(第30回)


説教日:1999年12月26日
聖書箇所:ヨハネの手紙第一・3章16節〜18節


 神さまは、ご自身の永遠の聖定において、私たちをご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとなるように定めてくださいました。そして、神の子どもとしての私たちの実質が、御子イエス・キリストの栄光のかたちに似た者となるように定めてくださいました。
 神さまは、このみこころに従って、天地創造の初めに人間を「神のかたち」にお造りになりました。
 「神のかたち」に造られている人間の本質は、自由な意志を持つ人格的な存在であることにあります。
 人間は、愛を本質とする神さまのかたちに造られていますから、人間の人格の特性は愛です。それで、人間は、愛を本質とする神さまの人格的な特性を映し出すものです。そのことの第一にして、最も大切な現われは、神さまとの愛の交わりに生きることであり、同じく「神のかたち」に造られている隣人との愛にある交わりに生きることです。
 このことを実現してくださるために、神さまは、「神のかたち」にお造りになった人間の心に、ご自身の律法を書き記して、人間の自由な意志が、この律法によって導かれるようにしてくださいました。
 神さまの律法は、マタイの福音書22章34節〜40節に記されていますように、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられます。


 人間は、愛を本質的な特性としておられる神さまのかたちに造られています。それで、「神のかたち」に造られている人間の本質的な特性は愛です。すべてものは、自らの本質的な特性を発揮するときに自由であることができます。何度も同じ例を引いて恐縮ですが、水の中にあって生きることを本質的な特性として造られている魚は、水の中にある時に自由であることができます。「神のかたち」に造られている人間は、自らの本質的な特性である愛に生きる時に真の意味で自由であることができます。言い換えますと、人間は、自らの心に記されている「愛の律法」に導かれて生きる時に、── 「愛の律法」が導く造り主である神さまとの愛の交わりと、同じく「神のかたち」に造られている隣人との愛の交わりに生きる時に、自由であることができます。
 先ほどの魚は、本能に従って生きるように造られています。それで、魚の自由は、水の中を束縛されないで泳ぎ回ることにあります。しかし、「神のかたち」に造られている人間は自由な意志を持っている人格的な存在です。それで、人間の自由は本能的な自由を越えた、人格的な自由です。その人格的な自由の中心に自由な意志があります。その自由な意志が、心に記されている「愛の律法」に導かれている時に、人間は、自由であることができます。
 このような、「神のかたち」に造られている人間の人格的な自由のことを、「良心の自由」と呼んでいます。

 前回は、最も豊かな意味で、「神のかたち」に造られている人間としての自由── すなわち、「良心の自由」のうちを歩まれた方は、イエス・キリストであること、そして、その自由は、イエス・キリストが十字架につけられた時に、最も豊かに表わされたことをお話ししました。
 見た目においては、十字架につけられたイエス・キリストほど不自由な人はいませんでした。手足は十字架に釘づけにされて身動きもままなりません。苦しみの余りに身を動かせば、かえって骨を砕かれている激痛の苦しみを深めるだけです。息をすることによる身の動きさえも、痛みを増し加えます。そして、自由に呼吸することができないために生ずる、さまざまな障害が全身に現れてきて、痛みと苦しみを深めていったと言われています。
 その上、預言者イザヤによって、

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
イザヤ書53章3節

と預言されており、使徒ヨハネによって、

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
ヨハネの福音書1章11節

とあかしされていますように、人々からは誤解されて退けられ、十字架につけられてもなお、

彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
マタイの福音書27章42節

というようなあざけりの言葉が追い撃ちをかけました。
 確かに、その時、イエス・キリストは、ご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架にかかっておられます。その時、イエス・キリストが願っておられたことは、ご自身の民を罪と死の力から解き放って、永遠のいのちのうちに生かしてくださることでした。そのような、イエス・キリストの思いはまったく通じませんでした。そのために、人間からの支えはまったくありませんでした。
 これらの苦しみだけでも、私たちの想像をはるかに越えたものです。しかし、これらの苦しみは、それがどんなに深いものであっても、イエス・キリストが十字架の上で味わわれた死の苦しみへの「序曲」でしかありませんでした。
 前回詳しくお話ししましたように、昼の12時から3時まで続いた「暗やみ」の中で、イエス・キリストは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りと刑罰をすべてその身に受けてくださいました。
 人間が加えることができる十字架刑の苦しみは、ある程度までは想像することができます。医学の発達とともに、それがどのような苦痛であったかが具体的に語られるようになりました。また、自分が心にかけて、そのためにいのちをも捨てようとしている人々からまったく誤解され、逆に、自分のしていることが非難され、あざけりと罵りの的となってしまう苦しみも、ある程度、理解することができます。
 けれども、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りがどのようなものであるかについては、私たちは、かすかな想像をすることができるだけです。また、その御怒りによって下された、私たちの罪に対する神さまのさばきの苦しみとなりますと、私たちには想像すらできません。
 そのように、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、私たちの想像を絶する痛みと苦しみを味わっておられるイエス・キリストは、最も深くて豊かな「良心の自由」のうちにおられました。それは、十字架におかかりになったイエス・キリストにおいて、神さまの愛が最も深くまた豊かに表わされ、神さまの栄光がこの上なく鮮明に現わされたからです。ヨハネの手紙第一・4章9節、10節で、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と言われているとおりです。

