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説教日:1999年12月12日 |
人間は、本来、「愛の律法」に導かれている自由な意志を中心として成り立っている人格的な存在です。そのような、「神のかたち」に造られている人間の自由の中心に「良心の自由」があります。 これまで繰り返しお話ししてきましたが、この「良心の自由」は、「神のかたち」に造られている人間の栄光と尊厳性の中心にあるものです。私たちに対する神さまのみこころの中心は、私たちが「神のかたち」に造られている人間としての栄光と尊厳性をもつようになることです。 私たちが「神のかたち」に造られている人間としての栄光と尊厳性をもつことは、具体的には、私たちが「良心の自由」のうちにあって、神さまと隣人との愛にある交わりに生きることを通して実現します。 今日は、そのような意味で、「良心の自由」のうちに歩むことが、実際に、どのようなことであるかを理解するために、「良心の自由」という点で、最も自由であった方のことを考えてみたいと思います。 言うまでもなく、その方は、十字架にかかられて、私たちの罪に対する永遠の刑罰をすべてその身に負って死んでくださったイエス・キリストです。十字架につけられたイエス・キリストが、誰よりも自由な方であったということを理解することが、「神のかたち」に造られている人間の自由を理解することの鍵です。 イエス・キリストが十字架につけられたことを外側から見ますとどうなるでしょうか。イエス・キリストご自身が、 人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない マルコの福音書8章21節 と弟子たちを教えられましたように、イエス・キリストは、人々から徹底的に拒絶されて、人類が考え出した処刑の中でも最も残酷な処刑の方法の一つと言われる十字架刑によって、殺されました。 マルコの福音書15章29節〜32節に、 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。 と記されていますように、ひとたび十字架につけられてしまったイエス・キリストは、そこから降りることが出来ない状態になってしまいました。 そこで、人々がどんなにひどいことを言ってあざけったりののしったりしたとしても、それを甘んじて受ける他はありませんでした。そして、私たちの想像を絶する激しい痛みと苦しみの中で、もがいておられました。 このように外側から見える状態を見ますと、十字架につけられたイエス・キリストほど、不自由な状態にある人はいなかった、と言わなくてはなりません。 しかし、「神のかたち」に造られている人間の栄光と尊厳性の中心である「良心の自由」という観点から見ますと、十字架につけられたイエス・キリストほど自由な方はいなかったし、今もいないと言わなくてはなりません。 それは、一体どういうことでしょうか。 私たちは、イエス・キリストが十字架の上で味わわれた苦しみの深さを永遠に理解し尽くすことは出来ません。その当時、十字架につけられて処刑された人は他にもたくさんいました。けれども、イエス・キリストが十字架の上で味わわれた死の苦しみは、十字架刑という人間が加えることが出来る死の苦しみで終わるものではありません。イエス・キリストは十字架の上で、ご自身の民の罪に対する神さまの最終的な刑罰、すなわち、永遠の刑罰の苦しみを味わわれました。 その、永遠の刑罰としての死の苦しみについては、マルコの福音書15章33節、34節で、 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。 と言われています。 ここに記されているのは、12時から3時間、全地が暗くなったということと、その最後にイエス・キリストが、 わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 と叫ばれたということだけです。 その暗やみは、神である主のさばきがそこで執行されていることを示す暗やみでした。 出エジプトの時代に、神である主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださる時に、エジプトに10のさばきを下されました。それは、だんだんとさばきの厳しさを増していくものでした。その10番目のさばきは、エジプトの地にいるすべての「いのちのあるもの」の「初子」を撃つというものでした。 イスラエルの民は、一歳の雄の小羊を取って、それを、そのさばきの日、すなわち、過越の日の夕方に屠り、その血をそれぞれの家の二本の門柱と鴨居に塗りつけ、家の中では、その肉を食べるように命じられました。それは、出エジプト記12章1節〜14節に記されています。 その夜、さばきを執行された主は、門柱と鴨居に血が塗られている家では、すでにさばきが執行されているしるしがあることをから、その家を過ぎ越されました。 このようにして、エジプトに対する主の最終的なさばきは執行され、イスラエルの民は、エジプトの奴隷の状態から贖い出されました。 このエジプトに下された10番目のさばきに先立つ9番目のさばきは、イスラエル人が住む所を除いたエジプトの全土が三日間真暗闇となることでした。イエス・キリストが十字架にかかられた時に、三時間にわたって全地を覆った暗やみは、三日間エジプトの全土を覆った暗やみに対応するもので、そこで、神である主の最終的なさばきが執行されていることを表わす暗やみでした。 このように、イエス・キリストが十字架にかかって血を流されたことは、過越の小羊が屠られて、その血が門柱と鴨居に塗られたことを成就することでした。私たちの罪に対する神である主のさばきは、過越の小羊の本体として十字架につけられたイエス・キリストの上に下されました。 ですから、イエス・キリストが十字架にかかられた時に、三時間にわたって全地を覆った暗やみの中では、人間が誰ものぞき見ることも出来ない、恐るべきさばきが執行されていたのです。父なる神さまと御子は、無限、永遠、不変の愛によって結ばれています。その愛が破れることは一瞬でもありえないのです。父なる神さまは、私たちのすべての罪に対する聖なる御怒りを、そのような愛のうちにある御子の上に下されました。── 決して、父なる神さまの御子に対する愛が変わったのでも、失われたのでもありません。しかし、私たちのすべての罪に対する聖なる御怒りは、すべて、御子イエス・キリストの上に注がれました。 御父と御子の間に、どのようなことが起こったのかを、私たちはのぞき見ることも出来ません。