(第27回)


説教日:1999年11月28日
聖書箇所:コリント人への手紙第二・3章4節〜18節


 神さまは、永遠の聖定において、私たちをご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとしてくださり、神の子どもとしての実質が御子イエス・キリストの栄光のかたちに似たものとなるように定めてくださいました。そして、創造の御業と贖いの御業を通して、その永遠の聖定において定められたみこころを実現してくださいました。
 このみこころを実現してくださるために、神さまは、天地創造の初めに、人間を、自由な意志を持つ人格的な存在であることを本質とする「神のかたち」にお造りになりました。そして、その心に神さまの律法を記してくださいました。
 私たちの文化では、「心」と言いますと、感情的な意味合いが強く意識されます。けれども、聖書で「心」と言われているのは、それが知性と感情と意志からなる人格の中心であることを意味しています。ですから、「神のかたち」に造られている人間の心に神さまの律法が記されているというときには、人間の知性も感情も意志も含めた人格の全体が、その律法によって導かれていることを意味しています。
 それで、「神のかたち」に造られている人間の本質が自由な意志を持っている人格的な存在であることにあるというときの、自由な意志は、何の方向性もないまま迷走するものではありません。「神のかたち」に造られている人間の自由な意志は、自分自身の心に記されている律法に従います。


 「神のかたち」に造られている人間の心に記されている律法の全体は、マタイの福音書22章37節〜40節に記されていますように、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
という、第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という、第二の戒めに集約され、まとめられます。
 先週お話ししましたように、「神のかたち」に造られていて、自由な意志を持っている人間の心に律法が記されているということは、比喩的な言い方です。それは、本来、人間が考えることや感じることや行なうことが、自然と、神さまのみこころと一致する状態にあるということを意味しています。天地創造の初めに、「神のかたち」に造られた時の人間の心は、そのような状態にありましたから、人間は、自然と、心に記されている律法に導かれて、造り主である神さまに向いて、神さまの愛を受け止め、自分からも神さまを愛し、自分と同じように神さまの愛に包まれている隣人を愛して生きるようになっていました。
 それで、「神のかたち」に造られている人間にとって、造り主である神さまに向いて、神さまの愛を受け止め、自分からも神さまを愛し、自分と同じように神さまの愛に包まれている隣人を愛して生きることは、最も自然なことです。
 そして、造り主である神さまに向いて、神さまの愛を受け止め、自分からも神さまを愛し、自分と同じように神さまの愛に包まれている隣人を愛して生きる時に、人間は、真の意味で自由であるということができます。
 このように、「神のかたち」に造られていて、自由な意志を持っている人間の自由は、自分自身の心に記されている律法によって導かれる、人格的な自由です。そして、そのような人格的な自由のことを「良心の自由」と呼びます。

 10月31日と11月7日のお話の中でお話ししたことですが、良心の自由は、自分自身の思想と信条に従って考え、物事を判断し、生きることに現われてきます。つまり、私たちの自由な意志が私たち自身の思想と信条に導かれているときに、私たちは、良心の自由の中にあります。
 その時にもお話ししましたが、「神のかたち」に造られている人間の思想と信条は、自らの心に記されている律法を土台として、律法に導かれて形成されます。
 しかし、現実の人間においては、とても、人間の思想と信条が、自らの心に記されている律法を土台として、律法に導かれて形成されているようには見えません。
そ れは、もっともなことです。それには、少なくとも、二つのことが関わっていると思われます。
 一つは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまった結果、「神のかたち」に造られている人間の心が腐敗してしまっているということです。ちょうど、紙がぼろぼろになったために、その紙に書かれていたものが読めなくなってしまうように、人間の心に記されている神さまの律法も、罪が生み出す本性の腐敗と、罪の自己中心性によって歪められてしまっています。そのために、人間の思想や信条が、心に記されている律法を土台として、律法に導かれて形成されているようには見えないのです。
 もう一つのことは、「神のかたち」に造られている人間の心に記されている律法と、人間の思想と信条の関係が分かりにくいということです。それは、恐らく、私たちには、「律法」とは、さまざまな規定や条文のことである、というようなイメージがあるために、人間の心に記されている律法と、人間の思想と信条が結びつかないからでしょう。
 けれども、神さまの律法は、ただ単に、さまざまな規定や条文であるのではありません。
 実は、この世の法律にも、なかなか見えにくいものですが、その全体を根本から規定し律している思想や信条があります。それが、法律に調和とまとまりを与えています。その点が分かりやすいのは、憲法のような根本的な法で、憲法には「憲法の思想」があります。
 神さまが人間の心に記してくださった律法は、この世の法律で言えば、根本的な法に当たるもので、さまざまな条文や規定であるというよりも、むしろ、その全体を規定し律する基本的な原理を明らかにするものです。
 というのは、人間は、実にさまざまな事柄と状況に直面して、その一つ一つのことについて判断し、自分の生き方を決定していかなくてはなりません。もし、心に記されている律法が単なる規定や条文でしかないとしますと、その一つ一つの事柄と状況が違っていますので、このようなときには、こうしなさい、また、このようなときには、こうしなさいという、数限りない規定と条文が必要になってきます。
 天地創造の初めに「神のかたち」に造られて、心に神さまの律法が記されていた人間が、神さまに従って生きていたということは、そのような、数限りない規定や条文を覚えていて、一つ一つの状況において、それに当てはまる規定や条文を思い出して、守っていたということではありません。むしろ、どのような事柄や状況に直面しても、それに対して自分自身の判断ができるとともに、その判断が、自然と、神さまのみこころに一致し調和するようになっていた、ということであると考えられます。
 このように、「神のかたち」に造られている人間の心に律法が記されているということは、さまざまな規定や条文が記されているということで終わるものではありません。むしろ、あらゆる状況の中で、自分自身の在り方と生き方を、自分自身で考えて決定するのに必要な、基本的な原理が与えられていたということを意味しています。そして、あらゆる状況の中で、その基本的な原理に従って、自分の在り方と生き方を考え、判断して、決定すると、それが、自然と、神さまのみこころと一致し調和していたということです。
 当然、そのような、心に記されている律法が示す自分の在り方と生き方を決定する基本的な原理は、自分自身の思想や信条を形成する土台であり、人は、それに従って、自らの思想や信条を形成していったと考えられます。── 実際に、罪を犯して堕落するまでに、どれくらいの時が経ち、その思想と信条がどれくらい深く豊かになったかは分かりませんが、そこに成長があったことは確かです。

