![]() |
説教日:1999年11月7日 |
私たちに対する神さまのみこころは、それがどのようなみこころであっても、すべて、私たちに対する神さまの永遠の聖定から出ています。そして、私たちに関する神さまの永遠の聖定の根底にあるのは、私たちに対する神さまの無限、永遠、不変の愛です。 先週は、この、自由な意志を持つ人格的な存在、すなわち、「神のかたち」としての人間の生き方の根本にある「良心の自由」ということについてお話しました。今日もそのことに補足を加えながらお話を進めていきたいと思います。 「神のかたち」に造られていて、人格的な存在である私たちには、意志の自由が与えられています。その自由な意志は、徒に動くのではなく、私たち自身の思想や信条に従って動きます。自分の考え方や信じているところに従って、自分で考え、行動し、生きることに「良心の自由」があります。 天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間には、当然、「良心の自由」がありました。ということは、「神のかたち」に造られた人間のうちには、初めから、自由な意志を導く思想や信条に当たるものがあったということを意味しています。それは、造り主である神さまが人間の本性の中に植え付けてくださったものであって、人間が後から学んで身に付けたものではありません。 そのように、神さまがご自身のかたちにお造りになった人間の本性のうちに植え付けてくださった、自由な意志を導く思想や信条に当たるものは、神さまの律法です。 ローマ人への手紙2章14節、15節では、 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 と言われています。ここでは、「神のかたち」に造られている人間の心、すなわち、人間の本性には、造り主である神さまの律法が書き記されていると言われています。 「神のかたち」に造られている人間の本性に書き記されている律法がどのようなものであるかは、マタイの福音書22章37節〜40節に記されている、 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。 というイエス・キリストの教えに示されています。 「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」の「律法全体と預言者」は、慣用表現で、旧約聖書全体を指しています。今日では、それに新約聖書を加えて、聖書全体と言ってもいいのです。それで、「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」ということは、聖書全体が、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めによって、しっかりと固定されていることを意味しています。この二つの戒めは、聖書全体を固定する「杭」のような戒めであって、この二つの戒めが私たちのうちにしっかりと打ち込まれていなければ、聖書全体があてもなく流されてしまいます。 あるいは、この二つの戒めは「羅針盤」のように、聖書全体を導いていて、この二つの戒めが示している方向を見失ってしまうと、聖書全体が方向性のないものになってしまうと言うこともできます。 さらには、ガラテヤ人への手紙5章14節で、 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。 と言われていることに合わせて言いますと、神さまの戒めはすべて、この二つの戒めに集約されます。 ところで、ここで取り上げられているのは、律法の書に書き記された戒めであって、人間の心に書き記された律法ではないから、これでは、心に書き記された律法のことは分からない、と言われるかもしれません。 けれども、どこに、また、どのように書き記されるかによって神さまの律法の本質が変わるというようなことはありません。イエス・キリストが、 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 マタイの福音書5章17節、〜19節 と言われたように、神さまの律法の本質は、どのような場合にも変わることがありません。変わるのは、具体的な状況における適用の仕方だけです。 ですから、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間の心に書き記された律法も、律法の書である聖書に書き記されている律法も、その本質と精神は同じで、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めによって、その本質と精神がまとめられ、全体の方向性を与えられています。 なぜこの二つの戒めがこのような意味を持っているかといいますと、神さまが、永遠の聖定において、私たちを、ご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとなるように、また、神の子どもとして、お互いの交わりの中に生きるように定めてくださったからです。そして、永遠の聖定に従って、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになって、ご自身との契約関係の中に置いてくださったからです。 「神のかたち」に造られていて人格的な存在である人間には、初めから、自由な意志を土台として、その上に成り立っている、「良心の自由」があります。当然、自由な意志を導く思想や信条に当たるものがあります。それが、人間の心、すなわち、人間の本性に記されている神さまの律法です。そして、その律法全体を集約しているのは、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めです。 ですから、この二つの戒めは、羅針盤のように聖書全体に方向性を与えている戒めであると同時に、「神のかたち」に造られている人間の自由な意志に方向性を与えている戒めでもあります。それで、私たちは、この二つの戒めが指し示している方向に従うことによって、すなわち、造り主である神さまと隣人との愛にある交わりの中に生きることによって、「良心の自由」を全うすることができます。 ここで大切なことは、造り主である神さまの律法は、本来、「神のかたち」に造られている人間の心(本性)に書き記されているということです。 私たちが馴染んでいるのは、6法全書に書き記されている法律であり、聖書に書き記されている律法です。それで、私たちは、律法は、本来、聖書に書き記されているものであると考えてしまいます。けれども、神さまの律法は、本来、文書に書き記されているものであるけれども、心にも書き記されているというものではなく、本来「神のかたち」に造られている人間のの心に書き記されているものなのです。 律法が文書に書かれるようになったのは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまったためです。そのために、人間の本性は罪によって腐敗してしまっています。それで、その本性に書き記されている律法も、罪によって腐敗し、歪められてしまっています。 そのような状態にある人間は、自分の心に書き記されている神さまの律法の本来の姿、その本質と精神がどのようなものであるかを知ることができません。先ほどのローマ人への手紙2章15節では、 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 と言われていました。 ここに記されているのは、造り主である神さまの御前に罪を犯して、堕落してしまった状態にある人間の現実です。