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説教日:1999年12月5日 |
人間の心に記されている律法は、マタイの福音書22章37節〜40節にありますように、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という、第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という、第二の戒めに集約され、まとめられます。 「神のかたち」に造られている人間の心に記されている律法が、このような「愛の律法」であるのは、神さまが愛であることに呼応して、「神のかたち」に造られている人間の本質的な特性が愛であるからです。 ですから、「神のかたち」に造られている人間の自由な意志は、この「愛の律法」に導かれて働きます。それで、人間が自分自身の自由な意志で考えること、感じること、行なうことが、自然と、また、常に、「愛の律法」に沿ったものとなります。そして、そのことを通して、神さまの愛が映し出されるようになり、神さまが愛であることがあかしされるようになります。 ヨハネの手紙第一・4章7節、8節で、 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 と言われていることは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、「神のかたち」の本来の姿を回復していただいた私たちの在り方を示すものですが、同時に、それは、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間の本来の姿を示しています。 すでにお話ししたことですが、どのような存在も、自らの本質的な特性を発揮する状態にある時に、自由であるといえます。魚は水の中に住むものとして造られています。それで、水の中にいる時に自由であることが出来ます。 「神のかたち」に造られている人間の本質的な特性は、神さまが愛であることに呼応して、愛であることにあります。その愛は、自由な意志を持つ人格から生み出される愛、すなわち、人格的な愛です。ですから、「神のかたち」に造られている人間にとっての自由は、自らの自由な意志によって、愛のうちに生きることにあります。 それが、人間が、自らの自由な意志によって考えることや、感じることや、行なうことが、心に記されている「愛の律法」に従っている状態、── それによって、神さまの愛を映し出していく状態です。このような状態にある時に、「神のかたち」に造られている人間は自由な状態にあります。そのような自由の中心にあるのが「良心の自由」です。 「良心の自由」は、自分の思想や信条に従って、自分で物事を考え、感じ取り、判断し、行動する自由です。「神のかたち」に造られている人間の本来の姿においては、その人の思想と信条が、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という、第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という、第二の戒めに集約され、まとめられる「愛の律法」によって方向づけられ、導かれています。 これに対しまして、人間が、マインド・コントロールや強制や脅迫など、外側からの何らかの「操作」によって動かされている時には、その人の「良心の自由」が侵されてしまっています。そこからは、「神のかたち」に造られている人間にふさわしい人格的な愛は生まれてきません。人格的な愛は、人格的な存在の自由な意志から生まれてくるものです。また、自由な意志を持つ人格的な存在から生まれてくる最大のものが、人格的な愛です。 たとえば、国家権力によって、国家が統一の象徴として定めた「偶像」を拝むように強制するときには、私たち神の子どもの「良心の自由」は危機にさらされてしまいます。それは、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている「愛の律法」が、天地の造り主である神さまのみを、神として愛するように、私たちの良心を導いているからです。 偶像礼拝が罪であるというのは、何よりも、偶像礼拝が、天地の造り主である神さまの無限、永遠、不変の栄光を、人間が考えた「神」の粗末な栄光にすり替えることであるからです。それによって、真理そのものであり、この世界のあらゆる真理の基礎であり、源である、造り主である神さまが歪められてしまいます。そして、真理は隠され、暗やみがもたらされることになります。 それと同時に、偶像礼拝は、「神のかたち」に造られている人間の「良心の自由」を侵すものであり、「神のかたち」としての栄光と尊厳性を傷つけるものであるという点でも、罪であるのです。 神さまは、ご自身が、人間を「神のかたち」にお造りになったみこころに沿って、人間の「良心の自由」の根底にある自由な意志の働きを、十分に尊重してくださいます。言い換えますと、私たち人間が、マインド・コントロールや強制や脅迫など、何らかの外側からの「操作」によって動かされることを決して望んでおられないのです。 そことを示す例がいくつかあります。 