間の心が、マインド・コントロールのような外側からの操作によって操作されているとしたら、どうでしょうか。そのような状態にある人はロボット化していますから、内的な葛藤はほとんどないことでしょう。
 イエス・キリストは、そのような状態にはありませんでした。また、大群衆の熱狂的な支持に後押しされて、その勢いで十字架への道を進んで行かれたのでもありません。また、我を忘れるような陶酔状態になられて、何かに憑かれたかのように、十字架への道を突き進んで行かれたのでもありません。あるいは、ご自分にむち打って、冷徹に葛藤の中での苦しみや悲しみを押し殺して、ご自身にとっての当然の思いや願いをお捨てになったのでもありません。
 むしろ、イエス・キリストは、ご自身の内なる悲しみや葛藤をしっかりと受け止めておられました。そして、父なる神さまとの祈りによる交わりにおいて、それを十分に表現されました。そして、その上で、父なる神さまによって支えられ、力づけられて、ご自身の確かな意志で、十字架の死の苦しみをお受けになる道を踏み出されました。
 このようなことを考えますと、ゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りは、私たちに対するイエス・キリストの愛が、ご自身の自由な意志による、人格的な愛であったことを物語るものであることが分かります。イエス・キリストのうちには、深い苦悩と悲しみを伴う葛藤があったのです。その中で、私たちを死と滅びの中から贖い出して、新しいいのちに生かしてくださり、神さまとの愛にある交わりの中にに生かしてくださるために、ご自身の確かな意志で、十字架の死への道を進んでくださったのです。
 罪のなかったイエス・キリストであっても、このような、深い苦悩と悲しみを伴う葛藤の中で、父なる神さまのみこころに従う道を選び取っていかれました。
 まして、私たちは、自らのうちになおも、罪の本性を残しているものです。法的には、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪をまったく清算されており、神の子どもとしての身分を与えられていながら、自らのうちに罪の本性を残しています。先ほどの、パウロの告白のように、そのこと自体が、私たちのうちにさまざまな葛藤と苦悩と悲しみを生み出します。私たちが、自分の「良心の自由」に基づいて、自分の意志で「愛の律法」に従うためには、さまざまな葛藤と苦しみと悲しみを通らなくてなならないのは、当然のことなのです。
 もちろん、私たちの苦しみや悲しみや葛藤は、十字架の死の苦しみを前にしてのイエス・キリストの悲しみと苦しみと葛藤の深さに比ぶべきもありません。しかし、私たちなりの葛藤と苦悩と悲しみの中で、イエス・キリストの贖いの恵みによって私たちのうちに回復していただいている「愛の律法」に従っていくことには、神さまとの祈りによる交わりを通しての支えと導きが必要です。
 それは逆に言いますと、私たちの「良心の自由」の特質を示しています。私たちは、さまざまな、葛藤の中での苦しみや悲しみを通って、なおも、「愛の律法」に導かれることによって、「良心の自由」の中を歩むものであるのです。地上にあっては、そのような「良心の自由」を持つ神の子どもとして回復されているのです。

 このことから、さらに、「神のかたち」に造られている人間の「良心の自由」は(人格的なものであって)、反射的なものではない、ということを確認しておきたいと思います。というのは、私たちのうちから出てくる反射的な反応は、私たちの自由を損なうことが多いからです。
 繰り返しになりますが、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっている私たちのうちには、なおも、罪による本性の腐敗が残っています。それで、私たちの中から反射的に出てくる反応には、しばしば、罪による本性の腐敗が影を落としています。
 たとえば、私たちが誰かの言葉や、行ないによって傷ついたとしましょう。その「傷ついた」という感じ方は、私たちのうちから出てきた「反射的な反応」です。すべての反射的な反応がそうだとは言えないでしょうが、そのような反射的な反応には、しばしば、私たち自身の罪による本性の腐敗が深く影を落としています。そして、そのような反射的な反応は、私たちの神の子どもとしての「良心の自由」を、知らない間に破壊してしまうのです。
 私たちが誰かの言葉に傷つけられたと感じることを、考えてみましょう。私たちが傷つけられたと感じることの多くは、私たちが、その人に期待していたことが裏切られたと感じることから来ています。── もともと、何の期待も信頼もしていない人のひどい言葉には、腹は立っても、傷つけられたと感じることはありません。とても微妙なことですが、それは、私たちがその人にはその人の自由があり、その人なりの事情や理由があることを忘れて、常に、自分の期待通りであって欲しいと期待していることや、自分の尺度をその人に押し付けることによっています。それは、どこかで、その人を支配することにつながっています。
 このような関係にあっては、「良心の自由」は育つことはありません。お互いが、常に相手の期待に背かないようにという気遣いで自分を縛ってしまいます。その息苦しさで、窒息してしまうことさえあります。
 もっと重大な問題があります。相手の言葉や行ないに対して、私たちのうちから出てくる反射的な反応は、そのままでは、「相手次第」ということになります。その人が自分の気に入ることをしてくれたり、言ってくれれば、自分は有頂天になります。しかし、その人が自分の願っていることとまったく違うことをしたり、言ったりすると、傷ついてしまいます。そのような状態にあっては、私たちは、「相手次第」で浮いたり沈んだりしてしまいます。言い換えますと、相手に自分を支配させているのです。── もちろん、そうなっている人自身は、自分が有頂天になるにしろ、傷ついて落ち込むにしろ、正当な感じ方をしていると思っていますから、相手に支配されていると感じることはありません。
 言うまでもないことですが、このような「相手次第」の関係においては、神の子どもとしての「良心の自由」が育つことはありません。

