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説教日:1999年11月21日 |
人間の心、すなわち人間の本性に律法が記されているというのは、比喩的な言い方で、人間が考えるや行なうことが、自然と、神さまのみこころと一致し調和する状態にあるということを意味しています。「神のかたち」に造られて、神さまとの契約関係に置かれていた人間の心は、自然と、造り主である神さまに向いて、神さまの愛を受け止め、自分からも神さまを愛して生きるようになっていました。 「神のかたち」に造られている人間の心に記されている律法は、自分と異質のものではなく、自分自身の一部です。しかも、自分を「神のかたち」に造られている人間として成り立たせているものです。それで、心に記されている律法は、自分にとって自然なものであり、普段は、自分の中にそのようなものがあることを意識することさえありません。 私たちが、何かを善いとか悪いとか、美しいとか汚いとか判断できるのも、私たちの心に律法が記されているからです。私たちは、そのような判断を外からの指示によらないで、自分自身でできます。それは、私たちの心に律法が記されているからです。その意味では、神さまが私たちの心に律法を書き記してくださったので、私たちは自分で考え自分で行動することができるのです。 言い換えますと、神さまが人間の心に律法を書き記してくださったので、人間は、自分で自分自身の在り方と生き方を決定することができる、自律的な存在であるのです。 また、人間が考えることや行なうことが自然と神さまのみこころと一致し調和する状態にあるといっても、ロボットのように、決められたことしか考えないとか、決められたことしか行なわないということではありません。「神のかたち」に造られている人間には、自由な意志が与えられています。その自由な意志が自分自身のうちにある律法によって導かれているので、人間が考えることや行なうことが、自然と神さまのみこころと一致し調和するのです。 このように、自分が考えることや行なうことが、自然と、神さまのみこころと一致する状態にあるのが、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿です。そして、造り主である神さまとの関係が本来の愛の交わりの関係にある状態、すなわち、心に記されている律法が示す愛のうちにある状態を、「義である」状態にあると言います。 「義である」状態にあっては、あらゆる面において、一致と調和があります。 そこでは、人間が考えることや行なうことが、自然と、神さまのみこころと一致し調和する状態にあります。ですから、自分が考えることや行なうことと、神さまのみこころの表現である律法の間に一致と調和があります。当然のことですが、自分の心に記されている律法と、神さまのみこころの表現である律法の間にも一致と調和があります。また、自分自身の在り方と生き方と、自分の心に記されている律法との間に一致と調和があります。そして、何よりも、造り主である神さまと自分の間に、愛にある交わりによる一致と調和がありますし、ともに「神のかたち」に造られて神さまとの愛の交わりのうちに置かれている隣人との間にも、愛にある交わりによる一致と調和があります。 「神のかたち」に造られている人間にとっての「いのち」は、このように、造り主である神さまとの間に愛にある一致と調和があり、あらゆる面において、神さまを中心とした一致と調和がある状態にあることにあります。 これが、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿です。この、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿をしっかりと理解して心に刻んでおくことは、罪を犯して造り主である神さまの御前に堕落してしまっている人間の現実を理解するためにも、また、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いにあずかって、「神のかたち」の本来の姿を回復されている私たちの現実を理解するうえでも大切なことです。 それで、この点について、もう少しお話ししていきたいと思います。それによって、福音の御言葉にあかししされている、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して、神さまが私たちのうちに回復してくださった、「神のかたち」に造られている人間のいのちの豊かさを、私たちが、汲み取ることができるようになることを願っています。 造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落している人間にあっては、「神のかたち」に造られている人間のうちにあるさまざまな調和と一致が、すべて、損なわれてしまっています。── ここで、「すべて、損なわれてしまっている」というのは、完全に損なわれてしまっているという意味ではなく、どの関係を取ってみても、程度の差こそあれ、本来の一致と調和が損なわれてしまっているという意味です。 人間の心、すなわち、人間の本性に記されている律法は、罪によって人間の心が神さまから離れてしまい、本性が腐敗してしまったために、罪の自己中心性によって歪められてしまっています。── 何かが紙に書かれているのに、紙がぼろぼろになってしまったために何が書かれているかよく分からなくなってしまっているようなものです。 そのために、神さまのみこころの表現である律法と、人間の心に記されている律法との間にあった調和と一致が損なわれてしまいました。人間の心に記されている律法が罪によって自己中心的に歪んでしまったために、神さまのみこころを映し出すことがなくなってしまったのです。 また、そのために、人間が考えることや行なうことが自然と神さまのみこころに一致し、調和していた状態も損なわれてしまいました。人間の考えや思いや行ないが、自然と、神さまのみこころに背くものとなってしまったのです。 さらに、自分の心に記されている律法と自分自身が考えることや行なうことの間にあった一致と調和も損なわれてしまっています。── 自分自身のうちに分裂が生じてしまっているのです。それが、ローマ人への手紙2章15節で、 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 と言われている状態です。 そして、これらの「分裂」がもたらすことですが、造り主である神さまとの関係も、また、ともに「神のかたち」に造られている隣人との関係も、罪が生み出した自己中心性によって歪められてしまっています。 そのような、神さまとの関係が破れている状態と、そこから派生する、隣人との関係が破れている状態や、自分自身との関係が破れている状態にあることが、「神のかたち」に造られている人間にとっての「死」です。 ですから、「神のかたち」に造られている人間にとっての「死」とは、世間で言われている「肉体的な死」(からだが死ぬこと)で終わるものではありません。肉体的な死は、「神のかたち」に造られている人間の「死」の一つの現われでしかありません。罪によって心が造り主である神さまから離れてしまっている人間の目には、肉体的な死しか見えないかもしれません。しかし、「神のかたち」に造られている人間の死はもっと総合的なものです。 その死は、罪によって造り主である神さまとの関係が損なわれてしまったことにあります。「神のかたち」に造られている人間のいのちは造り主である神さまとの愛にある交わりのうちにありますが、死は、その愛にある交わりが損なわれてしまっていることにあります。 