ただ、その最後に、イエス・キリストが暗やみの中で、 わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 と叫ばれた御声を聞くだけです。無限、永遠、不変の愛で結ばれている御父が、御子を、無限、永遠、不変の重さを持った御怒りをもって、おさばきになったということが分かるだけです。実際に、それがどのようなことであるかは、想像することも出来ません。 私たちは十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストの血による罪の贖いにあずかって、私たちの罪がもたらす死と滅びの中から贖い出されました。そして、「神のかたち」に造られたものでありながら、自らの罪によってその本性が腐敗して、神さまのご臨在の御前に立つことが出来ない状態にあったところから、イエス・キリストの贖いに包んでいただいて、罪をきよめられ、神さまのご臨在の御前に立つことが出来るものとしていただいています。 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 ヘブル人への手紙10章19節〜22節 イエス・キリストは、地上の生涯の最後の週の日に、すなわち、十字架につけられることを目前にして、 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。 ヨハネの福音書12章27節、28節 と言われて祈られました。 イエス・キリストは、ご自身の生涯の目的が、十字架にかかって死なれることにあることをわきまえておられます。そして、その十字架の死が単なる肉体的な死ではなくて、ご自身の民の罪に対する最終的な刑罰、すなわち、永遠の刑罰であることをご存知であられました。それが、無限、永遠、不変の愛によって結ばれている父なる神さまから、私たちの罪に対する聖なる御怒りのすべてをお受けになることであることもご存知でした。また、その御怒りが、無限の重さを持った御怒りであることもご存知でした。 また、イエス・キリストは、地上の生涯の最後の日の夜、弟子たちとともに過越の食事をされてから、ゲツセマネという所に行って、父なる神さまに祈られました。そのことは、たとえば、マルコの福音書14章33節〜36節に、 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」 と記されています。 その時、イエス・キリストは、このような祈りを三度もなさいました。ルカの福音書22章44節では、 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。 と言われています。 このように、イエス・キリストにとって、十字架の上で父なる神さまの御手によって、私たちの罪に対する最終的なさばきを、私たちに代わってお受けになることは、底知れず悲しく恐ろしいことでした。そうではあっても、イエス・キリストは、一貫して、十字架を受け入れることが出来るように祈っておられます。そして、ご自身から、十字架に向かって進んで行かれました。 その理由は、ただ一つです。イエス・キリストが私たちを愛してくださっているからです。そして、私たちを私たちの罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださるだけでなく、私たちのうちに「神のかたち」の栄光と尊厳性を回復してくださり、父なる神さまと隣人との愛の交わりに生きる神の子どもとしてくださるためでした。 ヨハネの手紙第一・3章16節で、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と言われています。また。ローマ人への手紙5章8節〜11節では、 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。 と言われています。 イエス・キリストは、このような、私たちに対する愛を貫いてくださるために、ご自身の意志で十字架に向かって進んで行かれました。マルコの福音書10章32節〜34節では、 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」 と言われています。 また、十字架につけられたイエス・キリストに向かって、人々が、 おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。 と言って、イエス・キリストをののしり、あざ笑ったとしても、イエス・キリストは、十字架からお降りになられませんでした。 それは、イエス・キリストに、十字架から降りる力がなかったからではありません。イエス・キリストにとって、十字架から降りることは、たやすいことでした。いや、ローマ帝国を転覆して、地上の権力を掌握することも難しいことではありませんでした。しかし、そのようにして、イエス・キリストが十字架を回避してしまわれたとしたら、罪の贖いの御業は成し遂げられず、私たちは、私たち自身の罪のうちに滅びるほかはなかったでしょう。 イエス・キリストは、ご自身の意志で十字架に向かって進んで行かれ、ご自身の意志で十字架におつきになりました。そして、ご自身の意志で、最後まで、── すなわち、私たちの罪に対する父なる神さまの御怒りをすべてその身に負われるまで、十字架の上に留まられたのです。 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。 ヨハネの福音書10章17節、18節 これらすべてを貫いているのは、イエス・キリストの父なる神さまと私たちに対する愛です。 このように見てみますと、外側から見たところ、最も不自由な状態にある、十字架につけられたイエス・キリストは、「良心の自由」という観点から見たときには、そのご意志が完全に「愛の律法」によって導かれている、最も自由な状態にありました。 イエス・キリストは、 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 マルコの福音書8章34節 と言われて、私たちを招いておられます。 これは、ご自身の十字架の死による罪の贖いにあずかって死と滅びの中から救い出されただけでなく、「神のかたち」の栄光と尊厳性を回復していただいている私たちも、自由な意志を「愛の律法」に導かれている、豊かな「良心の自由」のうちを歩むようにしてくださるためです。 |
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