 私たちは、外からの押し付けに対してだけでなく、そのような、自分のうちから出てくる反射的な反応に対しても、神の子どもとしての「良心の自由」を保つ必要があります。
 それに当てはまる教えの一つとして、ペテロの手紙第一・2章21節〜25節を見てみましょう。そこでは、

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

と言われています。
 イエス・キリストには罪がありませんでしたし、罪を犯されませんでした。それで、ののしられ、苦しめられた時の「反射的な反応」にも、罪の本性の影は表わされていなかったはずです。その点で、私たちの反射的な反応とは、かなり違っています。ところが、この教えでは、

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

という、イエス・キリストの姿勢が、私たちの踏むべき模範であると言われています。
 ということは、この教えの趣旨は、反射的な反応において、イエス・キリストの模範に倣うということではなく、それを越えた人格的な応答において、イエス・キリストの模範に倣うようにということにあるわけです。
 イエス・キリストは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」それは、ご自分が愛している人々からののしられ、苦しめられることの痛みを十分味わわれてのことです。それでも、ののしり返したり、脅すことはなさいませんでした。これが、「良心の自由」に基づく人格的な応答です。私たちは、これに倣うように招かれています。

 実際、私たちに最もリアルに感じられるのは、反射的な反応です。今取り上げている例では、傷つけられたという思いや、それに伴う悔しさや憤りです。しかし、先ほどお話ししましたように、それらの思いや悔しさや憤りに支配されるなら、私たちは自由を失うことになります。
 傷つけられたという思いや、それに伴う悔しさや憤りを相手にぶつけて、一矢報いなければ気が済まないとか、面子が立たないとすることは、一見、自分を守ることのように見えますが、かえって、神さまが御子イエス・キリストによって回復してくださった「神のかたち」の栄光と尊厳性を損なうことになります。私たちは、そのことをしっかりと見抜いて、その罠にはまらないようにしなくてはなりません。
 いまだ罪の本性をうちに宿している私たちにあっては、そのような、人に傷つけられたという思いや悔しさや憤りを抑えようとすると、かえって、その悔しさや憤りが膨らんで、さまざまな葛藤や苦しみや悲しみが生まれてきます。その事実をしっかりと受け止めることは、私たちが「良心の自由」を守るために必要なプロセスです。
 そのような、私たちの罪の本性が影を落としている悔しさや憤りが生み出す葛藤や苦しみや悲しみは、本来、あってはならないものですが、だからといって、それを押さえ付けて、それがなかったかのように振る舞うことは、一種のごまかしでしかありません。それは、決して、「良心の自由」に基づく人格的な応答ではありません。
 むしろ、私たちは、自分のうちにそのような葛藤や苦しみや悲しみがあることを認める必要があります。そして、祈りによる、父なる神さまと御イエス・キリストとの交わりのうちに、そのような葛藤や苦しみや悲しみを知っていただき、自分自身も十分に受け止めなければなりません。
 また、それと同時に、神さまが御子イエス・キリストによって、私たちのうちに「良心の自由」と「神のかたち」の栄光と尊厳性を回復してくださっていることを信じて受け入れること、そして、そのことを、繰り返し確認していくことが大切です。というのは、神さまが私たちのうちに「良心の自由」と「神のかたち」の栄光と尊厳性を回復してくださっているという事実が、私たちを支えてくれるからです。そのような中で、少しずつではありますが、神さまからの導きと支えによって、「愛の律法」に従って、「良心の自由」に基づく人格的な応答をすることができるようになっていきます。
 その際に、これらのことには時間がかかることを忘れてはなりません。神の子どもとしての私たちの成長には、時間がかかるのです。そのことをご存知であられる神さまは、私たちが成長して、「良心の自由」を保つようになるまでに、深い忍耐を示してくださっておられます。

 


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