その最もはっきりとした例の一つは、色々な機会にお話ししてきたことですが、最初の人であるアダムとエバが、「蛇」を通してなされたサタンの「説得」に従って、神さまがそれから取って食べてはならないと命じておられた「善悪の知識の木」から取って食べた時のことです。 ここでは、問題点に焦点を絞るために、その「善悪の知識の木」をめぐる戒めがどのような意味をもっているかということは、おいておいて、お話しします。 最初の人が「善悪の知識の木」から取って食べたことによって、人類の堕落という、人間の歴史にとって最も深刻な事態が生じてしまいました。それは、人間を「神のかたち」に造りになって、ご自身との愛の交わりのうちに置いてくださった神さまにとっても、無限の痛みでした。 さらに、私たちを罪の結果である死と滅びから贖い出してくださるためには、御子が人の性質をお取りになって来てくださり、私たちの罪に対する永遠の刑罰の苦しみを、すべて負ってくださらなければなりませんでした。それ以外に、私たちを贖い出す方法は考えられません。 どの点を取ってみても、最初の人が「善悪の知識の木」から取って食べることは、神さまのみこころに真向から反することでした。無限、永遠、不変の神さまは、これらのことはすべてお分かりになっていました。 当然、神さまは、何としても、そのようなことにならないように願っておられたはずです。 人間でさえ、マインド・コントロールのような手法を用いて、人の心を「操作」することができます。神さまは、もしそれがみこころであれば、いくらでも、最初の人の心を「操作」して、「善悪の知識の木」から取って食べないようにさせることはおできになったはずです。 それでも、神さまは、人の心を「操作」して、ご自身の思い通りに動かすということはなさいませんでした。── もちろん、それによって、最初の人が罪を犯して、人類が堕落してしまったと言うことは出来ません。罪を犯した責任は、あくまでも、自由な意志を与えられていて、自分自身で意思決定をした人にあります。 人間を「神のかたち」にお造りになった神さまは、この場合、人間の心を「操作」して、一時的にでも、人間をロボット化するようなことはなさいませんでした。「神のかたち」に造られている人間の自由な意志を踏みにじることはなさいませんでした。それによって、人間の「神のかたち」としての栄光と尊厳性── その中心は、自由な意志を持つ人格的な存在であることにあります。── を尊重し、守っておられるのです。 このように見ますと、どのような場合においても、人間が自由な意志を持つ人格的な存在として、「神のかたち」の栄光と尊厳性を保つことが、神さまにとってどれほど大切で重いことであるかが分かるような気がします。 言うまでもないことですが、神さまは、最初の人が試練にあった時だけ、その人の心を「操作」して、ご自身の思い通りに動かすようなことをなさらなかったというだけでなく、どのような場合においても、神さまは、そのようなことはなさいません。 確かに、神さまが私たちの心に働きかけてくださり、私たちの心を開いてくださり、導いてくださることはあります。たとえば、ピリピ人への手紙2章13節では、 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。 と言われています。 けれども、それは、神さまが私たちの心に「操作」を加えて、私たちの心が私たち自身の意志に関係なく働くようになることではありません。あるいは、私たちが思ってもいなかった思いが突然浮んできて、それが、私たちを動かしていくというようなことでもありません。 むしろ、私たちが、いつも「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と祈っていますように、神さまのみこころが実現すること願いつつ、みこころに従って歩む時に、私たちにとって最も自然な願いや志が、私たちのうちから生まれてくることを意味しています。それは、私たちが祈り求めていることに沿った、私たちの願いであり志であるのです。 その際、さまざまなことが用いられることもあります。それが教会に関わることであれば、お互いの話し合いが用いられて、一つの志に導かれることがあるでしょうし、個人的なことの場合に、どなたかのアドバイスや、読んだ本などが用いられて、ある志に導かれることもあるでしょう。 いずれにしましても、それは、普通は、自分たちが精一杯考え、切に祈り求めることの中で、自分たちの志として生まれてくるものです。それは、神の子どもたちにとってごく自然なことです。そこには、マインド・コントロール状態に見られるような異常さや、ある考えに取り憑かれたようになったり、陶酔してしまっているような異常さもありません。 私たちは、普段、自分に歯があることを意識しません。それは、歯が自分にぴったりとはまっていて、何の違和感もないからです。しかし、よく出来ていない「入れ歯」は、いつもそれが口の中にあることを感じさせます。神さまのお働きは、私たちにとって自然なものであって、私たちは、それを「違和感」のあるものの存在を意識するように意識することはありません。 神さまが働いてくださるときには、ご自身がお造りになったものを生かすように働いてくださいます。私たちの心に働きかけてくださるときには、私たちの考え方や、すでにある知識や、願いや、私たちの自由な意志を生かしてくださいます。そのお働きが余りにも「見事」なものであるので、私たちは、自分が考えていることや願っていることや、自分の意志である決断をしていることしか意識できません。 