 このことから、私たちは、「良心の自由」について、さらにいくつかのことを考えることができます。今日は、その一つのことをお話しします。
 今日お話ししたいことは、「良心の自由」は、「神のかたち」に造られている人間の「人格的な自由」であるということから考えられることです。
 もう一度イエス・キリストのことを考えてみましょう。
 イエス・キリストは、私たちの想像を絶する死の苦しみをその身に負われる時を前にして、ゲツセマネにおいて祈られました。それは、イエス・キリストご自身が、

わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
マタイの福音書26章38節

とあかしされておられる死ぬほどの悲しみと、

イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
ルカの福音書22章44節

と言われている苦しみの中での祈りでした。
 マタイの福音書26章39節と42節に記されていますように、その祈りの中で、イエス・キリストは、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

とお祈りになり、さらに、二度目には、

わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。

とお祈りになりました。
 このイエス・キリストの祈りには、二つのことが含まれています。一つは、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

という祈りです。
 イエス・キリストが、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをその身に負われるということは、無限、永遠、不変の愛において結ばれている父なる神さまとの交わりが絶たれてしまうことを意味しています。実際に、イエス・キリストが十字架の上で、

わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。
マタイの福音書27章46節

と叫ばれたのは、そのことが、イエス・キリストの身に実現したことを意味しています。
 イエス・キリストが死ぬほどの悲しみの中で、汗が血の滴のように滴り落ちるほどの苦しみとともに、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

とお祈りになったことは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきの執行が、単なるエピソードとして片づけてしまうことができるものではなく、イエス・キリストにとって、どれほど恐ろしいものであるかを示しています。同時に、それは、父なる神さまとの愛の交わりを絶たれてしまうことがイエス・キリストにとって、どれほど悲しいものであったかを示しています。
 ですから、この、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

という祈りは、無限、永遠、不変の愛において父なる神さまと結ばれている御子イエス・キリストにとっては、最も自然な祈りです。御子イエス・キリストが十字架の上で味わわなければならない苦しみも悲しみも、父なる神さまとの愛の交わりが絶たれてしまうだけでなく、その代りに、最も恐るべき神さまの聖なる御怒りが注がれるようになるということから来る苦しみであり、悲しみです。この祈りには、父なる神さまに対する愛が、決して父なる神さまの愛を見失いたくないという深い思いとともに表わされています。

 しかし、イエス・キリストの祈りは、そこで終わっていません。イエス・キリストは、この祈りに続いて、

しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

とお祈りになられました。
 また、二度目の祈りにおいては、

わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。

とお祈りになりました。
 イエス・キリストは、父なる神さまとの愛の交わりがまったく絶たれてしまうことは何としても避けたいという、思いを父なる神さまに告白しました。それは、イエス・キリストにとって最も自然で当然の願いです。しかし、イエス・キリストは、そのようなご自分の願いを越えて、父なる神さまのみこころが実現することを祈り求めておられます。
 このように言いますと、イエス・キリストに十字架の辱めと苦しみを味わわせることや、私たちの罪に対する聖なる御怒りをイエス・キリストの上に注がれることが、父なる神さまのみこころであるかのように響いてしまいます。ここで改めて確認しておきたいことですが、そのようなことは、決して、父なる神さまのみこころではありません。
 人間的な言い方をしますが、無限、永遠、不変の愛において御子を愛しておられる父なる神さまにとって、御子イエス・キリストに人間の手によって加えられる十字架刑の死の苦しみを味わわせることは耐えられないことです。まして、ご自身が、私たちの罪に対する聖なる御怒りを御子イエス・キリストの上にお注ぎになり、ご自身の御手によって罪のさばきを執行されることは、絶対になさりたくないことです。
 その意味では、御子に無限の死の苦しみを負わせること自体は、父なる神さまのみこころではありません。それにもかかわらず、父なる神さまは、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」いわば、ここで、父なる神さまの御思いは引き裂かれています。
 御子イエス・キリストは、このような、父なる神さまの、私たちに対する愛から出ているみこころを理解し受け止めておられるだけでなく、それをご自身の思いとし、また、願いとして地上の歩みを歩んでこられました。そのために、イエス・キリストは、十字架を回避しようとする提案や道を断固として退けておられます。
 たとえば、マタイの福音書16章21節〜23節にありますように、イエス・キリストは、ご自身が多くの苦しみを受けて殺されることを予告されました。その時、ペテロは、