これまでのお話に合わせて言いますと、人間の本性とそれに書き記されている律法が、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めから成る本来の「羅針盤」を失っている状態にあるということです。そればかりでなく、その本来の「羅針盤」の代わりに、罪の自己中心性を本質とする偽りの「羅針盤」が植え付けられてしまっている状態にあるということです。そのために、 彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 と言われていますように、一応「良心」は働くのですが、造り主である神さまへの愛を見失ってしまっているために、神さまと無関係に働いてしまいます。 そのような状態にある人間に、改めて、神さまの律法が本来どのようなものであるかを、その本質と精神は変えることなく、しかし、罪によって堕落している状態にある人間に適用した形で示したのが、聖書に書かれた律法です。 ですから、人間が罪によって堕落していなかったとしたら、文書に書かれた律法は必要がなかったはずです。──やはり、律法は、本来、「神のかたち」に造られている人間の心に書き記されているものなのです。 「神のかたち」に造られている人間の本性に、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めによって、その全体と本質的な精神が要約される律法、すなわち、「愛の律法」が書き記されているということは、先週詳しくお話ししましたように、「神のかたち」に造られている人間の本質的な特性そのものが愛であるということを意味しています。──人間は、愛を本質的な特性としておられる神さまの「かたち」に造られているので、人間の本質的な特性も愛であるのです。 そのような、愛を本質的な特性とする人間にとっては、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めによって示されている方向に歩むことは、最も自然なことです。 言い換えますと、自分自身の心に書き記されている「愛の律法」に従って歩むことは、外側からの規制、あるいは「押し付け」ではなく、自分自身の内側からの規制であり、自然な要求であり願いであるのです。──そして、そのとおりに、人間は、神さまと隣人との愛にある交わりのうちにいのちの充足を見出すように造られています。 言うまでもないことですが、罪によって堕落してしまったために、その心が造り主である神さまに向くことがない状態の人間には、文書によって示された律法は、外側からの規制、あるいは「押し付け」であるとしか感じられません。 先週お話ししましたように、人間でも動物でも、また、あえて言いますと、絶対的な自由のうちにおられる神さまでも、自らの本質的な特性を十分に発揮している状態にある時に、自由な状態にあると言えます。そのことから言いますと、罪によって本性が腐敗し、それに書き記されている律法が自己中心的に歪んでしまっている人間にとって、神さまの律法が指し示す方向は、その腐敗した本性に反するものですので、窮屈な「押し付け」としか感じられないのです。 しかし、愛を本質的な特性とする「神のかたち」に造られている人間にとって、真の自由は、自らの心(本性)に書き記されている「愛の律法」に従って生きることのうちにあります。罪によって腐敗した本性と、そこに記されてはいるけれども、自己中心的に歪んでいる律法は、死と滅びへの方向性を示しています。そのような律法に縛られている人間は、自らのうちに分裂を経験することになります。 先ほどのローマ人への手紙2章15節の、 彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 という御言葉はその姿を述べています。 このように罪によって腐敗してしまっている人間の本性に書き記されている律法に生じた自己中心的な歪みと、それによって生じた良心の歪みは、人間の本性の腐敗が聖められて初めて、本来の姿を取り戻すことができます。 そのような回復は、御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血による罪の贖いを通して、私たちの間に実現します。ヘブル人への手紙9章14節で、 キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。 と言われており、さらに、10章22節で、 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 と言われているとおりです。 実は、長くなりますので引用しませんが、ヘブル人への手紙8章8節〜12節では、神さまが新しい契約を与えてくださることを預言し、約束しているエレミヤ書31章31節〜34節が引用されています。それを受けて、9章、10章では、預言者エレミヤを通して預言し、約束されていた新しい契約が、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血によって確立されていることと、その祝福がどのようなものであるかをあかししています。 そのエレミヤの預言の中心は31章31節で、先ほど引用した10章22節に先立つ16節で引用されています。14節〜16節では、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。 「それらの日の後、わたしが、 彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、 主は言われる。 わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、 彼らの思いに書きつける。」 と言われています。 この引用から分かりますように、神さまは、預言者エレミヤを通して、新しい契約においては、天地創造の初めに「神のかたち」に造られている人間の心に造り主である神さまの律法が書き記されていた、あの、本来の状態が回復されると預言し、約束してくださっておられました。それが、御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血によって実現しました。 私たちは、イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の祝福にあずかって、すでに、神の子どもとしての身分を与えていただき、神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとしていただいています。 そればかりでなく、神の子どもとしての実質においても、罪によって腐敗した本性を聖めていただき、心に書き記されている律法を本来の姿に回復していただいています。 もちろん、現実の私たちは、なおその途上にあり、罪による本性の腐敗を聖められつつあります。その聖化のプロセスは、地上の生涯を通して続きます。それで、私たちは、なお自分自身のうちに罪による本性の腐敗を残しています。 けれども、私たちは、主の贖いの完全さによって──なお罪による本性の腐敗を残している私たちを、ていねいに包んで聖め続けてくださる主の贖いの完全さによって、神さまの御前に「良心の自由」を回復されています。それで、大胆に神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまとの愛の交わりに生きることができます。 最後に、先ほど引用しましたヘブル人への手紙10章22節を、もう一度引用します。 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
|
![]() |
||