神さまが人の心に働きかけてくださったことが最もはっきりしていて、しかも、最も大切なものは、聖書の霊感でしょう。テモテへの手紙第二・3章16節では、 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 と言われています。 もし、霊感された聖書が与えられていなかったら、教会の歴史の中で、「天からの声を聞いた」とか、「幻を見た」と言うような人々が起こってきて、教会は混乱させられ、福音は人間の考えに合わせて修正され、救いの道は見失われていたことでしょう。 そのように大切な聖書は、神さまの御霊の創造的なお働きによって生み出されました。── 聖霊が、聖書を書き記した人たちの心に働きかけてくださって、聖書を書き記させてくださったのです。 しかし、一般的に言って、それは、聖書の記者たちが、さまざまな事情の中で、自分自身がそれを書き記す必要を感じて、自分自身の判断で書き記したものです。 たとえば、パウロが、ガラテヤ人への手紙を書き記したのは、ガラテヤのクリスチャンたちが誤った福音に逸れていってしまっていることを知って、その信仰をまことの福音の基礎の上に立つものとして回復しようとしてのことです。その際、パウロは、ガラテヤのクリスチャンたちを惑わしている人々の教えを調べ、自分が理解している福音に照らして、きちんと批判しています。そして、本当の福音がどのようなものであるかを、改めて伝えています。 その手紙を書き記している時のパウロは、確かに、聖霊に導かれていたのですが、パウロ自身は、自分が聖霊によって導かれていることを意識してはいません。パウロは、自分の考えを結集し、知識と理解を動員して、その問題と取り組んでいました。そのような取り組みの中で、自分の考えがまとまり、それを記していったわけです。そこに、何の異常な様子はありません。 人の心に対する神さまの働きかけの中で最もはっきりしていて、最も大切な、聖書の霊感においても、神さまは、聖書の記者たちの経験や知識、考え方や理解、自由な意志や願いなどを生かして用いてくださり、その人のその人らしさが豊かに現われてくるようにしておられます。そこには、マインド・コントロールや、何かに憑かれたようになってしまっている異常さはありません。 このように、神さまの救いの御業の中で決定的に大切な、聖書の霊感のお働きにおきましても、神さまは、「神のかたち」に造られている人間の自由な意志を押さえつけてお働きになることはありません。むしろ、聖書を記した人々の人格的な特性を生かし、その経験と知識と理解を生かし、その思いと願いを生かし、そして、その自由な意志を生かして用いてくださっておられます。 このことも、どのような場合においても、人間が自由な意志を持つ人格的な存在として、「神のかたち」の栄光と尊厳性を保つことが、神さまにとってどれほど大切で重いことであるかを物語っています。 神さまは、私たちを、脅迫や強制のような、外側からの「操作」によって動かすことによって、みこころに従わせようとはなさいません。それで、私たちは、たとえ、それがキリストの御名によってなされたことであっても、異常なものに触れて、その虜になってしまったり、マインド・コントロールのような状態になってはなりません。 さらに、私たちは、どのようなことによっても、── たとえ、それが神さまの御名によってなされることであっても── 、脅迫されたり、強制されて従うようなことがないようにしなくてはなりません。 また、私たち自身も、人を自分の思うように動かそうとして「操作」したりしないように、気をつけなくてはなりません。たとえば、人をさばくことは、その人を自分の思うように動かそうとして「操作」することにつながっています。また、脅迫や強制などによって縛りつけることも、人を自分の思うように動かそうとして「操作」することです。 すでにお話ししましたように、そのようなことによっては、「神のかたち」に造られている人間としての「良心の自由」が侵されてしまって、私たちのうちから、神さまへの愛も、隣人への愛も生まれてきません。 このようなことは、人間を、自由な意志を持つ人格的な存在として、「神のかたち」にお造りになった神さまのみこころに背くことです。また、人間が罪を犯して堕落した後にも、なお、御子イエス・キリストのいのちの価をもって、私たちを「神のかたち」の栄光と尊厳のうちに回復し、さらに、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださっている、父なる神さまのみこころに背くことでもあります。 これらのことを積極的な面から見ますと、私たちが、どのような場合においても、「良心の自由」、あるいは、「信仰の良心の自由」を守ることが、神さまのみこころを行なうことの根本にあるということになります。 ガラテヤ人への手紙5章1節で、 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。 と言われており、5章13節、14節で、 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。 と言われているとおりです。
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