(第25回)


説教日:1999年11月14日
聖書箇所:エレミヤ書31章31節〜34節


 私たちに対する神さまのみこころは、すべて、神さまの永遠の聖定から出ています。そして、私たちに関する神さまの永遠の聖定の根底にあって働いているのは、私たちに対する神さまの無限、永遠、不変の愛です。
 神さまは、ご自身の愛に基づく永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださいました。私たちがご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとしての身分を持つように定めてくださったのです。さらに、神さまは、永遠の聖定において、神の子どもとしての私たちの実質が「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださいました。


 神さまは、永遠の聖定において定められたことを、創造の御業と贖いの御業を通して実現してくださいました。
 創造の御業においては、私たちをご自身との交わりにあって生きる者としてくださるために、人間を「神のかたち」にお造りになり、その心にご自身の律法を記してくださり、ご自身との契約関係にある者としてくださいました。
 「神のかたち」に造られている人間の本質は、自由な意志を持っている人格的な存在であることにあります。神さまが、私たちを「神のかたち」として自由な意志を持つ人格的な存在にお造りになったのは、私たちが神さまの愛に包まれて生きるだけでなく、私たちも神さまの愛に応えて神さまを愛するようになるためです。私たちが神さまを愛して生きることは、私たちの人生の全体が、神さまへの愛によって貫かれるようになること、また、毎日の生活が、神さまへの愛によって貫かれるようになることを意味しています。
 そのようになるために、神さまは、「神のかたち」に造られている人間の心にご自身の律法を書き記してくださいました。律法は、神さまとの契約関係にある私たちの人生の全体が、また、毎日の生活が、神さまへの愛によって貫かれるようになるための指針です。
 このことと調和して、神さまの律法の全体は、マタイの福音書22章37節〜40節に記されている、

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

というイエス・キリストの教えに示されていますように、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられます。
 これらのことから、これまで、神さまの律法が「神のかたち」に造られている人間の心に記されていることの意味についてお話ししてきました。今日も、これまでのお話に加えていくつかのことをお話ししたいと思います。

 すでに繰り返し引用してきましたが、「神のかたち」に造られている人間の心に造り主である神さまの律法が記されていることは、ローマ人への手紙2章14節、15節で、

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

と言われていることから分かります。
 私たちには、この世の法律が文書に書かれているように、神さまの律法は聖書に記されているというイメージがあります。それで、神さまの律法が「神のかたち」に造られている人間の心に記されているということは、特殊なことであるように感じられるかもしれません。しかし、神さまの律法は、本来、「神のかたち」に造られている人間の心、すなわち、人間の本性に記されているものなのです。
 律法が本来は「神のかたち」に造られている人間の心に記されているものであるということは、預言者エレミヤを通して、「救済の契約」の新しい契約においては、神さまの律法が主の契約の民の心に記されると言われていることからも分かります。エレミヤ書31章31節〜34節には、

見よ。その日が来る。── 主の御告げ。── その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。── 主の御告げ。── 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。── 主の御告げ。── わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、「主を知れ。」と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。── 主の御告げ。── わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。

という神である主の言葉が記されています。
 「わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約」というのは、主が、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださった後に、シナイの山で結んでくださった契約のことで、一般に「シナイ契約」と呼ばれます。シナイ契約においては、十戒を根本的な法として、それをイスラエルが置かれている具体的な状況に適用したさまざまな律法が与えられました。
 けれども、それは、外側から与えられた律法でした。律法には「神のかたち」に造られている人間の本来の在り方と生き方が示されています。しかし、現実の人間は、造り主である神さまの御前に罪を犯して堕落しており、その本性は罪によって腐敗してしまっています。そのような、罪によって腐敗してしまっている本性を持っている人間の在り方と生き方は、律法が示す本来の在り方と生き方から外れてしまっています。いくら律法に従って生きようとしても、そもそもの出発点である自分自身の本性に罪による腐敗があって律法の基準から外れてしまっているため、初めから律法の要求を満たすことはできません。それで、

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
ローマ人への手紙3章20節

というようなことになってしまっています。
 先ほどのエレミヤ書31章32節で、

わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。

という言葉は、自らの本性が罪によって腐敗してしまっているために、外から与えられた主の律法に背き続けてしまったイスラエルの民の現実を示しています。
 このように、自分自身の本性が罪によって腐敗してしまっているかぎり、外側からどんなに厳しい律法が与えられたとしても、自分の在り方と生き方が罪に傾く傾向を消し去ることはできません。それで、自分の外側から与えられた神さまの律法と、それに一致しない自分自身の現実の在り方と生き方の間に分裂が生じてしまいます。
 動物の血によって、罪の贖いを預言的に示している古い契約の備えでは、この、人間の本性の腐敗がもたらす内なる分裂を解消できませんでした。古い契約の下で用いられていた幕屋について、ヘブル人への手紙9章9節では、

この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。

と言われています。
 動物の血は、やがて来たるべき贖い主の血による罪の贖いを指し示すひな型(模型)でした。ひな型(模型)には本体のような力はありません。

 エレミヤを通して預言的に約束されていた新しい契約は、イエス・キリストが十字架の上で流された主の民の罪を贖うための血によって確立されました。
 古い契約も血によって確立されました。しかし、それは動物の血によってでした。ヘブル人への手紙9章18節〜22節では、出エジプト記24章5節〜8節に記されているシナイにおける契約締結の儀式に触れて、

したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。」と言いました。また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

と言われています。
 けれども、10章4節で、

雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

と言われていますように、やがて来たるべきものを指し示すひな型(模型)である動物の血による古い契約は、主の民の罪による本性の腐敗をきよめて、神さまとの契約関係を本来の姿に回復し、神さまとの愛にある交わりの中に生かすことはできませんでした。ヘブル人への手紙10章1節で、

律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。

と言われているとおりです。
 ここで「後に来るすばらしいもの」と言われているのは、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって確立された新しい契約において備えられている罪の贖いです。
 先週も引用しましたが、ヘブル人への手紙10章14節〜18節では、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。
「それらの日の後、わたしが、
彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、
主は言われる。
わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、
彼らの思いに書きつける。」
またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。


と言われています。
 ここでは、イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いによって、エレミヤを通して約束されている新しい契約の祝福が実現していることがあかしされています。その祝福の中心は、イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いにあずかって、罪による本性の腐敗をきよめられている人々の心(本性)に、神さまの律法が記されるということです。
 それは、天地創造の初めに、「神のかたち」に造られた人間の心に神さまの律法が記されていた状態が回復されることを意味しています。また、それは、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿が回復されることですし、律法の本来の姿が回復されることでもあります。

 私たちは、すでに、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いにあずかっていますので、私たちの心(本性)には神さまの律法が記されています。神さまの律法が私たちの心(本性)に記されているということは、私たちが考えることや願うことが、自然と、神さまの律法と一致し調和する状態にあるということです。
 けれども、実際には、私たちは、いまだ、完全にはきよめられていません。私たちの本性には、なおも罪による腐敗が残っていますので、私たちの心に記されている律法も歪められてしまいがちです。そのために、私たち神の子どもたちのうちには、なお、心に記されている律法と、残っている罪による本性の腐敗の間の分裂があります。
 そのような、地上にある神の子どもたちの現実について、パウロは、ローマ人への手紙7章19節〜23節で、

私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

と告白しています。
 しかし、イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いに基づいて働かれる御霊によって、私たちの本性の腐敗はきよめられていきます。それによって、私たちのうちにある分裂も、少しずつ取り除かれていきます。ローマ人への手紙8章1節〜4節で、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

と言われているとおりです。

 神さまの律法が、本来は、私たちの心に記されるものであるということとのかかわりで、律法についてのイエス・キリストの教えを見ておきたいと思います。
 ご存知のように、私たちの心に神さまの律法を記してくださるために、十字架の上でいのちの血を流して贖いを成し遂げてくださった御子イエス・キリストは、

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
マタイの福音書5章21節、22節

と教えられました。また、

「姦淫してはならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
マタイの福音書5章27節、28節

とも教えられました。
 一般に、これは、罪は、行ないとして見える形で表に出てくるよりも前に、その人の心の中ですでに始まっていることを教えているものとして受け止められています。そして、その点で、イエス・キリストの教えは厳格であり厳しいものであると言われることもあります。
 よく誤解されることですが、

昔の人々に、「 ・・・・ 」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

というのは、旧約聖書の律法のことではなく、律法の教師(ラビ)たちの教えのことです。ここで、イエス・キリストは、律法の教師たちが律法を歪めて教えているので、律法の本来の意味を明らかにしておられるのです。
 さて、イエス・キリストの教えに対する一般的な理解は間違ってはいません。ここで、イエス・キリストは、罪は、行ないとして見える形で表に出てくるよりも前に、その人の心の中ですでに始まっていることを教えておられます。しかし、それとともに、これまでお話ししてきたこととの関連で見ますと、もう一つのことが見えてきます。
 イエス・キリストが、このように、私たちの心の在り方を問題としておられるのは、神さまの律法が、本来、「神のかたち」に造られている人間の心に記されているものであるからです。そして、実際に、「神のかたち」に造られている人間の心には、神さまの律法が記されているからです。
 「兄弟に向かって腹を立てる」ことも、「情欲をいだいて女を見る」ことも、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられる神さまの律法に背くことです。
 そして、それは、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間の心に記された律法に背くことであり、イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いにあずかっている私たち神の子どもたちの心に新たに記されている律法──その意味で、私たち自身の「内なる律法」に背くことでもあります。
 イエス・キリストは、ことさらに厳格で厳しい教えを説いて、私たちを糾弾しておられるのではありません。
 確かに、イエス・キリストは、ここでは、私たちの本性が腐敗しているために、私たちのうちから、さまざまな罪が生まれてくるという、私たちの現実を明らかにしておられます。しかし、これまで見てきましたように、イエス・キリストは、ご自身が十字架の上でいのちの血を流して、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。それによって、私たちの本性を腐敗させている罪をきよめてくださり、私たちの心に神さまの律法を記してくださっています。
 私たちは、厳格で厳しいと見えるイエス・キリストの教えを通して、いわば、裏返しの形においてですが、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業を通して、自分たちがどのようなものに造り変えていただいているのかを知ることができます。──私たちは、御霊のお働きによって、心に神さまの律法が記されている神の子どもとして、本性の深みにおいてまで、神さまの律法と一致したものに回復していただきつつあるのです。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「みこころを知るために」
(第24回)へ戻る

「みこころを知るために」
(第26回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church