そんなことが、あなたに起こるはずはありません。

と言いましました。これに対してイエス・キリストは、

下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。

とお答えになりました。

 これらのことから、「神のかたち」に造られている人間がもっている自由な意志に基づく人格的な自由、すなわち、「良心の自由」の一端が見えてきます。
 御子イエス・キリストが十字架につけられて、人間が加えることができる十字架刑の苦しみを味わわれるだけでなく、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りをその身に負ってくださり、神さまの御手によるさばきをお受けになることについては、父なる神さまと御子イエス・キリストに共通した姿勢があります。
 それは、父なる神さまも、御子イエス・キリストも、ご自身にとって自然で当然の思いと願いをお捨てになって、あるいは、ご自身の思いと願いを越えられて、ご自身の御手によって造られたものでしかなく、しかも、ご自身に背いて罪を犯していた私たちに対する愛を貫いてくださっておられる、ということです。そして、そのような私たちを愛してくださったので、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださるために、父なる神さまは「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」そして、御子イエス・キリストは、十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪に対する神さまの御怒りとさばきをすべてその身に負ってくださいました。
 これもまた人間的な言い方ですが、私たちは、このことのうちに神さまの「自由」を見ます。それは、ご自身にとって自然で当然の思いと願いをお捨てになって、それをご自身の意志で越えられて、ご自身の御手によって造られたものでしかなく、しかも、ご自身に背いて罪の中に死んでいた私たちに対する愛を貫いてくださったことに見られる自由です。この自由は、私たちに対するご自身の無限、永遠、不変の愛によって導かれています。

 これまでお話ししてきましたように、「神のかたち」に造られている人間の自由は、心に記されている「愛の律法」に導かれて歩むところで現実のものになります。その場合に、私たちの自由な意志を導く「愛の律法」が示している愛は、ご自身にとって自然であり当然である思いや願いをもお捨てになって、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を」遣わしてくださった父なる神さまの愛と、十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪に対する神さまの御怒りとさばきをすべてその身に負ってくださった御子イエス・キリストの愛を映し出す愛です。
 このことを示しているのは、ヨハネの手紙第一・3章16節に記されている、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

という戒めです。ここで、

それによって私たちに愛がわかったのです。

と言われている愛が、私たちの自由な意志を導く愛です。
 この戒めは、人間が到達できない理想を述べているのではありません。これに続く17節、18節の、

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。

という戒めとつながっていることから分かりますように、現実的なことで自分を捨てることを求めるものです。
 確かに、私たちは、この戒めを完全に守ることができると言うことはできません。私たちのうちには罪の自己中心性が残っています。そのために、私たちは、「兄弟のために、いのちを捨てる」どころか、しばしば、兄弟を踏みつけてしまうことがあります。
 けれども、この戒めは、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いをもって私たちのうちに「神のかたち」の栄光と尊厳性を回復してくださり、私たちを自由なものとしてくださっていることを踏まえています。それは、自分にとって自然であり、当然である思いや願いであっても、兄弟を愛するために必要であれば、自分の意志でそれを捨てる自由を回復してくださっているということです。
 これは、父なる神さまが、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいて働かれる御霊によって、私たちに対してなしてくださっておられる御業によることであって、私たちはそれにあずかっているだけです。
 この神さまの御業は、すでに、私たちの間で始まっています。それで、私たちは、兄弟を愛して自分のいのちを捨てる自由のうちに歩むようにと戒められているのです。
 繰り返しになりますが、私たちは、地上にある間は、この戒めを完全に守ることはできません。しかし、神さまは私たちを御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださっておられます。そして、イエス・キリストの再臨の日には、この私たちに対する御業を完成してくださいます。

 


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