罪によって心が神さまから離れてしまって、神さまとの愛の交わりを失ってしまっている人間のうちには、先ほどお話ししたような、さまざまな関係の壊れと分裂があります。そのすべてをひっくるめて「死」と呼ぶのです。 ヨハネの福音書15章4節〜6節には、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 というイエス・キリストの言葉が記されています。 ここでは、いのちという言葉も死という言葉も出てきませんが、いのちと死が対比されています。そして、ぶどうの木とその枝の関係を用いて、「神のかたち」に造られている人間のいのちは、「依存するいのち」、「支えられているいのち」であり、ご自身がいのちそのものであり、造られたもののいのちの源である、御子イエス・キリストによって支えられていることを示しています。 同じヨハネの福音書1章3節、4節では、御子イエス・キリストのことが、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 とあかしされています。 福音書のあかしの中心は、イエス・キリストを私たちの贖い主としてあかしすることです。それは、「神のかたち」に造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に死んでしまっているからです。人間は、神さまに対して罪を犯して、心が神さまから離れてしまいました。その結果、神さまの契約によって保証されている愛の交わりを捨ててしまいました。それによって、神さまとの関係は損なわれ、隣人との関係も、自分自身との関係も、自己中心的に歪んだものとなってしまいました。 御子イエス・キリストは、私たちと一つとなってくださり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださったことによって、私たちの罪を完全に清算してくださいました。そして、死者の中からよみがえってくださって、私たちのために本来のいのちを回復してくださいました。 この、贖いの御業も、ご自身がいのちそのものであり、造られたもののいのちの源である、御子イエス・キリストの御業であり、ご自身がいのちの主であられることをあかしする御業です。 御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりを通して成し遂げてくださった贖いの御業は、ただ、罪がもたらすさばきや死から私たちを救い出してくださったというだけのことではありません。人間の罪が生み出した、造り主である神さまとの関係の壊れと、そこから派生する、お互いの間に生じた自己中心的な関係の歪みや、自分自身のうちに生じた分裂など、さまざまな破れや分裂を修復して、本来の、一致と調和の関係に戻してくださるのです。 これらすべての関係が── 造り主である神さまとの愛の交わりの関係、隣人との愛の交わりの関係、自分自身との関係が、御子イエス・キリストの贖いの御業によって回復されて本来の姿を取り戻したときに、私たちは、いのちを持っていると言うことができます。 ですから、たとえば、イエス・キリストが、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。 ヨハネの福音書5章24節、25節 と言われるときの「いのち」とか「生きる」ということは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業を通して本来の姿を回復していただいている人間のいのちのことであり、生き方のことです。 その、イエス・キリストの贖いの御業を通して回復されている本来のいのちにあって、私たちの罪の本性がきよめられていくのに従って、心に記されている律法が本来の姿を取り戻していきます。そして、自分自身のうちに、神さまのみこころを示す律法が映し出されていきます。それは、別の面から見ますと、私たちの心が、自然と、造り主である神さまに向いて、神さまの愛を受け止め、神さまを愛する愛の中に生きるようになるということです。 それは、私たちが、死への恐怖や、神さまのさばきへの恐れに威嚇されて、自分を、そういう方向へと「もっていく」こととは本質的に違います。むしろ、御子イエス・キリストは、十字架の死による罪の贖いによって、私たちを、そのような恐れや威嚇から解放してくださっています。ヘブル人への手紙2章14節、15節で、 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 と言われており、ローマ人への手紙8章14節,15節で、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と言われているとおりです。ですから、私たちは、そのような恐れや威嚇に縛られてはなりません。 むしろ、私たちの心が造り主である神さまに向いて、神さまの愛を受け止め、神さまを愛する愛のうちに生きるようになるのは、御子イエス・キリストの贖いの御業によって、神さまが私たちの本性を罪からきよめてくださり、心に記されている律法を本来の姿に回復してくださり、私たちの心が、自然と、神さまに向いて、神さまの愛を受け止め、神さまを愛するようにしてくださっているからです。 イエス・キリストが、地上の生涯の最後の夜に、 この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。 ルカの福音書22章20節 と言われたように、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって、新しい契約が確立されました。 ヘブル人への手紙10章14節〜17節で、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。 「それらの日の後、わたしが、 彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、 主は言われる。 わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、 彼らの思いに書きつける。」 またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」 と言われているとおり、新しい契約の民とされている私たちの心には、神さまの律法が記されています。 また、私たちは、イエス・キリストの血による罪の贖いのゆえに、決して罪に定められることはありませんし、さばきにあうこともありません。 ですから、イエス・キリストの血による新しい契約の共同体である教会においては、死への恐れやさばきへの威嚇が自分やお互いを縛るようなことがあってはなりません。自分がそのような恐れや威嚇に縛られている時には、人をもその恐れや威嚇に巻き込んでしまいます。それで、私たちそれぞれが、イエス・キリストの血による罪の贖いによって、そのような恐れや威嚇から解放されていなくてはなりません。 イエス・キリストの血による罪の贖いによって恐れや威嚇から解放されていて初めて、私たちは、心に律法が記されており、「アバ、父。」と呼ぶ御霊に導かれる神の子どもとして歩むことができます。また、そうであって初めて、父なる神さまとの愛の交わりと、お互いの間の交わりが、最も自然なこととして、私たちのうちに回復されていきます。 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。 ヨハネの手紙第一・4章15節〜18節 |
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