 このことに照らして、現実の人間の姿を見てみましょう。人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して、その心が腐敗してしまっており、神さまから離れてしまっています。それで、罪によって心が腐敗してしまっている人間の思想と信条は、造り主である神さまとは無関係なものとして形成されてしまっています。
 そのような人間の姿が、詩篇14篇1節〜3節では、

愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。
善を行なう者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、
神を尋ね求める、悟りのある者が
いるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、
だれもかれも腐り果てている。
善を行なう者はいない。ひとりもいない。

と言われています。
 さまざまな機会にお話ししてきましたが、この、

愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。

ということは、ただ単に、その人が、心ひそかに「『神はいない。』と言っている。」ということではありません。その人の考え方と生き方が「神はいない。」という信念に貫かれているということを意味しています。── その人の思想と信条の根底にある基本的な原理が、「神はいない。」ということにあるのです。
 言い換えますと、その人の「良心」を形造り、自由な意志を導く、心に記されている律法が、腐敗してしまっているために、その人の心が造り主である神さまに向くことがないし、神さまの愛を受け止めることも、神さまを愛することもなくなってしまっています。その結果、その心のうちに形成される思想や信条は、「神はいない。」という基本的な原理に従って形成されるようになっているのです。
 そして、そこから、

彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。
善を行なう者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、
神を尋ね求める、悟りのある者が
いるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、
だれもかれも腐り果てている。
善を行なう者はいない。ひとりもいない。

というような生き方が生まれてきています。
 ですから、このような状態にある人にあっても、自らの心に記されている律法を土台とし、その律法に導かれて、思想と信条が形成されるということは、変わりがありません。ただ、その人にあっては、罪によって心そのものが腐敗してしまっているために、心に記されている律法の全体が「神はいない。」ということに集約されるようになっており、「神はいない。」ということを基本的な原理として、自己中心的に歪んでしまっているのです。
 これに対しまして、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた時の人間にあっては、すなわち、「神のかたち」に造られている人間の本来の状態にあっては、心に記されている律法は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という、第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という、第二の戒めに集約されるわけです。
 言い換えますと、「神のかたち」に造られている人間の本来の状態にあっては、あらゆる状況にあって、この第一の戒めと第二の戒めが基本的な原理となって、考えられ、判断がなされていたということです。
 このように、私たちの思想と信条は、私たちの心のうちに形成されるものです。そして、その心に神さまの律法が記されています。そのために、私たちの心のうちに形成される思想と信条は、心に記されている律法を土台としており、それによって導かれて形成されるものであるのです。
 その意味で、「神のかたち」に造られている人間の良心の自由は、心に記されている律法によって導かれて、思想や信条が形成されていくところに現われてきます。

 最後に、これらのことを踏まえて、私たちが神さまのみこころを考えるうえで、また、それに従ううえで、とても大切なことをお話ししたいと思います。
 すでにお話ししましたように、天地創造の初めに「神のかたち」に造られ、心に律法が記されていた人間が、具体的な状況の中で、自らの良心に従って考えることや、行なうことは、自然と、神さまのみこころと一致し調和していました。その意味で、「神のかたち」に造られている人間が、その本来の姿において、自らの良心に従って考えることや行なうことは、そのまま神さまのみこころを反映し、神さまがどのような方であるかを映し出すようにして、あかしすることになっていたわけです。そこに、「神のかたち」に造られている人間の尊厳性と栄光がありました。
 このことは、「神のかたち」に造られている人間が、その本来の姿において、どのように神さまをあかしし、神さまの栄光を現わすものであるかを、理解する上でとても大切なことです。それは、ただ単に、人類の歴史の初めに、そのような、「神のかたち」の本来の姿を持っていて、自らの考えることや行なうことが、そのまま神さまがどのような方であるかをあかしするようになっていた人がいた、というだけのことではありません。御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって、神の子どもとされている私たちの姿が、どのようなものであるかをも、指し示すものです。

 私たちは、すでに、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を赦され、本性の腐敗をきよめていただいています。そればかりではなく、イエス・キリストが死者の中からよみがえってくださったことによって実現してくださった復活のいのちにあずかって新しく生まれて、神の子どもとしていただいています。
 父なる神さまは、御子イエス・キリストの贖いの御業を通して、私たちを「神のかたち」の本来の姿に回復してくださるだけではありません。私たちを、「神のかたち」の完成である、「御子のかたちと同じ姿」(ローマ人への手紙8章29節)、すなわち、復活のキリストの栄光のかたちに造り変えてくださっているるのです。
 コリント人への手紙第二・3章18節では、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と言われています。
 この、御霊のお働きは、私たちのうちにすでに始められていますが、ここで言われているとおり、私たちが地上にある間は、なお、継続しており、私たちは、回「主と同じかたちに姿を変えられて」行くプロセスの中にあります。
 御霊は、御子イエス・キリストの贖いの御業に基づいて働かれます。そして、私たちをイエス・キリストの復活のいのちで生かしてくださり、私たちの心に律法を記してくださることによって、私たちは、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えられていきます。
 その完成は、ヨハネの手紙第一・3章2節で、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

とあかしされています。
 先ほど言いましたように、天地創造の初めに、「神のかたち」に造られ、心に律法を記されていた人間が、具体的な事情と状況の中で、自らの良心に従って考えることや、行なうことが、そのまま神さまのみこころを反映し、神さまがどのような方であるかを映し出すようにして、あかしすることになっていました。そうであれば、御霊のお働きによって、御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって、復活のキリストの栄光のかたちに造り変えていただいて、心に律法を記されている私たちにおいても、同じようなことが起こります。しかも、それよりも栄光ある形で起こるようになります。
 もちろん、そのことの最終的な完成は、世の終わりの栄光のキリストの再臨の時に、私たちが復活の栄光にあずかることによって実現します。しかし、その完成に至るプロセスは、すでに始まっています。
 私たちが、イエス・キリストの贖いの御業に基づいて働かれる御霊のお働きにあずかって、イエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えていただけばいただくほど、私たちが具体的な状況の中で、自らの良心に従って考えたり、行なったりすることが、イエス・キリストがどのような方であるかを、より鮮明に映し出すようになるという形で、イエス・キリストをあかしするようになるのです。
 お気づきのことと思いますが、このようになることによって、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるという、神さまの永遠の聖定が実現します。
 また、このようになることによって、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになった、神さまの創造の御業を通して表わされたみこころが実現します。

 そして、このようになること、すなわち、私たち自身がイエス・キリストの栄光のかたちに造り変えていただいて、自らの良心に従って考えたり、行なったりすることが、イエス・キリストがどのような方であるかを映し出すようになることを通して、イエス・キリストをあかしすることが、私たちがイエス・キリストをあかしすることの中心です。
 このことによるあかしがなければ、どんなに、奉仕をして実績を上げたとしても、イエス・キリストをあかししたことにはなりません。
 マタイの福音書28章18節〜20節に記されている、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

という、栄光のキリストが授けてくださった「大宣教命令」も、このこととの関連で理解しなくてはなりません。
 一般に理解されていることと少し違うかもしれませんが、

あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

という言葉は、贖いの恵みが人々に当てはめられるようになる道筋を示しています。ですから、これは、福音を信じた人々が、自らの良心に従って考えたり、行なったりすることが、自然と、イエス・キリストがどのような方であるかを映し出すようになるほどに、イエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えていただくようになることを目的としているはずです。そして、そのことを通して、イエス・キリストが、さらにあかしされるようになるはずです。

 


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